誰彼(ひと)が傷つく 嘆き聞こゆる

耳を塞いで目を瞑って避ける自分がいる

愛を無くすこと 其れは人に想い無くすこと

愛しくて 慕われて (よろず) 歌詠むこと添えも




之夢


 いい日だ。
 朝起きてすぐ木戸を放ち窓から空を仰いだ彼は、東の空で燦々と輝く太陽と、ところどころに浮かぶ千切れた綿のような雲を見て、そう思った。喜びが込み上げる。心が浮かれているというのは、自分でも分かっていた。
 我ながら無理もないと思う。その理由は、実に明白なのである。
 何せ、今日でようやく彼――― 水鏡七奇と呼ばれる彼は、成人を迎えるのだから。
 彼は自分の房間の一角に目をやる。棚の上には、朝日を反射して煌く漆塗りの箱があった。




「これより皆と同様、お前を大人として扱う。しかしそれは同時に、これからのことはすべて、己で責任を負わねばならないことも意味する。頼ることは許されぬぞ。誰も助けてはくれぬ。甘えを捨て、厳しく己を律さねばならぬ。心して肝に命じるが良い」
「はい」
「本日は天も晴明なり―――良い日を迎えたな」
「ありがとうございます、老師」

 明るい日差しの注ぐ室の中で、七奇は真っ直ぐと盲いた師を見つめた。長い間教え導いてくれている恩師に、心の底からの感謝を込めて拱手する。
 水鏡が並々と酒の注がれた青銅の杯を掲げ「乾」と告げる。合わせて掲げた七奇は、袖で杯を覆い隠すようにしながら一気に仰いだ。冷たい喉越しの後に、仄かな火が点る。酒が解禁されるのも今日からだ―――酒自体は、前からこっそり呑んではいたけれど。
 この書院に来て、十二年が経つ。
 加冠式はすでに一通り終了した後だ。七奇は、成人の儀を叔父の家でなく此処で行うと決めていた。
 一族の元に戻らず、父祖の霊の前で加冠しないのは不孝だと言われるかもしれない。しかし、親同然に導いてくれた水鏡老師と、兄弟同然に育ち接してくれた師兄弟の元で行うことこそが、七奇にとっての孝であり悌であると思っていた。
 そう――――心から尊敬する師と、絆のある師兄弟達のいる所で。

「さて、今日からお前も一人前じゃ。於いては、お前も字を持たねばならぬ」
「老師、それについてなのですが……」
「何じゃ、もしや既に決めてあるものがあるのか?」

 水鏡の問いに、七奇は目を伏せて肯定を示した。通常字は、親や親に比する相手からつけてもらう。だが自分で決めてはいけないという決まりもない。水鏡は、もし七奇に特に希望がなければ自分が与える心算であった。
 だからこそ意外な返答に老いた教師はいささか驚いた。眉を上げ、それから興味深そうに髭を扱いた。

「ほう、どのような?」
―――孔明、と」
「孔明か。ふむ。なるほど、亮は明なりとも申す。簡素にして明快だが、深意のある良い字じゃ」

 水鏡は納得したように頷いた。どうやら認めてもらえるらしい。七奇は嬉しげに微笑み、「ありがとうございます」と言った。

「自分で考えたのか」
「いえ」

 七奇は首を振ってから、やや躊躇した上で小さく答えた。

「四師兄に案を頂きました」
「何、四奇にか」

 水鏡の白眉がピクリと動いた。そこに滲むのは意外そうな反応と、やや気づかわし気な色。
 師は数拍してから、息をゆっくりと吐き出した。

「七奇よ」

 嘆息するように愛弟子の称を呼ぶ。

「何でしょうか」
「お前が同門の師兄弟らを心から慕っているのは分かる。だが、あまり思い入れすぎてはならぬぞ」
「というと?」
「分からぬか。八奇は皆いずれそれぞれの道を選ぶことになる。それが同じ道ならば良いが、別の道であった時―――情を深めすぎて、辛くなるのはお前じゃぞ」
「……」

 七奇は押し黙った。
 唉、と老師は溜息をつく。

「今はまだ良い。だが、ほどほどにな」




 七奇はとぼとぼと走廊を歩いていた。
 視線は下に向いている。歩きながら、先ほどの水鏡の声が、幾回も脳内に巡っていた。

(それぞれの、道……)

 それは、あえて七奇が考えないようにしていたことだった。
 彼にとって幼い時分より親許を離れて育ったこの書院は第二の我が家だったし、そこに住まう血のつながりのない弟子達こそが家族だった。
 ふと、以前に風吹く草原で交わした問答が思い浮かぶ。
 あの時四奇は言った。自分は七奇とは別の道を歩むだろうと。そして七奇にもまた予感があった。
 今の生活が壊れることなど、考えたくはない。師兄がいて、師弟がいて、戦乱から程遠い日々を、緩やかに送っている今。
 国に尽くそうという忠義心はある。苦しむ民を救い、明主を輔け、乱れた世を糾そうという正義感もある。だが一方で、今の安穏とした状態がずっと続けばいいと思っている自分がいる。国や親や老師に対する不義不忠だとは分かってはいても。
 心の重みが増すごとに、その足取りも重くなる。
 はぁ、と七奇は小さく溜息をついた。

(けれど、あの時からまた時が経った。時が経てば人もまた変わる)

 そう心で呟く。たとえば今の四奇などはむしろ―――

「よぉ孔明(・・)

 突如前から聞こえた声に、跳ねるように七奇は顔を上げた。
 今日公表したばかりの字で呼ぶのは、当の字をつけた張本人。

「師哥」

 四奇は高覧の手摺に片足を掛けるようにして腰かけ、にやにやと笑みを浮かべて七奇を見ていた。
 その肩には、夜着の薄い上衣がかかっている。
 前以上に四奇は寝込むことが多くなった。病の発作が起きる頻度も短くなっている。
 にも関わらずこうして冷たい外気に晒されている姿を見て、七奇は眉を顰めた。

「待った。何も言うなよ。お前の考えていることくらい分かる」

 気配を察したのか、四奇がすかさず指を突きつけて先を制す。

「どうせまた、内に入れだの厚着しろだの口煩く言う気だろ」
「お分かりなら、何故そのようになさらないのか」
「嫌だね。お前だって、俺が室内に閉じ込められるのが嫌いなのは知ってるだろう」
「よく存じております」

 項垂れるようにして嘆息する七奇に、「それよりも」と四奇は口を動かした。

「おい、浮かない顔だな。加冠の日だって言うのに、そんなシケたツラじゃ折角の字が泣くぞ」

 苦笑しながら、七奇はすみません、と小さく謝る。

「それにしてもお前も物好きだよな。そんなものの数時で考えた字でいいだなんて」
「いいんです。せっかく師兄に考えていただいたものだし、俺は気に入っています」

 単純だが、だからこそ込められた意味がより引き立つ。

「そうか。ま、いいけどな」
「師兄」

 何だ?とばかりに怪訝そうにする四奇を、七奇は期待に満ち満ちた瞳で注視する。
 その妙な輝きを見止め、やがて四奇は実に胡乱気に目を細めた。

「何だ、そのいかにも撫でくりされたがっている犬みたいな顔は」
「さすが師兄。何も言わずともお分かりで」

 途端七奇は強かに頭を殴られた。

「痛ッ、何するんですか!」

 涙目で四奇を見る。
 しかし当の相手は、悪く思うどころか至極冷たい視線だ。

「当然だろ」
「何でですか」
「それはこっちのセリフだ。何を好き好んで俺が成人にもなった野郎の頭を撫でなきゃいけないんだ」

 四奇が睨みあげる。ここ1年で、七奇の上背は竹の子の如く伸び、今や四奇を越さんばかりになっていた。

「そりゃ老五にしてたからですが」

 よくそんなこと覚えてるものだと四奇は内心で呆れた。

「老五はいいんだよ可愛いから。お前は可愛くないから嫌だ」
「差別だ!」

 しれっと答えた四奇に、七奇が非難の声を上げる。妙に五奇に対抗意識を燃やす七奇には、つまらないところで張り合おうとする悪癖があった。

「そんな下らんことを考えるのはこの頭か、ええ?」
「いたたたっ いや、本当に痛いんですが!」

 必死で痛みを訴え続けて、ようやく米噛を容赦なく圧迫していた拳が放れた。
 これでは撫でくりではなく、ぐりぐりだ。
 ズキズキと痛む箇所を押さえて見上げれば、四奇は腰に手を当た仁王立ちで、やってられんとばかりの渋面を作っていた。

「少しはマシになったかと思えば、何でそうなんだお前は。俺がやった字の意味を忘れたんじゃないだろうな。あんまりアホなことを言うなら孔暗に変えるぞ」
「語呂が悪いですよ」

 七奇は苦笑気味に答える。
 孔いに明たれ。四奇は、そう思いを込めて七奇の字をつけた。

「そんなにしてもらいたきゃ老五や老六にでも頼め」

 七奇はあの六奇に頭を撫でられている自分を想像してみる。甚だ微妙な気分になった。五奇は自分の矜持が許さないので絶対考えない。

「師兄に頂いた字に恥じぬよう、努めます」

 七奇は改まった物腰で、四奇へ静かに拱手を向けた。それは師弟として、師兄に向ける純粋な心情と誓いだ。
 四奇はただ「そうしろ」と鼻を鳴らしただけだった。そして不意に口元に拳を当て、ゴホゴホと咳き込み始める。

「師兄、中へ入りましょう」
「……」

 四奇は、今度は何も言わなかった。
 時折フラつく肩を支えながら歩く。病人扱いされるのをひどく嫌う四奇だが、七奇は構わず房間までついて行く。
 布越しに伝わってくる体熱はやや高い。やはり少し熱が出てきたようだ。
 室に着いて、寝具を敷いた牀台に四奇が座るのを確認すると、すぐさまとって返して煎じた薬湯を持って来た。
 熱い薬湯をゆっくりと飲む兄弟子を眺めながら、七奇は口を開く。

―――華陀大夫は最近、なかなか来られませんね」

 病身の師兄を放って各国を放浪する医者を思い浮かべる。声音に少々文句めいた色が滲んでしまった。
 その響きを聞き取ったのだろう。四奇は手に器を抱え、茫洋とした眼差しのまま、しかし確固たる声で応答した。

「華大夫の志は、敵味方の境なく、苦しむ人々を救うことにある。俺一人のためだけに一所に留まらせていいものじゃない」
「ですが……」
「世に病人は俺だけではない。それでも頼まずとも定期的に来てくれる。それだけで充分だ」

 淡々と答える四奇の双眸が、それに、とスッと細まる。

「なかなか現れないということは、戦乱によって各地での交通がままならず、足止めされたり行き来がしにくくなっているということだろう」

 逆に言えば、それだけ戦乱が以前よりも広がっているという証拠。
 密やかながらも確実に忍び寄る気配を察知しながら、七奇は暗い気持ちになった。老師の言葉が、再び脳内に響く。
 四奇を見やれば、彼はぼんやりと窓の外を見つめていた。病の症状が色濃くなるにつれ、四奇は救国の志をあまり語らなくなった。世情から関心を失ったわけではないようだが、自分からあえて世に出る気もないように見える。病が重くなり、命の先も見え始めた自分には、重責を果たしきれるだけの力はないと思っているのだろうか。しばしばこうしてぼんやり外を眺めることがあった。起つか起つまいか、四奇自身の中で悩んでいるのかもしれない。
 それであっても、七奇から見てここ数年の四奇は、どこか虚無と諦観した雰囲気を纏い、むしろこのまま静かに隠棲する心算なのではと思わせるのに十分だった。
 薬湯を飲み終えたのを見計らって、七奇は立ち上がりながら四奇の手の中の器を抜き取った。休養を促すためにも、そっとしておくのがよさそうだと判断し、短く断って室を出て行こうとする。
 扉を押し開けるところで、ふと七奇は振り返った。
 不意に不安が込み上げる。気がついたときには言葉が出ていた。

「師兄」
「何だ」
「……いえ」

 何を言おうとしたのか自分でも分からず口ごもる。
 怪訝そうに目を瞬いていた四奇が、しばらくしてふと口端を上げた。それは不思議な笑みだった。微笑とも苦笑ともつかず、心の読めない笑み。ただ、七奇の心の内を見透かしたように浮かべていた。

「安心しろ。―――こんな身体だ。せいぜい大人しくしているさ」

 その返答に七奇はハッとして、それから苦笑を返した。

「すみません……ゆっくりお休み下さい」

 そう言い残して戸を閉める。一抹の不安を胸に秘めたまま。




 それから数日後、四奇は房間の卓の上で、ある書簡を開いていた。
 頬杖をつき、考え込むように黙然と墨字を眺めている。今朝ひそかに届けられた急函。送り主の名は書いていない。たとえ書いてなくても、見慣れた懐かしい手蹟だけで、誰だか分かる。

「師兄、少々よろしいですか。老師が―――

 声と同時に開かられた戸に、四奇はちらりと一瞥を向け、手元の帛布をゆっくりと折り畳んだ。
 入ってきた七奇は、その行動にどことなく不審を覚えて首を傾げた。

「文ですか」
「野暮だぞ」

 四奇はそっぽを向いたまま素っ気なく応える。

「見られたらまずいものですか」
「そりゃ恋文だからな」

 彼が街の妓楼に出入りし、複数の妓女と懇意にしているのは今に始まったことではない。だが何か引っかかる。

「最近ご無沙汰だったからだろう。気にするな」

 卓から腰を上げ、何ということでもないように手を振る。その態度はいたっていつも通りだ。
 しかし七奇はどうにも釈然としなかった。故意に何かをごまかそうとしているような違和感。更に追究しようとした時、意せず足が何かにぶつかり、床に積まれた簡書の山が派手に崩れ落ちた。
 ハッとして七奇はそちらに首を巡らす。

「すみません」

 慌てて拾い集めようとして、うっかり目に入った開かれた文面に手を止める。

「これは……」

 瞠目して四奇を仰視すれば、彼は無表情のまま、視線を逸らしていた。

「師兄、これは一体―――

 床に散らばった簡牒は、どれも現在の世の情勢―――特に洛陽長安や、関東連合の内情や動きなどを事細かに伝えるものだった。すべてかき集めれば膨大な量に上るだろう。
 情報くらいは、世情を知るために七奇も得ている。むしろ水鏡老師を中心として話し合うこともあるくらいだ。だがその中で四奇はいつも興味なさそうにしていた。彼は自ら手を出す気は今はないとさえ言っていた。

「……老二や老三の消息が気になるだけだ」

 目を合わせぬまま、四奇はポツリと呟いた。 
 その言葉に七奇は口を閉ざす。二奇と三奇が下山し、それぞれ別勢力についたのは、つい最近のことだ。
 だが今や乱は拡大しつつあり、二人はまさにその渦中で軍師として在る。特に二人と―――とりわけ三奇と親しかった四奇が、彼らの動向を気にかけ、その身を案じるのも無理ない話であった。
 四奇は別に下山する気は無いと言う。だが七奇の胸内には拭えぬ予感があった。

「本当に、それだけなのですか」

 慎重に問う言葉の裏に潜む真意を読んだように、四奇は初めて目線を合わせ笑ってみせた。

「ああ。それだけだ」

 ポンと七奇の肩を叩きながら、脇をすりぬける。

「さぁ行こう。老師が呼んでいるんだろ」
「……ええ」

 答えながら、しかし七奇の視線は、床に散る木簡達にじっと注がれていた。




 『話がある』
 書簡に書かれていたのは、そういう内容だった。
 早朝の、まだ日も昇らぬ時間に、四奇は静かに身を起こした。
 『お前の助けが要る』
 そう書かれていた。
 呼ばれている。そのことが四奇を突き動かした。
 慣れた手つきで髪を結い上げる。
 口面と笠を手に持ち、簡単な荷だけ背負って、厩に向かった。
 朝霧が漂う中、自分の馬に鞍をつけて手綱を引きながら表へ連れ出す。
 そこでようやく、薄幕の内に佇む人影に四奇は気づいた。

「随分お早いお目覚めですね」

 師兄にしては珍しく、という皮肉に、四奇は目を細め、小さく吐息を漏らす。

「……老七」

 七奇は組んでいた腕を解き、厩の壁から背を離した。

「どこへ行くんですか?」
「野暮用だ」
「こんな時間から?」
「お前には関係のないことだよ」

 にべもなく言い放ち、四奇は七奇に一瞥も向けぬまま鞍の装着具合を確認した。
 その後ろ姿を見据えながら、七奇は言う。

―――三師兄に会いに行くのですか」

 ピタリと、準備を進めていた手が止まった。
 嘆息したかと思えば、ジロリと七奇を睨めつける。

「見たな?」

 七奇は申し訳なさそうに目を伏せた。
 全く、と四奇は忌々しそうに息をつく。
 四奇が得た書簡は、師兄三奇からだった。主君董卓が殺され、報仇を誓って呂布を追い詰め、今は身を隠している筈の三奇が、四奇を呼んでいる。理由は分からない。

「勝手に見たことは謝ります。ですが、何故師兄がわざわざ行かなければならないのですか」
「……」

 七奇は努めて平静に、しかし気遣わし気に問う。それが己の病身を案じているがゆえだと分かる四奇は、何も言わずただ淡々と一点を見つめた。

「師兄」
「老三が心配なんだ」

 低い呟きは、霧に溶け込んでしまうほど静かで、真摯な響きを宿していた。
 三奇が自分の助けを必要としている。四奇にはその声を無視することができない。四奇にとって、三奇は深い絆を持つ『同志』だから。
 七奇は言葉を封じられる。しかし心の裡では何故と問いかけていた。いつだって四奇は三奇のために動く。昔からそうだった。三奇が頼めば、どんなことでも渋々ながら付き合っていた。彼をそうまでさせるものは一体何なのだろうと思う。けれどそれをどう問えば欲しい答えに繋がるのか、七奇自身分からなかった。
 言葉を捜しあぐねている七奇に構わず、四奇は馬具に足を掛け、飛び乗る。
 馬上で口面と笠をつけながら、七奇を見下ろした。

「すぐ戻るから安心しろ。ただ会うだけだ」
「……」
「老七」

 呼ばれて、七奇は顔を上げた。

「臥龍はお前だ。鳳雛は老六だ。だが先の短い俺は何の役にも立たない」
「そんな風に言わないで下さい」

 不吉な台詞を過敏に捉え、七奇は窘める。

「本当のことだから仕方ないだろ……だからちゃんとここに戻ってくるよ」
「……必ずですよ」
「ああ、約束だ」

 渋々ながら承諾の意を見せる師弟に、四奇が「いい子だ」と笑えば、七奇は「子供扱いしないで下さい」と嫌そうに睨んだ。

「じゃあな」

 手綱を引き、強く馬腹を蹴って、四奇は駆け去る。
 霧を撒いて遠ざかる背影を、七奇はそこに佇み見送り続けていた。




 それから幾日経った後、四奇は書院に戻ってきた。
 いつもの外行きの着衣に身を包んだ姿で、室をじっと見渡す。長い間付き合ってきた房間は、今や綺麗に整理整頓され何とも言えぬ寂寥感を漂わせている。
 いや、寂しいと思うのは、自分の心境の所為か。
 自嘲気味に微笑して、首を振る。捌いた髪が肩から流れ落ちた。長く伸ばされた髪は、書院での生活の長さの証のようだった。
 四奇は伏せていた瞳を、卓の上に止めた。そこに置かれているのは、笠と覆面。そして、小刀。
 足元には、わずかな必需品だけを詰めた皮袋が置かれていた。
 静かにそれらを見つめていた四奇は、やがて小刀に手を伸ばした。掴んだ髪に刃を当てる。ぐっと力を込めた瞬間、背後で物が音が立った。
 驚きを呑んで振り向けば、開いた戸の外に七奇が立ち、大きく見開いた双眸でこちらを見ていた。その手には薬湯の器がある。
 四奇は舌打ちした。心の中で悪態づく。
 ―――面倒だから、気づかれぬまま去りたかったのに。

「師兄」

 七奇が器を傍の卓に置き、近づいてくる。四奇は表情を捨て目線を逸らした。

「その格好は……一体どこへ行くのです」
「此処を出る」

 短いながらもきっぱりとした答えに、七奇が動揺するのが分かった。
 此処を出るということは、すなわち下山するということ。
 だが、七奇にはどうしても信じがたかった。

「一体何故ですか?」
「決めたからだ。もう老師にも告げてきた」
「どうしてなんです」

 その肩に触れ、七奇は重ねて問うた。
 それでも四奇は目を合わせようとしない。何も答えなかった。

「老三……なんですね」

 七奇は確信を込めて呟く。四奇はすべてを諦めていた筈なのに、今の彼の瞳は、かつてよりも強い意志を宿している。眠っていたその闘心を引き出したのは三奇だ。
 七奇の胸に悲しみが過ぎった。あの時懇願してでも留めていたらこのような結果にならなかったのではと、無駄なことを思う。
 しかし四奇は首を振った。

「違う。きっかけは確かに老三だが、決めたのは俺自身の意思だ」
「どこにも行かぬと、信じていたのに」

 その声音は、哀れなまでに悲しみに彩られていた。
 四奇は凪いだ眼差しで七奇を見据える。
 肩を掴む手に対し、腕を伸ばしてその胸元を押し返す。

「老七。お前は俺から離れた方が良い。いや俺だけじゃない。師兄弟から、あるいはこの書院から」
「師……」
「お前がこの“家”と、共に育った俺たち“家族”を深く愛しているのは分かっている。敵対し傷つけ合いたくないことも。だが俺達は、考え方も、掲げる志も、歩む道も違いすぎる」

 自分よりも高くなった目線に向けて、真っ直ぐ相貌を上げた。

「俺はこれから始皇を創りに行く。お前はきっと俺を許さないだろう」
「……」
「別離はいずれ来るものだ、老七。……俺たちは水鏡八奇なのだから」
「それでも―――俺は失いたくないんです。誰一人として」

 必死に言葉を絞って、告げようとする。でも、先立つ思いだけが空回りして、どれもが形になる前に口内で泡沫(うたかた)となる。

「さよならだ賢弟(・・)。お前はもう子供じゃない。分かるだろう?」

 苦しげに歪む目前の顔に、四奇は仕様のなさそうに微笑する。成人したというのに、子供なんだからなと思う。身体は大きくなっても、心はやはりまだまだ青い。
 手を伸ばし、その髪を力任せに撫でる。

「お前と過ごした年月も、まあまあ楽しかったよ」

 されるがままになりながら、七奇は己の内に渦巻く何かを断ち切るように、黙然と瞼を閉じた。




 遠い記憶に思いを馳せながら、七奇は瞳を上げた。
 あれからそんなに時間は経っていないと思うのに、何やらひどく懐かしく感じられる。

「で、お前はわざわざ昔話をするために危険を冒して此処に居座っているのか」

 四番目の師兄の冷たい目線を受けても、七奇はいたって朗らかだった。

「嫌ですよ老四。此処に入れたのはそもそも老三の手引きです」

 七奇は徐州の役のあと、何故だかちゃっかり城内に入り込み、四奇の室を二度訪れたりしていた。
 一度目はてっきり高熱に魘されながら夢を見たと思っていたが、すっかり快癒して目を開けたときにその人物がいて、夢でなかった現実と夢であって欲しかったいう思いをまざまざと感じさせられた四奇である。
 大体本当ならお互い憎んでも憎み足りないであろう七奇と、なんでこんなに和やかに昔話に花を咲かせているのだろうか。人生とは不思議なものである、などと妙に悟った気持ちになった。

「大人しく出ていけ老七。さもないと人を呼ぶぞ」

 七奇は徐州の遠征で四奇の作戦を邪魔した相手なのだから、当然敵である。万が一夏侯惇にでも見つかれば八つ裂きどころじゃすまないだろう。そして四奇も、敵と認識した以上は容赦しない。

「でも師兄は呼ばないでしょう? 貴方も何だかんだいって我々師兄弟に情を捨てきれない。大体そうするなら有無を言わさず始めからしている筈ですしね」

 余裕の笑みで綽々と切り返す。四奇は溜息をついた。甚だ不本意だが、正直確かに見抜かれている。
 牀台横の円座に陣取る七奇は、億劫そうに身を起こしている四奇に目を当てた。

「安心してください。一つだけ―――どうしても尋ねたいことがあるんです。これを訊いたら、退散しますよ」
「……何だよ」
「何故曹操の軍師などしているんです?」

 四奇は一瞬質問の意図が分からず、両目を眇めた。
 七奇は真面目な顔で問いかけてくる。

「確かに曹操に英雄の器を見出し、主君と仰いでいますが、心の底から惹かれて忠誠を誓ったわけではない。そうなのでは?」
「……」
「なのにあれだけの策を献じてみせた。不思議でなりません。何故です?」

 四奇は被子(ふとん)の上に視線を落とした。

「その理由を訊く必要はあるか? お前はとっくに分かっているんだろう」
「……師兄には敵いません」

 七奇は肩を竦めてみせた。

「では言葉を変えます。―――何故、そこまで老三に肩入れするのです」

 四奇が押し黙るのを見て、七奇は畳み掛けるように続けた。

「老四は見かけによらず人情家だから、憂国の思いももちろんおありでしょう。でもそれだけではないはず。老二に手を貸すならともかく、冷酷無比の塊みたいな老三を助ける理由が分からないのです」
「冷酷無比なんかじゃない」

 四奇は淡々と、しかしきっぱりと告げた。

「老二も老三も、純粋すぎるほどに純粋なだけだ」

 七奇は一瞬呆けた。二奇はともかく、三奇に純粋という言葉があまりにも似合わなすぎて、耳を疑う。
 だが四奇はいたって真面目で平静だった。

「あいつは心の底から本当にこの国のことを想っている。民が苦しみから解放されて平和を取り戻せるにはどうすればいいかを、昔からずっと真剣に考えている。その足掛かりが董卓だったのに、殺されてしまった。老三は身の危険を冒してまで董卓の報仇を行った。そして今度は、汚名を背負ってでも老二の政道のために自身の手を血に染めて構わないと思ってる―――老二は、それこそ人道に悖るようなことはできないからな。老二にとって人は駒じゃないから。お前は俺を人情家と言うが、老三の方が余程だ。あいつは計算高い奴だけど、本当は誰よりも情に厚い」

 それを四奇は昔から知っている。だから放っておけないのだ、と言った。

「老三の非道の根元には、必ず純粋な志がある。あいつが俺の助けを求めるなら、俺は応じる。それだけだ」
「……分かりました」

 小さく息を吐いて、七奇は目を閉じた。
 これ以上の問答は無駄だ。
 ありがとうございますと礼を述べ、腰を上げかける。
 そこでふと七奇は止まり、肩際で揺れる四奇の髪に目を向けた。

「ずいぶん短く切ってしまわれたんですね」
「邪魔だったからな」
「……初めてお会いした頃と同じ長さです」

 懐かしむように七奇は笑った。
 終わりの始まり。
 ふとそんな言葉が頭を過ぎった。
 七奇は拱手で告辞を示し、踵を返して出て行った。




春に花あり 夏に涼風(かぜ)あり

秋に月あり 冬には雪 日々是れ好日よ

浮世憂うこと 其れは花に涙(そそ)ぐこと

頼られて 支えられ 風荒ぶ曇りの日さえ

胡蝶之夢




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