燦々と照るまぶしい陽射しの下、青々と彩る若葉があざやかに茂り、黒々とした陰を地に落としている。
 清々しい竹香が薫る暑い季節の中で、中華をまとめる巨大な宮城に、回廊を行く涼しげな人影があった。
 荀彧は手にいくつかの簡書を抱えながら、一つの室の前で足を止めた。扉はきっちりと閉めながらも、透かし入りの蔀を上げて風を通しているその部屋は、帝の居城にありながら実質執権を一手に握っている男の執務室だ。

「殿、失礼致します」

 内より、「うむ」と唸る低い返答があった。
 どこかしら冴えぬその声音に荀彧は軽く眉根を寄せる。此処のところ曹操はずっとこの調子だ。その理由にあらかた見当はついているのだが―――
 こっそり嘆息を零しながら、荀彧は戸を開き室内に足を踏み入れる。
 視線を巡らせば、案の定気落ちした様子で平卓子に頬杖をつく主君の姿があった。墨を硯に入れ、案件の冊書を開きながらも、心此処にあらずといった面持ちでブラブラと筆を弄んでいる。

「殿、各省から経理の報告と、来年次の予算申請書が届いております」
「ああ……」
「一応出納の統計を取り、予期される税収入と余剰から割り振った案件をこれに作成いたしましたゆえ―――
「分かった」
「……殿」

 生返事な曹操に、とうとう耐えかねたのか荀彧ははぁーと大げさに溜息をついた。
 その盛大な音に、曹操がようやく反応して荀彧に目を向ける。

「何だ。いつもに増して暗い顔をしおって」
「余計なお世話です。大体他人のことが言えた義理ですか。殿こそここのところずっと上の空で、仕事にも手つかずでしょう」
「む……ま、まぁな……」
「何ぞお悩みのご様子。この彧でよろしければご相談を承りますが?」
「……」

 曹操は再びあらぬ方に視線を逸らした。そして、ポツリと漏らす。

―――戯志才がいなくなって、どれくらい経つ?」
「……かれこれ、ひと月ほどかと」
「そうか……」

 呟き、曹操は押し黙った。
 荀彧はその沈黙の間に、やはりな、と思う。
 戯志才とは曹操が重用していた寵臣の名である。戦略の才に長け、曹操の軍事相談相手でもあった。
 曹陣営内では比較的若く、傍若無人な性が災いしてよく周りに敵を作っていたが、本人は全く意に介さなかった。それも曹操に気に入られていた理由の一つだった。
 しかしその彼は、つい一月前に死んだ。病だった。
 以来、曹操はひどく気落ちして、塞ぎ込んでいる。
 戯志才は荀彧が推挙した男だった。当然、荀彧は彼のことをよく知っている。品行にはやや難があったが、それを差し引いても抜きん出た軍才があった。だから曹操は戯志才を頼りにしていたし、それゆえ彼の死は大きな打撃を与えた。
 それで、この落ち込みようである。失意や哀しみの域ではない。いや、もちろんそれも感じてはいるだろう。寵臣であった分、悲痛の念は深い。
 が、曹操はそういった感情を露にするのは最初のうちで、長々と後に引かない。思うときでも、大体己の内に留めるか、時折酒の席で口に上らせる程度だ。そういう人間だった。
 だから、曹操の落胆振りはおそらく別の件。
 心当たりのありすぎる『それ』に荀彧がこっそり頭を悩ませていれば、徐に眼前に座っている曹操が再び口を開いた。

「戯志才が我が元を去ってから、計略の相談をする相手がおらぬ」
「……然様ですか」
「確か奴は穎川の出だったな」
「はい、私と同郷です」
「穎川は汝南に並び、優れた人物が多いと聞く。誰ぞ良き人材はおらぬものか……」

 そしてはぁ、と思い煩わし気に大きな溜息を一つつく。
 溜息をつきたいのはむしろこっちだと、予想的中の有様に荀彧は眉を顰め内心でひとりごちた。

(また殿のご病気が始まった……)

 曹操は無類の人材収集家だ。二言目には「よい人材が欲しい」。これは曹操の美点でもあるのだが、幾度と無くつき合わされている荀彧らにしてみれば「またか……」の一言に尽きる。
 荀彧は額に手を当てて軽い頭痛を追いやり、背筋を伸ばした。

「……仲徳殿や、我が甥ではお力になれませぬか。私も、自惚れはございませんが自負はあるつもりですが」

 至極淡々と言う荀彧に、曹操が眉を寄せる。しまった、という表情だ。

「別にお主らを蔑ろにしているわけではないぞ」
 
 ただな、と遠くを見つめ、

「そういう意味とは少し、違うのだ」

 声音が、何もない中空に吸い込まれる。
 長く尾を引くような余韻に、潜む真意を感じ取って荀彧は静かに目を伏せた。
 曹操が欲しいのは『悪友』だ。

「存じておりますがね……」

 溜息混じりに漏らされたそれに、「ん?」と曹操が訊き返す。
 しかし荀彧はそれには答えなかった。
 さて、果たしてこの主君の要望に沿う人物はいただろうか。
 知己や名だたる才人たちの名と顔を順々に並べるうちに、不意に脳裏にふわりと浮かび上がった顔があった。
 荀彧は降ろした視線の先で軽く目を見張る。そうだ、『彼』がいたではないか。何故忘れていたのだろう。あれだけ強烈な印象を持ち、誰よりも才気溢れる男を。不思議なくらい、今まで思い出さなかった。

(だが、あ奴は―――

 一瞬過ぎった躊躇を、しかし荀彧は振り払った。
 ふと閃いた男の存在。もしかしたらそれは天啓と言うべきものだったのかもしれない。
 荀彧は思い定めた風にスッと顔を上げた。

「そうですね……それならば、一人心当たりがございます」
「何、本当か!」

 ガバッと、曹操が身を乗り出す。先程とは一転、表情に輝きが漲っていた。
 変わり身の早さに心の内で呆れながら、荀彧は頷いた。

「ええ、まぁ」
「どのような者なのだ」
「私と同じく穎川出身の男です。若いながらに見識が広く、際立って頭が切れます。特に観察眼と先見の明については並ぶ者はおらぬかと」

 鬼謀神算―――天賦の才。あれはまさにそういうべきものだと、荀彧は思っていた。
 あるいは、戯志才よりももっと―――
 いつにない腹心の熱弁ぶりに、曹操は意外そうに目を見開いて凝視した。

「お主がそれほどまでに絶賛するとはな。それほどの男なのか」
「間違いなく」
「そうか、ならば」

 嬉々と言葉を紡ごうとした曹操を制するように、ただ……と荀彧はやや口調を濁らせた。

「彼はなんと言いますか……まぁその、品行にいささか欠けたる所がございまして……それを補ってあまりあるほどの才なのですが、これがまた手強いと申しましょうか。なかなか扱いづらい性の男なのでございます」
「何だそのようなこと。不品行と言えばまさに戯志才の奴がそうであったろう。今更そのようなところで躊躇はせぬ」

 明朗と笑う曹操に対して、荀彧の表情は冴えない。

「それが……彼は戯志才とは少し違うのです。いえ、戯志才よりももっと性質が悪いと申しますか。言動が不遜であるだけならばまだ良いのですが、それ以上に私生活が自堕落な男でして」

 何やら歯切れ悪く荀彧は告げる。何と表現していいのか、荀彧自身分からないのだ。それだけ掴みづらい男なのであった。
 曹操は怪訝そうに小首を傾げている。
 とりあえずやれることはやってみましょう、とだけ荀彧は告げた。




 熱い日差しが降り注いでいる。しかし、厭な天候ではない。ひどく夏らしい、いっそ気持ちよいほどカラリとした晴天日和だ。
 官吏の邸宅が立ち並ぶ市街から少し離れた、田園の広がる長閑な郊外。ここも数年ほど前には戦乱の波及を受けて壊滅的であったと聞くが、今は大分持ち直している様子だった。
 遠くから流れを運ぶ透き通った小川に、低く茂る木の枝が覆い被さるようにかかっている。青空に晒される瑞々しい若緑と、その下の木陰がつくる深緑が、陽光を反射する川面の煌きに相まって、涼しげな風情を醸しだしていた。

 その木陰の川岸の、少し苔むした岩場の上。
 自然のつくりだす静けさを味わうように、曹操は胡坐をかき座っていた。
 その姿はいつもとは異なり、一般民衆のような粗末な服を身につけている。一見しただけでは、とても国の政務を握っている男には見えない。
 近い川面から冷涼とした空気が立ち上ってくる。サラサラとしたせせらぎの上には、釣り糸が下がっている。
 辺りには他に人の姿はない。緑色の影の内で涼みながら、曹操は一人、藁笠の下からじっとそれを眺めていた。釣り糸の先には、餌どころか針も何も付いてはいない。だが曹操は何をするでもなく、ただ糸のみを水中に落としている。
 別段太公望の真似事をするつもりではない。第一、己の待ち人は君たる者ではなく、臣とすべき者。
 曹操は今、密かにここ穎川郡の西外れに来ていた。同じ穎川でも、宮城の置かれている都許昌とはやや離れている。殆ど隣郡との境と言っていいほど端の方だ。
 目的はただひとつ。荀彧の言っていた男に会うためである。
 荀彧から話を聞いて以来、曹操はその男に興味がわき、会ってみたくてしょうがなくなった。荀彧はとりあえず書簡を送ってみると言ったが、曹操の性分では悠長と返信を待ってはいられなかった。

 戯志才の後を継ぐ者。それだけの才を持つ男か。

 曹操は釣竿を軽く揺らす。流れ行く水面の波にじっと目を落とした。
 あの時荀彧の問いに対し返答を誤魔化したが、実際曹操が求める計略の相談相手とは、彼らでは充分には勤まらないのだ。確かに荀攸も程昱も、軍才は申し分ない。荀彧はどちらかといえば政務方だが、それでも戦略を練らせればそこらの下手な軍師よりずっと使える。
 しかし、曹操の求めている人間はそうではない。
 荀彧をはじめとする重臣は言うなれば上流に属する人間だった。荀家も程家も、由緒正しい名門。だからこそ、彼等の学と才とは、上流の者としての素質―――上流の立ち位置から見るものだった。

 だがそれでは駄目なのだ。
 澄んだ上流だけでなく濁りし下流。表だけでなく裏にも通ずる者。人世の汚い部分をよく知り、あらゆる情報と広い視野を持つ者―――曹操の求める計略の相談相手は、そういうものだった。
 計略とはすなわち人心を読み、欺き、陥れるもの。それを躊躇わず、どんな手も厭わず、かつ正確に為すには、それだけ人世に潜む闇に精通していなければならない。
 だから荀彧たちでは駄目だったのだ。彼ら名門の儒家は世間に蠢く汚濁に身を置いたことはなく、それらを利用しようとは思わない。
 戯志才はそういう意味で、裏によく通じている男だった。庶民の出ということもあり、性格にも難あって煙たがった官吏たちもいたが、そうであるからこそ彼は彼にしか持ちえぬ眼と耳と頭を持っていた。曹操が重用した理由も、そこにある。
 その戯志才の代わりとなる存在。果たして、荀彧の言った男にそれが勤まるか。
 懐疑に思いつつも、しかし曹操には予感があった。

 一体どのような男なのか、一目会ってみたい―――

 曹操としてではなく、実権者としてでもなく、ただ1人の素の人間として一度その男を見ておきたい。
 そうしていてもたってもいられず、とうとうこっそりと城を抜け出し、男がいるという所に潜伏したわけである。
 が。
 いざ来たはいいが、どうやってその男を探り、接触するか。
 気の命ずるまま訪れたが、そもそも話に聞くだけで顔も知らないのだ。分かるのは名前だけ。しかしそれを頼りに他人に尋ね歩ければ、相手にバレてしまう可能性がある。
 良い方策も思い浮かばぬまま、手持ち無沙汰で、古の偉人に肖ってみれば何かしら閃くものがあるのではないかと、とりあえず釣りなどしてみているわけである。
 さてどうしたものか。茫洋と川面を眺めながらつらつら思いをめぐらしていると―――
 不意に翳りが岩の上に掛かった。視界の隅に、影が過ぎる。

「よう、珍しいな。こんなところで釣りする奴がいるなんて」

 涼風を思わせる声音が、耳に入ってくる。
 誰だ、と確認しようとした矢先、眩しい陽光が視界を刺した。逆光の中に立つ影を見ようと目を凝らせば、それは自ら傍に寄ってきた。
 僅かに離れた隣にその人物は腰掛ける。動いた風に、仄かな酒のにおいが立ち上った。
 ちらりと笠の下から目だけ動かせば、二十も半ばと思われる若い男が座っていた。もう日も高いと言うのに襟元をだらしなく緩め、後ろに両腕をついて、くつろいだ姿勢で空を仰いでいる。その手には酒の瓶子の縄。よく見やれば頬もかすかに火照っている。

(こんな時分から酒を飲んでいるのか)

 いささか呆れた気持ちで思いつつも、かつての自分を思い出し心中で苦笑を漏らす。

「ふう、気持ちがいいな」

 男はひとつ心地よさ気に嘯き、おもむろに曹操の方に顔を向けた。

「おっさん、見ない顔だな。何処からだ?」
「東の方だ」

 おっさんという呼びかけにピクリと眉を動かすが、曹操はそこには言及せず問いに答えた。
 「へえ」男は特に気に留めた風もなく相槌を打ち、そうしてふと興味深そうに曹操の手元を覗き込む。

「どうだ、なんか釣れてるかい―――って」

 魚の影が遊ぶ水中に揺らめく釣り糸の先を見て、その瞳が面白そうに煌いた。
 ははぁ、と不遜に唇の片端を上げ、顎を撫でる。

「なんだおっさん。呂尚きどりか?」

 さも可笑しげに揶揄する男に曹操は内心で「ほう」と漏らす。

「見てくれのわりに随分博識なことだ」
「こう見えて書はわりと読むほうでね」

 曹操の皮肉にも、男は怒ることなくケロリと受け流す。
 更にからかい交じりに言った。

「おっさんもヒマ人なもんだ」

 含み笑う声音に曹操は憮然とした。名実ともおっさんではあるが、若造から礼儀もなく馴れ馴れしく連呼されるのは少々面白くない。

「お主こそ、こんな真昼間から酒を飲んでおるのか」

 一瞥もくれることなく、ぶっきらぼうに言い返す。
 すると、男は軽く袖を振るようにしながら、

「なぁに、時など関係ないさ。美しい月を愛でながら飲むのであれば、暑夏の晴れ日和に緑陰の川岸で涼みながら飲むのもまた一興だろ。昼であろうと夜であろうと、そこに肴があれば自然酒も美味くなるもんさ」

 明朗と謡うように紡がれるその言葉に、曹操は意外そうに男を見た。
 少々見直すように認識を改め、口を開いていた。

「まぁ、そうやもしれぬな」
「だろう?」

 同意を得た男は少し首を傾けて朗笑する。
 子供のように無邪気でありながら、彼は見てくれに反した思慮深さを備えているようだった。
 嫌味のないそれに、曹操もつられるように口端を上げた。

「それで、あんたはその釣り糸で淵に眠る臥龍でも釣り上げる気か?」
「いいや」

 視線を戻した曹操は、その問いに不敵に鼻を鳴らして首を振った。
 ひたと川の流れを注視する。

「それは既におるゆえな。天翔る龍は一匹でよい」

 男はぱちくりと瞬いた。それから面白そうに唇を舐める。
 覇道を翔け天下を舐める英雄(りゅう)は一人しかありえない。同じ存在は二人もいらないのだ。
 だからこそ曹操は、先のない釣り糸を垂らし、川を見据える。

「俺が釣るのは、もっと別のものだ。小さい魚など釣ったところで腹の足しにもならん。どうせ得るならばそうさな、大魚。川の主だ」
「川の主か。それはそれは随分と大きく出たもんだな」

 曹操の、ともすれば大言とも傲慢とも取れる台詞に男は呟く。
 それから小さく笑みを零した。

「ま、せいぜい頑張るがいいさ」

 よっこらせ、と年寄りくさい掛け声一つで男は腰を浮かせた。立ち上がる影の動きに、曹操は追う様に視線をめぐらす。
 軽く裾を叩いて、男は首を上げ背筋を伸ばす。木陰と逆光で、男の顔が隠れる。

「さてと。好い具合に酔いも冷めたことだし、俺はもう行くとするよ」
「然様か」

 引き止めることもなく、双眸を川に戻し曹操は言った。

「なかなか楽しい会話だったよ、おっさん。じゃあな」
「ああ」

 軽く身を返しヒラヒラと手をふりながら去る背に、曹操は一瞥も向けず応じた。しかし笠の下に覗く口は微笑を刻んでいる。
 収穫はないが、不思議と満ち足りた気分だった。
 坂になった苔と草叢を踏む音が徐々に遠ざかってゆく。と、不意にその音が立ち止まった。

「あ、そうだ」

 思いついたように発せられた声音に、曹操は引かれるようして肩越しに振り向く。
 逆光の最中、男はこちらを見下ろすようにして、坂の半ばに立っていた。じっと曹操を見ながら、口を開く。

「知っているか? 誰にも釣られぬ奔放な魚こそが、川で一番大きな主になるんだって」

 詠うように、吟ずるように。
 受け売りだけどな。男は不敵に笑って、言った。
 それに曹操は瞬き、

「なるほどな」

 と笑みを零した。




「殿、よろしいでしょうか」
「ん?」

 卓の竹簡から目を上げ、曹操は入室してきた荀彧の姿を見止めた。

「どうした」
「殿のご要望で推挙いたしました例の男のことですが」

 ああ……と気のない返事を返す。
 結局あのお忍びののち、人伝てに直接邸へ訪ねて行ってみれば、目的の人物はとうに出かけた後だということだった。家人に聞けば、しばらくは戻らないと言って行ったという。
 入れ違いになり、しかも何時戻るかも分からないという状況に、曹操は仕方なく会うことを断念して帰城するに至った。

「で、殿がわざわざ政務を全てほっぽり出されてまで会いに行かれたその男ですが」
「なんだ、バレておったのか」
「気づかないでおりましょうか」

 全く悪びれた様子のない主君に、はぁと荀彧は疲れた表情でぼやきつつ、

「それはさておき、本日ようやく返事を受けまして」
「そうか!」

 聞いた途端、曹操が勢いよく立ち上がる。
 それを最早動じた様子もなく見上げながら荀彧は、

「殿に是非お目通りを叶いたいと申しております」
「良かろう。いつだ?」
「今です」
「は?」

 乗り気で揚々と聞いていた曹操の様子が、はたと止まった。

「……今か?」
「ええ、今、です」

 王佐は厳かに、しかしどこか死んだような目で繰り返した。

「無礼は重々承知ですが……何分気紛れな男なものでして」
「うむ……まあすでに来てしまっている者を返すのも何だしな」

 唐突な展開に当惑しながらも曹操は顎髭を撫でつつ「会おう」と応じた。
 それを受けて荀彧は背後に目配せをする。

「ということだ。入れ」

 荀彧の言葉を合図に室に入ってきたその男を見て、曹操は唖然と口を開いた。

「お、お主……」
「お初にお目にかかります。郭嘉、字を奉孝と申します。曹操殿におかれましては、ご機嫌麗しく」

 飄然と名乗り、きちんと服を着こなした姿で拱手から顔を上げたその男は、曹操を見上げにやりと一つ笑った。




 謁見してのち、袁紹との戦いの見解や天下の事に議論を交わした曹操は、郭嘉のことを「俺に大事を完成させてくれるのは、間違いなくこの男だ」と大いに喜び、また郭嘉も「まこと私の主君だ」と言ったという。




「それにしても」

 蝉の声が響く明るい回廊を共に歩きながら、ふと曹操は思いついたように郭嘉を見た。

「お主、よくあの時に儂のことが分かったな」

 あのような格好をしていたのに、と不思議そうに訊く曹操へ、郭嘉は「それですか」と微笑んだ。

「文若殿から予め書簡を受け取っておりましたからね。あの人は貴方をよく存じてらっしゃる。『恐らく遠からずお忍びで会いに行くかも知れぬからよろしく』と、そう書かれておりましたよ」
「……」

 曹操は僅かに微妙な表情をつくった。さすが我が張子房、と呟きつつも複雑な気分は隠せない。

「だが、いくらなんでも所在までは判らなかったはずだろう」

 郭嘉は逡巡するように小首を傾げた。

「さぁ……まぁ、勘と申しますか」
「勘?」

 郭嘉自身、あの場所を通ったのは本当に偶然だった。常の散歩道を常のように歩いていれば、偶々あまり見ない人影に、意図せず目が行ったのだ。一見すればただの庶民の様相。しかし―――

「どれほど粗末な服を纏っていても、身から発せられる覇者の気は隠しようもありますまい」

 何と言う事もない、とばかりに返ってきた明快な答えに、曹操は心底感嘆し舌を巻いた。
 かつて曹操は己の貧相な容姿を厭い、風体の良い者を影武者に立てて己は従者の振りをして使者と謁見したことがあった。あの時の使者も本物の曹操を見抜き、今の郭嘉と似たような科白を吐いたのだ。見る者が見れば一目瞭然ということらしい。

「ときに殿」

 郭嘉は声の調子を変え、面白がるように口を開いた。

「獲物は、釣れましたかね?」

 その台詞に。
 曹操は肩越しに郭嘉を見返して一時瞬くと、すぐににやりと不遜な微笑を口元に刷いた。

「ああ。それもとびきりでかい奴が、な」

 その言葉に、郭嘉は「それは重畳」と、嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。

「しかし良かった。殿が私の仕官を受けてくださらなければ正直どうしようかと冷や冷やしておりました」

 一転してホッと胸を押さえる郭嘉に、曹操は意外そうながらもニヤニヤと揶揄した。

「何だ、なかなか殊勝なことを言うのう」

 しかし、郭嘉は目を伏せて首を振った。

「殿が万一にもこの嘉を登用せず、『逃がした魚はでかかった』などという大変不名誉な故事が殿の訓話つきで歴史に残るところだったかと思うと……。いやぁホント良かった良かった」

 爽やかな笑顔とともに、飄々とのたまわれた内容に曹操は即前言を撤回した。殊勝などととんでもない。
 こいつは、どえらい無法魚を釣ってしまったものだ。





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「誰にもつられない奔放な魚が川で一番大きくなる」は映画『BIG FISH』より(大好きなんだ…)




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