夏残宵霞 むっと蒸すような暑い大気。虫の声が幾重にも重なって、鬱蒼と密集する木々や葉々の間から聞こえてくる。 ちりちりと焼けつくような日差しと、相反して深い彩を見せる山中の陰は、暑夏の様相を如実に表していた。もうそろそろ晩夏であるというのに、落ち着くどころかいっそう増す気温は、人の気力と体力を奪う。過ぎ行く夏が、最後の踏ん張りとばかりに張り切っているのだろうか。ともかくも汗は止め処なく体中から流れ落ちていく。 汗で張り付く着物が不快感を増し、少しでも涼を取ろうと、誰もが袷を緩めている。 まぶしいばかりの表をぼんやりと眺めながら、七奇は襲い来る眠気を払うように、懸命に目の瞬き見開きを繰り返していた。昨夜、つい熱中して遅くまで書を読んでいたせいだ。 しかもただでさえ寝不足なのに、更にこうも暑い中集中しろという方が無理というものである。 滔々と講義をしている老師の声を遠くで聞く。徐々に朦朧としてくる意識。かみ殺しきれぬ欠伸の音が、微かに漏れでた。 「七奇」 卒然と呼ばれ、肩が跳ねる。頭から冷や水を浴びせられたかのようだった。 「は……はい、老師」 慌てて返事をして首を戻す。まずい、気づかれたか――― 猛暑の中でも、顔色一つ変えず、相変わらず厳粛に構えた水鏡は、布で覆われた面をじっと七奇の方に向けている。老師には心眼が備わっているのではないかと、最近七奇は半ば本気で疑うようになっていた。とりあえず、凄まじく鼻と耳がいいのは確かだ。 気まずさに、背や肩を縮めこませる。 「……ここで戦を仕掛ける場合、将が取るべき判断は何じゃ」 老師は正面に張った地図を杖で指し示し、問いかける。そこには布地に黒と朱の墨でそれぞれ地形や行軍している軍隊の様などが描きこまれている。 それまでの話を全く上の空で聞いていた七奇は、暑さによるものとは別の汗で一杯だった。突然ということもあって内心ひどく動揺しており、うまく頭が回らない。 「どうした、答えられぬか?」 どう答えたものか言葉を捜しあぐねて途方にくれていると、不意に項垂れた視界の隅に文字が掠めた。 『四軍の利』 はっとして、その紙を差し出してきた元を見る。それから慌てて、 「将はまず四軍の利を考えて行軍します。そして布陣は『およそ軍は高きを好みて下きを悪み、陽を貴ぴて陰を賎しむ。生を養いて実に処り、軍に百疾なし』―――です」 淀みなく答える。 水鏡老師は何か思うところがあるように数拍黙していた。まずかったかな、と七奇の動悸が早くなったころ、ようやく「……よろしい」と口を動かした。 ホッとして溜めていた息をそろそろ吐き、椅子の背に凭れる。危なかった。それから、助け舟を出してくれた主に首を向ける。 だが、その当人はといえば素知らぬ風に、卓に突っ伏すようにして眠りを貪っていた。 「四奇」 その声に再びギクリとした。七奇は寝た振りをしているのか本当に寝ているのか分からない兄弟子をもう一度見やる。 やがて、かったるそうな動きで身を起こした四奇が、やはり気だるげに声を返した。 「はーい」 「では、少数勢を率いながら多勢に対陣するならば、どこを拠点にする」 四奇は眠たげに半ば下ろした眼で、髪を掻きながら、正面に掲げられた地図を無言で眺めている。 やはり老師には見えていたのかもしれない。自分の失態のせいで兄弟子までもがとばっちりを食うのではないかという恐れに、七奇はハラハラと隣を伺っていた。 だが四奇は斜め前に座る三奇と短く読唇のようなものを交わし、三奇の頷くのを見ると、やがて何ということもなく明朗と答えた。 「西の山に」 水鏡老師の髭がぴくりと動く。そして重々しい声音で、 「何故そこを選ぶ? 三方は険地、この場は死地じゃ。一度入れば逃げ場がなくなり袋の鼠となろう」 声音からして、どうも四奇の答えが気に食わないらしい。 しかし四奇はそのようなこと先刻承知なのか、ためらわず続けた。 「寡兵ならば正攻法では多勢に勝てません」 「どう策を立てる」 「通常よりも旗を多く立てて兵数を水増しして見せた上で、その間に主力を金蝉脱殻の計を用いて移動させ、敵の兵站点を奪います」 「ただでさえ兵は少数なのに、その上更に兵を分散させてなお多勢に対せられると思うか。しかも山の上に陣を敷けば、水源をたたれ持久戦もできなくなる」 「『之れを亡地に投じて然る後に存し、之れを死地に陥れて然る後に生く』。韓信はかつて趙軍と対するに背水の陣を行ったことに際し、孫子の九地篇をあげました。死地はそもそも兵の死力を呼び起こし、常以上の勢を発揮する条件地。そのほかに古来より様々な言い方で、この戦法は評価されていると思いますが」 窮鼠猫をかむだな……と忍び笑う声が、七奇の前から聞こえた。 四奇は、先ほどまでのやる気のない態度はどこへやら、口を挟む隙も与えず続ける。 「あるいは兵站点を狙うように見せかけて敵を分散させ、分かれた敵兵を全軍で叩く。または陽動作戦で、敵の分兵を不利な場所まで誘い込む。敵が兵法を知っていれば、逆に少数勢が兵を分散するとは考えないから、逆手にとって計を発すのにも好都合。最終的に攻撃を仕掛けるときは必ず自軍の兵を合わせて総力でぶつかる。孫子に曰く『故に善く将たる者は、人を形せしめて我れに形無ければ、則ち我れは専まりて敵は分かる。我れは専まりて一と為り敵は分かれて十と為らば、是れ十を以て其の一を攻むるなり』……まだ必要ですか?」 立て板に水のごとく並べ立てる四奇に、水鏡老師は諦めたように手を振った。 「よいよい、分かった……だがな四奇、物事はそう巧く運ぶものでもないぞ」 「それこそ実際戦場にいたってみなければ何も分かりません。相手の力量も自軍の力も。要となるのは結局その場の状況判断です」 「……全くお前は減らず口ばかり達者になりおる」 長々とため息をつき、水鏡老師は気を取り直して講義の続きを再開する。四奇は三奇と目配せし、してやったり、と口角を上げた。 今度こそ、七奇も別の意味で安堵に息を吐く。あまりにも息を詰めすぎていて、肺がこわばっているような錯覚を起こした。 四奇を見る。あれだけの計略を瞬時に思いつく、その読みの速さに感嘆する。しかし当の本人はすでに先ほどとは別人かのごとく、元通り眠たげでやる気のない雰囲気をかもし出していた。 白熱した場はわずかにその余韻を残し、地から立ち上る陽炎をよりいっそう実感させた。 授業が終わるとすぐに、七奇は四奇の元へ走りよった。 「四師兄」 「んー?」 ゆっくりとした動作で双眸を巡らした四奇が、「ああ」という表情をしたのは、数拍ののちだった。 「まあお前も、これに懲りて二度と夜更かしなんてしないことだな」 「え?」 何で分かったのだろう。きょとんと七奇が瞬くと、 「厠帰りに明かりが見えたからな」 餓鬼はいっちょまえに徹夜なんぞせずに寝ろ、と一言吐きついでに額をベチッと一発殴られた。七奇は呻きながら叩かれた箇所を押さえる。 「寝ないガキは育たないぞ」 「師兄は寝てばかりじゃないですか」 「だから育ってるだろ」 ふふん、と頭上高くから見下され、七奇は意地になって睨み返した。 「いつか師兄より大きくなってみせます」 「なれるもんならなってみろチビ」 あからさまに嘲笑れて、眉間を皺寄せる。その様がよほど可笑しかったのだろう、楽しげに朗笑しながら、四奇は自室に戻っていった。 暑い日差しが掛かる。虫の声が幾重にも重なる。 そしてようやく、結局礼を言い損ねてしまったことに、七奇は気づくのだった。 「だた暑さにやられただけだ。夏の置き土産だな」 牀台から伸びる手の脈をとりながら、怪しい風体の男は何ということもなく告げた。 七奇は、彼がこの水鏡書院に足繁く出入りしている医師であるということを一年前に知った。 年齢不詳の医師は水鏡先生の知己でもあるのだという。彼はもっぱら虚弱体質の四奇が倒れたときなどにかけつけてくれる。 その患者は、牀台の上で青白い顔のままぐったりと横になっている。 今度こそ礼をと思って四奇の房間の戸を叩いたはいいが、現れた四奇が突然目の前で倒れ、慌てるまま走り回って三奇や二奇に声をかけたのだ。おかげで七奇自身も憔悴している。 「ほれ、老四。これ飲んでおけ」 「……それは飲みたくない」 「我がまま言うな」 鼻をつままれ無理やり飲まされている姿を、笑って見ているのは三奇だ。 「ほぉら慣れれば美味いものだろ?」「……死にそうなくらい不味い」などというやりとりは、すでに七奇自身も何度も目にしてきた光景でもある。しかし、薬を飲んでより顔色が悪くなっているような気がするのは気のせいなのだろうか。 げっそりとする四奇の傍らで、三奇が掌を打った。 「まぁこれで老四も大事がなかったわけだし、よし、今日はここで怪談大会をしよう」 え?と困惑する七奇を尻目に、この騒ぎで顔を覗かせに来た六奇がすかさず賛成の声を上げた。五奇は黙したまま、流れに任せるといった様子だ。 「おい待てよ。何でそうなるわけ?」 さすがに四奇も抗議の声を放つが、三奇は聞いていない。二奇も苦笑しながら、しかし珍しく止める気はないようだ。 「夏といえばやっぱり怪談だろう。折りよく老師も出かけていて不在だしな」 そう、老師は一奇を供として外出していて、今はいない。つまり今夜は弟子達の天下なのだ。 「じゃあ俺灯り用意してくるわ」 「ついでに老師の隠し菓子も持って来い」 「おい、ほどほどにしておけよ」 話が勝手に進められていく中、一人棒立ちになっている七奇は、ためらいがちに四奇を伺う。 彼はすでに怒る気力もないのか―――あるいは気力を使い果たしたのか、憔悴した様子で牀台に突っ伏していた。 「そして女は振り向き、男にこう言った……それは……お前だぁっ!!」 「ギャァアアアー!!!」 「うわぎゃ!」 隣の六奇の盛大な叫びと、ついでに凄まじいしがみつきにつられて、七奇も声を上げる。怪談話よりもむしろさっきから何度もこれで驚かされていた。掴まれた腕が痛い。 そんなに怖いなら、やろうとなんて言わなければいいのにと心底思う。 「ふふふどうだ怖かっただろう」 「やりすぎだ、老三」 顎の下から炎で顔を照らして演出効果抜群の三奇は、六奇の怯えように大変満足げに頷いて灯りを離す。二奇の冷たい嗜めにも「これくらいやらねば涼しくならんだろう」と飄々と受け流し、お約束のようにその火を吹き消した。 「なんだ、老六はもしかして怖いのか?」 「こ、こわくないやい!」 「……声が震えてるし」 小声でボソリと七奇が突っ込めば、二の腕を思い切り抓られた。損してばかりだ。 部屋を占領された四奇はといえば、六奇の悲鳴に煩そうに顔をしかめながら、相変わらず牀台の上で頬杖をついている。 興味があるのかないのか、いつもの眠たげな様子からは伺えない。諦めているのかもしれない。 ふとその瞳が、先ほどから驚くこともなく(といっても、六奇があれだけ派手に絶叫を上げているから目立たないだけかもしれないが)、大人しくしていた五奇がウトウトとしながら目を擦っているのを見止めた。 「老五、眠いのか?」 七奇もそちらを振り返る。四奇の呼びかけに、五奇は小さくコクリと頷いた。 「仕方ないな。ほら、こっち来い」 「うん……」 上体を半ば起こすようにして、自分の前の空間を一人分空ける。 五奇は是とも否とも答えず、のそのそと牀台の方に移動し、よじ登った。そういえば先ほどから五奇が抱えているのは、自室から持ってきたのか、枕である。 空けられた空間にすっぽり収まって寝入る五奇を、七奇はぼんやり見ていた。 「なに老七も寝たいのか?」 ひそかに耳打ちしてきた六奇に、七奇ははあ?と目を瞬いた。 「老五は眠くなると、どこでも寝ちゃうからなぁ」 七奇の反応など端から見ておらず、六奇は独り言のごとくぼやく。 「前に怪談やった時なんて、一人先に房に帰ったと思ったらその途中の回廊の端っこで寝てたんだぜ。翌朝発見して超驚いたわ」 すでに夢の中の様子の五奇を眺めつつ、七奇は頬を引きつらせた。所構わず寝られるとは五奇も見かけによらず強者だよねー、と六奇が妙にズレた感想を漏らす。いや、それ以前の問題のような…… 「老四ー、老七も寝たいってさ」 「……えッ!?」 突如のとんでもない発言に、七奇は発言者をものすごい勢いで振り見た。 「老六、俺は別に……」 「俺もなんか眠くなってきちゃったー部屋戻るのメンドーだからここで寝させてー」 はぁ?と四奇が盛大に眉をひそめた。 「おいおい、俺の牀台は四人も寝られる隙間なんてないぞ」 「お、それいいな。今夜はみなで老四のところに泊り込もう」 四奇の言葉をさえぎって、いいこと思いついたとばかりに提案したのは三奇である。 そして怪談話はどうした、とばかりに、四奇の許可も得ないまま皆で我先にさっさと牀台に上り始めた。七奇も引っ張られるようにして乗り上げせられる。 「うわやめろお前ら、暑苦しい!」 「おい老六もっとそっち詰めろ」 「老七に言えよ」 決して広いとはいえない牀台の上で、五人が押し合い圧し合いしながら犇いている。 七奇も何がなんだか分からないまま、五奇と六奇の間でぎゅうぎゅうに揉まれていた。身体が一番小さいせいもあって、なんだか今にも押し潰されるんじゃないかという恐怖感に見舞われる。 「老二! あんたも何とか言ってくれよ!」 「まぁ、たまにはいいんじゃないか?こういうのも」 四奇の悲痛な訴えにも、二奇はただ微笑ましげに笑って見ているだけである。ついでに自分も寝る気らしい。 哀れにも四奇は自分に味方がいないことを察したようだ。 「く、くそ……お前ら、覚えてろよ……」 苦しげな四奇の呻きだけが、虚しく空中に吸い込まれていったのだった。 それから急に強く揺さぶられ七奇が目を覚ましたのは夜中だった。 「うーん……?」 夢心地に瞼を擦りながら首を向ければ、六奇の顔が視界に入った。 心なしか切羽詰った表情でこちらを凝視している。 「老六……何?」 「……厠」 「は?」 「厠ついてきて」 長い間のあと実に深刻そうに搾り出された内容に、七奇は寝ぼけ眼をさらに半眼にした。 「……一人で行けないの?」 「うるさいな、ついてこいったらついてこい」 憤然と頬を膨らませ六奇が囁く。しかし顔は必死だ。実は限界なのか。 深夜に一体何で起こされたかと思えば……七奇は呆れにため息をついた。仕方なしに暗い回廊を付き添いながら少し離れた外の厠へ行く。 日が落ちても、やはり蒸し暑さは変わらずだった。少し歩くだけで、じっとりと肌がベタついてくる。 掃除をしているとはいえ、特に夏場で臭う厠の外で立ちながら、六奇の用が終わるのを待つ。 そんなに怖いなら、わざわざ自分から怪談など聞かなければいいのに……と七奇は心中で文句を唱えながら、独りごちるようにぼんやり呟いた。 「四師兄に悪いことしてしまった気がする……」 ただでさえ体調が思わしくなかったというのに、皆で押しかけたあげく一つの牀台で雑魚寝。余計具合が悪くならなければ良いが。 「んんー?」 木戸の向こうからくぐもった声が返ってくる。 「いーんじゃね? どうせ毎年のことだし」 「そうなの?」 意外そうに七奇は木戸を振り返る。 内の六奇は、欠伸をかみ殺しながら是と答えた。 「こんな皆でってのは初めてだけど、夏場老四が体調崩すと老二とか老三あたりがいつも夜ついていたからな」 「知らなかった……」 「そりゃお前、去年来たばかりだからさ。俺も詳しくは知らないけど、老四がここへ来たのも夏だったらしいよ。ただでさえ体調崩すと人間心細くなるって言うだろ? 老四が何か言ったってわけじゃないけど、老三あたりは結構気にかけてるみたいでさ。何だかんだ言って結局老三は老二と老四には甘いからな」 俺たちのことはあんなにイジメるくせにさ、と悪態づく六奇に、へぇ、と相槌を返した。 三奇の不敵な笑顔を思い描く。七奇には悪い印象ばかりの三奇だが、実はそういうところもあるか、と不思議な思いに駆られる。 四奇も、ここに初めて預けられた時は、やはり不安になったりしたのだろうか。普段の四奇からは、とても心細いといった表現と結びつかないけれども。 夏―――自分が来たのは、冬の寒い日だった。 ギィと音がし、六奇がスッキリした面持ちで出てくる。帰ろうぜ、という声に促されながら、帰りの回廊を半ば上の空で歩きつつ七奇は思いをめぐらせていた。 あの寒い夜、抱いて眠ってくれた腕の温かさを思い出しながら。 室に戻り、元の場所にもそもそと潜り込む。やがて、横臥した背後からは気持ちよさそうな寝息が聞こえてきたが、七奇は眠れなかった。 鼻が触れるほど近接している、自分より大きな背をなんともなしに見つめる。視線を少し上に上げると、大分伸びた黒髪が緩やかに流れを作っていた。 それを見るともなしに目で追いながら、ふと、ほんの小さく、囁くように、七奇は唇を動かす。 「……老四」 「何だ」 まさか返事が返ると思ってなかっただけに、体内のすべてが飛び上がった。思わず息を引き、声を失う。 微かに身じろぎ、四奇が半身を反す。その双眸は眠たげながらも、しっかりと開いていた。 「起きてたんですか」 心臓が飛び出るかと思った。ドクドクと脈動する胸を押さえ、七奇は搾り出すように声を発する。怪談話を思い出したわけではないが、背中を伝う冷たい汗が収まらない。 「お前が老六と厠行く時にな。俺、夜中は眠りが浅いから」 「そうだったんですか」 朝方までそうであればいいだろうに、という言葉は胸にしまっておく。 「で、なんだ? お前さっきからずっとなんか言いたそうにしてただろ」 ハッと首を上げる。同時にどこかで胸を撫で下ろしていた。 「……まだお礼をちゃんと言ってなかったと思って」 「礼?―――ああなんだ、講義でのことか。別に俺は気にしてないけど」 ただの気紛れだ、と呟く四奇。 「それだけじゃなくて……去年の、初めてここに来た日の夜のこととか」 「ああ、あれもなんつーか、利害の一致みたいなものだったしな」 そう、あの時のお礼も結局何も言えぬままだった。色々してもらって、しかしきちんと礼をしたのは一度もなかったのだ。 「ありがとうございました」 四奇は「んー」などと要領を得ない返事をし、至極どうでもよさげに天井を見つめていた。照れているとかではなく、本当にどうでもよさそうだ。 それでも、ちゃんと礼を口で言えただけで、七奇は満足だった。ふっと一つ胸の重みが消える。 「前から思ってたけど、お前って妙に律儀な奴だな。まぁいいや、貸しにしておいてやるよ」 首だけ七奇に向けて、四奇は軽く微笑した。それに七奇も笑い返す。 「師兄も、寂しくなったりすることがあるのですか?」 「何を言うかと思えば……老六に何か聞いたな」 ドキリとする。さすが、恐ろしいほど察しがいい。 「余計なことを……言っておくが、夏がどうとか関係ないよ。老三が気にしすぎなんだ」 お節介焼きなんだよ、と言いながらも、口調に厭わしげな響きは無い。心から煩わしいと思っているわけではないのだ。 三奇と気遣いという単語が未だにしっくりと結びつかないが、七奇は言った。 「今度ちゃんとお返しします」 「ブッ」 すかさず噴かれ七奇は眉根を寄せた。何か可笑しなことでも口走っただろうか。 小刻みに肩を震わせ、四奇は抑えた手の下から囁いた。 「お前、ほんっとに真面目だな。ゴチャゴチャ気を回さないでいいから寝ろ」 「あた」 ベチンと額を掌ではたかれる。そして、ぽんぽんと背を叩かれた。あの時のように。 「言っただろう、寝ないガキは育たないって」 「……ガキじゃありません」 「八つのくせに」 「自分だってまだ十四のくせに」 憎まれ口を叩きながらも、大人しく目をつむる。 暑さを厭ってか腕に抱えることはしなかったが、それでも背中を打つ一定の拍に安心感が生まれる。 自分の手は小さい。自分の腕は誰かに恩返しをするにはまだまだ足りなすぎる。いつも人々から与えられるばかりで、返すことができない。 大きくなりたい。強くなりたい。身体も、能力も、頭才も。得たものと、同じだけの大きさを返すことができるように。 今度は与えられるだけでなく、自分が与えられるように。 いつかきっと。 翌日、屋敷に戻った水鏡老師は、弟子達の姿が見えないことに首を捻った。 「はて、一体どうしたというのじゃ」 「さぁ……」 一奇も怪訝そうに周りを見回している。先ほど二奇の房間を覗いてみたが、誰もいなかった。 何かあったのか、と二人が思い始めたころ、 「ああ、老師」 背後から掛かった声に、水鏡老師と一奇は振り返った。 「おお、華大夫か」 「お戻りでしたか」 水鏡老師たちから遅れるようにして門をくぐり向かってくるのは、すでに馴染みである医師だった。彼は片手に今朝摘んできたばかりと思われる薬草の籠を抱え、二人に軽く拱手した。 「先ほどな。そちらは四奇の?」 華佗はおどけた風に肩をすくめる。 「ええ、昨日、倒れたと老三から呼ばれましてね。まあ何ということはない、ただの夏バテでしたが、一応念のためもう一度診察しておこうかと」 「いつもすまんな」 「いやいや、仕事ですから」 華大夫、と一奇が横から呼びかける。 「ほかの師弟達を見ませんでしたか」 「師弟? ――――ああ」 途端に華佗は仕様もなさそうな苦笑いを浮かべる。 「きっとこちらですよ」 そう言って案内したのは、四番目の弟子の房。 そして扉を開けてみれば―――― 「……」 一奇は絶句した。水鏡老師も、見えぬまでも気配で大体察しが付いているのだろう、深々とため息をついた。その後ろで、華陀がなんともいえずぬ笑みを浮かべている。 「何をしておるんじゃこやつらは……」 「さぁ……とりあえず、老四を救出したほうがよさそうですが」 ぎゅうぎゅう詰めにつまった牀台の上は、まるでそこだけ嵐が起きたかのようなありさまだった。 そして皆の寝相にさらされ圧し掛かられている四奇が、青い顔でひたすらうなされている哀れな姿が、そこにあった。 |