この道行かば行け 偽ることなかれ
臆すれば道なし 踏み出せば道になる
道心。
愚かな師弟。
お前は己のやったことの重さを知らない。
熱い。
身体の内に、燃えるような熱泥が渦を巻いている。かと思えば外から、皮膚がひりつくように寒かった。
意識が朦朧としている。ひどくけだるい。それ以上に頭が不快に軋んだ。眼窩の奥底に鉛でも溜まっているような、独特の頭重感。
熱に浮かされるなか、まどろんでは色々な夢を見た。ふと目覚めれば泡沫のごとく霧散してしまうのに、落ちるように眠れば再び洪水のように襲ってくる。―――支離滅裂で意味を持たない夢の欠片たち。
何度も起きて、何度も眠る。それを何度も繰り返し、やがて起きているのか寝ているのかすら定かではなくなっていく。
その現と夢の合間で、現なのか夢なのか分からなくなるほど、幾度も鮮烈に蘇る映像。
雨と雷。轟音と雷光に閃く影。妖の皮を被った刺客。司馬家。
赤松子。神行の術。―――老七。
目前にある顔。狭く切り取られた暗い視界に、人の輪郭がぼんやりと浮かぶ。
「華大夫……?」
馴染みの鍼医の名を口にするが、彼は答えない。―――これはまだまどろみの中なのだろうか。
外はもう暗いのか。あたりに目立った明かりはなく、その人影を照らすのは背後からの淡やかな光のみ。
茫洋と浮かぶ顔は、水中から覗くように朧で判然としない。しかし彼には不思議と分かった。その人物が誰なのかも、紗がかかったその面が浮かべている表情も、気配と空気の動きだけでなんとなく手に取れた。
―――これは夢の続きか?
あるいは心中の思いが描き出す幻影か。
それとも、今自分は目覚めているのか?
もはやそれを考えられるほど頭は回らなかった。むしろどうでもよかった。
これが夢だろうと現だろうと、どっちだっていい。
「……俺を殺しに来たか?」
「何故?」
水面の向こうで、その唇が疑問気に動く。
定まらない焦点を合わせる。数度重く浅い呼吸を繰り返してから、人影が発した問いなど聞いてないかのように、質問を重ねる。
「俺が憎いか」
「何故です」
「徐州は……お前の故郷だ」
「……」
人影が黙り込むのが空気で分かった。沈黙を一拍置くようにして、再び口を開く。
「覚えておいでだったのですね」
当たり前だ、と呟いたつもりだったが、それは恐らく吐息のみで、言葉にはなっていなかった。
忘れるものか。長い間共に過ごしてきた師兄弟のことなのだから。
「後悔しているのですか」
「後悔?」
何を後悔するというのだろう。
「俺には、振り返る暇も、やり直す猶予も残されてはいない」
そんな時間すら惜しい。刻々と削られていく有限の時の中で、やらなければいけないことがたくさんある。いつだって、やることに『もう一度』などない。
「やはりお前は来たな」
あの時の言葉通り。
黙然と聞いていたその肩がピクリと動いた。
ふと汗ばんだ額に何かが触れる。水に濡らした布のひんやりとしたその感覚に疼痛がいくらか和らぎ、目を軽く細めた。
見上げる表情の、無感情のうちの悄然とした色を見てとり、遠い意識のうちでいっそ哀れむように見つめ返す。
今更何を嘆くのか。自分の計略を破った時点で、師兄弟の縁は絶たたれたというのに。
よくできた幻だと思う。いやこれは夢だろうか。それとも―――
言いたいことはたくさんある。だがそれらを告げようとは思わなかった。ただ一言呟く。
「愚かな師弟……」
愚かで憐れな。
だが言葉の最後の方は、はっきり発音できなかった。
眼前の光景がゆっくりと歪む。急速に像が遠くなり、視界が暗くなっていく。
呟きながら、己の声が冥闇の彼方に落ちていくのを感じた。
ぽつぽつと音を立てて降る雨の中に佇み、そちらをずっと見つめる。
水雫の滴る葉々の向こうに見える、茶色の建物。
その中で眠る彼は、自分の故郷に火を放った。人を殺戮し、地を蹂躙する手助けをした。
怒りも憤りもある。それでもなお心の底から憎むことができないのは、食卓を囲み、机を並べ、多くの時間を共に過ごしてきた師兄弟だから。
「愚かだな」
その濡れる背に、後ろから、皮肉を含んだ声がかかる。
七奇はゆっくりと振り返った。
声を発した人物は、大きく枝葉を広げる樹に背を預け、雨露を避けていた。
七奇の顔から表情が抜け落ち、目が昏くなる。
しかしそんな変化も気にせずに、三奇は口に微笑を刷いたまま続けた。
「お前の尊敬する四師兄は今なお意識が戻らず、高熱に魘され続けているぞ」
軽く睨み付けるようにしながら、しかし七奇はあえて言及せずに応える。
「知っています。……状態としては相当悪いのですか?」
「華大夫がついているから大丈夫だろう。脈も当初よりは安定してきたと言っていたし」
そうですか、と小さく息を吐く。
「いささか無理が祟ったようだ。―――いらぬ心労もあったからな」
「何が言いたいんです、老三」
自然に言葉に刃が含まれる。そんな刃先も、三奇は喉の奥で一笑した。
「気づいていないのか」
「どういう意味です?」
目元をきつく眇める七奇に対し、三奇は問いで返す。
「愚かな老七。お前は己がやったことの重さを分っているか?」
「あなた方の邪魔をして曹操の徐州での暴挙を止めたことですか」
七奇は鼻で笑うようにして、吐き捨てる。
「暴挙、か」
三奇は呟きながら意味深に含み笑う。
「あれが道とでも? あれだけの無辜の民を犠牲にして? あのような義にも仁にも悖る行為が許されるはずがない」
七奇は思い出していた。徐州で抱き上げた幼い少女の死体の軽さ。
次々と消え行く命。一面の燎原。残るのは空ろな残骸のみ。
なんと虚しいことか。
「あなたや老四の言う理も分からないではない。だがもっと別のやり方があるはずだ。あんな―――」
拳を堅く握り締める。
「あんなやり方、俺は賛同できない」
鼻で笑う声を耳にして、七奇は鋭く兄弟子を見据えた。
「何がおかしいんです?」
「いや。似たようなことをどこかでも聞いたなと思っただけだ」
依然と皮肉めいた微笑を保ったまま、しかし三奇は見下すように顎を上げた。
「若いな、お前も。若く、それが故に甘くなまっちょろい正義感を抱えて頑なに固持する」
七奇が眼光を強めた。だがあえて応えない。
「そんな飾りばかりの正義感で本当に世を変えられるものならお安いものだ」
七奇を見据え、三奇は低く言葉をつむぐ。
「お前は分っていない。徐州で老四の計略を破り、曹操を撤退させた。それが意味することを。お前こそが結果的に徐州で行われた殺戮を、ただの無意味な大量虐殺にした」
「何を言うかと思えば世迷言を」
「俺たちが見据えているのは、今この時でもなければ目先のことでもない。次の世だ。今この時に、なんと残虐な殺戮よ、曹操とはなんと悪劣非道な男よと批評されようとも、この非道があってこそ人々はその先の平安を得難いものだと感じ、二度と繰り返してはならないと戒める。徐州がその第一歩となるはずだった。お前が邪魔をしなければな」
何を、と口を開きかけた七奇を遮り、三奇は言う。
「曹操軍にとってみれば、あの一戦は必ずしも無駄なものだったわけではない。敗北はしても、他方で得られたものもある。ただ少なくともあの殺戮は無意味な行為と化した。もしも成功していれば、失われた生命は平和への種となれたはずだが、お前がそれを『無くてもよかった無駄な犠牲』にしたんだ」
告げられたその言葉に、七奇は瞠目し目の前の男を凝視する。
雨に打たれる身体と、意識が一致しない。握り締めた拳すらまるで棒のようで、何を己が感じているか分からない。
「そんな……詭弁を」
動揺を隠そうとして、無表情に呟く。だが、それは隠せていたかどうか。
「計略とは一度発動したのなら最後まで遂行しなければ意味が無い。完遂できなければ、その過程で失われたものの意義は水泡に帰す。そういうものだ」
言葉をなく佇む七奇から目を離し、三奇はふいと雨の向こうに立つ建物を見やった。
「憐れな老四は、己の天命を削ってまで断行した計略をお前に破られ、今も床から離れられない」
「あなたが引きずり込まなければこんなことにはならなかったでしょう」
抑えた声音の下でそう返せば、年嵩の兄弟子は「まあな」とその時だけは素直に同意した。
「それでもこの道を選んだのは、あいつ自身だ」
「……」
「失われた命は戻らぬ。その上更にその死の意味までも奪った。―――お前はその重さを本当に分っているか」
七奇は応えなかった。
ただ、先ほど四奇がうつろながらに呟いた言葉を思い出す。
―――愚かな師弟…
「老四は何も言わなかっただろうがな」
三奇がぼんやりとぼやく。
七奇はやはり答えない。答えられず、己の思考に没頭する。
彼は責めなかった。ただ一言愚かだと言っただけ。
「愚かで、哀れなことだ……」
一人ごちるように呟いたのを最後に、三奇は幹から背を離して踵を返し、霞がかる雨を去っていった。
だが七奇はそこを動けずに、雨に打たれたまま、ただずっと足元を見ていた。
三奇の言い分は自分たちの行為を正当化しようとしているだけだと言い聞かせても、しかし消えぬ固いしこりが胃の奥に残る。
己がしたことは、無意味なことだったのか。
人々の死を悼み、義を掲げ道を信じながら行ったことが、その実、彼らを無駄死にさせただけだったのか。
七奇は弱く頭を振る。雫が跳ね、頬を滑り落ちた。
いや、違う。そんなことは決してありはしない。地に足をつけ、生を必死に全うしている無関係な民を犠牲にしてよい名分などどこにもない。多くの人生を奪って、多くの涙が流れた。彼らに何の罪があったというのか。人命が奪われること以上の悲劇などない。そんなものの先に天下泰平を迎えても、彼らの心の傷が癒えることはない。
たとえのちに仁政が行われようとも、そのような血と涙の上に掲げられた大義に、どれほどの意味があるのか。
何が徳か。何が義か。何が道か。
見据えるべきは―――
七奇は顔を上げた。その双眸に宿る、迷いと確かな光。
再び背後の建物を振り返った。
たとえ三奇の言ったことに一分の理があるとしても、それでも自分にも決して譲れないものがある。
雨足が速くなる。
煙る風景の中に、黒い影が静かに、いつまでも佇む。
しかしそれを目にした者は、誰もいない。