広く陣の敷き渡る戦場を、張遼は黙然と馬上から眺め渡した。
 何と言うことはない。今回の戦は、畿内周辺の豪族が反乱を起こし、その鎮圧に出向いただけのことである。ところがこの豪族というのがそれ自身には大した力は無いものの、庶民兵らが死に物狂いで凄まじく抵抗するものだから、さすがの歴戦の諸兵諸将たちもなかなかに梃子摺っている有様だった。
 必死の人間とはげに恐ろしいものかな。
 剣号、喧囂、雄叫び、鬨―――様々な音が入り乱れ、風に乗って張遼の立つ小丘の方にまで流れてくる。張遼も本来であればあの中で今も戦っていたはずなのだが、交戦中に走ってきた伝令により一時召集をかけられ此処にいた。
 だが、(つぶさ)に知らされずとも張遼には幾度の経験で分かっていた。
 これは何らかの策が検案され、実行に移される前兆だ。

「文遠殿」

 彼方から馬に乗ってやって来る者がいる。召集をかけた張本人だ。

「奉孝殿」

 風に服を翻しながら近付いてくる曹軍きっての軍師を見やりながら、張遼はその字を呼んだ。
 郭嘉は(いら)えもそこそこに、先程張遼が見ていた戦場へ同じように目を向けたまま馬を寄せる。
 その横顔や、簡易に装っているだけの甲のあちらこちらに点々と血や土汚れのようなものがこびりついているのを目にし、張遼は僅かに眉を顰めた。

「怪我か?」
「? ああこれか。いや、返り血さ」

 張遼の指摘に、郭嘉はやはり目線はそのままに頬についた赤いものを袖で拭いながら答えた。本来軍師が前線に立つことはない。司令塔たる軍師が斃されれば元も子もないからだ。しかし郭嘉はあえてその危を侵したのだろうか。組織を思えば決して褒められたことではないが、生半な覚悟でできることでもない。あるいはそれだけ自信があるということか。

「やはり左がやや反応が鈍いようだな……」

 郭嘉がボソリと一人ごち、スッと指を差す。

「恐らく、もう間もなく敵軍は右方の騎兵を上げて鶴翼の陣をつくり、此方を包み込むように動いてくるだろう。そうしたら機を合わせて本軍から半数を割き、尖塔の陣形をつくって一気に敵の左翼の付け根を貫く。その先で更に隊を二手に分け、左右に回り込むように展開。その後左隊と残り半数の本軍とで左翼を挟撃する。第一の目標は本軍から切り離された左翼を確実に潰すことだ。片翼を失えば鳥はおのずと地に落ちる」

 まるでこれから起こることをすべて見通しているかのように、指を動かして流れを指し示しながら郭嘉は説明した。

「機はあちらが鶴翼を作った瞬間だ。突入隊は足の速い精鋭の騎兵で構成しなければならない。主力は殿と曹兄弟に任せ、突入は文遠殿と元譲殿に頼む。俺が前に出て合図をするから全力で突っ込め。敵を首尾よく分断できたら元譲殿が右隊を、文遠殿が左隊を率いてそのまま―――
「ちょっと待った」
「何だ?」

 説明を途中で遮られ、郭嘉がようやく訝しげに張遼を見た。

「前に出る?」
「そうだが、何か?」
「いや、何かというか」
「? 何だよ一体」

 いよいよ解せぬとばかりに郭嘉は眉根を寄せる。急を要する場であるゆえか、いまいちはっきりしない張遼の態度に少し苛立っているようにも見えた。

「一軍の軍師が先陣に立つなど、危険だろう」

 躊躇い気味に、鬼神とも呼ばれる男は唸った。
 郭嘉は軍師だ。だが、軍師はただ幕中で策を練るだけでなく、戦場において実際に剣を振るうこともままある。本当に“まま”あるかないかなのだが、こちらとしてはいささか気が気ではなくてしょうがない。郭嘉の剣は実戦的だし(かつて護身と体力づけ代わりに習っていたらしい)、力量を見て敵わぬ相手は避けているが、見ている方はといえば、筆硯より重たいものは持ったことがないのではないかという印象の文官が、敵と得物を交えているのは正直不安だ。軍師は色々な意味で軍の柱であり、要であり、指標なのだ。万が一にも失うことは避けなければならない。

「なんだそんなこと」

 だが、そんな張遼の杞憂を郭嘉は可笑しげに笑い飛ばした。

「戦場で今更危険も安全もなかろうよ」
「それはそうだが」

 未だに納得しきれぬ表情の張遼に、苦笑を浮かべつつ郭嘉は言葉を変えた。

「文遠殿、知っているか? 耳聡い者は、他人が言葉を発するほんの寸前の息遣いで、発せられんとする語が事前に分かるという。敵が鶴翼を作りはじめるのが明確に見えてから動くのでは遅すぎるんだ。奴等全体が動く直前のその軍気(こきゅう)を聞き取らねばならない。それが勝敗を決する機だ」

 そして今この場でそれを聞くことが出来るのは、軍師(オレ)だけだ。
 郭嘉は上背の高い武将を見据え、そう言い切った。
 真っ直ぐに注がれる視線を受け止め張遼は瞼を伏せた。

「軍気を聞く―――か。相変わらずとんでもない男だな、お主は」
「いや、別に俺だけが特別なんじゃないさ。たとえば兵法に照らして確実な策を実行するのにかけては仲徳の(じじい)殿の方が上手いし、複数の用兵を使い分けて負けぬ戦をするのにかけては公達殿の方が長けている。俺の場合は兵法云々の前に、実際に戦を見て聞くことで勝機が思い浮かぶ性質なんだよ」

 軍師の五感とは、一体どうなっているのか。郭嘉の言葉を聞きながら張遼は今更ながらに思う。
 どちらにしろ、ここまできてはもうこの頑固な男は止められない。張遼は長い息を吐いた後、分かったと呟いた。

「まあ万が一俺に何かあっても、殿の方には文和殿もいるしな」
「万が一などと、冗談でも言うな」

 ふと険しい顔になり張遼が嗜める。言葉には魔が潜む。不吉な言は聞きたくなかった。
 それでもどこまでも合理主義の郭嘉は、そうした迷信の験担ぎめいた類にはこだわらない。
 風に浚われる脇の髪を邪魔気に押さえながら嘆息交じりに、

「可能性の話だ。現実から目を背けても仕方ない」
「それでもだ」

 存外強い口調で言い返され、郭嘉は目を瞬いて張遼を見た。

「お主ら軍師は、武将(われら)が命に代えても必ず守る」

 力の篭った声音で宣言する。じっと開かれた張遼の双眸はどこまでも真剣だ。だが、郭嘉は一瞬呆けたようになりながらも、次の瞬間には眉根を軽く寄せ、弱ったというべきか苦々しげな微妙な笑みをその顔に浮かべた。あらぬ方に瞳をやり、頬をぽりぽりと掻く。

「あー文遠殿……気持ちは嬉しいんだがな、そういう言葉は好いた女にでも言ってやれ」
「は?」

 予想だにしなかった郭嘉の答えに、張遼は意味を図り損ねる。

「奉……」
張将軍(・・・)、そろそろ配置へ。時間が無い」

 疑問を口に出そうとした張遼を遮るようにそう言い、さっさと馬首を返す。
 急に余所余所しいというか淡白になった郭嘉の反応。一見いつもどおりながらも、どこかその声色にも違和感を感じ、張遼は首を傾げた。

(……何か、怒らすようなことでも口走っただろうか)

 僅かにうろたえ、前を行く背に再度声をかけようとした。
 その時、ふとその背が静かに嘯いた。

「張将軍―――生憎俺達は、誰かの影に庇われ守られなければならぬほど弱々しい存在ではないよ」

 文弱の徒でも、文弱なりの戦い方がある。
 零れ落ちた響きに、張遼は言いかけた言葉を呑み込みハッとする。
 そうして、ようやく悟った。俄かに他人行儀になった郭嘉の態度のその訳。彼が言わんとしていることに。
 張遼は己も馬腹を軽く蹴って動かし、慌てて郭嘉の足を追った。
 こちらを向かぬ背に向かって低く言う。

「すまぬ、言葉が悪かった。俺達がお主達の援護(・・)をしよう」

 ゆっくりと、郭嘉の馬の足が止まった。それからくるりと首だけで振り返り、いつもの人懐こい笑みをにやりと浮かべた。
 手綱を引き、半身を張遼に向ける。不羈に、不遜に―――何よりも己が信念を貫く面差し。

「軍師は女子供のようにただ守ってもらわねばならぬようなか弱い生き物じゃあない。戦場においては武将も軍師も対等だ。ただ互いが互いに欠けた部分を補うだけでな」

 確固たる口調も眼差しも、どこまでも強い芯を秘めていた。
 武将に足りぬ知を軍師が補い、軍師の足りぬ武を武将が補う。どちらかが劣っているとか、そういう関係ではないのだ。
 張遼はかつて呂布の元にいたとき、同じ台詞を陳宮に吐いたことがある。すると陳宮は酷く憤り、無言のまま背を向けて去った。だが張遼にはその時何故陳宮があんなにも怒ったのか分からなかった。
 その点では、郭嘉は陳宮よりも少しばかり手柔らかだ。今なら陳宮の怒りの理由が分かる。
 軍師は、ただ守られるだけの存在ではない。守られるだけの軍師など、要らない。彼らの存在意義は、その誇りは、何よりも高い。たとえ武に劣ろうとも、彼ら自身の心構えは強くあって、決して侮ってはならないものだ。それは軍師が武将を対等の戦友として見るのと同様のこと。
 それでも一抹の不安は拭えないが。
 張遼の心中を見抜いたかのように、郭嘉は飄然と言った。

「安心しろ。軍師って生き物はな、己の力量と置かれている状況を冷静に分析できるものだ。もしも敵わぬと判断したならばさっさと逃げるし、自らの身を顧みずに窮地に陥るなどという愚は避ける」
「それでも、もしも避けられぬ状況に陥ったら?」
「その時は援護(・・)してくれるだろう? 文遠殿」

 不敵に微笑み、郭嘉は身を翻して駆け出した。
 出遅れた張遼に、先を行きながら肩越しに叫びかける。

「そろそろ敵軍が動き始める。悠長にしている暇は無いぞ!」

 言葉は強いが、その顔は笑んでいる。絶対の自信を秘める笑顔。

「敵わないな」

 張遼は苦笑しながら、足を馬の腹に強く打ち付けた。




 軍中に戻れば、すでに策は全軍に伝わっているようで、いつでも分離できるように突入隊の列が組まれていた。
 張遼は曹操と、隣に控える夏侯惇の近くに馬を寄せる。丁度そこが突入隊の先頭だったからだ。
 郭嘉はといえば、遥か前方―――前線のかなり近くで手綱を操りつつ前方に隙の無い視線を向け続けていた。
 軍気を捉えようとしているのか。
 稀に風に乗って己に降り掛かりそうになる矢のことなど全く顧みていない。代わりに傍らに控えた将達が悉く打ち落としていた。だが「軍師さん、危ねえって! 周り見て周り!」などと半泣き状態で懇願する声が風に乗って聞こえてもくる。迫る危機はすべて彼らに任せ、己は余計な気がかりを捨てて全霊を持って敵の動きを見極めんとしているようだった。
 勝の機を。

「奉孝の奴め……全く相変わらず無茶をしおる」

 曹操の言葉に、ふと張遼は目線を向けた。

「ご心配ですか」
「いや。あの程度であれば大丈夫であろう」

 思いのほか楽しげな、しかし己の参謀に絶対の信頼を寄せる曹操に、苦笑交じりに呟く。

「そういえば先程奉孝殿に怒られました。『軍師は守られる存在ではない』と」
「ああ、あれを言われたのか」

 フフ、と曹操は喉の奥で笑う。

「前にも惇が似たようなことを言って肘鉄食らってたな」
「そんなこともあったか」

 その言を受けて夏侯惇が苦々しい面持ちになる。

「全く然して腕っぷしが強いわけでもないくせに気骨ばかりは並の豪傑以上だからな」

 曹操は仕方ないといわんばかりの口調だが、そう語る声音も当人を見やる眸も、嬉しげな色合いに染まっている。それに不思議な感覚を抱きながら、騎馬を操作しつつ張遼は視線を戻し続けた。

「戦場を見渡し、軍気を聞くのだと言っておりました。―――軍師とは不思議なものですな」
「あやつはまた特殊だ」

 真面目な面持ちで訊く新参の武将に、曹操は遠くを眺めながら目を細め、低い声音で言った。

「点穴と謂うものがある。知っているか?」
「いえ」

 唐突な問いに、張遼は首を横に振る。

「本来は人体にある(ツボ)のことだ。華佗の話では、その点穴に鍼を穿つことによって様々な効果を人体に齎すという―――奉孝の能力は、その点穴を探り出し見極めるのに似ているな」

 張遼はその単語を口内で小さく転がし、戦場を望んで目を細めた。遠くでは許褚が大斧を振りかざし、敵兵を次々と薙いでいっている。
 張遼はそれを横目に、未だ哀願めいた声が流れてくる前方を見た。
 馬を駆り、剣を携え、戦場を遍く見極め、動きを把握し、機を掴んで、勝利を導き出す。
 それが、軍師と呼ばれる者たちの生き様か。
 前を行く郭嘉は、陣形だけを見つめていた。音なき音を聞かんとし、目に見えぬものを見んとしているかのように。今、彼の双眸には何が映っているのだろうか。
 軍師はその智謀の最大限を以って戦を導く。武将は、それを護衛し援護しながら、彼らの手足となって動く。その関係に、不思議と不満も違和は無い。むしろ、いまだかつて経験しなかった血湧き肉滾る興奮に身体が震える。
 それを素直に楽しいと思う。かつて呂布の元にいたときとはまた別の痛快感だ。
 かの軍師ならばこの獰猛な武を、果たして飼いならすことができるだろうか。戦場を、呂布とはまた別の形で自由自在に駆け巡るかの男ならば。
 唐突に、弾かれたように郭嘉は身を起こすと、後方に控える張遼らには一瞥もくれず、手にしていた旗を高らかに揚げた。
 機を掴んだか。

「では参ろうか」
「おう。では殿、行ってまいります」

 夏侯惇に続くように張遼は馬首の方向を変え、曹操に挨拶を述べる。

「おう―――存分に味わって来るがよい」

 曹操は張遼の心を知ったかのようにニヤリと口端を上げた。
 それに似たような、武将らしい太い微笑で答え、馬の腹を思い切り蹴った。敵陣を一気に目指す。
 前にある背に叫んだ。

「奉孝、お主は前だけを見ていろ!」

 一瞬、郭嘉が此方を見て、微笑った気がした。
 軍師とは、守られるべき柔な存在ではない。
 誰よりも強かに、気高く戦場を駆ける生き物だ。




MENU