曹操の詩




 曹操の機嫌が悪いというのは、恒例の朝議の時から分かっていた。

 機嫌が悪いというよりも調子が優れないというべきか。普段は明朗なまでの輝きが覇気となって現れているのに、今朝の広間の中央奥に座した曹操にはそれが感じられなかった。消沈とも違う。まるで不安定に揺れる灯のような弱々しさで、思い通りにならない自分に苛立っているように、始終憮然としていた。
 それはたまにあることであるらしく、荀彧をはじめとする重臣達は心得た様子で、極力曹操を刺激しないように仕事を進める。
 傘下に加わってしばらくの郭嘉も、そんな幕僚達の姿を見て、やがてそれが曹操の習癖ともいうべきものであることに、なんとなく気づいていた。
 出会ってから日は浅いが、その短い間に見てきた中で、郭嘉は曹操のことを炎だ、と思った。不安定で、隆衰が激しく、風に煽られば苛烈に燃え上がり、しかし時に強風によって極度に弱まる。その極端さが、曹操という人間の原動力を為しているのではないかとも。
 しかし激しすぎる炎は、煽られるままに勢いを増し、制御不能となって方々に火の粉を飛ばす。ひどく危険なものだと、密かな警鐘を胸内に感じていた。




 木簡の冊書一巻を持って、曹操の執務室に向かう。以前諮問を受けた強兵の具体的な懸案を数点挙げたものだ。軍の強化を図るなら早いうちがいい。文書伝達の下級官に渡しても良いのだが、どうせその場でいくつか話合うことになるだろうと思い、こうして直接足を運んでいる。
 いくつめかの回廊の角を曲がり、目的の室が近づいてきたところで、大柄な人影が佇んでいるのに気づいた。

「元譲殿」

 執務室の外で所在無げに立っていたのは、当の主君の従兄弟だ。
 字を呼べば夏侯惇は気づいて首を向ける。見たところ、室に入ろうか入るまいか悩んでいるようだった。
 その夏侯惇が郭嘉を一目見て、まるでホッとしたような表情を見せる。

「奉孝か」
「殿の室の前で何をやってるんだ?」

 歩み寄りながら怪訝そうに郭嘉は首を傾げる。
 いや……といささか決まり悪そうに夏侯惇が目を逸らした。

「孟徳の奴が頭痛で臥せっているようでな」

 曹操が頭痛持ちであることは有名だった。しかも相当痛むらしい。あの曹操が「痛い」と言うくらいだから余程のものなのだろう。そのことは郭嘉も知っている。しかし寝込むほどとは、症状がかなり重いのか。それはそれで心配でもある。
 だが、疑問はそんなところではなかった。

「だからって、何でこんなところで立ち往生しているんだ」

 曹操は体裁よりも実用性を重視するため、常の寝所とはまた別に執務室内にも寝所を設けている。通常主の寝所ともなれば許可が無い限り足を踏み入れることはできないが、従兄弟である夏侯惇に限っては無断で自由な出入りが許されている。それだけ遠慮のいらない間柄ということであり、これもまた有名な話であった。
 その人物が、何故か室前で躊躇っている。
 夏侯惇も、郭嘉の疑問を感じ取ったのだろう。広い肩を少し内に丸め込むようにして、 

「孟徳が頭痛の時にひどく不安定になるのは知っているだろう?」
「確かにご機嫌は悪いが」
「機嫌が悪いっていう程度じゃない。感情のふり幅が大きすぎるんだ。今朝だって見ただろう、あの殺気。誰か殺すんじゃないかと、さすがの俺もヒヤヒヤした」

 郭嘉は思い返す。確かに、触れれば切れそうなほど張り詰めた空気を纏っていた。頭痛の時に精神が負へ傾くのは常のことらしいが、今回のは特に酷いらしい。心配になって様子を見に来たのだと夏侯惇は言った。

「だが、俺にすら手が負えなくなる時があるからな」

 それでまごついていたのか、と郭嘉は納得する。

「殿のこれは、昔から?」
「いや、少なくともガキん時は違った。ある時からだな、頭痛を訴えるようになったのは。年々酷くなるらしい。―――まぁ、あの不安定さは恐らく精神によるものが大きいのだと思う。頭痛がそれに拍車をかけているのだろう」

 あいつも昔は色々あったからな、と小さく呟く。
 郭嘉は無言だった。夏侯惇の声には、静かながらもどこか重い響きが篭っていたから。

「孟徳がお前に話したことは?」
「いや」

 曹操とは不思議とうまが合い、夜を語り明かすこともしょっちゅうだった。曹操は色々なことを郭嘉に語って聞かせていたが、それでも郭嘉が幕下に加わってまだ間もない。知らないことも多くある。
 特に過去について、曹操は殆ど口にしなかった。何か根深いもの存在を感じながらも、郭嘉もあえてそれを問おうとはしなかった。訊くべきではないと思ったからだ。
 少し考え込むようにしたあと、夏侯惇は長く息を吐き、口を開いた。

「あいつは―――
「元譲殿」

 はっと声を止め、夏侯惇が双眸を向けた。
 郭嘉は微笑していた。

「いい。それは、殿が話したくなった時に、殿ご自身の口から聞くことにするよ」

 気遣いをやんわりと躱され、夏侯惇は苦味のきいた笑みを浮かべた。それは、いつも鷹揚として磊落なこの将軍には珍しい、弱りきった表情にも見えた。

「悪いな、俺も柄にもなく弱気になっていたみたいだ。なまじ知っているだけに、こういう時の孟徳は正直俺もどう接すればいいのか迷う」
「元譲殿は、いつも通り元譲殿らしくしていればいいんじゃないか」
「そういうもんか?」

 夏侯惇はいまいち煮えきらぬ面持ちで曖昧に返す。

「そうさ。特に気負うこともなくね。その方が殿にとってもきっといい」

 多分な、と口端を軽く上げてみせる。
 「そうか」と呟く夏侯惇の顔にも、わずかに平生の落ち着きが戻ってきたようだった。

「それじゃあ、殿はご都合が悪いようだから今日はやめとくわ」
「その方がいい。今の孟徳にはあまり近づかないことだ。俺ももう少ししてから出直す」

 ごくろーさん、と郭嘉はヒラヒラ冊書を振り、踵を返した。




 日が暮れ、宮城内には最低限の明かりを残し、灯が落とされる。
 暗闇の中をぼうっと薄く火が照らす回廊を、郭嘉は鼻歌交じりにブラブラ歩いていた。ようやく口説き落とした女官との逢瀬を楽しみ、その帰りであった。
 上機嫌で自分の室を目指す。五日に一度の沐日(官吏の休暇)が明けたばかりだから、しばらく城下の自分の邸に戻ることは無い。
 夜もすっかり更けている。歩きながら星の瞬きを見上げていると、ふと回廊の向こうが視界に入った。一つの室から漏れる明かりに気づく。

(あれは―――殿の寝所?)

 丁度歩いていた回廊と、中庭を挟んだ真向かい。こんな時間まで起きているのだろうか。
 自分のことを棚にあげながら、郭嘉はそんなことを思う。足は自然とそちらに向かっていた。
 そっと足音を忍ばせて、隙間から零れ出る明かりに近づく。石畳の廊下に細い光の条が伸びていた。

(何か聞こえる)

 曹操の声だろうか。こんなに夜更けまで、誰かがいるのか。
 立ち止まって、耳を澄ませた。

(これは……詩?)

 明かりとともに漏れてきたのは、朗々とした詩の誦だった。
 声が抑えきれないように抑揚する。まるで大河の奔流のように、次から次へと溢れて止まらぬ気持ちが、生み出す言葉。
 猛々しく、豪快。それでいてひどく繊細で、感情豊かな詩。
 ああ、曹孟徳の詩だ。
 じっと聞き入る。そこには荘厳さも華麗さもなく、ただ素朴さだけがあった。即興で作っているのだろう。けれど、率直な(ことば)は鮮烈な生命力に漲っている。詩心のない郭嘉は芸術のことはよく分からないが、曹操の詠う詩には何となく心を動かされるものがあった。
 滔々と空気を震わせていた音律が、ゆっくりと収束する。

―――殿は、気持ちが負に向かっている時ほど、激しく力強い詩を詠まれますね」

 曹操がそれこそ跳ね飛ばんばかりの勢いで振り返った。心底驚き、唖然としている。声にならないのか、口が開きっぱなしだった。
 大きく脈動する心音が聞こえてくるようで、戸口脇から上体を覗かせた郭嘉は、堪えきれず忍び笑いを漏らした。こんな間抜け面を晒す曹操は滅多に拝めない。
 数拍数え、数度瞬きをして、ようやく曹操は我を取り戻す。決まり悪そうな渋面を作った。
 不意に、拡散していた空気が、集束するのを感じた。ピリ、と頬の産毛が逆立つ。
 双眸は、真っ直ぐ前を見据えていた。
 鎧。そう感じた。

「聞いておったのか」
「たまたま通りがかったもので、つい立ち聞きを」

 申し訳ありません、と、全く悪びれた風もなくペロリと舌を出す。

「お主、このような夜更けまで何をしておるのだ」
「野暮ですよ、殿」

 意味深に言い笑う郭嘉に、曹操は黙然と口を閉ざした。いつもならば、ここで興味津々に話に乗ってくる。

(冗談も掛け合いも通じないか)

 心中で溜息を漏らす。自分は曹操に気に入られている方だという自覚はあった。だからこの暴挙にも、曹操は怒らない。ほかの臣下であれば雷どころではないことを考えれば、かなり寛大だ。
 しかし沈黙のうちに感じる“固さ”に、郭嘉は仕方なく帰ることを選ぶ。
 曹操の鋭さが昼間より収まっているのを見て、いけるかと思ったのだが、いま踏み込めるのはここまでか。

「ご気分を害されのであれば申し訳ありません。夜も遅いですし、もう戻ります」

 目を伏せ、そう告げる。室に佇む主君に拱手し、身を翻す。

「待て、奉孝」

 返しかけた足を留めたのは、他でもなく曹操だった。
 振り返れば、彼はやはり室の中央に立ったまま、厳しい眼差しでこちらを見据えていた。

「お主先ほど、儂は負に感情が向かっている時ほど作る詩が激しくなると申したな」
「はぁ」
「何故そう思う?」
「何故、と言われましても」

 郭嘉は困ったような顔をした。意図して言ったのではなく、自然と口をついたものであったからだ。

「俺は詩歌には疎いですし、賛辞の仕方もあまり分かりませぬゆえ、本当にただ感じたことを申し上げただけにすぎません。ただ……」
「ただ?」
「殿の詩は、まるで“言葉”のようだと」

 飾った(もんく)ではなく、何かを訴える心の声のようだと。誰かに向けた“(ふみ)”のような印象を、初めて曹操の詠う詩を聞いたときから、ずっと抱いていた。
 途端に曹操の顔つきが変わった。一瞬頬が強張り、そしてふっと力が抜ける。

「そうか……お主には、そう聞こえるのだな」

 ついた吐息とともに曹操はそう小さく零す。
 瞬間、ふつりと鎧の綴り糸が解けるのを、郭嘉は感じた。

「少し、寝酒につきあってくれるか」

 郭嘉は何も訊かず、ただ「はい」とだけ答えた。




「字でも分かると思うが、儂は妾腹でな。母親は父親の第二夫人だった」

 時折ジジッと揺れる灯炎を見つめながら、曹操は語った。
 曹操の字は孟徳だ。孟は、長男でも庶子につくことが多かった。

「第二夫人と言えば聞こえはいいが、元はただの妓女に過ぎん。正妻は石女(うまずめ)ではなかったが、どうも子に恵まれにくい身体だったようでな。孕んでも必ず流れてしまう。そしてこれがかなりの妬婦であったものだから、父もなかなか妾を娶ることができなかったのだろう。隠れて妓楼に通ううちに、やがて馴染みの妓女が子を孕んでしまった。そうなるともう仕方が無い。真剣に跡継ぎの問題もあり、祖父の口ぞえもあって、父は妓女を落籍し第二夫人とした。そして儂が生まれた」

 曹操の声は、詩を吟ずる時より感情がなく淡々としていた。
 郭嘉は静かに耳を傾けている。こういう時は、聞き手の声はいらない。話す者がしゃべりたいことを、しゃべりたいようにさせるのが一番なのだと、知っていた。
 だから郭嘉は無言で、時折注がれた酒杯を含みながら、目は開け放たれた窓の外を見ていた。

「母は、儂が覚えている限りでも美しく、儚げな人だった。儚く、弱い人であった。妓女であった経歴がために親族からは常に蔑まれ、また嫉妬に狂った正妻からの悪辣ないじめに晒された。父は悪い人間ではなかったが、そうした機微には疎くてな。母は心が細すぎたのだろう。やがて耐え切れず、精神(こころ)が焼き切れてしまった」

 曹操は今でも鮮やかに覚えている。長い髪を乱した女性が、美しい顔を鬼のように歪めて「お前など産まなければ良かった」と泣き叫ぶ。狂ったような金切り声が、鼓膜に深く刻みこまれている。幼い自分は、ただ何も出来ず硬直してそれを見上げていた。

「そのうちに、儂を見ても反応しなくなった。いや、見えぬようになってしまったというべきか。ただ毎日侍女たちと、幼女のように人形遊びに興じていた」

 悲惨なのは子供だった。内では下賎な売女の子よと嗤われ、外では卑しい宦官の孫よと足蹴にされる。父は仕事でほとんど邸におらず、唯一の逃げ場であった母は、最早子供のことなど忘れ、いやその存在すら否定して、自らの世界に閉じこもるばかり。
 生来の負けん気の強さも手伝って、気づいた時には周囲のほとんどが敵だった。生傷が絶える日はなかった。そして心の傷も。暴力という表現がまだ生易しいほどの悪意に晒された。思い返すだけで吐き気がする屈辱を受けたこともある。
 精神の闇に引きずり込まれるまでに、それほど時間はかからなかった。
 今でも思い出せない記憶がある。薄靄がかっており、まるで自分だと思えぬことも考えたような気もする。それだけ闇が深かったのだとも言える。
 しかし高い矜持が、無様に狂うのを許さなかった。弱音を漏らすことも。
 救いだったのは、祖父や従兄弟達の存在があったことだ。彼らだけは曹操の味方で、そして外界とのつなぎ目だった。彼らがいたから辛うじて理性をたもつことができたのだろうと、今では思える。しかし、そんな彼らでも、解決できないこともあった。
 渦巻く感情の奔流をどこにぶつけていいのか分からず、従兄弟やその仲間達とつるんで、気が済むまま度々悪事を働いた。
 とはいっても盗みをしたり、婚礼の花嫁を攫ったりなどという、性質の悪い悪戯程度のものだったが、あっという間に地元で札付きの不良集団となっていった。

「全く莫迦なことをやったものだ。それでも、その時はそれ以外にどうしようもなかったのだろう」

 自嘲気味に呟く曹操の横顔を見、郭嘉は静かに手元の杯へ視線を落とした。月を浮かべて揺れる水面は、まるで底の見えぬ闇のようだ。
 歪みに歪んだ闇は、刻み込まれた深淵は、狂気を孕む。溜め込み続けたものが膨れ上がり、抑え切れぬほどに育ってしまえば、それは裡を蝕み、やがて壁を食い破って外へ出て行く。
 けれど激しいまでの衝動は、逆に己を守る盾となり、そして大きな原動力にもなりうる。
 曹操は、相手へ向ける刃を得たのだろう。しかしそれは同時に己をも傷つける諸刃の剣だ。郭嘉が時折感じていた曹操の危うさと脆さは、ここに起因しているのかもしれなかった。

「ところがな、儂はある時、不思議な出会いをした」

 曹操の声の調子が微妙に変わったことに、郭嘉はふと顔を上げた。

「街の外れに、大きな桑の木があってな。そこにいつも妙な爺がいた。昼間と言わず夜といわず、桑の木の根元に腰掛けて、大きな声で詩を詠っておった。これが別に詩人というわけでもない。小汚い格好で、到底上手いとは言えぬ詩を作って、陽気に詠うだけなのだ。周りは頭のイカれた爺だろうと思って相手にせず、儂もそう思って大して気にせなんだ。だがある日、ふと好奇心が芽生えて、話しかけてみた。今思えば単なる気まぐれだったのだろう」

 爺と思っていたその男は、思ったよりも若かった。
 何故そのような下手くそな詩を詠っているのだ、誰もお前のことを相手にしておらんぞ、と尋ねれば、男はニコニコと嬉しそうに答えた。いいんだ、別にこれは他人様に聞かせようとしてしてるもんじゃねぇから。
 やはり只の気狂いか、と半ば興ざめした思いで曹操は帰った。
 帰宅後、下男から母が倒れたと告げられた。心臓が跳ね、背筋が凍るような思いを味わいながら、気の急くままに母の室に走った。
 こんなに年を取ったのかと、牀に横たわる母の白い面を見て呆然としたのを覚えている。薄く開いた目が自分を捉えた瞬間、怯えたように歪まり、か細い声が「来ないで」と言った。
 その時、冷たい風が心の臓を吹き抜けた。本当にそう感じた。どうしていいか分からず、普段はよく回るはずの頭が、その時ばかりは鈍かった。混乱していたのだろう。
 そこに、見舞いと証して正妻が訪れた。扇で優雅に口を隠すその顔は、母とは対照的に凄愴と輝いていた。思えば母が弱るところを見るたび、この女は若さを取り戻していくかのようであった。
 正妻は立ち尽くす自分と母を、まるで汚らわしいものを見るかのように睥睨し、扇の向こうで嘲笑した。

「おや、ようやくくたばかったかと思うて喜び勇んで見に来てみれば、まだ生きておったのかえ。しぶといことよのう。やはり下賎の者は、生にも卑しいとみえる」

 怒りで目の前が塗りつぶされ思わず握った拳を、渾身の力で抑えとどめた。その一線を越えてしまえば、これまでの何もかもがあふれ出して、とても一発などでは済まなそうだったからだ。何より死にゆく母の視界を、汚い血で穢したくなかった。爪が手のひらを食い破る痛みも感じなかった。それほど自分がこの母を、自分を棄てた母を愛していたことに気づいた。
 その夜は眠れなかった。慎重に濁り水の底に沈め、見ないようにしていたものが、浮き上がりかけてしまった。一度浮上すると、なかなか元通り沈めなおすことができない。
 のたうち回り、当りかまわず拳をぶつけたい衝動が心身を焼いた。正妻の嘲笑を耳の奥に聞く度に、母の痩せこけた白面を眼裏に見る度に、いてもたってもいられなくなった。
 とうとう屋敷を飛び出した。
 真夜中の街を、あてもなく彷徨い、気が付けばあの桑の木のもとに来ていた。
 そこに、あの爺はいた。夜半だというのに構わず大きな声で、陽気に詠っていた。


 さぁさぁ飲もう。酒を飲もう。

 くよくよするな。人生はほんのひと時しかないんだ。

 悩んでちゃ勿体無い。楽しいことを考えようぜ。

 浴びるように酒を飲んで、酒に飲まれて、ちょいとホロ酔い気分で夢見心地。

 家に帰って寝りゃ、朝にはすっかり気分は上々。

 嫌なことは全部忘れて、今宵は楽しく飲もうじゃないか。


 あっけらかんとした詩は、やはり下手糞だ。男は実に楽しそうだった。でも、その瞳には微かな悲しさがあった。
 何故お前は詠うのか、と訊いた。
 男は答えた。悲しいからさ、と。

「悲しいことがあったから、詩を作ってるんだ。辛いことがあった時も、ムカっ腹が立った時も、とりあえず詠うんだ。胃の奥底に重てぇもんがあるときはな、それを(うた)に込めて、声に乗せて流すのさ。すると不思議なことに、身体が軽くなる。想いってのは、溜め込んじゃいけねぇ。形にしてやらなきゃ暴れ出す魔物みてぇなもんだ。だからって当り構わず回りに迷惑をかけるのでもいけねぇ。手前のもんだから手前で始末つけなきゃあな。詩でも絵でも楽器でもなんだっていい。思いを形にして吐き出してやれば、何かがそれをちゃあんと受け止めて、どっかへ持ち去ってくれる」

 思いを形に。

 曹操はその言葉に、打たれたような気がした。
 その夜は、男から詩というものについて色々聞いた。
 日が昇ってからは、屋敷に戻り父親の書物庫に篭った。屈原に始まり、無名の詩人まで、詩と言う詩を読み漁った。一度知るようになると、そこに込められた思いが心中に鮮やかな波を描いた。
 夏侯惇たちが誘っても、しばらくは屋敷に篭りきりで、貪るように書を読んでいた。従兄弟達が不思議そうにする中、ただ詩の書を見、自ら作る練習をした。
 そうしてはじめて詩を詠んだのは、母が死んだ時だった。




 曹操の話を聞き終えて、郭嘉はようやく知った。詩は、曹操にとって心を鎮める唯一の手段なのだろう。
 一度生まれた狂気は消すことは出来ない。思いが凝って、あるいは何かの拍子に暴れ出すときに、曹操は詩を詠む。
 けれどもそれでも追いつかない時がある。

「元譲殿が心配されてましたよ」
「知っておる。わざわざ用もないのに顔を見にきたくらいだからな。あいつなりの気遣いなのだろう」

 夏侯惇は曹操の歪みに気づきながらも、敬遠する風もなく、今も昔も味方でいる。曹操が彼に最も気を許し、傍におくのには、そういった訳もあるのだろう。
 だから夏侯惇は夏侯惇らしくしているのが一番曹操にとって安心できるのだ。
 しかし、その彼ですらも手を出せぬほどに、曹操の心の闇は深い。根付いたひずみは元に戻らない。
 作詩は、曹操の自分自身との戦いなのかもしれなかった。己を駆り立てる原動力となる以上、(それ)を否定することはできない。しかし食いつぶされぬように、常に飼いならし続けなければならない。

「人は鬱積した気持ちを消化させる方法を、各々に持っているものです。殿の場合はそれが詩なのでしょう」
「お主にも、そういうものがあるか」

 郭嘉は曖昧に微笑んだ。眼を落として杯を揺らす。

「さて。私にはやらねばならぬことが多すぎて、そういうことを考えている暇もありませんので」

 己の思いよりも、優先したいものの方が多すぎて。

「ああ、仕事をさぼったり酒を飲んだり妓楼で遊んだりするのが、あるいはそれかもしれませんね」
「お主、それは日々の生活そのままだろうが」

 呆れたように言う曹操に、指折り並べ立てた郭嘉はさもありなんという顔をした。

「そうですよ。私には日々生きていることが嬉しくて、悩んでる時間すら惜しい」

 それは、曹操が昔聞いた下手な詩と、同じ言葉。
 けれど郭嘉にとってはもう一つ別の意味もあった。
 きっと自分に許される時間には限りがあるだろうから。だから時を少しも無駄にせず、今を楽しむ。そしてするべきことを為す。

「羨ましい奴だ」

 曹操はそんな郭嘉の、ある種殺伐とした決心を薄々感じ取っている。けれどもあえて気づかぬ振りをして、羨んでみせた。同情はこの男には必要ない。
 郭嘉は笑顔を向けた。

「殿だって、そうでしょう? 元譲殿達がいて、私や文若殿達がいて、真っ直ぐに天下を目指して駆ける。その殿の生き様こそが、まさに曹孟徳の詩そのものじゃないですか」

 曹操は驚いたように目を瞬いた。そして苦笑する。

「そんな美しいものでもないぞ」
「美しくないのが人間というものですよ。心に闇のない者に大事は為せません。己の罪を罪と分からぬ者に人は治められません。己の痛みを知らぬ者には、他人の痛みなど到底分かりますまい」

 だから郭嘉は曹操こそを主に選んだのだ。袁紹でも孫策でも劉備でもなく。

「お主も変わった男だな」
「これは心外な。私は誰よりも真っ当な人間だと自負しておりますよ」

 いけしゃあしゃあとそんな大言を嘯く。曹操は大きく笑った。

「お主と話をすると落ち着く。不思議だな」

 頭の痛みは、もう治まっていた。




 曹操の室を辞して自室に戻る途中、郭嘉は天上を見上げた。
 月は爪の先ほどの細さで浮かんでいる。それは抜き身の刀を連想させた。
 郭嘉は、最初に会ったときから曹操の中に時折見え隠れするものを漠然と感じ取っていた。鋭利な刃の上を素足で綱渡りしているような危うさ。その危うさすらも力の一部にしている曹操の強さに惹かれたから、彼の下に来た。
 今のところは均衡が上手く取れている。だがそれが傾いた時にどうなってしまうか、分からない。
 “それ”を止められる所に、果たして自分はいつまでいられるだろうか。

「明日は、晴れるかな」

 晴れやかな星空を見つめ、郭嘉はぽつりとそんなことを漏らした。
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