我欲我願




 荘厳な風格漂う宗廟。
 厳粛さに満ちる朝議の間。
 豪奢で彩りも豊かな宴の広間。
 陽光注ぐ長い回廊に、夜には月が美しく映える庭園。
 使い古した執務室に、整然と片された竹簡や書物。
 どれも常と変わらない、見慣れた風景だ。
 ただひとつを除いては――――




「陳羣殿」

 何度目かの呼びかけで、ようやく陳羣は気づいて目を瞬いた。
 頬杖から顎を上げれば、丞相文学掾の司馬懿が、冊を抱え困った表情を浮かべてこちらを見下ろしていた。

「ああ、司馬仲達殿」

 頬に微笑を浮かべて名を呼べば、司馬懿はホッとしたように肩の力を抜く。それでもいささか躊躇いがちに、木簡を綴って巻いた冊書を差し出してきた。

「丞相からの諮問書を預かって参ったのですが」
「ああ、それはご苦労様です」

 言いながらそれを受け取る。恐らく次の戦についての議案だろう。
 司馬懿も大変だな、と半ば同情めいた気持ちが浮かぶ。彼は丞相文学掾という立場上、曹操の側について文書を起草する傍ら、嫡子である曹丕の家庭教師も担っている。このような運搬係のようなことまでさせられているとなると、相当にこき使われている様子が窺えた。
 緩慢な動作で紐を解き開き、簡に記された文字を追いながら、そういえば自分は参丞相軍事なのだったと己の置かれた役職を再認識する。参謀軍務とはまた面倒な仕事だな、と今更ながらに苦笑を滲ませた。

(治書侍御史として城中を駆けずり回っていたのが、まるで遠い日のことのようだ)

 そう、あの頃が。

(内政専門のはずの私が、今や軍師めいた仕事をしているとは)

 それほど彼の死が、あの方にとって大きかったということだろうか。いや、それは深読みのしすぎだろうと内心で首を振る。丞相のまわりにはまだまだ有能な参謀たちがいるのだから。

「あの……長文殿?」

 冊を開いたきり黙りこんだ陳羣を訝り、司馬懿が今度は字で呼んだ。彼は公的な場ではあまり字で人を呼ばないのだが、いつにない陳羣の様子があまりに不審に見えたのだろう。
 はた、として、慌てて笑顔をつくる。

「ああ。すみません、少しぼうとして」

 恐らく曹操にその場で答申書をもらって来るように言われているのだろう。申し訳なさそうな司馬懿の態度から何となくそのあたりを推察した。
 さっと文書に目を通し、的確に言えるところだけは心のままに記して、その他は当たり障りの無い答えを書いた。どちらにしろ専門でない自分が建言できることは少ない。どうせ曹操のところへ行く前に一度荀彧が目を通すだろうから、問題があれば適当に補ってくれるだろう。
 書きながら、思いを馳せる。
 公府の端から端まで走るようなことは今やない。怒りに声を張り上げることもなくなった。
 だが、今でもふとした瞬間にあの声がするのではないかと思う。
 「よう」と笑いながら、そこの回廊からひょっこりと顔を覗かせるのではないか。あの独特の笑みを浮かべて。
 執務室に行けばあのだらしの無い格好で寛いでいるのではないか。宮殿を隅々まで回れば、こっそりさぼっている姿を見つけられるのではないか。
 どれもこれも、虚しい幻想だ。
 自分の日常から、当たり前のようにいた人が一人いなくなるというのは、こういうことなのだ。
 喪失感が大きいほど、その存在の自分を占めていた大きさを知る。
 いつもと思っていたいつもが変わってしまう。いつもではなくなる。
 何かが足りない。心にどこか穴が開いてしまったかのように。
 ――――欠けてしまった破片は、もう戻りはしない。 

(そして私は治書侍御史でなくなり、今は参丞相軍事になったんですよ)

 心の中で語りかける。彼ならば、出世したな、とでも笑うだろうか。
 気がつけば、時はどんどん過ぎ去ってゆく。それでも、日常は変わらずにやってくる。
 何かを喪失した、足りない日常が。




 陳羣は筆を置きかけふと思い立ち、最後の行にひとつ書き足した。
 今日ならば、これくらいのお遊びも許されるだろう。

「お待たせしました。ではこれを荀令君の所までお願いします」

 墨が乾くのを待ってから冊を巻き直し、立ち尽くしていた司馬懿に渡す。
 未だに心配げな表情を浮かべる年下の同僚に、陳羣はいつも通りの落ち着いた笑顔をもう一度見せた。
 ようやく安堵したらしい司馬懿が恭しく冊書を受け取り拱手した。

「お手数をお掛けしました」
「よろしくお願いします」

 言うなり、陳羣はおもむろに机から腰を上げ、司馬懿の横を通り過ぎて室の扉から表へ出た。

「長文殿、一体どちらへ……」

 突然のことに呆気に取られた司馬懿が条件反射で陳羣を追い、回廊を去る背に問いかける。
 陳羣は一度だけ足を止め、肩越しに振り返って言った。

「今日はお天気もいいのでサボってきます。丞相によろしく」

 笑顔で一言。
 そう言い残すと、堂々と表門の方に歩き去って行った。
 品行方正、生真面目が服を着て歩いていると評判の、あの陳羣から出たとは到底思えない台詞。
 ひとりあとに残された司馬懿は依然呆けたまま、ぼんやりと腕に抱えた冊書の重みを感じていた。
 そして、ふと気づく。屋根の下から燦々と日の照る青空を見上げ、ぽつりと零した。

「ああ。そうか今日は……」




 司馬懿から文書を受け取った荀彧は、文面を開くなり苦笑し、司馬懿が何か言う前に事情を察した。
 荀彧は、この日が近付くと陳羣が決まって気が沈み込むことを知っていた。

「幾分静かになったな、この城も」

 人が一人いなくなっただけで、実際にそう変わらないはずだ。なのに耳に馴染んでいた笑い声がないだけで、静かだと思う。不思議なものだ。
 首を傾げる司馬懿にただ笑み返し、特に添削の必要なしと判断した答申書を渡し戻た。

「ああ、司馬仲達殿」

 冊書を抱え直して荀彧の執務室を辞そうとした司馬懿は、そのまま室の主に呼び止められた。

「はい、何か」
「それは殿の室へ持って行かずともよい」
「は?」

 手に持っている冊書を指差して忠言する荀彧に、司馬懿は疑問符を浮かべた。その意を量りかねて、思わず素っ頓狂な声を上げる。

「今行っても、どうせ殿はおらぬ」

 荀彧は意味深にそう微笑した。
 はて、と司馬懿は首を傾げる。それは妙だ。朝議にはいたし、現に先程まで自分に冊書を持って行かせたりとこき使っていたというのに、一体何処へ。
 始終怪訝そうに眉を顰めている司馬懿に、同じ室内で仕事をしていた荀攸が、柔和ながらも苦い笑いを浮かべていた。
 その日何故か突如消えてしまった参丞相軍事については特に不問となり、また城郭のある一部への立ち入りを禁ずる臨時の命令が荀彧名義で出された。




 参丞相軍事だけに留まらず、丞相の姿まで消えて騒然となりかけたその日の夜。
 日はとうに落ち、すっかり暗くなった城壁に、一つの人影があった。
 曹操は、女牆の上で胡坐をかきながら城下を眺めていた。傍らに酒の瓶子と三つの杯が置いている。
 衛兵の姿は今はいなく、灯火もない。月明かりに照らされているのは曹操だけだ。
 そのことを特に気に留めずただ天を仰ぐ。月天心。雲がかかるともなしにかかり、銀光が淡く雲層の陰影を描き出している。
 星が見えないのが残念であるが、このような空模様も故人の弔いにはまたいいだろう。
 そのようなことを思っていれば、不意に背後で気配が揺れた。

「殿、やはりここにおられましたか」
「おお文若、遅かったな」

 やれやれと言わんばかりの口調で現われたのは、荀彧である。
 だが曹操は待っていたというように、嬉々と己の隣の牆を示した。座れということらしい。
 そこにはすでに杯が置かれていた。荀彧は溜息をつくとともに、感心もした。自分が曹操の場所を的確に予想したのと同じように、恐らく自分が来るだろうことを彼の英雄はしっかり確信していたのだ。

「遅かった、とは大層なお言葉で。突然断りも無く雲隠れなさった誰か様の政務を僭越ながら肩代わりしておりましたゆえ」

 慇懃無礼な棘を含む言いように、曹操はぐっと言葉に詰まる。

「……さすが我が張子房」
「褒めても何もでません」
「素直に喜ばんかコラ」
「あいにく、元からこのような顔でございますれば」

 「弔問によろしい憂い顔」と言われたことを未だに根に持っているらしい。曹操はむむっと眉根を寄せた。
 その横に、荀彧は涼しい顔で腰をかける。城壁の下を覗き込めば、夜なだけあってかいくらか高く見える。
 あるいは、見えぬ足元と天上が相まって、己が空中に放り出されたかのような。あの男も、常に風の中にあってこのように感じていたのだろうか。

「これは、お前の計らいだな」

 それが衛兵のことを指しているのに気づいた荀彧は、嘆息気味に肯いた。
 荀彧は、ここが今は亡き彼のお気に入りの場所であったことを知っていた。そして主君が毎年この場で故人を偲んでいるのも。

「今年で五年目か……時が過ぎるのは早いものだ」
「かように思うのは、年をとった証拠ですな」
「確かに互いに年を食った」
「ご冗談を。私は殿より七つ若くございますので、まだまだです」
「……お前、今日はいつになく毒舌ではないか?」
「気のせいでございましょう」

 けろりと答え、荀彧は注がれた酒杯を恭しく掲げる。
 曹操も同様にして、そして同時に杯を降った。
 上空に舞った酒精の露は、きらきらと月光に輝きながら、あっという間に城下に降り注ぐ。
 一瞬、そこに星空が生まれたようだった。

「亡き軍師祭酒に」

 『祭酒』の由名に相応しい弔い方で。
 心の中で故人の冥福を祈りながら献杯し、口をつけた。

「これは、また極上の美酒でございますな」

 一口含んで、荀彧は感嘆とともに息を吐いた。
 曹操が自慢気に口端を上げる。

「おう。毎年この日のためだけに出す我が秘蔵の酒だ。あやつは酒の味にはうるさかったからな」

 湿気た弔い花などよりもこちらのほうがよかろう、と嘯く声に、確かにと荀彧も微苦笑を浮かべる。
 酒を愛し、女を愛し、刹那を愛して、戦場に身を置くことを何よりもすべてとした。鮮烈なまでの生を謳歌した彼には、花などという儚くたおやかなものよりも、こういった俗で粋なものの方がその魂を偲ぶにも相応しい。

――――奉孝がな、かつてこんな事を言っていた」

 不意に呟かれた言葉に、荀彧は首を向けた。
 曹操はどこか遠くを眺めたまま――しかしその双眸は茫洋たるものでなく、むしろ常以上に冴えて強い眼光を放っていた。

「人は、何で成っていると考えるか、と――――




「人とは何によって成っていると思われますか?」
「ん?」

 空になった杯に柄杓で汲んだ酒を注ぎながら、おもむろに飛び出た問い。
 曹操はむっと眉を寄せて、発言者を見た。一見険しいような厳しいような微妙なこの顔つきは、曹操特有の「訝しげ」な表情である。
 二人は城郭の一番頂点、郭嘉の最も好むこの場所で酒を酌み交わしていた。普段なら夜風は身体に障るだの何だの言って曹操が室内に連れ戻すのだが、今回だけは何故か郭嘉の強い希望でここでの酒盛りになったのだ。
 そして確か今の今まで全く他愛の無い話をしていた筈だったが、郭嘉は唐突にそんな問いを口にした。こうした気紛れな問いかけはむしろ曹操の得意芸であったが、今回は立場が逆だった。
 一旦卓に落ち着いた瓶子の柄杓を手に取り、曹操の杯に同じように注ぎ入れながら、郭嘉は言った。

「先程殿は、国の本は人だと仰いましたな」
「ああ、確かにそうだったが」

 少し前の会話を思い返して頷きながら、曹操は相手の次の言葉を待つ。
 郭嘉は杯をひと嘗めし、

「それでは、その人を人たらしめるものは何とお考えになるかと思って」
「人か」
「ええ。何に拠って立ち、何を以って動くのか、と」
「ふむ……」

 曹操は顎を撫でた。相手を鋭い眼光で見据え、にやりと不敵に笑って己の心の臓のある辺りを親指で指し示す。

「それは、(シン)だな」
(シン)、ですか」
「そうだ。人は心がなければ動かん。欲望も願いも希望も野心も、すべては心あってこそ。逆に心がなければ真っ直ぐに立つことも己が道を歩むこともままならぬ。それはただの木偶だ。人は心によって成る。心が命じるがゆえに己があり、生きようとする」

 曹操はただ力強く断言した。無論これは答えのある問いではない。人が十いれば十通りの答えがあるだろう。しかし曹操は気にしない。ただ己の信ずるものこそが正しいと信じ、言い切る。
 「こころ」ではなく「シン」と謂う微細なこだわりに曹操らしさと真意を感じ、郭嘉は微笑した。(シン)(こころ)。そして芯。芯がなければ人は立たない。心が命じなければ人は動かない。まさに曹操らしい言葉遊びだ。

「では、曹孟徳の心は曹孟徳に何と命じていますか?」
「ただ一言。天下のみよ」

 にっと笑って言い、二人で顔を突き合わせて大笑した。
 風が吹く。笑声が風に乗り、大空に舞い広がるような錯覚を抱いた。

「そういうお前は何だと思うのだ」
「私ですか?」

 郭嘉は依然笑み止まぬまま、己を指差した。

「そうだ。お前は何が人を人たらしめていると考える?」

 曹操からの問い返しに、郭嘉は笑んだまま一呼吸置く。
 そして手を己の胸に当て、顔を伏せるように双眸を伏せた。

「そうですね。私は、天であると考えます」
「天、か」

 曹操は呟く。

「人は誰しも己の中に天を持つ。皆が皆、己が内にある天の帝です。天があって国があるように、己が天があって己がある。天命によって国を動かすのが天子であるように、人もまた己という天帝の命ずるままに動く。国を保つためにあるのが法であるように、己が天を保つために己の法を作り、それによって己の道を定める」

 そして、天に昼夜朝夕があって一様でないように、人にも光と同時に闇がある。

「面白い考え方だな」

 曹操は楽しげに囁いた。

「郭奉孝の天はお前に何を命ずる?」
「私が惚れた主君の天意を現にせよと」

 傍若無人たる笑みを刷いて、郭嘉は言い切った。

「では、我が天は現となれるか」
「当然。殿の側にこの私がいるかぎり、必定です」

 再び、笑い合う。
 信じていた。信じていたのだ。それは、常に側にあるものだと。
 まさか己の側からその存在がなくなることなどないと。




「あの時は疑いもしなかったのだが、な」

 曹操は自嘲気味にそう呟き、酒杯を傾けた。今では、むしろなくなって久しい。

「天ですか……あやつらしい考えですな」

 曹操の話を聞き終え、荀彧が素直な感想を漏らす。
 全く、本当に彼らしい。傍若無人で、儒の重んじるような目上への礼節などそっちのけ。己の信ずるもののために、己が欲するままに、ただ生きた。
 だが彼の天は死してなお消えることはない。

「天子は死しても、あの者の天意は我らの中に少しずつ残っております」
「そうだな」

 曹操は笑う。そして思い出す。彼が最期に残した(しん)
 最後の献策とは別に、もう一つ残していた手紙(ことば)を。

「奴の最後の信にはな、ただ一言こう書かれておったよ」

 『天』と。
 荀彧も微笑む。本当に、最後まで彼は憎らしいくらい彼であった。

「そういえば、長文がこれを」

 言いながら、袖内に隠していた冊を取り出し、曹操に渡す。

「ん? なんだこれは。今朝儂が出した諮問文の答申じゃないか」
「その最後の行をご覧下さい」
「何?」

 曹操は言われたとおり、几帳面さの滲む文面の最後尾を目で追った。
 するとそこには。

『十里の外城 風に消え
 数えて五つ目の月 天に昇る
 今この時を以って 我欲し 故に我願う
 古人の習いに従い 以ってこれを奉らん』

 一見意味の分からぬ文言。しかし曹操にはそのからくりがすぐに察せた。
 決して美しい音律でも、洒落た言い回しでもない。法則も韻もめちゃくちゃだ。詩の美観から言えば到底良いものとは言えないが、それでも陳羣の率直さが現われている好ましいものだった。

「今日くらいは、天帝も政務をお休みになっておりますよ」

 冗談めいた荀彧の言い回しに、曹操は「そう願おう」と笑い、天に向かって杯を掲げた。




 足りない日常。戻らぬ破片。
 それでも、移り、変わり続ける時。
 だが、変わらず息づいているものも、確かに在る。
 そこに、ここに。

 我欲す我願う、我が天故に。




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