星が、墜ちた。

 敵方の幕舎の内で、腕に掛かる縄の感触を感じながら、陳公台は淡々と思った。
 墜ちた。とうとう。闘神と呼ばれ、戦場においては誰よりも自在であった男でも、やはり数多の人の上に立ち国を支えるにはいささか器が足りなかったのだろう。
 そんなこと、とうに分かってた筈ではないか―――と心中で己に嘲笑した。そう、分かっていた。なのに、こんなにも無力感を感じるのは、戯れと思っていながらいつしか本気で夢を追っていたということなのか。

(とんだお笑い種だ)

 陳宮は再び自嘲する。本当に、自分がここまでも愚かだったとは。
 そして誰もいない薄暗い幕舎の中を眺め渡した。外では遠くから、がなり立てる聞き慣れた声が風に乗って途切れ途切れ聞こえてくる。
 もう二度とこの幕の内を拝むことはあるまいと思っていたのに―――
 よもやこのような形で再びこの内に入ることになろうとは。懐かしい様装に、目を細める。
 しかし、以前は自分の居場所として立っていたこの場も、今や立場が異なるだけでまるで全く別の空間に見える。そこはかとなく漂う違和感と疎外感。それは、最早其処に以前は確かにあったはずの己の居場所が失くなっていることを如実に語っていた。
 一体、自分は嘆いているのか憂えているのか。
 もはやそれすらもどうでもいい。何も考える気にならない。ただひたすら脱力感と、何か重責から放たれたような、妙にすっきりとした気持ちに満ちていた。

(しかし、何故……)

 その凪いだ心中に石を投じるように、ポツリと疑問を呟く。湖面が波紋を描いた。

(何故、私は此処へ連れてこられたのだろうか)

 てっきりすぐにでも刑場に引っ張り出されると思っていたのに。

(何故、しかもよりにもよって私だけ)

 いきなり将官にこの天幕へ連れて来られて、一人で捨て置かれて既に数時。
 仮にも自分は捕虜だ。それも重要な。逃げる気は到底ないが、それであってもこの状態はいささか無防備すぎではないだろうか。

(“あの男”らしくない)

 いや、ある意味“彼”らしい―――のかもしれない。
 いつだって陳宮の及びもつかぬことを思いつくのだ、彼は。何を考えているのか。まさかここまで来て今更昔話に興じたいというわけではないだろう。
 陳宮はジッと、正面中空を見据え続けていた。
 がらんとして何もない幕舎。ここが普段何に使用されているのかは謎であるが、不思議と安心感に包まれる。

(奇なものだ。人間とは、すべてを覚悟するとこれほど心安らかになれるものなのか)

 と、そこで先程から自分が不毛な疑問ばかり次々と投げかけていることに気づき、苦笑を浮かべる。何もする気力がないわりに、回るところで頭は無駄に回り続けている。
 それも、あと少しのことだろうが。
 “その時”を夢想して、陳宮は瞼を伏せた。
 己だけの静けさが包み込む。遠いところで、怒鳴る声がまた聞こえた。
 一呼吸ほどか、一瞬きほどか、それとも一時ほどか。
 長いような短いような静寂の時間。

「陳公台殿」

 ふと、背後から声がした。ゆっくりと振り返る。
 捲られた幕の出入口に、一人男が立っていた。
 まだ若い、文官風の男。彼は深い色の袍を纏い、両袖を合わせるようにして、そこに佇み静かに陳宮を見つめていた。
 予想していたのとは別の人物の登場に、陳宮は軽い驚きと、僅かな安堵を覚える。そんな自分に更に驚いた。
 そのような心の動きを忘れ去るべく、無理矢理脳裏から散らせ、不自由な肩越しから男の顔を不躾に窺う。すぐに彼が誰だか分かった。分からないはずがない。だって彼は、かつて自分がいた場所に、立っているのだから。
 今の己のと彼の立ち位置のあまりの差に、皮肉を感じる。

「郭嘉殿……と仰いましたかな」

 陳宮はぼんやりとその名を舌の上に乗せた。どうしてまた彼が自分に会いに来るのだろう。
 訝しむ響きを感じ取ったのだろう、郭嘉はちらりと微笑すると、流れるような動作で拱手した。その一挙一動ですら嫌に様になっていて、陳宮は胃の奥に蟠る小さな澱を感じた。

「初めまして、と言うべきですか」
「戦場では互いに遠目ながら幾度か(まみ)えていますがね」

 皮肉ではなく、至極真面目にそう返す。確かに、と郭嘉は笑った。邪気のない笑みだ。あれほど苛烈な策を思いつく人物だというのに、在り方は随分真逆に思えた。不思議な思いで陳宮は彼を見る。だが、確かにこうして間近で顔を合わせて話すのはこれが初めてだ。

「よく私の名をご存知でしたね」

 陳公台殿がおられた頃にはまだ居なかったのに、と軽い調子で郭嘉が言えば、

「貴殿の名を知らぬ者は、少なくとも呂軍の中にはおらぬでしょう」

 こんな時ですら、陳宮は馬鹿丁寧な口調を忘れない。生真面目な性分だった。
 それが好ましかったのか、郭嘉はまた笑んだ。

「して、一体私に何用ですかな」
「一度直接話がしてみたくて」
「……」

 陳宮は胡乱気に若い軍師を見やる。

「話、ですか」
「ええ」
「私にはお話しすることなどありませんが」
「貴方になくてもいいんです。私にはありますから」

 依然笑顔のまま、有無を封じる強引さで話を進める。
 陳宮は僅かに顔を顰めた。

「何を言っても無駄ですぞ」
「何を、とは?」
「私はとうに覚悟を決めております」
「ええ、そのようですね」

 人を食ったような返事を返す相手に、陳宮は憮然と口を閉ざす。
 一転してだんまりを決め込んだ陳宮へ、今度は郭嘉から口を切った。

「……曹公は、貴方が降ることを望んでおられます」

 曹操のことを『曹公』と呼んだことに、陳宮は微かな疑問を覚える。『殿』と呼べばよいものを。彼にはその資格があるのだから。それとも自分に合わせているのだろうか。

「知っています」

 一瞥もくれずに、陳宮は言った。

「ですが、私はその答えもすでに曹公ご自身に申し上げたはず」
「処刑を―――とですね」
「ええ」

 ただ瞑目しながらはっきりと告げる。

「今更曹公の許に戻る気など、私にはありませぬ」
「どうあっても、お気は変わらぬと」
「愚問です」

 郭嘉は沈黙した。背を向けることで拒絶を表す陳宮は、当然目を向ける心算もなかったが、背中越しに感じる気配が戸惑っているわけでも憤っているわけでもないことに訝りを抱いた。居た堪れぬ、何ともいえぬ静けさ。

「……あの声が、聞こえますか」

 ポツリと囁かれた言葉の意味を解すのに、しばらく時間が掛かった。
 やがてそれが、先程より遠くから聞こえ続けている、あの獣の咆哮のような叫び声だと察する。

「……ええ」

 陳宮は答えた。あの声が誰のものかなど、とうに分かっている。だからといってなんだというのか。
 郭嘉は至極静かな調子で言った。

「先程から、呂布将軍が曹公へ命を乞うて騒ぎ立てています」
「それが何か?」

 だからあんな男、見限れとでも言うまいな―――そんな気持ちを乗せて陳宮は問う。

「曹公に意見を求められた劉皇叔が、何とお答えになったかはご存知で?」
「いいえ」
「『彼は二人の義父を持った。丁建楊殿と董仲穎の例をご覧になればよろしい』と申されました」

 丁原、董卓―――どちらも呂布が義理の父子の契りを交わしながらも、その手に掛けた人物である。

「はっ! あの大耳男がぬけぬけと。よくもあの口からそのような戯言を言えたものだ」

 聞くなり嗤い、強い嫌悪を露わにしながら斜に吐き捨てた陳宮に、郭嘉は意外にも笑う。

「呂将軍も同じようなことを言っていましたよ」
「!」

 ハッとして陳宮は郭嘉を見上げ、それから気まずそうに視線を逸らした。
 郭嘉は続ける。

「それを受けて曹公は言われました。道理であると―――呂布将軍はまもなく斬首に処せられます」
「そうでしょう、それが当然です。曹公も、一時の気の迷いとはいえ、酔狂なことを考えられたものだ」

 それが、曹操が一瞬でも呂布を『飼おう』と思ったことを指して言っていることを知り、あの方は重度の人材収集癖ですから―――と郭嘉は苦笑した。そこで初めて陳宮の口元にも素直な微笑が浮かぶ。確かに、と相槌を打った。

「でも―――呂布将軍はそれでも諦めずに、命乞いを叫び続けております」
「……あの男は、誰よりも本能に忠実ですからな」

 陳宮の、どこか感情の抜け落ちた声音に、しかし郭嘉は異を唱えた。

「それだけでしょうか」
「え?」
「呂将軍は、本当に自らの命を惜しんであのようなことをしているのだと思われますか?」

 助からんがために、そうしているのだと。

「……どういう意味です?」

 郭嘉の言わんとしていることが分からず、陳宮は意思の強い眉を顰める。
 だが、問いかけた相手は少し首を傾むけるのみ。

「あの声の響きには、ただそれだけのことではないような気がしたのですが」
「……」

 何をおっしゃりたいのか、と眼差しに込める。
 「ただの勘です」郭嘉はそう言い置いて一呼吸おき、

「私には、あれは彼なりの策ではないかと思えるんです」
「『策』、ですと―――?」

 予期せぬ言葉を、陳宮はぼんやりと舌に乗せた。

「彼はきっと、どこかで本能的に分かっているのでしょう。己の死が、他の者たちにも死を選ばせるだろうことに」

 ハッと、陳宮は瞠目した。
 郭嘉はゆっくりと近付きながら、緩やかに言葉を紡ぐ。

「『己が死ねば、己にここまで付き随ってきた者達が死ぬ。己が死ねば、己に心酔していた武将達が死ぬ。己が死ねば―――己のために今まで献策し続けてくれた軍師が死ぬ』」

 座り込んでいる陳宮の正面にしゃがみ込み、目線を合わせた。

「だから、自分さえ生きていれば、彼らもまた命を投げ出さないだろうと」

 あくまで穏やかなまでに語る郭嘉の双眸は、不思議な光を湛えていた。綺麗な眸だと、場違いにも陳宮はそんなことを思った。それがじっと陳宮を見据えて、言う。

「あるいは、無様に命乞いをしている己の姿を目にして、自ずと心が離れるのではないか。自分を見限り、こんな者に殉ずるなどご免だと、そう思ってくれるのではないか―――

 無言のまま何も言えずただ凝視を返す敵軍の軍師に、郭嘉は告げなければならないことを告げる。

「実際、それは功を為しました。張遼殿はすでに投降されています」
「張遼が……」

 呆然と、陳宮は呟いた。まさかあの、最も呂布に心酔し忠を誓っていたあの男が。
 けれど、それにどこか安心する。張遼は、ここで終わるにはあまりにも惜しい。曹操ならばきっと投降を勧めるだろうと思ったが、問題は張遼の性格だった。義に厚い彼が主を捨てて降将に甘んじるようにはとても思えなかった。
 しかしその張遼が―――
 郭嘉は、様々な思いが錯綜する陳宮の瞳を覗くようにして真っ直ぐに見つめた。

「彼は彼なりに、決して良いとは言えぬ頭で必死で考えたのでしょうね」

 如何すれば部下を生き残らせることができるのかを。
 陳宮は最早言葉もなかった。ただただ呆然と、眼前に目線を合わせる男を信じられぬ思いで見返す。

(呂布殿が―――
 長いとも短いともつかぬ期間をともに過ごし、主君と仰いだあの顔を思い出す。およそ配下のことなど気にも留めず目もくれず、ひたすら野生の獣のように子供のように、本能の求めるまま奔放を極めていた、あの男が。

(呂布殿が、我らを生かすために(、、、、、、、、、)?)

 何故だ。何故今更、そんな。
 凪いでいると思っていた心の湖面が細波を立てる。決意が、覚悟が、音を立てる。
 何故、何故。
 誰へともない、何を問うているのかも分からない疑問を、頭の中で繰り返し続ける。
 溢れそうになる感情が、ただ胸の奥に溜まって出口を見失う。込み上げてくる思いが、塊となって喉の奥を突き、痛める。

「それでも、貴方は死を選びますか?」

 静かな問い。この男は、最初から最後まで静かだった。憐れむでもなく懇願するでもなく脅迫するでもなく、ただ静かに、感情を控えて淡々と。だからこそ、感じ入らせるものがあった。
 陳宮は俯く。唇を引き締めた。
 ああ、ようやく分かった。
 “答え”が、ようやく胸のあるべき処に落ち着いた。
 自分が知りたかったのは、これであったのかもしれない。
 もう絶望感はない。脱力感も無力感も。
 ただ残ったのは、清清しいばかりの決意。
 陳宮は、顔を上げた。

「郭嘉殿」

 悲しみはない。晴れやかな顔だった。

「私は、呂布将軍と運命をともにします」
「公台殿」

 何か言いた気な郭嘉に、陳宮は明瞭な声音で言い切った。

「良いのです。だって、誰か一人くらい付いて行ってあげなければ、可哀想でしょう? 貂蝉殿は先に逝ってしまわれたし……あの人は、ああ見えて実は結構寂しがりなんです。本当、どうしようもなく手の掛かる男で。だから、私が冥府までお伴仕ります」

 呂布の幕下に入ったのは、初めは曹操への当てつけのつもりだった。
 曹操の下を離反した理由は、確かに呂伯奢の一件がある。しかしそれは切っ掛けにしか過ぎない。
 陳宮は曹操が恐ろしかった。
 畏怖ではない。だが、常に怯えていた。いつか自分が彼に付いていけなくなるのではないかという、無根拠な脅迫観念だ。
 そして、彼の隣で涼しげな表情を以ってその地位を確立していた荀彧という存在に、嫉妬し、何より焦燥した。
 自分はいつか曹操に見限られるのではないか。そんな恐怖と焦りに、追い詰められていたのだ。
 だから、袂を分かつ時に「曹操のやり方に付いていけない」と言い捨てたのは、ある意味で事実だった。見限られる前に、こちらから見限った。
 だが、そんなのは言い訳だ。本当は、怖くてたまらなくなって逃げ出したのだ。
 なのにその反面で、呂布を選んだのは本当は野に放たれた暴れ虎を滅びに導くことで曹操の覇道に奉げようと思っていたのだ。
 荀彧たちにはできぬ形で、己の忠誠を貫こうと。そういう形で己の矜持を保とうと、そんな可笑しいほどに浅はかな虚栄心だ。
 でも、いつしか自分はあの呂布こそを主と定めていた。本気で、彼を立てて夢を追いかけていた。

 思えば、これが宿命(さだめ)というものだろうか―――
 だが、後悔はない。

「それで、よろしいのですか?」
「ええ」

 陳宮は頷く。そこには未練も、嘘偽りもない。

「何といっても、私は呂奉先のただ一人の軍師ですからな」

 そう言って、会心の笑みを見せた。
 そう、軍師。自分は、永遠に彼の唯一の軍師だ。

「だから、外にいる“彼”にもそうお伝え下され」

 郭嘉はハッとして陳宮を見た。
 それからふと寂しげな微笑みを浮かべる。
 目を伏せ、言う。

―――確かに、承りました」
「手数をお掛けしました」

 両手は後ろに繋がれたまま、陳宮は深々と頭を垂れる。
 郭嘉はそれに一度恭しい拱手礼を返すと、立ち上がって踵を返し、幕舎の入口へと向かった。
 再び振り返ることはなかった。




 堰が倒壊し、一帯が川水で満ちたその川面に、夕暮れ時の薄い光彩がスッと帯を引く。夕日紅を反射して煌く細波を眺めながら、曹操は呟いた。

「……笑って逝きおったわ」
「ええ」

 陳宮が呂布の隣に連れてこられた時。
 呂布は曹操に怒鳴った。

『陳宮を殺すのか? おい、殺すのか!? 貴様の命を救った恩人を、貴様が殺すのか! 才ある者を、それを求める貴様自身が殺すというのか!!』

 養父殺しと綽名された男とは思えぬ台詞。しかし曹操は、色めきだつ諸将を制しながら、黙って罵倒を浴び続けた。
 なおも気炎を吐き続ける呂布をとどめたのは陳宮自身だ。
 穏やかな眼差しで、「これで良いのです。ともに参りましょうや」と。
 呂布は縄に縛られたまま、泣き崩れた。すまない、すまなかった、と声を震わせた。
 彼は、一時的にでも一城を持った主として、不器用ながらにも臣下を守ろうとしたのだろう。
 陳宮はそれに、嬉しげな、誇らしげな笑みを湛えていた。
 彼の主が断首されるのを見ている時も、そして最期のその瞬間まで。
 ふと一瞬だけ、彼がこちらを向いたような気が、郭嘉はした。
 陳宮の後に、呂軍の名将高順もまた、主に殉じた。いずれも見事な去り際であった。

「やはり、あやつの決心を覆すのは無理であったか」

 相変わらずの頑固者だ、と小さく口端を上げる。

「お役に立てず、申し訳ありませぬ」
「いや、お前の所為ではない……責があるとするならば、そもそもはこの孟徳にこそある」

 陳宮は生真面目で、実直な男だった。たとえあの呂伯奢一党の殺害に正当な理由があったとしても、あの状況では曹操がどう説明したところで彼は信じなかったであろう。また、曹操自身も人を殺した事実に言い訳をつけるような性格ではなかった。たからこそ、我が手を汚す覚悟をあの大言に示したのだ。

「あれがそうと決めて行動したのならば、俺は真っ向からそれに対すだけだ」

 そうしなければならない。そうすることが、せめてもの彼への誠心の証明だった。
 郭嘉は黙して瞳を伏せる。

「お主はよくやってくれた。詰まらぬ頼み事をしてしまったな」
「いえ、あえて受けたのは私です」

 曹操の詫びに、郭嘉はただ首を振る。陳宮に言ったこと。あれはすべて郭嘉自身が見て感じた偽りなき思いだ。決して曹操自身が「言え」といったものではない。
 陳宮のいる幕の前で、入ることを躊躇っていた曹操は、郭嘉にただ一言「頼む」としか言わなかった。だから諾した。それが命令ではなかったからこそ引き受けようと思ったのだ。
 二人の間に何があったかは、伝え聞いたところのみでしか知らない。真実がどのようなことであったのか、真相は当人達だけにしか分からない。だが陳宮は、いうなれば曹操の心に刺さる楔だと、郭嘉は感じた。彼の存在は、曹操にとっては己の贖罪の象徴のようなものなのだと。
 けれど、それ以上に曹操は純粋に陳宮を友として好いていたのだ。
 だから郭嘉は、陳宮に生きる道を示した―――生きて欲しかったのかもしれない。主君のために。傲慢(エゴ)であるとは分かってはいても、それでも生きて欲しかった。
 郭嘉は遠くを望む。
 澄んだ藍色たなびく夕の穹に、仄かに星が瞬いている。
 かつてどこかで聞いた話が不意に蘇る。
 海を隔てた遠つ国では、―――人を霊処(ヒト)と書くのだそうだ。
 ()のある()、すなわち霊魂(たましい)を抱く存在であると。 そして死をもってその役割を終え肉体を離れた「霊」は、ふたたび宇宙の廻りの流れのなかに還るのだという。
 陳宮は、彼の、霊処(ひと)として在るべき場所を選んだのかもしれない。
 真冬の冷たい風が一陣吹き、そして虚空の彼方に消えていった。




 建安3年 12月 癸酉。


 呂奉先、陳公台、下邳にて死去。


 享年不明。




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