「それで?」と隣から一瞥もなく冷たく問いかけられる。
浮き立って探索をしている年少二人組の背後に従いながら、郭嘉は観念して仔細を説明した。何かの時に手札になるかもと思って黙っていたのだが、こうなっては最早意味はない。
土埃を深く被った石廊に履の音が響き渡る。
「では、あの方が誰なのか最初から知っていたと」
「一目見てすぐってことはなかったけど、話に聞くところと一致する点が多いし、何より江東であの髪と目の色って言ったらなぁ」
何ということでもなさそうにぼやく。ある意味で気づくなという方が難しい。特に郭嘉は以前より麒麟児及びその関係者の情報を洗いざらい調べていたから、庭先で恋煩いに暮れる少年が誰なのか察するにもそう時間はかからなかった。
「よくも私にあんな当て馬みたいな真似を……」
「結果的に上手くいっただろ? 悩みの種が減って良かったじゃないか」
なんやかんやボソボソと言い合う年長二人組を尻目に、孫権と呂蒙は互いに身を寄せ合うようにしながら先を行く。石廊に立つ微かな足音ですら、この静寂の中では目立って大きく響くような気がする。心細い雰囲気といつ何が現われるやも知れぬ恐怖に怯えつつ、彼らはゆっくりと足を進めていた。
「さ、さすがに迫力があるな」
「本当に、何か出てきてもおかしくないですよ、ね」
頼りない灯を前にかざしながら、呂蒙は不安を小声に滲ませる。心の隙間に入り込むような、あるいは身体の底から冷えるような寒さにぶるりと身を震わせた。
反面で若干の高揚感を覚えながら、二人は次々と室の中を覗いては恐々と足を踏み入れていく。
銚婁殿は存外大きく広い建物だった。かなり長いこと人の手が入っていないというのは本当のようで、見れば蜘蛛の巣が幕のように張り巡り、家具や日用の品々はすべて当時のまま残してあるのか、塵芥を厚く被っている。どこもかしこも古く寂れ、まるで古い時代の遺祉のような有様だ。
木材で作られた壁や柱はすでに朽ちて、施された彩色も褪せて剥がれ落ち、せいぜい名残が申し訳程度にぶら下がっているのみ。少しでも触れれば途端に崩れそうなので、誰もが極力触れずに過ごす。こんなところで建物の倒壊に巻き込まれて死にたくはない。
辺りには埃臭さが漂い、心なしか気温も外よりかひんやりと寒々しい気がする。
なるほど、これならば肝試しの必要性もない。
などと考えながら郭嘉が、かつての住人が置いたものらしい小さな立女俑をまじまじと眺めていると、
―――不意に外から何かが聞こえた。気がした。
「……なぁ」
「なんですか?」
郭嘉の後ろで、置き去りにされたままの古い琴を手に取って見ていた周瑜が、目線はそのままで応じる。
「今何か聞こえなかった?」
「やめてくださいよ」
手入れをすればまだ使えるかな、などと考えながら、その言葉に淡々と答える。一瞥もくれないところを見ると、本気にはしていないようだ。
しかし郭嘉は、至極真面目に告げた。
「いや、冗談とかじゃなくて」
「……いえ、私は何も聞こえませんでしたが」
何かあれば、聴覚の敏い周瑜が真っ先に気づいてもいいはずだ。
そう思っていた郭嘉は、先程微かに耳が捉えた音に疑念を抱いた。
「気のせい、かな」
そうぼんやり呟いたところだった
―――今度ははっきりと、誰かの声のようなものが遠くから聞こえたのは。
―――…っ …!
―――
「……」
琴の弦を撫でてていた周瑜の腕がピタリと止まる。その弾みに、ボヨォン
―――と調子っ外れの音が朧に空間を漂った。
「も、もしかして!?」
ガサゴソと何やら漁っていた呂蒙と孫権が、期待と恐怖のない交ぜになった顔を見合わせる。
一目散に室から飛び出した。
「おーい、噂は本当か?」
二人を見送りながら半眼で笑う郭嘉に、周瑜はまさかと呟く。
年少組を下手に怯えさせたくなかったので言わなかったが、実はこの殿中に足を踏み入れてからというもの、何やらザワザワとした悪寒を周瑜はずっと背筋に感じてはいた。けれど、まさか本当に
―――
「でも、確かに声はしたよな」
郭嘉の言葉に、周瑜も嫌々ながらに頷く。
「さすがに空耳……ではないでしょうね」
いささか出遅れて呂蒙たちの後を追いながら、声のする方へと抜き足差し足で忍び寄る。
声は未だに止まず、先程までいた室よりやや遠くの方から聞こえ続けている。
「このまま行くと南の内庭に出るはずですが」
「よく知っているな」
「出がけに図を見てきましたので」
用意周到な男だと郭嘉が呟く。そうしている間に、声は徐々に近くなってゆく。
「この先だ」
先に到っていた孫権が、回廊の曲がり角を指差し、追ってきた三人に囁く。
息を呑み、四人は壁際から恐る恐る顔を覗かせた。
と
―――
「ぅおりゃぁああ!!」
「!」
「!!」
月光の下、威勢たっぷりの気合を発して、かの人物は剣を振り下ろしていた。
思わず孫権が叫ぶ。
「あ、兄上!?」
その声で、素振りをしていた孫策がビクッと顔を上げた。
周瑜は絶句し、呂蒙はあんぐりと口を開き、郭嘉にいたってはこれはまずいと慌てて回廊を引き返して身を隠した。
「あれ?」
孫策はと言えば、驚愕と動揺を隠せぬ様子で双眸を大きく瞠り、何故か引き腰気味の見慣れた面々を見比べている。
「なんでお前ら雁首揃えてこんな時間にこんなとこいるんだ?」
ぽかんと口を開け、言った。
―――それはこちらの台詞だ!
その時三人の心が初めて一致した。