狼顧と輿




 下がってよい、という唸るような低い許しに、拱手をしながら退室する。
 障風の向こうにその姿が消えてから―――あるいは己が隠れてからか―――ようやく人心地つく。いつになっても、この室を訪れるのは慣れない。いや、これでも最初のころに比べれば少しは慣れた方か。
 冊書を抱え、回廊を来し方に戻る。途中出会う下官らが端の方で止まり拝礼をする。それを横目で見ながら通り過ぎるのも、すでに慣れた。

 司馬懿は前を真っ直ぐ向いたまま、先程魏王の室での遣り取りを脳裏で反芻した。会話に取りこぼしがないか、あるいは相手の意図を取りたがえてはいないか、何度も確認する。かの覇主はしばしばこちらを試すようなことをする。それを察し、上手く応えられなければ―――あるいは賢しらに出過ぎずにいなければ、明日にはどうなったものか知れない。尤も、それにうかうかと引っかかる自分ではない。むしろ適度な刺激があって、油断を引き締めるのに丁度良い。

 それでも、あの男から感じ取る畏怖というものは、以前に比して大分和らいでいた。いかな英傑でも、寄る年波には敵わないらしい。威圧感や貫録はむしろ増してはいるが、若かりし頃の炎のごとき勢いといったものは今はなかった。緊張するのは今でもあまり変わりはしないが。迂闊なことを言えばすぐに鋭い指摘が返ってくるのはさすがというべきであった。
 しかし己とて、漫然と年月を重ねてきたわけではない。むしろ生来の頭脳に経験と実績と自信が加わり、自惚れ抜きに才覚は弥増していると言えるだろう。
 そう、たとえばもし自分が謀叛を計画するとしても、今ならば―――

 前方から人影がのっそりとやってくるのが視界に入る。今度は下級官吏ではない。
 老年に入り深い皺の刻まれた面立ちはいつ見ても変わらず暗い。この世の不幸すべてを背負っているかのようなそれが地顔なのだとすでに知っている。しかしその裏には何年経っても色褪せぬ鋭さと油断ならぬ老獪さが潜んでいる。見てくれに騙されて侮り、結果取って食われた者が何人いたことか。そもそも思い返せば数年前、司馬懿を曹操の前に連行したのも、執金吾にいた彼である。

 自分よりもずっと長く曹姓に仕えている賈詡は、司馬懿をちらりと見て目礼した。司馬懿も習って黙礼を返し、擦れ違う。行き先からして、司馬懿と入れ違いに曹操に何がしかを奏上するのだろう。彼とは軍議の時以外には殆ど言葉を交さない。数年前のことを根に持っているわけではないが、司馬懿は何となく賈詡が苦手だった。あちらもそう思っているのか、お互い必要以上に近付かないようにしている。
 相変わらず何を考えているか分からない男だ、と司馬懿は心中で零す。そして、先程の思考の続きに結論を打つ。あの男の目の黒いうちは、迂闊な行動には出られないか。
 否。そもそも謀反など馬鹿げた妄想だった。老いてなお威勢衰えぬ曹操がそのようなことを許すはずもない。あれは大きな壁である。何より司馬懿は、曹丕がいる限り、反目などするつもりもなかった。

 ふと、鼓膜の奥に蘇った声があった。
 はっとして我知らず柱廊の途中で足を止める。日の入りが早くなり、宮殿はすでに黄昏を越えて宵闇に沈みかかっている。いつの間にか僕人らがつけて回った灯がぽつぽつと点っていた。
 しばらく瞬きをしたあと、外に視線を転じる。まだそれほど遅い時間ではないが、雲のない空は斜陽の橙から青、藍へと色が移り変わっている。一際濃い一帯には薄っすらと星が輝き始めていた。そこに、七つの星官を従えた独特の宿曜星がある。輿鬼、すなわち鬼宿だ。
 司馬懿は我知らず苦笑が漏れたのに気づいた。
 そして久しく忘れていたあの時のことを、ゆっくりと追想する。




 それはやはり、夏の残暑がしつこく居座っている季節のことだった。木に茂る葉は相変わらず瑞々しい深緑を保ち、色づくのはこれからかという、そんな秋の頃。
 にわかに後ろから長巾の裾をひっぱられた。
 歩きながら考え事をしていた司馬懿は思わず小さな叫びを上げた。

「よう仲達」

 犯人は言いながら、ひょいと司馬懿の巾を捲って後頭部を無遠慮に覗きこみ、今更な挨拶などする。

「いきなり無礼な―――

 文句を言おうと振り返りかけると、今度はがっしと顔の両側を両手で掴まれ、思い切り後方にねじられた。

「ぐえ……痛たた! やめんか!!」
「うーん、何だ普通だな」
「何をする」

 さすがに無理矢理見返りさせるのはやめたか、それ以上力は入れなかったものの、手は依然離されぬまま司馬懿は不自然な格好で肩越しにその人物と目を合わせる羽目になった。せめてもの抵抗に半眼で冷たく睨みつける。

「手を放せ」
「お前ねえ、俺の方が一応位は上なんだけど。命令できる立場だと思ってる?」
「知るか! ならばたまには目上らしい振舞いをされては如何か、郭軍師祭酒」

 郭嘉は相変わらず飄々と人を食った笑みを浮かべている。いつものやつだ。こうして司馬懿をからかって遊んでいるのである。

「大体にしてこれは何の狼藉だ。まさか私を殺す気か」
「いや、件の狼顧ってやつを拝んでやろうと思って。でも別に頭の後ろに目もついてないし、首も大して回らないじゃないか。がっかり」
「勝手に期待して勝手にがっかりするな。そんな馬鹿げた話、単なる噂に決まっておろうに、踊らされおって」

 曹操がある日おかしなことを口にしたものだから、以来司馬懿に妙な評判がついて回るようになった。曰く、「司馬仲達は狼顧の相である。背を向けたままで真後ろを見ることができる」と。
 おかげで司馬懿は他の官吏たちから距離を置かれ、ヒソヒソと陰口まで叩かれる始末である。全く迷惑な上に言いがかりもいいところだ。
 しかしそんな話を、この男までもが真に受けるとは思えない。
 案の定、怒る司馬懿に向かってしゃあしゃあと言ってのけた。

「そりゃあ、要するに『頭の後ろに目でもついているのではないかというくらい油断も隙もない男』の喩えだってことくらい、分かっているさ」

 腹立たしいくらい気持ちよく真実を突いてみせ、しかし未だ手は司馬懿の頭を掴んで離さない。

「ならば―――
「お前、今年でいくつだっけ?」

 郭嘉は司馬懿の鼻先をじっと見つめていたかと思うと、人の話を遮って徐に訊いた。

「今度は何を言い出した」
「いいからいいから」
「……二十九だが」
「そうか。まだ若いな」
「何を今更」

 己とて曹軍の中では若手の上、若作りゆえ見てくれだけとればほとんど変わらぬ相手に言われたくはない。

「とすると俺の息子と丁度七つ違いか」

 郭嘉は勝手に話を進めて一人納得気に頷く。
 彼の一人息子については司馬懿も知っている。この間、郭嘉につき従って府にまで来ていたのを見たからだ。曹操に挨拶に来ていたらしい。郭嘉の若さにしてはあまりに大きな息子で驚きはしたものの、父に続きこれから朝廷に仕えることになるのだろうと、その時は漠然と思っただけだった。
 だが改めて郭父子の年齢差に唖然とさせられる。

「まあ同僚の誼だ。あいつのことよろしく頼むな。厳しく躾けてやってくれて構わないから」
「頼まれてたまるか。何だその、遺言みたいな物言い……」

 そこまで言い差してから、ハッとして口を噤んだ。
 今度出兵の決まった北伐のことを、司馬懿とて知っている。極寒の地へ無謀ともいえる強行軍を献言し、その筆頭の軍師として曹操に従って行くのが、この目の前の男であることも。
 ここ最近の郭嘉が体調芳しくないのは誰の目に見ても明らかだった。肌色の悪い顔も、前より痩せ細った体躯も、病を患う者の相だ。今度の過酷な行軍と北辺境の風土に耐えきれるかどうか。みな何も言わないが、薄々感じ取っている。
 しかし司馬懿が直前で呑み込んだ先を読みとって、郭嘉は恬淡と微笑んだ。澄んだ笑みだった。

「それだからお前に頼むんだよ」

 俺は父親失格だから、と静かに言う。胸の奥にもやもやしたものが雲のごとく湧く。苛立ちのような怒りのような。何だこの不快感は。

「……そんなに心配なら、貴殿が自分で責任もって教育しろ。己の子であろうが」

 仕返しのように言ってやる。別に負け惜しみではない。天邪鬼なのではない。生きて帰ってこいと、叱咤激励したわけでは断じてない。
 だが何故か郭嘉はきょとんとしてから、「尤もだ」とどこか嬉しげに、相好を崩した。
 それから逃げるように司馬懿は目を逸らし、

「話はそれだけか。ならそろそろ手を―――
「仲達。狼顧はただの“噂”か」

 おい、とさすがにこめかみを引き攣らせ文句を言おうとしたところで、耳朶を打った科白にどくりと心の臓が跳ねる。

「何を」

 言う、という声は掠れた。
 しかし間近にある顔は真剣だった。軍議の時くらいにしか見せない鋭い眼差し。戦に臨む軍師の表情だ。

「主公は冗談でああいうことを仰る御仁じゃない」
―――……」

 低く抑えた囁きに胸中を貫かれ、思わずごくりと唾を呑む。
 乾いた唇を開き、慎重に言葉を選ぶ。

「私が……本気で謀叛を企てるとでも?」
「思っちゃいないさ、少なくとも俺はな。お前は殿を決して裏切れぬし、何より子桓様を裏切れない」
「!」

 司馬懿は咄嗟にムッとした。鼻を鳴らす。

「さて。それはどうか分からぬぞ」

 言い切られたことに何故だか無性に腹が立ち、悔し紛れに心にもない強がりを口走る。
 だがそのような子供騙しは通じなかったらしい。郭嘉は変わらぬ調子で淡々と言った。

「ああ、そうだな。子桓様を裏切らぬとしても、その子、その孫にはそうと限らない」

 目を瞠る。何が言いたいんだ、この男は。
 しかし郭嘉はどこまでも真顔だ。そして決して内面を読ませない。

「別に構わないさ」
「は?」

 言われたことが理解できず、司馬懿はぽかんとした。聞き間違いだろうか。

「造反、してもよいと?」
「ああ」
「己が何を言っているのか、分かっているのか」
「俺はいたって正気だ」

 確かに、思わずまじまじと覗きこんだ目はどこまでも濁りなく、狂気など宿していない。だからこそ余計に理解ができなかった。

「お前は思い違いをしている。殿も、俺も、ついでに文若殿も、誰ひとりとして曹家という一氏族の未来永劫のためにここまで身命を賭して奔走してきたわけじゃない。ましてや漢という長い歴史の中の一つにすぎぬ(ちょう)のためでもな。ひとえに国を平らかにし、民を安んずるためだ。俺達にとってそれは大義名分でも綺麗事なんかでもない。己が歩んできた汚濁の道を清算するための、極めて自己中心的な切望なんだ」

 司馬懿は再び息を呑んだ。お前はどうだ。そう問われた気がした。

(私は何のために働く。子桓様に仕え、その先に何を見据えて)

 途端に、彼我の見つめているものの大きさの違いを痛感する。
 にわかに触れる手が温かくも冷たくも感じられた。

「殿はこの一点において揺らがない。子桓様もだ。だがもしその後継が……曹姓が、この悲願を、俺達が死に物狂いでつくりあげたものを壊すなら―――いっそお前が獲れ」

 その一言を耳にした瞬間、司馬懿は戦慄した。抜き身の刃を突き付けられたような気分であった。背中がじっとりと汗をかく。

「……恐ろしいことを、平気で口にするのだな」

 それこそ曹操への裏切りではないのかと思ってしまう。しかし郭嘉は一笑してみせた。

「恐ろしいと思うなら、お前には無理だ。叶わぬ夢想を抱くのはやめることだな」

 ぎくりとした。まさか郭嘉が司馬懿の心に宿る“気紛れ”を知っているとは思えないが、あまりにも正鵠を射すぎていて、頬が強張る。これでは心の奥底に秘めたもの見透しての人選と言わんばかりではないか。
 郭嘉の表情が改まった。薄い虹彩が一層鮮烈に閃く。およそこれまで向けられたことのない鋭利な眼光に射竦められる。

「曹孟徳も曹子桓も裏切ることは許さない。だが俺の預かり知らぬ先はお前の好きにするがいい。その代わり、やるなら“丸ごと”だ。もしそのために再び国を乱すようなことをすれば」

 そっと両頬にかかっていた手がするりと頬を撫で、ほんの僅かな力が籠る。耳心地のいい声が、低く囁いた。

「その時は、昊上だろうが泉下だろうが、舞い戻って今度(・・)は容赦なくこの手で捩じ切ってやるよ」

 双眸が冷酷に染まる瞬間を確かに見て、司馬懿は瞠目した。ぞくりと背筋が震え総毛立つ。
 軍師なんぞしながら、呆れるほど陽気で、およそ残虐や酷薄だとか無慈悲などとは縁遠い印象の強いこの男でも、このような凍った目をするのかと、初めて思い知って唾を飲み込む。いいや違う、むしろ思い違いをしていたのだ。戦場を操り幾万もの命を預かり、時には切り捨てなければならぬ軍師が、真っ当に心清らかなはずがない。
 彼の持つ、底知れぬ深淵を垣間見た気がした。

「だからお前に頼むんだ」

 ふと空気を和らげた郭嘉は再び同じ科白を口にした。しかしそこには先程とは違う響きがあった。ようやく手を離し、無言で佇む司馬懿の肩をぽんと叩いて、脇を抜ける。
 しかし彼が去ってからも、司馬懿はしばらくその場を動けずにいた。呪縛にかかったように。外気の熱に反し冷たいものが、まるで残り香のごとく全身を取り巻いていた。
 そして彼の言葉は、彼の死後、最も効力を発揮した。実際、郭嘉は司馬懿に強力な楔を打ち、解けぬ呪縛をかけたのだ。




 いつの間にか汗ばんでいた拳を開く。
 目を伏せ、自嘲する。最後の最後まで、悔しいほどに抜かりのない男である。
 結局のところ、自分はあの男に逆らえないのだろう。最早そのような気さえ起らない。あるいは彼の言葉があるから、反発を覚えながらも曹操に仕え続けるのかもしれないとさえ思う。
 だが司馬懿は分かっている。

(私の才は権謀術策に特化したもの。曹孟徳のような国政を一より立て直し作り上げる力量はない。言われずとも、そんな愚かな真似はせんさ)

 それに、あの男の言を認めるのは癪だが、曹丕に対する忠誠に偽りはないのも確かである。
 言われるまでもなく、奪う時が来るとしたら、せいぜい他人が死に物狂いで完成させたものを、横から有り難く頂戴することにしよう。その方が後の苦労もなく合理的というものだ。

「だから、せいぜいそこから見張っているがいい」

 小さく口の中で囁き、もう一度だけ天を見上げる。鬼宿は死者の葬列の星であり、地上を見つめ断罪する天目。遥か彼方に挑むようにほのかに微笑って、再び歩を出した。



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 2013.5.13




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