人生幾何




 苦しかった呼吸が、ふと静まった。
 全身を縛っていた気怠いまでの重さが掻き消え、嘘のように楽になった。
 頭が靄がかったように茫として、思考が砂のごとく零れおちてゆく。
 それをどこか遠くに感じながら、すうっと冷めていく意識がある。
 ああ、その時が来たのだな、と思った。
 ついに、天命を迎えるのだと。

 思い返せば、長い道のりであった。
 ここまで来るのに、気の遠くなるほど長い道を歩いてきた。
 色々あった人生だった。ここまで生き延びたのが不思議なくらい、波乱万丈の生だった。
 戦場で死ぬのでも、暗殺されるのでもなく、人並みに寿命を迎えられようとは、夢にも思わなかった。
 憎まれっ子世にはばかるとは言うが、全く道理すぎて笑いがこみ上げてくる。
 我ながらまことしぶとい一生だった。
 だがそれも、どうやら今日限りのようだ。

 呼ばれる声がして、半ば冥にたゆたう意識を引き戻し、気力をもって瞼を押し上げる。
 途端に靄がさっと晴れ、思考が明瞭になった。ここ数年で一番、あらゆるものがはっきりと映った。視界に移る世界のすべてが、まるで透き通っているようだった。
 ひどく穏やかな心地だ。病が綺麗に去り快癒したのかと錯覚してしまいそうなほど。
 脈を取る侍医の向こうで、牀に横たわる自分を取り巻く面々が、不安そうにのぞきこんでいた。
 見知った顔は多いが、その中で心から悲嘆を表わしているものは実はごくわずかだ。
 隻眼の従弟は覚悟を決めたように唇を噛みしめ、長年自分を護ってきてくれた護衛は今にも泣き出しそうに顔を真っ赤にして歪めていた。
 何だお前達は、いい歳をして情けない、と笑ってやりたかったが、自分に残された時間と、限られた言葉の数を知っていた。
 さあ、最後の言葉を残さねば。

 うち並ぶ顔を見まわし、ふと不自然さを覚えた。足りない。
 言葉を残すべき相手、その姿を探すように目をさまよわせた。
 文若は、と訊こうとして、留まる。
 何を言う。あれはもうとっくに去ったではないか。
 ふふ、と笑う。それほど、死して久しくもなお、その不在に違和感を覚えるほどに身近に感じていたのか。ああそうだ、と思う。あれが去って、まさしく利き腕が欠けたような物足りなさがずっと付いてまわっていた。そして心の重石も。

 思えば、旗揚げの頃から全盛期以来の臣は、ほとんどがいなくなっていた。皆自分を追いて先に逝ってしまった。寵臣だけではない、愛息子さえも。
 残る面々も、随分老いた顔をしていた。程昱はもとより、賈詡までもが似合わぬ沈鬱な翳りを見せているのが、何となくおかしかった。いつもの鬱々とした地顔とは明らかに異なる。
 珍しい。何だ、そのような面もできるのではないか。

「孟徳?」

 笑った自分に対し、夏侯惇が恐る恐る声をかけてくる。ほっとしたような、苦しげな、さまざまな思いがない交ぜになった表情だった。
 自分に最も永く付き添い、自分を最も理解してくれた従弟だ。こうして一時的な安定を見ても、それが回復を示すものでないということを肌で悟っているのだろう。

「儂の葬儀は、質素にしてくれよ」

 夏侯惇の一つ目が見開かれる。

「儂は派手好きだが、贅沢が嫌いなのは知っていよう? 盛大な葬礼などまっぴらごめんだ」
「王よ、何を仰います。どうか弱気になられぬよう」
「己が寿命くらい分かるわ」

 控えていた官僚の一人が思いつめた声音でたしなめてきたが、それがどうしたとばかりに平然と返した。きっと、思いのほかしっかりした声音だったので、安心しかけていたのであろう。

「墓は、鄴の西の高みに。そうだな、西門豹の祠の近くが良い。あの伝説はなかなか痛快で、儂も若い頃本初の奴とよく扮して遊んだものだった―――

 ぽつりぽつりと、今一番告げたいことを言葉にする。
 鄴は多くの想いの詰まった地だ。官渡で劇的な勝利をおさめ、烏桓を制圧し、あの苦行(くこう)から凱旋を果たした。許とも迷ったが、やはり鄴がいい。

封土(もりつち)も植樹も要らぬ。痩せた土地に、ひっそりと。誰にも見つからぬように」

 ふう、と息をついて瞼を伏せた。周りが動揺するのが分かる。構わず続けた。まだだ。

「儂は十分生きた。失ったものも多かったが、得たものも多かった。だがもう終わりだ。生まれた時には何も持たずにこの世に生まれた。だから死ぬ時も何も持たず死ぬ。名望も栄光も何もかも捨てて、ようやくただの曹孟徳に戻る」

 みな、しんと静まり返っていた。
 偉大なる英雄の、最期の(ことば)に耳を傾けていた。

「そのほか細かいことは『終令』と『遺令』に記しておいたゆえ、それに従うように」

 ただ、という声は掠れた。
 ゆっくり脈打つ己の心音を聞いた。
 ああ、もう時が近い。
 それから、ともう一度言った。これだけは。
 双眸を開いて、誰でもない、何もない宙を見つめる。
 これが最後の我がままだ。

「儂の室に、二つの玉壁がある。他は要らん。だがそれだけは共に棺に入れてくれ。そして壁とともにある黒い壺、その中身を風に蒔いて欲しい」

 夏侯惇がハッと息を呑むのが分かった。そう、彼は知っている。“それ”が何なのかを。
 静かに瞬く。これだけは口頭で遺す。文字には決して残さない。
 一つは後ろめたさから、そしてもう一つは慮りから。
 どうしても、何があってもあれだけは、一緒に持って行きたかった。
 向こうへ行った時、あれ(・・)は怒るだろうか。何故約束を守ってくれなかったのだと。それとも仕様のない方だと苦笑するだろうか。風となって空を巡り、五行の理の中に還り、すべてに宿るのだと嘯いていたのに。何より束縛を嫌い奔放を愛する魂であったのに。最期の望みを黙殺してまで強引に手元に留めた。手放したくなかった。天下を見せてやるまでは、と思った。結果、天下を見せるどころか弱音を吐く羽目になってしまったが。
 ようやく自由にしてやれる。
 心残りを一つ解消して、力が抜けていく。
 もう一度目を閉じた。

「丕に植よ」

 瞑目したまま、息子の名を呼んだ。瞳は開けなかった。目を開けても、もう何も見えぬと分かっていた。
 「はい」と、いつになく神妙な、静かな声音で二人が応じた。風が揺れ、近くに侍る気配だけを感じる。

「儂が死んだら、丕は儂の後代として国と民に尽くし、植は兄を支えよ。儂は良い父にはなれなんだが、せめてお前たち二人は互いを助け合うのだぞ」

 やや間があってから、もう一度是と答える声が二つあった。こうして瞳を閉じていて、二人の声が非常によく似通っていることに初めて気づいた。震えていたのは、どちらの方だったのだろうか。
 頼むぞ、と再び一息つく。
 ようやく肩の荷が下りたような、解放的な安堵感が身を包む。
 これでやっと楽になれる。
 やっと、お前たちの許へゆけるぞ。
 なんと長く、永い道のりであったことよ。
 悔いも過ちも多くあったが、それでも充分充足した、満足な生だった。

 酒に対して当に歌わん。人生幾ばくぞ。
 嗚呼、善き哉、善き哉。

 労うように、称賛するように、故郷の桑樹の下にいた詩人の歌声が聞えた。
 不意に、瞑っているはずの眸に、もう何も映らぬはずの瞳に、柔らかな光と懐かしい人の影が現われる。
 瞠る。それから笑った。迎えに来よったかと、声なき声で。
 手を引かれるまま、優しい冥に身を任せた。
 そしてもう二度と、目は開かなかった。




 建安二十五年一月二十三日 魏王曹操死す。享年六十六歳。




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 2009.12.28


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