「しつこい!」 「ゲフッ!」 字 綺麗に拳が決まった急所を抱えながら、七奇は何とか前を行く背に追いすがった。 全く、相手はまだ十六だというのに、相変わらず容赦なしの一発である(ちょっと昼間に食べたものが逆流しかけた)。 いてて、と呻きながら、振り絞って声をかける。 「し、師兄……」 「懲りない奴だな」 ようやく立ち止まった四奇が振り返って眉を顰める。七奇も助かったとばかりに足を止めた。ふと気づけばすでに四奇の房間の前。 あちらこちら回り道して七奇が諦めるのを待っていたが、いい加減競歩にも飽きた四奇は、真っ直ぐ自室に戻ってきたのだった。 ため息混じりに、四奇が七奇を睥睨する。 「大体なんだってそんな投壷ごときに拘るんだ」 「いや、拘るというか」 観戦してた六奇が「老四のあれはイカサマだよー」と言うまでは全く気づかなかった。 七奇としては、ただの矢投げでどうやってイカサマできるのか、そのタネが知りたいといえば知りたいが。 「何でもいいが、俺はこれから勉強するんだ。邪魔するな」 「……べんきょう!?」 予想外の人物から、未だかつて訊いたこともない発言が出たことに、七奇は大きく目を剥いた。思わず驚愕の声を上げる。懐の痛みも一瞬で忘れた。 四奇はますます眉間を皺寄せた。 「お前、何気に超失礼なやつだな。俺だって勉強くらいするわ」 「あ、いやその……す、すみません」 あまりにも似合わなくてとか、今日は火の粉が降ってくるかもしれませんねという言葉はあえて喉の奥に押し込める。しかし、てっきり一度読んだ内容は忘れないとか、でなければ睡眠学習だとばかり思っていた。 「別に拘ってないですけど、約束が違います」 「約束?」 「イカサマなしの真剣勝負って言ったじゃないですか」 「覚えてないな」 いけしゃあしゃあとすっとぼける四奇へ、七奇は詰め寄った。 「言いました! しかもあそこで老四がズルしなければ俺の勝ちだったんです!」 「んなことは知らん」 口約束など破ってなんぼ。最終的に負けたほうが悪いというのがこの兄弟子の言い分だった。四奇の部屋の前でしばらく押し問答が続く。 「大体賭けが」 「賭け? ああそうだ、『負けた方が貴方の奴隷になります』だっけか」 途端、意気揚々と「じゃああっちいけ。今すぐ消えろ。半径一尺以内に近づくな。ついでに菓子買ってこいポチ」と無茶苦茶な命令を出してくる。すかさず七奇は抗議した。 「『相手の願い事を一つ聞く』です! ていうか師兄はイカサマしたんですから反則負けですよ。約束守ってください」 「イ・ヤ」 即答だった。そのまま背を向けて、さっさと戸を開いて中に入ろうとする。 間髪入れぬ見事なまでの拒否に一瞬挫けそうになった七奇は、扉が閉められる前に慌てて手を伸ばす。 「じゃあ一戦は諦めますから! 代わりに願い一つ聞いてください」 「はぁ?」 何で俺がと言わんばかりの眼差しが肩越しに投げかけられる。考えれば向こうは遥かに年上で、口舌も腕力も強い。 今更ながら怯みそうになるのを堪え、七奇は相手に意見を言わせる前に、単刀直入に告げた。 「字を考えて欲しいんです」 「あざなァ?」 いよいよ胡乱気に四奇の双眸が眇められる。 七奇にはまだ字がない。それは成人していないからなのだが、それを四奇につけてもらいたいのだと言う。 室内に入りかけの状態で、四奇はしばし逡巡した。それから、ニヤリと口角を上げる。 「いいぜ」 「ホントですか!?」 まさか二つ返事をもらえると思っていなかった七奇は、意外な返答に驚きつつも、パッと顔を輝かせた。 妙に鮮やかな微笑を浮かべた四奇は、満面に期待を込める七奇を見やり、一言、言った。 「お前の字はな―――『阿房』だ」 同時にバタン!と勢いよく扉が閉まる。 静寂が戻る。七奇はしばらくその場で呆けていた。 それからようやく我に帰り、動揺するまま目前で閉まった戸を開き、室内に飛び込んだ。 「そりゃないですよ!」 というかこれではむしろ幼名に逆戻りしてしまうのでは。 「なんだよ煩いな」 四奇は窓際の卓の前に座していた。卓の上には木の冊書が開かれている。その目は木簡の上から離れることはなく、口だけは応答しているものの、闖入してきた七奇の方を見向きもしない。 本当に勉強している……妙に拍子抜けした七奇は、途端になんだか疲労感を感じ、大きく肩を落とした。そのままスゴスゴと卓の傍の長榻に座り込む。 「―――おい、ナニさも当然のように座ってるんだ」 「師兄がまともに考えてくれないからですよ……」 両手で頬杖をついて憮然と答える。こっちは本当に真剣なのだ。 「俺のせいかよ」 真面目につけるまでは頑として動く気はないという気配に、四奇は小さく舌打ちをした。 だが聞く耳を持つ気もないようで、完全に無視を決め込む。 室内はにわかにシンとなった。どちらも口を開かず、ただ時間のみがゆっくり過ぎてゆく。 暮れかけの外から入る光が、柔らかく房間を照らしていた。放たれた窓から時折入り込む夕風が、静かに空気を揺らす。 仄暗い室内で、窓辺にある卓と長椅子の周りだけは、少し明るかった。 緩んだ空気に半分眠気を誘われながら、七奇はぼんやりと窓の外を眺めやる。上げた蔀の向こうの木の枝で、親烏が巣の雛に餌を与えている。 「……老四の字は、奉孝でしたっけ」 ぽつりと、唐突な問いが口をついて出る。 卓に向かっていた四奇が、ちらりと一瞥した。 「そうだけど、何か?」 すぐさま目線を戻し、淡々と答える。 「どうやって決めたんですか?」 「さぁな」 「『さぁ』って」 困惑する七奇に四奇は茫洋とした調子で、 「別に。親が自分の死ぬ前に決めてたらしいし」 由来なんて興味ないと呟く。 「お前こそ、なんでまた急に字が欲しいだなんて言い出したんだ」 「何となく」 「何だそれは。大体まだお前二十になってないだろ」 呆れたように四奇は弟弟子を見やった。 一般的に男の場合、字は二十になり加冠に達してから貰うものだ。 七奇はそ知らぬ顔でそっぽを向く。 きっかけは、実は先日加冠したばかりの五奇だった。 『「公瑾」か。良い字を貰ったな』 と言って二奇が笑い、 『瑾瑜美玉なり、か。老五にはピッタリだな』 と言って三奇が肩を叩き、 『公瑾公瑾』 と言って四奇が頭を撫でる。 などなど、師兄たちからちやほやされながら貰ったばかりの字を呼んでもらっていたのが羨まくなった―――などとは口が裂けてもいえない。 七奇が五奇に対抗意識を燃やすのは今に始まったことではない、というか最早他の師兄弟から恒例行事とさえ思われているのだが、気づいておらぬのは本人だけだ。 「もう十六です。女なら十分一人前じゃないですか。ていうか女の方が成人が早いっていう道理もよく分かりません」 「女の方が肉体的にも精神的にも成熟が早いからだろ」 実に単純明快な答えだ。それでも七奇は納得しない。 「でも、別に成人前に字をつけてはいけないっていう決まりもないでしょう?」 「そらそうだが」 「だからこうしていい案がないかお伺いしてるんです」 「自分の叔父上に頼みなさい」 あとは老師にとか、と四奇は投げやりに返した。 「師兄に考えてもらいたいんです」 真面目に取り合ってくれない相手にもへこたれず、七奇は憮然とした口調になって主張した。 何なんだ一体、訳が分からない―――四奇は無言で眉根を寄せる。 このままだと居座るだけにとどまらずしつこく延々と強請ってきて到底勉強にならなそうだと判じ、仕方なさそうに深くため息を吐いた。 「そこの『説文』取って来い」 俯きがちだった七奇の顔が上がりパッと輝く。返事するやいなや彼はいそいそと対面の壁に設置されている書棚に向かった。巻になった冊書の大群の中から『説文解字』の表書きをいくつか見つける。 「左の二巻分でいい」 言われたとおりに、説文と表された冊書のうち、左側に並んだ二つを選んで、とって返す。 それを四奇に手渡した後、七奇は再び長榻に戻って、大人しく待った。黙って、字書を手繰る四奇の手元を見守る。 頬杖をつきながら、やる気なさそうに文面を辿っていた四奇は、ある部分で指を留めた。 「『亮、明也』……」 目線を落としたまま、そこに書かれた一文を独り言のように小さく読む。しばらくそのまま考え込むように黙視し、ふと目を上げた。 筆を取り蔡侯紙を取り出して、その上にサラサラと何かを書く。 と、いきなりそれをぐしゃっと丸め、なんと窓の外に思い切り放り投げた。 「あー!」 期待を込めていた分、信じれらない光景に七奇は腰を上げる。 「ほーれほれ、拾って来い」 ニヤニヤと笑む四奇を背に、慌てて表に飛び出す。外に回り、丁度窓から投げた方角あたりを探す。外はすっかり夕色に染まっていた。 そう時をかけずして、枯葉の中に埋まる白い紙の塊を発見した。 気が急くままにそれを広げれば、中には墨で二文字。 『馬鹿』 目が点になった。 はっとして振り向けば、室の窓から四奇が大爆笑している姿が見える。 途端全身から力が抜け、七奇はがくりと項垂れた。 (あの師兄がそう簡単に考えてくれるはずがなかった……) 分かっているのに簡単に手の上で踊らされている自分に涙が出そうだ。 それでもめげてはいられぬと、紙を握り締め急いで房間に戻る。回廊をバタバタと駆け、扉を思い切り開いた。 「師兄、これは―――うぎゃ!」 勢いのまま室内に足を踏み入れた七奇の額に、ベシッと何かが思い切り当った。かなり痛い。 「よう阿房」 扉の内側のすぐ横で、四奇が壁に背を預けて立っていた。埋伏の上デコに一発お見舞いした犯人は、楽しげに微笑を浮かべている。 「ひ、ひどいですよ……って、あれ?」 涙をこらえて額を抑えようとすれば、何かが張りついていたのか、不意に白いものがハラリと落ちてきた。手にとって見ると、それはまた一枚の紙。 そこに記されたものに、七奇は大きく眼を開く。 「これ」 「亮は明なり―――ま、妥当だろ」 四奇は軽い口調でそう返し、やれやれと肩をすくめた。 「ものの数時で考えただけだからな。言っとくが適当だぞ」 「構いません。凄く気に入りました。ありがとうございます」 七奇は再び手のうちの紙に目を向ける。そして、嬉しそうに笑った。 白い紙面に記された墨字。そこにはこう記されている。 『孔いに明なり』と―――。 |