汝為汝,何時如何時
『主公らしくない』
曹操は筆を片手に、顎杖をつきながらぼんやりしていた。
先刻、官吏の一人から言われたことが頭を離れなかったためだ。
その男とは特別懇意にしているというわけではない。曹操が司空府の印綬を得た時からいるが、最初から府に属しており自動的に配下となった者だ。それでも地位は低いわけではなく、曹操も上司としてそれなりに言葉を交すし、仕事ぶりも悪いわけではないからそれなりに関係も悪くない。
少し前のことである。仕事に没頭していた曹操は、目前の案件を処理したところでふと一息つき、何気なく窓に目をやった。
外には新年の積雪が、陽を跳ね返して眩いばかりの光を放っていた。降雪を経た本日の空は気持ちいいくらいの快晴で、日差しは柔らかく、まさしく小春日和の趣きだった。
窓を見ていた曹操は、その時あっと思った。窓辺に置いてあった雪兎が、いつの間にか水と化していたのだ。それは今朝、曹植が戯れに作って持ってきていたが、日差しを受けているうちに溶けてしまったらしい。
桟の上に残った水たまりが、きらきらと輝いている。
それを見て、ふと世の移り変わりを重ねた。何となく深い感慨を覚えた曹操は、手慰みに一つ即興の詩を作った。命の儚さと生への憂いを詠ったものだった。
そこへ、かの官吏が治水に関する報告を持ってきたのだ。
即興ながらなかなか満足のいく詩を作れてご満悦だった曹操は、軽い気持ちでできたばかりの作品を彼に詠んで聞かせた。
するとその官吏は丸々とした面に笑いを浮かべ、
『とても素晴らしいと存じます』
その声、というか表情に含みを感じ、曹操は「良いから、思うがままを述べてみよ」と命じた。
官吏は幾度か躊躇う素振りでしきりに視線を彷徨わせ、「あー」と意味のない声を発していたが、やがて唇を舐めてこう答えた。
『いえいえ、何というわけではないのです。僭越ながらそのー、いささか悲観的に過ぎて、主公らしくないように感じましたゆえ』
それを耳にしてから、曹操はそうか、と答え、官吏に下がるよう言いつけた。
だがしばらく曹操はそのままぽやーんとしていた。卓に広げた冊書の文字もすべて上滑りする。
官吏の言った意味を考えてみた。
(儂らしくない? それは一体どういうことなのだろうか。否、そもそも儂らしいというのはどういうことを言うのだ)
己のことなのに、曹操にはそれがどういうものを指すのかさっぱり分からなかった。いや、己のことだからこそ分からぬのかもしれない。老子も言っている。『他人のことを知るのは知恵があれば足りるが、己のことを知るのはもっと難しい』と。
考えても答えは出ない。このままでは気になって仕事に手がつかないと、悩みに悩んだ挙句、曹操は荀彧に訊いてみることにした。
しかし、唐突に「のう文若、儂らしいとは一体何なのかのう」と尋ねられた荀彧は、目をこれでもかと瞠り「殿、どこかお加減でもお悪いのですか。また頭痛ですか」と逆に訊き返した。
曹操はムッとして、
「儂は
普通だ。いいからさっさと答えんか」
「そう言われましても……殿らしいもらしくないも、殿は殿ではありませんか」
儂は儂だと? 荀彧の簡潔すぎてむしろより謎めいた答えに曹操は余計混乱してきた。
そこをもっと詳しく、と再度問わんとしたところに、荀彧が雪よりも冷たい氷の笑顔で、「殿、申し訳ありませんが生憎私、手は二本しかございません。私のこの山よりも高い処理案件を殿が手伝ってくださるというのであればお話を伺うこともやぶさかではございませんが。ところで本日付の案件にはお目を通されたでしょうか」と脅してきたので、曹操は逃げるように荀彧の執務室を後にした。言外に「今死ぬほど忙しいんだ、そんな私的な話聞いてられるか」と聞こえた気がするのは、決して気のせいではないだろう。
あえなく敗退した曹操は、別の人間に訊いてみることにした。
こういう時、最も暇そうにしていてかつ的確な言葉をくれそうな者は一人しかいない。
(さて、あやつの隠れ場所はどこだったかな)
一つ二つ心辺りを覗いてみて、三度目にもしやと思って足を向けた先で見つけた。
目的の人物は大胆にも曹操の執務室に勝手に入り、屏風裏にある牀台の上で図々しく居眠りしていた。
「起きんかこの堕落者め」
と容赦なく耳を引っ張れば、「痛い痛い」と文句を言いながら郭嘉は身を起こした。
「何ですか殿、人が折角気持よく寝ているというのに」
眠そうに目を擦り、主君の前だと言うのに寝崩れた姿のままその場で大欠伸をかます。
許しもなく主の牀台で堂々と眠りこけていたというのに、悪びれるどころか文句を垂れる部下に、曹操は大いに呆れた。
「何ですかではない。お主、儂の室に勝手に入りこんでおいて何故そんなに偉そうなんだ」
「だって折角来たのに、殿ってばいないんですもん」
それは理由になるのか。曹操が激しく疑問に思っている中、当人は未だに牀台の上に座ったまま、頭を掻いている。おまけに「あ、待ってるうちに眠くなったんで牀台拝借しました」と思い出したように付け加える始末だ。これではどちらが部屋の主か分からない。
「仕事をせんか仕事を」
「してますよー。だから殿のところ来たんじゃないですか」
「何だと?」
「『北』の地形と、攻略するのには何処でどんな布陣を組んで、どれだけの予算が必要なのか知りたいって言ったの殿でしょう」
と郭嘉は冊書を取りだしひらひらと振って見せる。
言われてみれば、確かにそのようなことを言いつけたかもしれない。
「今すぐ知りたいって仰るから夜通し調べて、寝てないんですよ。いつもサボってるなんて思わないで下さい」
「う、それは悪かった。だがお前の場合日頃の行いがあるからな」
しかし郭嘉はこういった曹操から出された用件に関しては大概仕事が早い。その調子で他の案件もこなせば陳羣に小言を言われることもなかろうに、と言うと郭嘉は嫌そうに顔をしかめた。
「俺は軍師祭酒ですよ。本来殿の軍事諮問が仕事なんです」
そうは言ってられないほど忙しいのが現状だった。これほど多くの人材の集まる中央でさえ、度重なる乱で、なお有能な人手に事欠いている。誰もがいくつかの担当を兼任していた。郭嘉も兵事以外に一部の法の見直しと整備を引き受けている。潁川の郭氏は代々法律に携わる一族だ。郭嘉の家も例に漏れず明経を家業としていたから、ほぼ問答無用で任されたのだ。この上戦の度に従軍しているわけだから確かに仕事量は半端ない。にもかかわらず時には関係のない民生方面の案件までも回ってくる始末で、生来したい仕事しかしたくない性質の郭嘉にしてみればサボってなんぼというところなのだろう。
「大体殿こそ人のこと言えた義理ですか。今まで何処行ってたんです」
すっかり覚醒したのか、きらりと光る郭嘉の目に曹操はギクリとした。この鋭さは普段重宝するところなのだが、己の身に返ってくると非常に厄介で困る。しかし言い訳をすれば、確かにかなり私的なことで途中放棄したが、別にサボっていたわけではない。
ともかく、とゴホンと咳払いをした。色々突っ込みたい所があったが、この際細かいことは置いておく。
「まぁ良い。丁度お前に訊きたいことがあったのだ」
「はぁ。何ですか?」
「お前、『儂らしい』とは一体何だと思う」
郭嘉は不思議そうに瞬きをした。それから訝しげに目を眇める。
「今度は何の遊びです。禅問答ですか?」
「何だそれは」
「知らないんですか? 天竺から渡ってきたという浮屠の教えの一種ですよ。最近民間でひそかに流行り始めてるそうです」
全くこの男の早耳には感服する。相変わらずどこから情報を仕入れてくるのか。
「ええい、ともかくだ。儂らしいというのはどういうものなのか、お前の意見を訊いておるのだ」
郭嘉は大仰にドン引きして見せた。
「これはまたいきなり随分と哲学的ですね! お願いですからそのまま『儂は何処』とか何とか言って自分探しの旅なんかに出ないで下さいよ。それこそ殿らしくもない」
「無礼な奴め」
あからさまに寒そうな顔をする郭嘉を、曹操は上から睨めつける。
「そもそも、何故そのような話に?」
一連の事情を話すと、郭嘉は呆れたような表情をした。
「そんなことで?」とばかりの反応を受けてますます曹操は渋面になる。
「全くお前といい文若といい、人の悩みも知らんで」
「へぇ、文若殿は何と言ったんです?」
一転して興味津々そうに訊いてくる。曹操が伝えたそれに、郭嘉はしたり顔でははぁさすが文若殿、と笑う。
「意味がわからん」
「意味も何も、そのまんまです」
何故これで分かるのか、むしろ曹操にはそこが疑問だ。さすが軍師とほめるべきなのか。
「ではお前はどうなのだ」
「私ですか?」郭嘉はきょとんとした。
「そんなの答えようがありませんよ」
あっさりとした返事に曹操は目を丸くする。
「は?」
「だって何をしようと、それがどんなことであろうと、殿が考えて行う時点でそれはすべて殿ご自身から出るものじゃないですか。殿らしくないなんて思いようがありません」
あまりに当たり前のように言われ、曹操は何となく騙されているような気分になった。
釈然としない顔色を見てとったか、郭嘉が苦笑して言葉を続ける。
「ではこう言い変えましょう。よく知りもせず安易に『らしくない』などと口にする者は、むしろ相手のことを『こういう人物だ』と思い込んでいるということです。目に見えるところだけを見て、勝手に己の想像する人物像を押しつけているにすぎない。本当に深く殿の為人を知っているなら、まずそのようなことは言うはずがありません」
「そうか? だが儂のことを何を考えているか分からんと陰口を叩く奴も多いぞ」
「それは大なり小なり理解しようとしている証ですよ。端から関心がなければ『分からない』などという言葉さえ出ません。理解しようと試みるもその心中までは推し測れない。ゆえに理解できぬと言うのです。ちなみに賈文和殿もよく言ってますよ。毎回探ろうとするけどなかなか読み取れないって」
「あやつがか?」
意外そうに瞠目した曹操へ、郭嘉はにこやかに告げる。
「ほら、軍議の時とかよくじぃっと見てるじゃないですか」
そういえば、と思わず目を逸らす。
「……睨んでおるのかと思っていた」
確かにものすごく痛い視線を感じてはいたが、てっきり嫌われているものと認識していた。何せ、過去にあったことがあったことだ。
「そんなことはありません。文和殿は帰順の過程がどうであれ信頼して良い男だと私は思います」
「まぁな。仕事を任せる上では信頼しておるが……それにつけてもあやつこそよく分からん。いつも暗い顔しとるじゃないか」
「いやいや、見慣れてくると案外変化があるものですよ。昨日なんてちょっとご機嫌でしたし」
「いつもと同じ顔にしか見えなかったぞ。どうして分かるのだ」
「コツがあるんですよ」
親指と人差し指でつまむようにして「こう、若干の違いがあって」とふざけたように郭嘉は言う。
「嬉しい時は鼻の頭がちょっと上がってます」
「真か」
「嘘にきまってるじゃないですか」
あっけらかんと笑われて、曹操は怒りを通り越し脱力した。全く腹立たしいまでに食えぬ男であるが、困ったことに曹操はこの年若い臣下のそんな部分を気に入っているので、叱責することができないのだった。
「だが、文和は分からんのに、何故お前達には分かるのだ?」
「それは付き合いの長さもありましょうが、何より殿が俺達に心の裡を聞かせてくれるからでしょうな。私だって最初から分かっていたわけじゃありません。殿が話さぬのに、どうやって知ることができますか。傍にいるだけで知れることなんて限られています」
これまた当然のごとく言われ、はたと気づいた。確かに曹操は、近くに置いている決まった相手にだけは本音を明かす。それは裏を返せば相手を信頼しているという証拠だった。
「だからと言って私や文若殿も全てを知っているわけではないんです。人が完全に他人を知ることは不可能と言ってもいい。ただ我々は、殿は殿であるということを理解しているだけです」
郭嘉は牀の上に座ったまま、曹操を見上げる。
「いい指標になりますよ。『らしくない』などと軽々に口にするのは、所詮物事の上辺しか見えぬ人間です。あまり信用されないほうがよろしいでしょう。逆に『理解できない』と口にする者は、少なくとも思い込みで分かったつもりにはならない。語り合いの余地があり、その結果次第では信用に足るものとなりえます」
この言葉に、曹操は目から鱗が落ちたような気分で郭嘉を見つめた。
「奉孝……お主天才だな」
「嫌ですな殿、 今更気づいたんですか」
郭嘉はおどけたように笑った。曹操もつられて笑う。笑いながら、ふとそういえば郭嘉や荀彧からは、あまり彼ら自身の話を耳にしたことがないということに気づいた。「傍にいるだけでは知れることに限りがある」
―――<それは裏を返せば、自分はまだ彼らのことを本当によく知っているとは限らぬということではないのか。
不意に過ぎった疑問を掻き消すように、郭嘉の声が響いた。
「殿はご自分が思われる通りに、自然になさってくだされば良いのですよ。そこに過ちがあれば我らが全力でお諌めします」
何だか痞えが取れてすっきりした曹操は、一瞬の懸念にもまぁいいかと考えぬことにした。何だか色々悩んでいたことが些細なことに思えてきた。郭嘉と話しているといつもそうだった。やはり、最後にぽかりと開いた鍵穴にストンと収まる言葉をくれるのは、いつも彼なのだ。
ようやく得心がいったとばかりに、鷹揚に頷いてみせる。
「そうか。では儂は安心して堂々と構えておることにしよう」
「それでこそ殿です」
ようやく本調子に戻った曹操に安心したか、郭嘉も微笑して応じる。それからさて本題ですが、と徹夜で仕上げた冊書を広げ始めた。
汝よ、汝たれ。
何時如何なる時も。