あちらのほうが何やら騒がしい。こら、暴れるな、という声がいくつか聞こえる。
 己の部隊の訓練が一通り終了し、今日はここまでと城に引き上げてきたところで、その騒ぎを耳にした。
 曹軍の傘下に入ってからまだ間もない。親しくしている者がいるはずもなく、だから騒ぎの原因を聞こうにも誰に聞いていいのか分からないし、誰かに聞くこと自体も躊躇ってしまう。人見知りをする歳でも柄でもないが、もとは敵方だった自分が降り、しかも厚遇を受けているという今の立場が、人と馴染むのに大きな壁をつくっていた。
 いや。主君たる曹操は変わっており、敵であっても能力があれば構わず起用するというような男だから、同じような立場の者は他にも多くいる。それこそ、そんなことを言っていてはきりがないくらいにだ。だから、曹操軍の兵や官の中にはそんなことでいちいち白眼視するような輩は、一部を除いてはほとんどいない。
 むしろ、壁を作っているのは自分の方だった。
 馴染めない。馴染むことに罪悪感を感じる。二君に仕えることに、まだ迷いが生じている。
 あのまま自分は死ぬつもりだった。それを諭したのは、旧い友だ。あの言葉をうらんでも、自分の取った行動を後悔してもいない。しかしわだかまりは、消えぬ澱のように胃の底に残る。
 曹操のことは嫌いではなかった。話せば話すほどその見識の広さ、頭の切れにはただ感服するし、時折戦慄が走るほどの畏怖に己の中の戦魂が刺激される。
 しかし、やはり己が心から主と思い従ったのは、やはりかの男以外にはいなかった。
 突然肩を叩かれる。
 ハッとして我に返った。どうやら武具を片付ける途中で随分長いこと夢想していたらしい。
 過去を懐かしむなど、らしくはないなと心中で苦笑し、後ろを振り返った。

「張遼、どうかしたか?」
「あ、いや……」

 声を掛けてきたのは、曹操のいとこであり、腹心の部下である夏侯惇だった。
 肩を叩いた手の形のまま止まり、きょとんと片目を瞬かせている。
 張遼は慌ててなんでもないと首を振った。
 この隻眼の将軍は何かと自分に声をかけ、目をかけてくれる。いつまでたっても堅苦しさを拭えない張遼の態度にも、何も言わずに接してくれる数少ない一人だった。
 張遼はこの男がやはり嫌いではなかった。義に厚く、寛弘で部下からの尊敬も厚い夏侯惇の人柄は、旧き友人関羽よりも幾分か親しみやすい。敵対していた時分には思いもよらなかったが、味方となってみると実は人が好い男なのだと分かった。曹操とこの男はよく似ている、とも密かに思った。なるほど、血のつながりを感じる。

「ぼうとしていたぞ。大丈夫か?」
「ああ、少々考え事をしていてな。―――そういえば、あの騒ぎは?」

 今度はこちらから問い尋ねる。先ほどから気になってたことを訊いてみた。
 夏侯惇は、「ああ、あれか」と眼帯をつけた顔を騒ぎの方へと向けた。

「ありゃ、厩舎のやつらだな。―――まったく、まだ慣れないのか」
「厩舎? 何かあるのか?」

 夏侯惇の呟きとも独り言ともつかぬ言葉を聞き、張遼は武具をそのままにして身を返した。

「例の赤兎馬だよ。持ち主に似てなかなか気性が荒いらしくてな、未だに厩の連中は世話に手を焼いているようだ」
「赤兎馬がいるのか?」

 張遼は身を乗り出した。考えも及ばなかった。張遼自身、投降してから様々な手続きなどで余裕がなく、あの男が処刑された後の経緯や元呂軍兵の処遇以外全く聞いていない。
 しかし考えてみれば、赤兎は一夜で千里を走る至高の名馬である。武将にとって馬は命であり、赤兎ほどの馬ならば喉から手が出るほど欲しい。そのまま捨て置かれるはずがなかった。

「ああそうか、お主は知らなかったのだな」

 改めて思い出し、夏侯惇は申し訳なさそうに言った。

「そういえばお主、呂布の許にいた時に赤兎馬の世話をしたことはあるか?」
「いや、俺がいたころもやはり赤兎は呂布殿以外には誰にも懐かず、また触れさせようともしなかったから、主に呂布殿ご自身が世話をしていた」
「そうかぁ。やはりそうなのだなぁ」

 夏侯惇は空を仰いだ。あそこまで忠実な馬であれば、呂布もさぞかし主人冥利につきただろう。
 どうしたものか、とぶつぶつ呟いている夏侯惇の横顔に、何度か躊躇った後意を決して張遼は口を開いた。

「その、可能なら俺が世話をしてもいいだろうか」
「はん?」

 夏侯惇の右目がこちらを向き大きく開かれた。張遼は続ける。

「直接の経験はないが、呂布殿が世話をしていたところは何度か見ている。こちらの者よりは上手くいなせるかもしれない」

 あいつも俺と同じ心境なのだ、とは口に出さなかった。
 あいつも、きっと誰にも馴染めない。失ってしまった主を求めて、あるいは後を追いたいのだろう。あいつの方がずっと忠誠心が厚い、と皮肉に思った。

「本当に良いのか?」

 夏侯惇は頭を掻いた。

「まあ、その方があの馬にとっても良いかも知れんな」

 天を見上げながらそう言い、相分かったと胸を叩いた。

「厩の方には俺からいっておこう。頼んだぞ」
「恩に着る」

 張遼は弾んだ声で礼を言った。心から笑ったのは、此方に来てこれが初めてかもしれなかった。
 その次の日から、張遼は頻繁に厩に顔を出すようになった。
 目の前には、あの赤い馬が、相変わらずの気高い姿でいた。

「お前、俺のことを覚えているか? あの方の後ろで、いつも一緒に走っていた」

 いいながら、その顔にそっと手を伸ばした。
 赤兎は邪険そうに鼻を鳴らしながらも、振り払うことはしなかった。完全に懐いているとは言いがたいが、まあそれに近いものはある。しかしそれはあくまで『同志』であるというだけで、おそらく背に乗ろうとすれば容赦なく振り落とされるだろう。
 ああ、あのころが懐かしいなぁ、と赤兎の鼻を撫でながら張遼は目を細める。
 あの男の後ろは居心地よかった。彼の許で戦場を駆けるのは楽しかった。とくに彼が赤兎馬に跨り、方天戟をふるって猛然と敵中を進んでいく様は、どんなときに見ても壮快だった。同じ男として張遼は憧れていた。
 確かにあの男は人を殺しすぎた。養父を殺し、義父を殺し、義という概念にはこと欠けていた。主君には到底向いていなかったし、天下を治めるなどどだい無理だった。だが、張遼の忠誠心が揺るがなかったのは、きっと己の中の武将としての魂があの男に惚れ込んでいたからだろう。

「だがお前の主も、俺の主も、もういない。これからをどの道を生きていくかは、自分たちで決めなければなぁ」

 張遼は赤兎の首元を撫でながら、どこか遠くを見るようにそう呟いた。
 次の日も次の日も、厩に顔を出し世話をすることが張遼の日課となっていた。
 その頃には周りの者も、赤兎が大人しいこともあり、その世話役を張遼に任せきっていた。




 そしてまたその日も、張遼は厩に向かっていた。
 今回は思いのほか訓練が順調に進み、悩んでいた後方部隊の動きの遅れも改善されたので、珍しく速めに終了の鼓を出し、切り上げてきたのだ。
 張遼は投降した元呂布軍の兵と、曹操軍の兵を編成した部隊を統率している。だが、それまで別の部隊で、別の練兵をしてきた者同士を纏め上げるのはそう容易ではなく、相応の忍耐力を要した。しかしそれも次第に調和され、今日に到っては統制の取れた一部隊になった。もう戦場に出しても十分動けるだろう。
 その達成感もあって少し弾んだ気持ちになっていた。実は後方部隊の改善は夏侯惇の助言のおかげである。ただ当の夏侯惇自身も「今言ったようにするといい―――そうだぞ」と伝聞調の言い方であった。だが誰がそう言ったのかを訊く前に部下に呼ばれ行ってしまったので、結局もとが誰の助言だったのかは皆目謎であったが。
 頭の片隅でそのようなことを考える張遼の片手には赤兎の餌を高く積んだ木の車が紐で軽々と引かれている。
 やがていつもどおり厩が見えてくる。そのまま入口に向かって足を進めようとして、直前でぴたりと止めた。

 ―――話し声がする。

 別に気にするほどでもなかったが、どこぞの誰かが密談をしているのかと思うと入るには入れない。そのまま戻ろうかと考え、しかし片手に引いてきた車と赤兎の世話を考えれば、これまた帰ろうにも帰れなかった。
 しかたなく、腹を括って厩の中に入ろうとする。
 しかし、また寸前で足が止まった。
 出入り口から少し離れたところに佇む張遼の目に、ちらりと映った人影。
 こちらからは背中しか見えなかったが、青いそれは明らかに官服だった。今時分、普通ならば宮城にいる筈の文官身分。随分そぐわない者がそぐわないところにいる、と張遼は不思議に思う。しかも更に謎なことに、その男は官服でありながら冠を被っていない。髪を結い巾で包んだだけである。
 しかし何より驚いたのは、官服の男が立っている場所は丁度赤兎のいる一郭だった。赤兎の繋がれている場所は入口にごく近いところだ。
 高価な服が汚れるだろうに、男はそのようなこと意にも介さず厩の柵の桟に両腕をつき、片手は頬杖をつきながら何事かを赤兎に話し掛けている。
 側に近づいたためにその声が風に乗って聞こえた。

「そんで、ちとうざったかったから意趣返ししてやったわけだ。いやぁあん時は可笑しかったな。あの長文の顔といったら、半年はあれをネタに笑えるぞ」

 堪えきれぬとばかりに忍び笑いを漏らしながら男は一人喋っている。声の感じからしてまだ若いようだった。

「おい聞いてるのか。人がわざわざここまで足を運んで来てやってるってのに。そういやお前、最近大人しいんだって? どうしたんだ、そろそろ騒ぐ気力もなくなったのか?」

 すると、男の言葉に抗議でもするように赤兎が強く鼻を鳴らす。男は手をふり、いきり立つ馬を宥めた。

「怒るなよ。わかったわかった。お前はお前の主人を待ってるんだな」

 含み笑いしながらのその言葉に、影で聞いていた張遼は一瞬どきりとした。
 ―――まるで、自分の心の内を見透かされたように。
 男は赤兎を眺めやりながら、なおも続ける。

「だけどなぁ、お前、死んだ奴は生き返ったりしないんだよ。分かってるのか? おい無視すんな。何、腹が減ったの? コラ、袖を齧るなって。仕様がない奴だな……ほら、もうすぐ世話番が来るだろうからそれまでこれで我慢しろ」

 そう言って男はおもむろに懐から何かを取り出す。包みに入っていたのは小さな緑色の饅頭(マントウ)だった。変わった色をしたそれを掴んで馬の鼻先に突きつけている。

「ほらよ、うちのかみさん特製の蒸野菜饅頭だ。皮に野菜が練り込まれているのがミソでな。美味いか、美味いだろう。ってお前それは俺の手だ、食いモンじゃないぞ。 いて、いててて」

 ぼそぼそと何やら文句を言っているようだ。赤兎は小ばかにしたように鼻を鳴らすばかり。
 男は痛そうに片手を振りながら、

「思い切り噛みやがって、肉食か? ったく、手がベトベトじゃないか。まあいいや、とにかくお前な、二君に仕えずっていう心意気は見上げたものだが、そのために持って生まれた宝を腐らしてちゃあ汗血馬の名折れだぞ」

 ふと、声が深いものになった。

「いい加減難儀な性格だよな。あの男のほうがそんなに良かったか」

 張遼はその様子を見ながら、呆然と立ち尽くしていた。あの赤兎が、側にいることを許す人間が自分の他にもいるとは。
 あまりの意外すぎる光景を目の当たりにして、しばし身体を動かし方を忘れる。
 赤兎は気性が荒く気位も高い馬だ。もともとは野生だったとも聞く。自分が主と認めた人間以外には非常に乱暴である。それは呂軍でも曹軍の厩でも変わらなかった。赤兎馬は基本、呂布以外に対しては全く従順にならない。
 と、その時顔を持ち上げた赤兎馬と目が合った。耳を戦がし、鼻を鳴らす。
 それで男も気付いたのかこちらを振り向く。すべてを見抜くような深淵の瞳が、自分を捉えた。

 知った顔だ。忘れるはずはない。―――曹操の隣に立っていたひときわ若いこの男のことは、敵対していた時から非常に印象深く記憶に刻まれている。
 若くしながら天才軍師として曹軍を指揮し、曹操の懐刀と呼ばれる男だった。
 彼は張遼に気がつくと、おや、と目を見開いた。

「これは張将軍。あんただったのか」

 にこやかに笑い、人懐っこくそう声をかけてくる。遊び人で名を馳せているとの噂だったが、成程、この笑顔や醸し出す雰囲気はいかにも女人が騒ぎそうだと、張遼は心の内でぼんやりと思った。

「……郭軍師祭酒」

 うろ覚えながらの官名で呼ぶ。立ち聞きしていた罪悪感もあり、やや遠慮がちであった。
 郭嘉はそんなことを気にした風もなく、笑いながら張遼へ言う。

「赤兎の世話をしにきたんだろう? そんなところに突っ立ってないで、入りなよ。こいつ、さっきから腹減らしているみたいだしさ」

 張遼の引いてきた車を見ながら、赤い鼻面を親指で指す。
 その言葉に、やっと張遼は自分が来た理由を思い出して、慌てて中へ入った。がたがたと重々しく車輪がなる。
 餌をのせた車を前に置こうとして、ふと郭嘉と目が合った。

「おっと、邪魔だったかな」

 郭嘉が柵から離れ、横にずれる。別にそうではなかったのだが、あえて何も言わず、黙礼して厩の柵に手をかけた。軽く飛び越え中に入る。
 すると、後ろから声がかかった。

「あんたが赤兎の世話役を買って出たって話を聞いたけど、本当だったんだな」

 面白がるような響きだ。張遼は特に答えず、別のことを口にする。

「郭軍師祭酒こそ、どうしてここに?」
「軍師祭酒なんて堅苦しい官名、呼びにくいだろ。奉孝でいいよ」

 極力目をあわさぬようにして訊けば、郭嘉は人懐こくそう言った。
 馴れ馴れしい奴だと思いつつも、張遼は律儀に返す。

「だが、お主も俺のことを将軍と呼ぶだろう」
「俺はいいの」

 何だそれは、と相手のよく分からない論理に呆れる。たしかに立場的にはお互い敬礼を用いる必要はない。呼び方や敬語は、尊敬の気持ちの表れか親密度の差である。
 よくわからない男だ、と張遼は再び評価した。どうにもやりにくさを感じ、どう接していいのか分からない。
 改めて考えてみれば、文官とこんなに面と向かって話をするのは初めてかもしれなかった。
 郭嘉は張遼の戸惑いを気にすることもなく、目の前で耳をそよがせている馬へ目を向けた。

「暇な時にはこうして駄弁りにきてるのさ。こいつ相手なら陰口を言ったところで他人に漏れないだろう?」

 それは張遼にとってはやはり意外な答えだった。わざわざ好き好んでこんな所で馬に語りかける者など、珍しいを通り越して奇人変人の類だ。
 物好きだな、呟くと、郭嘉はただ微笑で返した。
 多少の居心地悪さを感じつつ張遼は黙々と赤兎の毛づくろいをしていく。郭嘉はといえば、何が面白いのか柵に頬杖をつきににこにことしながらじっと張遼の作業を観察している。
 変わった奴だ、と再度心中で呟いたとき、にわかに声がした。

「そうやってると、気難しい姫君に一生懸命尽くしている男みたいだな」

 からかい混じりな内容。遊んでいるような郭嘉の言葉に、張遼は戸惑う。やや迷ってから生真面目にこう答えた。

「……赤兎はオスだが」
「知ってるよ。ものの喩えだ」

 人を食ったように笑う。

「こいつそんじょそこらの人間には絶対触らせようとしないだろ。いつもツンと澄ましていて、いいとこのお嬢みたいだ。ま、実際名馬中の名馬だしな」
「でもお主には気を許しているようだ」
「俺はどんな女でも口説き落とすのが得意なんだ」

 いや、だからオスなのだが。というか何の話なんだこれは?
 得意満面な郭嘉に、張遼は頭痛を感じ始めた。

「張将軍、女の口説き方にはコツがいるんだよ」

 半眼でにやにやと郭嘉は張遼へと言う。それはまるで張遼の心を見透かし、言葉の裏に別の意味を含ませているような響きに聞こえ、張遼はどことなく落ち着かなくない気分になった。毛梳きを持つ手に力が篭る。
 意味もなく気まずさを感じ、目線を逸らして問う。

「それは……色街で培った経験か?」
「そうだよ。今度将軍にも伝授してやろうか」
「いや、遠慮しておく」

 畏まって言えば、ハハハと明るく笑い飛ばされた。
 妓楼通いとの噂は真のようだ。張遼は嘆息する。郭嘉とは対照的に、張遼は質実剛健、真面目が服を着て歩いているような人間で、色恋沙汰にもとんと硬派な方だった。
 だが色事にうつつを抜かし私生活のだらしない郭嘉を見ても、不思議と軽蔑や不快感は抱かない。それはきっと、この男がただの頭が軽いだけの軟派男ではなく、恐ろしい戦術を駆使する才人だと身をもって知っているからだろう。
 再び会話が途切れ、厩舎には馬の息遣いのみが満ちる。張遼は黙って仕事を進め、郭嘉は先ほどから同じ体勢で楽しそうにその様子を眺めていた。

「あんた達はよく似てるな」

 ふいに郭嘉がそんなことを口走った。
 先ほどと口調は同じ。だがどこか声の響きが違う。
 人の心部に直接響くような、そんな深み。
 張遼は怪訝そうに顔を上げた。

「今何と?」

 意味を図りかねてかねて困惑する。郭嘉は身を反転して柵に背を預け、伸びをした。

「そっくりだって言ったのさ。主を失い、新天地にいながらも未だ馴染めない。心はまだ死んだ主君を追っている」

 あくまで邪気ない口調に、しかし張遼はまたどきりとした。
 そんな張遼の心情をも読み取ったかのように、郭嘉が肩越しにこちらを見てにやりと口端を上げる。
 そういえば郭嘉は読心に長けていると聞いたことがある。それで、これまでに幾つもの勝利を収めてきたとか。実際あの戦いでも、彼の献策によって自分たちの軍は翻弄され、煮え湯を飲まされたのだと聞いた。
 しかしそれを知っていても、張遼は別に郭嘉を憎んだりはしない。食い食われつのこの世の中では当たり前だ。彼は自身の主に従っただけ。自分もまた己の主に従い今までいくつもの人間を手にかけてきた。恨まれるとすれば、自分もまた例外ではない。
 無言になった張遼へ、郭嘉は構わず続けた。

「あの男は救いようがないほど単純バカで自己中で、配下はさぞかし仕えるのに苦労しただろうにな」

 ひどい言い草だが、当たっているだけに反論もできない。しかし郭嘉は更にこう言った。

「でも、どこまでも本能に正直で一直線だったところは、俺も嫌いじゃなかったよ」

 歌う様なその科白に、張遼は軽く瞠目して郭嘉を見る。彼は柵に背を向けて凭れかかり、首を反らして天井を見上げていた。

「……あの方は、勇猛だった」

 ぽつりと、厩の干し草を鍬で押しやりながら、張遼は呟いた。何故その話をしようと思ったのか、自分でも分からない。
 曹軍内で呂布の話をすることは、自分にとってある種の禁忌だった。誰がそう定めたわけでもないが、敵方で敗れた者を褒め讃えるようなことを口にすれば、人に聞きとがめられた時にどんな疑いを持たれるか知れたものではない。そもそも曹操に対して今はまだ赤心といえるものがあるとは言えないのだから、疑われることを恐れるのも滑稽だが、だからといって前主君の話をすることは極力避けていた。
 だが、不思議とこの男になら話してもいいかと思った。そうさせる何か、張遼にそれを促すような何かが、郭嘉にはあったのだ。

「確かに呂布将軍は武勇はピカ一でも智が足らぬし、配下の進言など耳を傾けてくださらなかった。俺も、あの方は天下を治める器ではないと正直思っていた」

 郭嘉は笑みを消し、黙って耳を傾けている。相槌を打つことも水をさすこともせず、ただじっと聞く。先ほどとは逆に背を向けたままこちらを一瞥もしない。張遼もまたそちらを見ず、作業を続けていた。手元を見たまま、しかし声だけはその背中へと語り続ける。

「だが、赤兎とともに戦場を駆ける将軍の姿は、誰よりも勇猛果敢だった。戦場でのあの方は、まるで水を得た魚のように自由で、誰よりも輝いて見えた。―――憧れたよ。俺もいつかあんな風に戦場を駆けてみたいと」

 張遼の声は興奮が滲むこともなく、静かで淡々としたものだった。
 赤兎はといえば、その間興味なさそうにそっぽを向き、時折耳をそよがせたりしている。
 ふと手を止めた張遼はそれを眺めやった。
 そして独りごちるように、言う。

「俺には、それだけで充分な主君だった」

 張遼は言葉を切り、沈黙が降りる。
 そこではじめて郭嘉は口を開いた。

「……ふぅん」

 一声そう鼻で呟き、ようやく首だけ振り向いた。

「つまるところ、張将軍は呂布が好きだったわけだな」

 臆面もなく言われ面食らう。純粋に「好ましい」の意だということは分かっているのだが、あまりにきっぱり言うので、自分の方が変に動揺してしまった。

「そんでもって赤兎もあいつが好きなんだ。揃いも揃って馬鹿だな。俺には到底理解できないが」
「はぁ……」

 詰られているのに怒る気にならないのは、軽く笑いを含んだ飄然たる口調のせいか、それともあまりにも予想がつかぬ内容のせいか。すでに何も返す言葉が出ない。

「でもそんな馬鹿さ加減も、嫌いじゃない」

 よっと柵から離れ、郭嘉は身体ごとくるりと振り向いた。

「だがな張将軍。呂布は死に、あんたは生きている。それはすなわち、あんたの天命はまだ尽きてないってことだろう」
「天命……か」

 張遼は鸚鵡返しに呟き、苦笑する。確かにそうかもしれない。あの時一緒に処刑される道を捨て、生きる道を選んだのは紛れもなく自分だ。
 郭嘉が見つめてくる。双眸に宿る光は、力強い輝きを宿していた。

「せっかくの人生だ、無様でもとりあえず我武者羅に生きてみればいい。そこに何の意味があるかなんて考えずにな」

 そこでふと郭嘉の表情が柔らぐ。 

「昔や今を否定する必要はない。ただ最初から道を塞ぐなよ。未来がどうなるかなんて誰にも分かりゃしないんだから、今はこれでよいと思って流れに任せれてみりゃいいんじゃないか? いつか振り返ってみれば、なかなか悪くなかったと思えるかもしれないぞ。意味なんてのは、そうやって後から自ずとついてくるもんだ」

 紡がれる言葉は、どれも張遼の心の蔵の、更に奥深い所に突き刺さるようだった。張遼の複雑な胸内を透かし見、物事の核心を見事に打ち抜いてゆく。しかしそれは痛みではなかった。気づけば、あれだけ澱のように固まり黒い渦を撒いていたものが、散じている。

「……そんなものだろうか」

 張遼は小さく呟いた。

「そんなものさ」

 郭嘉が不敵な笑顔とともに言い切った時、にわかに遠く外の方から叫ぶ声がした。
 郭嘉がそちらを見、やばい、という顔をする。何かと思って張遼も表の方へと目を向ければ、向こうからひとりの文官が物凄い勢いで走って来るのが見える。
 あまりの剣幕に、さしもの張遼も思わず後ずさった。なんだあれは?
 やっべと呟きながら、それまで悠然と構えていた郭嘉が一転して慌てたように身を翻す。しかし口は笑っているのだからこの状況を楽しんでいるのは明らかだ。
 それから逆側にあるもう一つの出入口へと駆け出そうとして、こちらへ振り返った。
 張遼へと改まったふうに目を向け、尋ねる。

「とりあえず将軍、我が軍はお嫌いか?」
「い、いや」

 突然の質問に思わずどもって答える。それは重畳、と郭嘉は頷いた。

「それならばさっき言ったこと、嘘かどうか試してみるといい。“ここ”でな。きっと殿も俺も、あんたを退屈させない」
―――そうかもしれんな」

 自信たっぷりに嘯く男に、張遼は数拍虚を衝かれ、それから口に仄かな微笑を刷いた。
 若い文官はそんな張遼の表情に満足気ににっこりと笑う。

「ならば俺たちは『同志』だ。よろしくな文遠殿(・・・)

 目を見開く張遼を尻目に、答えを待たずして郭嘉はサッと踵を返して走り去った。あっというまに姿が見えなくなる。なかなかの俊足振りである。
 驚き冷めやらぬまま、入れ違いになるようにひとりの官吏が走りこんでくる。
 ぜいはあと肩で息をしながら、キョロキョロとあたりに首を巡らす。それからはたと張遼に気付いたように目を留めた。

「これは張将軍。申し訳ありませんが、あの阿呆……いえ、郭軍師祭酒を見かけませんでしたか?」
「あ、ああ。それなら先程までいたが……」

 といってもう一方の出口へ呆然と視線を投げかける。
 張遼の目線で気付いたのか、同じ方に文官―――陳羣は顔をやり、恐ろしい目つきで怖い笑い方をした。

「やはりここでしたか。最近このあたりの厩舎をサボリ場にしているという情報を入手したものですからね。今日こそは逃がさん!!」

 言い捨てるや否や、来たときと同じように物凄い速さで通り過ぎてゆく。
 程なくして遥か彼方から「待たんかぁ、仕事しろぉ!」という怒鳴り声が木霊してきた。
 張遼は嵐が去ったあとを唖然と立ち尽くして見ながら、言葉をなくしていた。
 その後聞いた話だが、後方部隊の動きの遅れを解消する案を提示したのは、かの軍師祭酒だという。
 妙にスッキリとした顔つきの張遼を見て、何かふっきれたな、と笑う夏侯惇が教えてくれたことだ。
 あいつには借りを作りっぱなしだな―――と張遼は内心舌を巻いた。いつか返せるとよいが。
 赤兎がここに在ってあの男を拒むことがなかったのも、頷ける気がした。




 それから時が過ぎ、投降した関羽が下賜された赤兎を連れ曹軍を離れることになったのを聞き、張遼はその前に一度厩舎を訪れた。
 赤兎は相変わらずの毅然たる姿でそこにいた。張遼が来ると、鼻で笑うように鳴いた。
 張遼はその様子を見て苦笑する。以前よりずっと生き生きして見えるのは、おそらく気のせいではないだろう。
 暖かい首元を撫でながら、赤兎の顔を見る。

「お前も新たな主を見つけたのだな」

 今では張遼も、純粋に曹操に仕えられてよかったと思っている。あの時の郭嘉の言葉は嘘でなかったことが立証されたわけだ。

「……お互い、歩む道を見つけられたようだ」

 それは別の道だけれども。
 それもいいだろう、と張遼は思った。赤兎に未練を感じていたのは、赤兎自身にというよりも『呂布の馬』だったからだ、と今では理解している。『呂布の馬』でなくなった今の赤兎は、新しい主人を得て満足げだった。
 関羽を選んだあたり、赤兎の人選に思わず笑いが漏れる。郭嘉がかつてここで言っていたことを思い出した。確かにこいつは手強い女のようなやつだった。

「では、達者でな―――

 そう言って、張遼は手を放した。




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