春四月の更夜。宮中に人気はすでになく、日々忙しなく行き交われる柱廊は各所に点された灯によって仄かに照らされ、ひっそりとした静寂に包まれている。
 そんな夜闇に打ち沈んだ宮殿の一角に、ひとつ密やかながらも明るい灯火が漏れる室があった。

「北の次は南だな」

 その室の主、曹操は左手に爵を掲げながら吟じるように嘯く。思いを遠く偉大な覇道に馳せ、声色深く滲むその一言に反応したのは、牀に危坐する主君の真向かいに対す荀彧だった。

「荊州の劉表―――それに、江東の孫家ですね」
「劉表の元にいる劉備も捨て置けないでしょう」

 言を次いだのは、荀彧と並んで床に踞坐する郭嘉である。結い髪は解いており、単袍に一枚羽織っただけの姿であるのは、今まさに床に就こうとしていたところに呼び出しがかかったためだ。人前、特に主君の御前であれば本来はきちんと長袍を髷を結うべきなのだが、当人はすっかり放置している。
 官吏は五日は府に泊り込みながら勤務し、一日だけ洗沐という名目で帰宅が許されているのだが、今日のように荀彧と郭嘉が同時に城内にいる時に曹操から唐突な酒盛りの誘いがかかるのはしばしばあることで、郭嘉にしても最早勝手知ったるものと着替えもせずにこうしているわけである。
 酒壺から酒精を酌みつつ、郭嘉は緩やかに主君を見上げる。

「劉備が孫家と手を組めば至極厄介なこととなりますな」
「その前に、孫家に降伏するよう圧力をかけるべきか」

 ふむ、と顎を撫でながら曹操は呟く。

「奴らにとって恐るるに足るものとは何だろうな」
「彼らの頼みはやはり屈指の水軍でしょうな」

 荀彧の言葉に、郭嘉も同意を示す。

「北馬南船とはよく言ったものです。北は陸上戦に強く、南は水上戦に長けている……足を馬から船に変えて戦うのは、我ら北の人間にとってそうそう容易なことではないでしょう」
「荊州は水軍を有しておる。まず治水池を開き練兵しつつ、荊州を先に降すというのはどうだ」

 ふと閃いた曹操の提案に、「そうですね……」と荀彧は爵に目を落としながら考え込む。

「即席の調練と、いくら水上戦に慣れているとはいえ併呑したばかりの荊州軍で、果たしてどこまでかの歴戦の強力な江東水軍に対せられるか……」

 はっきりとは言わないまでも暗に難色を示した荀彧の言葉に、頷く気配がある。

「私も文若殿の意見と同じです」

 二対の視線が向けられる。郭嘉は杯を眺めるように瞳を伏せながら言葉をつむいだ。

「いくら大きくとも、(つく)り物の池は所詮假り物。本物の―――それこそ大河とは全く勝手が異なる」

 若かりし頃に各地を転転と流浪していた郭嘉は、初めて眼前に広がる江水を見たときの情景を思い出す。黄河とはまた違う、果てしなくどこまでも続く茫漠たる水の塊。吹きつける風は微かに海潮が香り、体に纏わり付く。
 そこに広がる圧倒的な存在感に畏怖さえ覚えたものだった。
 回想を断ち切るように瞼を上げ、真っ直ぐに曹操を見る。

「海ほどでなくとも、河には様々な弊害があります。波風に加え、見た目からでは分かりませんが水面下では幾重にも異なる流れの層がある。常に凪いでいて変化に乏しい池でどれだけ練兵しようとも、実際の河川に出ればさして意味を為しません。荊州兵がどれだけ忠誠を尽くすかも分からぬ以上、頼みにできるのは従来の兵のみ。しかし……先程も申し上げたように騎馬に慣れた北の人間は、船に馴染んでいない」

 船は―――郭嘉は一呼吸置いて、ゆっくりと述べた。

「船は、揺れます」
「……ということは」

 呟く曹操に目語で頷き、続ける。

「湖水でも多少は揺れるでしょうが、流れのある分、河川はもっと揺れる。常より船上に慣れていない者は、まず間違いなく船酔いに悩まされます」

 実際、郭嘉も初めて船に乗り長江を下った時は、酷い吐き気に苛まれたものだ。

「船酔いか」

 曹操は難しげな表情を浮かべ目先を横に向ける。ピンとこないのかもしれない。
 笑い事ではなく、船酔いは深刻な問題である。酔いが酷ければ、それこそ戦いにならない。その上、船の戦いでは主に弓矢を多く用いることになる。揺れと酔いは、照準を合わせにくくなるばかりでなく、船の戦いに慣れた敵方から狙い撃ちになる。

「それに―――

 郭嘉はスッと双眸を眇める。

「最も恐るべきは、疫病」

 これに、曹操も荀彧もハッとして押し黙った。
 南には風土病がある―――これは以前から言われていたことだった。
 華北の人間には、元より南方の水土に対する免疫がない。

「今の私では、南に行けばきっと生きては還れぬでしょうね」
「奉孝、冗談でもそのようなことを申すのは許さぬ」

 冗談めかして言う郭嘉に、曹操が厳しい声音で窘める。
 しかし郭嘉はただ肩を竦めただけで、再び気を取り直すように表情を改めた。

「荊州の水軍を核にすることには賛同します。ですが、完全に荊州軍を取り込むことも考えて、充分に時をかけることが肝要かと存じます。決して焦らず、条件が整うまでは慎重に」

 いくら大軍であろうとも、付け焼刃な上、兵が一つに纏まらない状態では決して江東の軍に勝てない。
 天の時、地の利、人の和―――そう呟く郭嘉に、曹操は心得てるとばかりに頷いてみせる。

「しかしそう悠長に時間も掛けておれぬのもまた事実だ」

 遠征は時間が勝負である。同時に用兵には勢いが重要だ。荊州を下し、その士気が昂揚しているところで江東に攻め入るべきだと曹操は考えていた。
 士兵が勢いづいているところに出鼻を挫く形で一退し、そして火が静まったころに再び一進するといったようなことをすれば、士気の波を崩すことになりかねない。また遠征には莫大な軍資金が要る。往復の回数が多ければ多いほど、かかる費用も倍になる。それだけの金を、すでに乱世で疲弊しきっている民衆から更なる税として徴収するわけにはいかない。
 それだけではない―――曹操の頭には劉備一派のことがあった。時がかかればかかるほど、劉備に江東との盟約の機会、力を蓄える機会を与えてしまうのではないかという恐れ。
 それを口にすれば、ふと荀彧が顎に手を添えた。

「どうでしょうか。窮鼠猫を咬むとも申します。人もまた追い詰められればられるほど必死になるもの。しかし攻め入られるまでに時間があればあるほど、思考に余裕も出てきます。連戦敗軍の将である劉備と手を組むことが孫家一党にとり果たして利となるかどうか」
「だが、勢いのある大軍を前にした絶望と恐怖で、東呉側があっさり降伏することも考えられなくはないぞ」

 意見を述べあう主従を横目に、郭嘉はふと立ち上がった。談義に夢中の二人はそれを特に気に止めるそぶりもない。そのまま庭院を望むように移動する。
 入口際に凭れるようにして、軽く開け放たれた扉の向こうを眺める。
 闇に包まれた庭院から聞こえる風の音に耳を傾けながら、郭嘉はぽつりと言った。

「……私は、東呉は降伏しないと思います」

 ぴたりと会話が止まる。曹操は瞠目し、「何故そう思う?」とその背に問う。

「どれだけ大軍をもって(おど)したところで、果たしてあの江東勢がそうそう降伏など受け入れるかどうか」

 心中で江東の要である眉目秀麗な男を思い描く。浅からぬ友誼を交わしたかの鬼才を。
 彼は物静かな外見に反して、その実内面は誰よりも熱く、好戦的で、そして負けず嫌いだ。己にとって生き甲斐でもあり、身命すべてを奉げていた親友を失ってから、曹軍に対するそれはより強くなっているはず。孫策が率い、そして守ろうとした呉の地を、そうやすやすと最大の宿敵に明け渡すとは思えない。

「むしろ遅かれ早かれ、彼らは劉備と手を組むだろう、と思うのです」

 ならば―――どうせその二つを相手にするならば、万全を期すべきだ。
 曹操は腕を組み、思慮するように唸った。戦とは机上の論理だけではない。そこに宿る人間の心を読まなければ戦局を予想することはできない。
 人心の機微を知ってこそ、人の為す戦を知ることが出来る。

「少し慎重すぎるきらいもありますが……それくらいのほうが丁度良いかもしれません」

 事は最悪の状況を期して備えておくべきという荀彧の台詞に、曹操も肯く。

「そのときになってみれば状況もまた変わってくるであろうがな」

 そして二ッとばかりに笑顔を向ける。

「儂は有能な臣たちに恵まれて本当に幸せだ」
「何を突然……おだてたところで何もでませんよ」

 胡乱気な眼差しで言う荀彧の声は乾いている。曹操はむむ、と眉間を皺寄せ、

「別に他意はないぞ。ところでな……実は東呉になかなか見所ある人材がおるのだが」

 一転してうきうきと身を乗り出す主君に荀彧は額を押さえて「やっぱり」と溜息をついた。
 なんやかんやと言い合う主君と同僚を見やり、郭嘉は目を細めた。感情の凪いだ眼差しで見つめ、ふと微笑する。そして、そのまま静かに扉からするりと外へ出た。




「おい、お主はどう思う奉孝! ……奉孝?」

 無言のままの寵臣に意見を求め顔を上げた曹操は、そこにいたはずの姿が見当たらなくなっていることに、目を瞬かせた。
 扉の際に人影は無く、ただ春の涼風のみが物語らず漂っていた。




 覚束ぬ足取りで、暗い走廊を人の耳に晒されぬ所まで歩く。室の明かりからできるだけ遠ざかるように―――彼らの耳に届かぬところまで。
 突発的に込み上げてきたものが、耐え切れず堰き切ってあふれ出す。
 静まり返った廊に、激しく咳き込む音が絶え間なく響き渡った。
 蹌踉いた拍子に、柱へ手を突き損ねて肩からぶつかる。そのままズルズルと根元の方に沈み込んだ。地に片膝を付き、辛うじて欄干を掴みながら、身を折ってもう一方の手で口元を覆う。だがなおも咳は止まない。
 一度始まるとなかなか止まらなかった。吐き出せど吐き出せど、後から後から湧き上がる。我慢すればするだけ、酷くなっていくものらしい。
 呼吸もままならなず、ひゅうと喉を鳴らして苦しみながら、郭嘉はぼんやりと頭の隅でそう分析する。
 痰が絡んだような咳に、不穏な音が交じる。高覧に縋る指に力が入り、ギリ、と爪が食い込んだ。
 結っていない髪が肩から流れ落ち、影を作った。その間から汗が伝うのが見え隠れする。
 口元を押さえた拳に、唾とは異なるものが触れた。次々と込み上げてくる衝動を何とか押さえ込み、目を薄く開く。浅い気息に胸を上下させながら、当てていた手を見下ろした。
 汗に霞む視界に、燈明に照らされ赤黒く照るものが映った。

 ―――風邪(ふうじゃ)の気が肺にまで到っている。血を吐けば最早療養は余儀ない。さもなければ命に拘わるものと思え。

 耳の奥に名医の深い掠れ声を聞く。
 郭嘉は心中で舌打ちをし、瞼を伏せる。

 まだ早い、まだ―――

 指に、更に力が込もった。まだ肌寒さの残るひんやりとした大気に晒され、滲んだ汗が冷やされる。その感覚が心地よく、柱に凭れながら目を閉じてしばらくの間それを感じる。羽織っただけの深い青の袍が緩く靡いた。夜風は身体に悪いと分かってはいても、吹かれるのが好きだからやめられない。
 咳は収まったが、倦怠感が全身を押し包む。しかしこんなところでいつまでも蹲っているわけにはいかない。
 力の入らぬ膝を叱咤し、手をついて緩々と立ち上がる。
 柱を支えになんとか心身を落ち着かせて、喉の奥で再び蟠るそれを鎮めようとした。そこに。

「誰だ?」

 一瞬、呼吸が止まった。
 にわかに響いた声に、動揺する胸を押さえつけて肩越しに後ろを振り返る。
 視界に映ったのは、灯火を片手に警戒した表情を浮かべる隻眼の同胞。

「……奉孝?」

 頼りない明かりに曝されるなか、訝しげに眉根を寄せるのが見えた。
 まずい、と瞬間的に思う。
 サッと血の付いた左手をそれとなく袖の内に隠し、何気なさを装って微笑みかけた。

「なんだ、元譲殿か。脅かすなよ」
「それはこちらの台詞だ。こんなところで何をしている」

 依然怪訝な眼差しのままで、夏侯惇は近付いてきた。暗くてよかった、と心中で呟く。あともう少し明るければ、蒼白な顔色を見られたかもしれない。

「何、いつもの殿のお呼び出しさ。でももう眠いから室に戻ろうと思ってな」
「お主の室はこちら側ではないだろう」

 妙なところに鋭いな、と内心毒づいて、郭嘉は言った。

「少し遠回りをしようと思ったんだよ。風が気持ちいいから」

 それよりあんたこそなんでここに?と、自然に話題を変える。
 それに夏侯惇は至極あっさりと、

「見回りだ」
「そいつはご苦労なことだな」

 全く間がいいのか悪いのか。

(せめてもう少しあとに来れば良いものを―――

 まだ不完全に身体の奥に燻るものを感じながら、しかし努めて顔には出さぬようにして、郭嘉はこっそり嘆息した。

「こんなところでいつまでもフラフラせず早く室へ戻れ。春とはいえ、夜風は冷える。そんな薄着でいればまた体調を崩すぞ」
「まるで母親のような小五月蝿ささだな、元譲殿は」
「奉孝……お主な」

 誰と限らず常より口を酸っぱくして小言を呈する役どころの彼は、思えば根からの世話焼きなのだろう。心底可笑しそうに片目を眇め、からかい交じりに言えば怒ったような重低音が返ってくる。
 郭嘉は僅かに苦笑しながら肩を竦め、

「へいへい、言われずともすぐに帰る、よ……」

 しかし、最後の音は不覚にも掠れた。

「!」

 いきなり胸に走った鋭い激痛に平衡感覚を奪われる。

(チッ、こんな時に)

 なんとか気取られぬよう堪えるも、揺らぐ視界には逆らえなかった。
 俄かに傾いだ身体に、驚いたのは夏侯惇の方だ。

「おい!」

 只ならぬ様子を感じ取り燭台を置いて慌てて駆け寄る。地に蹲る薄い肩を掴み支えれば、郭嘉は思い出したように咳き込み始めた。

「どうした、大丈夫か!?」
「ぐっ」

 袷を掴み、必死に押さえ込もうと息を詰める。幸い先程とは違い小規模なものだったため、すぐに治まった。

「大、丈夫だ……」

 歯の隙間から搾り出すようにして、切れ切れに言う。
 しかし口端を僅かに汚したその色を目にして夏侯惇の顔色が変わった。

「お前、これは……!」
「騒ぐなよ。何でもない」

 折角血の付着した手を隠したのに、これでは意味がなかったな、などとどうでもよいことをおぼろげに思いながら、郭嘉は口許を袖口で拭う。そして己の肩を掴む腕をやんわりと押しやった。

「何でもないわけがあるか!」

 夏侯惇は怒鳴るように言い吐き、急いた様子ですぐさま身を上げて方向を返そうとする。

「孟徳に―――
「言うな!!」

 驚くほど鋭く大きな声音が闇を裂き、燈明を震わせた。
 ビリッと空気が痺れるかのような錯覚すら感じ、夏侯惇は思わずその場に留まって郭嘉を見下ろす。

「殿には絶対に言うな!」

 再び押し殺した声音で郭嘉が強く言う。

「だが―――
「もし言ったら、俺はあんたを一生許さない」

 苦しげに喘ぐ息の下、その双眸だけがいつになく壮烈な輝きを放ち、夏侯惇を鋭利に見据えていた。
 鬼気すら感じさせるその迫力に気圧され、夏侯惇は思わず息を呑む。
 だが、張り詰めた緊張を解くように郭嘉はふと気を和らげた。

「心配するな。そんなに重い病じゃない」
「馬鹿な。血を吐いていて重くないなどと」
「ただの肺風さ……まだ少陽だ」

 治らぬものではない、と呟く郭嘉に、夏侯惇は苦々しげな息を吐いた。

「肺風はただの病ではなかろう」
「安静にしていれば治る」
「そう簡単なものか!」
「大丈夫だ。一応華佗先生に診てもらっている」
「孟徳には内緒でか」
「華佗先生は患者個人の希望を優先してくれるのさ」
「……」

 渋面を作って押し黙る年長の将軍に、郭嘉は微笑んでみせた。

「だからあんたも、黙っててくれよ」

 頼むと静かに嘆願する相手に、夏侯惇は、無理だ、と漏らす。

「黙っていることなどできん」
「元譲殿」
「無理だ」

 元譲殿、と再び囁きかける声に、視線を逸らし「できぬ」と繰り返した。

「元譲殿!」
「無理なものは無理だ! 俺には―――
「北へ行きたいんだ」

 不意にはっきりと告げられたその一言に、夏侯惇の言葉が止まる。
 ハッとして視線を向けた。

「北へ、行きたいんだ」

 噛み締めるように、今度はゆっくり繰り返す。
 そう懇願する郭嘉の表情には、いつもの飄然とした色も人を食った光もなく、どこまでも真剣なものだった。
 北が何を指すのか、夏侯惇には分かっていた。今朝軍議で郭嘉が進言した内容―――北方烏丸族の地に逃げた袁紹の息子達を討伐するというもの。並み居る参謀たちが揃って反対する中、郭嘉だけが北伐を献言した。

「俺は今回の北伐に賭けている。これが成功すれば、殿の覇道の大きな一歩となるはずだ」

 必死な眼差しで言い募る郭嘉に、しかし夏侯惇は難色を示した。

「だがそのような身を圧して強行な遠征をすれば……しかも相手は極寒の地におるのだぞ」
「恐らく生きては戻れぬだろうな」

 郭嘉は自嘲気味に笑みを刷く。

「ならば!」
「俺は永くは無いと思う」

 唐突な告白に、夏侯惇は絶句して目を剥く。
 郭嘉は静かな面持ちで、しかしはっきりと言葉を紡いだ。

「今回の肺風のことだけじゃない。分かるんだ。この身の奥に巣食う病の虫がいて、それがやがて身体を内から食い潰す。もともと、医者からは二十歳を超えられぬと言われていた身体だ」

 それが、と郭嘉は笑う。

「それが、ここまで来れた。三十まで生きられれば僥倖と思っていたのが、これだけでも褒賞ものだ。そしてそれはひとえに、生き甲斐を与えてくれた殿のおかげだ」

 嬉しそうに語るその男を、夏侯惇は言葉失ないながら見つめた。

「殿に会って、夢を見れた。夢をともに追うことができた。殿がその場所をくれたんだ。たとえ北を留まろうと、南に行けば同じ。生きては帰れまいよ。どうせそうならば、僅かに生を永らえるよりも、最後までこの身を殿の覇道の為に尽くしたい」

 立ち止まるより、いっそ駆けて、駆け抜けて、最後まで―――
 笑ってそう告げる郭嘉の面は、今まで見た中で最も輝いて、晴れ晴れとしていた。
 薄闇なのに、それだけははっきりと見て取ることができた夏侯惇は、声を失くして、痛々しげに目を背けた。耐えられなかった。このまま見続けていると、押さえ込もうとしている波が溢れ出しそうだったから。
 でも、彼にもわかっていた。もうこれ以上かける言葉はないのだ。引き留める法などない。郭嘉はすでに覚悟を決めていた。
 この男の一世一代の嘘と、一生に一度の歎願を、拒絶するわけにはいかないのだ。同じく戦場に生きる将として、その決意が分かるからこそ。
 ただ一言、苦い思いを乗せて問う。

「孟徳には、言わずに征くのか」
「いいんだ。殿にはいつだって前を見ていて欲しいから」

 郭嘉は淡笑を唇に刷く。それがどれだけ残酷なことか分かっている。あの曹操が後になって後ろを振り返らぬはずが無いのに。
 それでも。
 夏侯惇は片側しかない目を閉じ、喉の奥から搾り出すように、息を吐いた。

「どこまでも我儘な奴だ」

 我儘で傲慢で身勝手だ。人の気も知らず。
 いっそ忌々しげとも思えるほどの呟きに、「ああ、そうだな」と郭嘉はやはり微笑で返した。

「お主ほどの大馬鹿者はついぞ知らぬ」
「ああ」
「全く、本当に……」
「元譲殿」
「なんだ」
「ありがとう」


 ごめんな―――……




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