「ぶはっ」

 庭院に作られた半月湖は観賞用の人工池なので元々深くはない。水中に尻餅をついた状態から顔を上げた孫策の首元に、片刃の刀がピタリと突きつけられていた。
 沈黙一拍。

「私の勝ち、ですね」

 大きく肩を上下させながら、郭嘉は不敵に笑っていた。
 孫策は呆然とそれを見上げていた。
 やがて脳に血が巡り、状況が分かると、憮然と叫んだ。

「卑怯だぞ。こんなの剣術じゃねぇじゃねーか!」
「おや。手合わせとは仰いましたが、『剣術の』とは一言も伺っておりませんけど」

 あ?と孫策は口を開けた。瞳と共に記憶を巡らし、そして悔しげに渋面をつくった。

「てめぇ、謀ったな……」

 とんだ頓知話だ。

「私の武器は、力ではなくここです」

 郭嘉は己のこめかみを指差す。

「戦いとは頭を使ってするものですよ、将軍。第一、貴方と差しで勝負して私が敵うわけはないでしょう」

 飄々とそんなことを言う。あんまりにもあっさり言うものだから、逆に孫策の方が呆れた。

「ですが、先ほど言ったことも偽りではありません。将軍はどうも目の前のことに夢中になると周りが見えなくなる。だから安い挑発に怒り心頭になって、足元が疎かになり、その湖の存在にも気づかなかったでしょう」

 孫策の頬が強張る。唇を噛み、だが無言で立ち上がった。水面から伸びる剣莖を無造作に引き抜き、ザバザバと湖から上がる。草地に腰を落ち着け、大きく息を吐いた。
 郭嘉は刀に刃こぼれが無いのを確認すると、ゆっくり刀鞘に収めた。

「……この刀は」

 不意に、柔らかな声音が耳に滑り込んでくる。

「この刀はね、知人から貰ったものなんですよ」

 孫策は瞳だけで、佇む男を見上げた。
 御守りみたいなものなんです。そう呟く彼の生白い横顔は、過去を懐かしむように環首を見つめていた。

「滅茶苦茶な剣だ」
「実戦的と言っていただきたい」
「……お前、この地に残る気はあるか」

 郭嘉は心底驚いたように瞠目して、孫策を見た。これがこの男の素の表情か、とどうでもいいことに、孫策は頭の隅で感嘆する。
 本当は、こんなこと死んでも言いたくなかった。手合わせして分かったことは、孫策はとことんこの男が嫌いだということだけだ。
 だが、どんなに頭で否定しても、確かに郭嘉は喩えようの無い『何か』を持っている。それは敵方にあれば脅威で、味方にあればこれ以上もなく心強いものだ。
 力尽きたように座り込む孫策は、注がれる視線を避けるように、斜め下を見つめた。
 しばらく無言だった郭嘉は、数拍の後、苦笑じみた―――それでも今まで見せてきたものとよりも、ずっと穏やかな淡笑を頬に浮かべた。

「それが言えるようになったということは、少しは成長されたということですかね」

 ムッとして思わず向けた視界が捉えたのは、刀を持つにしてはやや細ぎすな手の甲から滴る深紅だった。ひやり、と背に冷たいものが走る。
 気づいた郭嘉は、袖口でそれを隠して、何事も無かったかのように振舞う。

「人々が貴方に付いて行こうと思うのも分かりますよ、小覇王殿。確かに貴方にはそれだけ、賭けようと思わせるものがある」

 意外な言葉に、孫策は双眸を上げた。まさかそんなことを言われるとは、思ってもみなかった。
 ですが、と郭嘉は言い置いた。

「貴方では、私の主君になることはできない」

 その声に―――何気ない中に、強い芯を宿す声音に、ハッとさせられる。
 郭嘉の面輪は柔和に微笑んではいたが、しかし声音と同じく、そこには強い意志が宿っていた。

「私は、私の才を使うに能う者にしか仕えない。こう見えて面倒臭がりなんですよ。私のやり方に色々と口出しされるのも好きじゃない。己のことも御せぬ者を輔けながら覇道に導こうなんて奇特な精神は、あいにく持ち合わせてないんでね。一からすべて諭していかないと何も分からないなんていうのも真っ平ごめんです」

 ポンポンと容赦ない言葉の刃が叩き付けられる。孫策は激昂しそうになる腸をぐっと押さえながら、黙って聞いていた。
 「でも」とにわかに声音が和らいだ。

「いいじゃないですか。私が貴方に仕えることはありませんが、将軍には周公瑾がいる」

 孫策の双眸が、大きく見開かれる。
 郭嘉はにっこりと笑った。

「実は私も彼を許都に誘ったのですよ。ですがしっかりフラれてしまいました。自分の主君は孫伯符ただ一人だけだからとね。周公瑾はこの私も認める希代の才を持った人物です。その彼にそこまで言わせるのだから、貴方はご自分に自信を持っていい」

 似たようなことを、郭嘉はかつて曹操に言ったことがある。

 『貴方は、この嘉が認めた君です。もっと自信をお持ち下さい』
 それは曹操が自分の中で進む方向性に大きな迷いを生じた時に言った言葉だった。
 この乱世では、君が臣を選ぶだけでなく、臣もまた君を択ぶ。君は臣を信じなければならない。信じるに能う臣を見定めなければならない。だからこそ傅かれる君は時に迷い、不安を抱く。
 孫策は、ただ言葉も無く仰視していた。驚きと困惑と僅かな安堵がない交ぜになった、複雑な心境がその表情に如実に表れていた。
 それを静観しながら、郭嘉は笑みを曖昧な微苦笑に変えた。節介を焼き過ぎたな、とちょっと後悔する。

(何でまたこんな、殿にしか言わない親切を言ってやってるんだろうな、俺)

 放っておけばこの主従の波風になりえたかもしれぬのに。心中で肩を竦めながら、軽く嘆息した。汗が頬を伝う。
 何でもないように振舞っているが、実は先ほどから眩暈が止まらなかったりする。むしろ徐々に悪化している。
 どうにか自我を保とうと深く息を吐き、気を整えようとする。途端に、大きく足場が沈んだ―――気がした。

(ああヤバイな。これは不味い―――

 背後の樹に凭れようとして、失敗する。指が樹幹に触れたが、それは力なく滑った。
 揺れる景色を他人事みたいに眺め、無理すんじゃなかったかな、とぼんやり思う。
 突如崩れ落ちた郭嘉に、度肝を抜かれたのは孫策だ。
 言われた言葉を己の中でかみ締めていた孫策は、ドサリと聞こえてきた音に振り返って、地面に蹲る姿を目にして絶句した。

「ちょ、ええ? 嘘だろ、おい!」

 笑えるくらいに狼狽えていた。咄嗟に手を触れようとして、自分がびしょ濡れなのを思い出し、一瞬ためらう。
 だがあまりにも尋常ならざる事態に、そうも言っていられないことを察し、とりあえず具合悪そうにしている肩を強く揺すってみた。

「いや……大丈夫ですから、あんまその、強く揺らさないでくれます?」

 吐きそう……ボソリと呟かれた言葉に、孫策は慌てて手を離す。
 その時目に入った郭嘉の顔色にひやりとした。紙のように白い。
 そういえば先ほどからこの男は、不自然に青白い顔色をしていた。
 あれは血の気の引いた色ではなかっただろうか。

「何だよ、冗談よせって」

 最後の方を毒づくように言い捨てるが、滲む狼狽は隠せない。

「冗談なら私もありがたいんですがね」

 この時になっても口の減らない男に、孫策は腹立つとともに軽く不安になった。その軽口はあまりに力なく弱々しかったから。

「待ってろ。今医師を―――

 最早敬語も何もあったものではないが、そんなことに気を回している余裕もなかった。
 立ち上がり、人を呼びにいこうと首を巡らしかけた孫策の腕をつかんだのは、他でもない郭嘉自身だった。

「それには及びません」
「お前阿呆か。そんな土気色の顔色で何が及ばないだ」
「その有様をどのように弁明するおつもりで?」

 言われて孫策も気づく。そういえば全身水浸しだった。

「それは……」

 まさか寄りにもよって勅使に剣を向け手合わせしてましたなどとは口が裂けてもいえない。当人達にとってそこに深い意味はなくとも、周りが勝手に解釈すればとんでもない事態に転じる。
 おまけに、怪我を負わせたとなれば。
 孫策は実際何も言い訳など考えていなかった。というか今の今まで忘れてた。恐らく現実に問い詰められても巧く取り繕えないだろう。
 郭嘉は息をついた。自分としてもこのまま医師にかかるのは非常によろしくない。曹操から変調を来すようなら即刻帰還せよと命じられている。これが例えば相手が孫策で無く周瑜なら大した懸念も抱かないのだが。
 そこに至って、前にも似た状況に遭遇したことを思い出し、つい苦笑いしてしまう。

(そういえば、最初江東に来たときもこんな風になったことがあったな)

 それこそその時は相手が周瑜だったから事なきを得たのだが。

「ああもう何だっていい、適当に誤魔化す!」

 思い出し笑いを漏らしていた郭嘉は、その発言に我に返って逆に慌てた。

「は? いやだから」

「病人は黙れ」

 ピシャリと一蹴された。
 だから呼ばんでいいっつーの、と思わず刀鞘で突っ込みたくなった郭嘉だったが、次の瞬間まさに時が凍りつくような感覚を覚えた。

「伯符様!」

 それは、孫策も同様だったらしい。
 真っ青になる音が聞こえて来そうだった。




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