Weakness




 叔父に手を引かれ其処へ連れて来られたのは、まだ七つのころだったかと思う。
 奥深い山の中。寒い冬の日だった。空がどこまでも青く、無声の静けさと、不意に去来する空虚さを、今でも鮮明に覚えている。
 天網のように腕を広げる枝々は、季節が巡れば鬱蒼と深い緑に覆われるのだろう。しかしその時は、ただ静かに枯れ姿を晒しているだけだった。
 色あせた木々に囲まれる山道を抜ければ、重厚な造りの門構えが見えてくる。落ち着いた古木の色が、山中にあってより寒しげな空気をかもし出していた。
 出てきた使用人と思わしき男に案内され、門を跨ぐ。内側の建物も、門にそぐわしい、粛々とした居住まいを湛えていた。
 そこで『先生』と呼ばれる老人と叔父の間で、一体どんな会話が交わされたのかは知らない
 ただ幼い自分は、大人たちの話が終わるまで、広く静かな屋敷の周りを一人であてもなく散策していた。
 自分が子供よりも子供らしくない自覚はあった。
 同世代の者たちよりも、興味の向く方面も、耳の傾く方向も、そして目の行く先も遥かに異なっていた。どこか冷めた目で、無知で無邪気な友人たちや、周囲の大人たちを見ていたと思う。
 恐らく自分は、人よりも少しばかり見えるものが多かった。だからだろうか。自分が此処に連れて来られた理由も、なんとなく分った。―――自分はここに預けられるのだ。
 物悲しい思いが胸を締め付ける。

(大兄は、心配するかな)

 遠く、叔父の家に残されたたった一人の兄のことを思う。何も言わずに来てしまった。せめて事前に叔父が言ってくれていたのなら、出去の前にちゃんと別れも告げられただろうに。
 それとも、言えば自分が嫌がって来ないとでも思ったのだろうか。
 そこの屋敷が静かすぎたのかもしれない。山中にぽつりと佇む一つの家屋は、まるで俗世から隔てられた、孤立した別世界のように感じられた。きっと、無性に泣きたくなったのはそのせいだ。
 彷徨う内に、最早どこだか分からないところまで来て、とうとうしゃがみ込んだ。
 哀しかった。
 何故だかは分からない。ただとても辛くて、切なかった。
 どれだけそうしていただろうか。

「……七奇?」

 唐突に声が上から降ってきた。
 あまりに不意のことだったから、酷く驚いて狼狽した。
 慌てて首を巡らせば、欄干の所に一人立ち、こちらを見下ろしていた。
 自分より歳は大分上であろう。柔らかい髪と、その色に添うような柔和な面立ちが印象的だった。一瞬女人かと思ってしまったが、よく見れば男だということも落ち着いてみて分った。

「君が七奇だね?」

 彼は優しげに微笑むと、その称を繰り返した。

「『七奇』?」

 聞きなれない、ましてや自分の呼び名とも結びつかないそれに、小さく訊き返す。

「そうだよ、老七」

 その人は傍まで歩み寄ってくると、しゃがみ込んで目を合わせた。

「ここでは、今六人の水鏡先生の門下生が暮らしている。君はその七番目の弟子だよ」

 そう言うなり、彼は自分の身体を抱き上げた。
 さすがに驚いたが、暴れるのも気が引けたし、それ以上に抱かれる心地が良かったこともあって、おとなしくされるままに収まっていた。

「ようこそ、老七。私は二奇。君よりも五人上の兄弟子になる」
「ニ師兄?」

 ぎこちなく呼ぶと、二奇は肯定の意を含めて微笑んだ。

「おいで。他の師兄達を紹介してあげよう」

 腕に抱いたまま、二奇は更に庭の奥の方へと足を進める。すると、建物の一角を過ぎたところで、中庭院が目前に現れる。四方に吹き抜けの回廊が巡り、庭に面して数々の室の窓と裏戸口が並ぶ。
 その中央、樹木草花を品よく配した庭園空間には今、二人の人物が地に座り込み、向かい合わせになって何かに興じていた。

「老五、老六」

 二奇が呼べば、その二人は顔を上げ、こちらを見た。
 一瞬ハッと息を飲み込む。
 一人は、ようやく歳が二桁に差し掛かったところだろうと言えるのに、二奇に劣らず美しい見目だった。大きくなればかなりの美形に育つだろう。女にも見えるが、もしかしたらこれも男かもしれない。
 そしてもう一人は―――顔に奇妙な細工を施している少年だった。
 歳の頃は七奇とそう変わらないように見える。「老五」と「老六」と呼ばれたあたりから窺えば、恐らく実際にそれほど差はないだろう。

「五奇に六奇だ。君から見れば一番歳の近い二人だな」
「え、何。ということは、それが七奇?」

 面白おかしそうに指差したのは、六奇と呼ばれた化粧の少年だ。不躾な態度に、いささかムッとする。

「うっわーこいつの眉毛、老五とそっくり!」

 そう言われた五奇は、ただ無言のまま、幾度か瞬きをしてじっと見つめただけで、すぐに興味を失ったように視線をはずした。なんだかその態度にも、釈然としない思いを抱く。

「こら、老六。人を指差すんじゃない。仮にも師弟に向かって『それ』はないだろう。お前もこれからは兄弟子になるんだから、もう少し礼儀正しくしなさい」
「へーい」

 耳たこだとばかりに軽く受け流す六奇に、二奇が嘆息する。

「気を悪くしないでくれ、老七。老六はいつもこんな調子だから」

 苦笑気味に言われ、首を横に振った。そこまで自分も子供ではない。ただ、この中でこれからやっていけるかどうか、そればかりが少し気がかりだった。

「なんだ、見慣れない(わっぱ)がいると思えば」

 背後からかかった、やや低い声音。
 振り返った二奇が、ああ、と声を漏らす。

「老三」

 見やれば、長身の青年が近づいてくるところだった。
 笑みを浮かべてはいるが、なんとなく気を許しがたいような―――あまり好ましいとはいえない印象を抱く。読めない笑顔の裏の暗黒を垣間見たような気がした。

「ほう、お前が七番目か。なかなか癇の強そうな顔をしているな」

 そう言いながら、二奇の肩口から顔を覗き込む。

「ん? なんだか老五みたいな眉だな」

 六奇と似たような感想を口にしたかと思えば、何の断りもなくいきなり両頬をつかんで引っ張っられた。

「ほらほら、顔が強張ってるぞー? そんな睨むなよ。別にお前から何も取ったりはせんさ」
「老三!」

 二奇の怒気に、三奇はパッとつかんでいた手を離す。反動で変な声が出た。頬が熱を持ってひりひりする。その様すらも、三奇は楽しんでいるようだった。

「老七をあまりいじめるなよ。まだここに来たばかりなんだから」
「いじめ? そりゃ誤解だ老ニ。歓迎の表現だよ。こうして師兄弟の親睦を深めてるんじゃないか」
「見え透いた嘘を言うな」

 心外だ、とばかりに肩を竦める三奇は、しかしやはり顔が笑っているままだった。
 再び二奇が横で溜息をつく。なんだかだんだんこの兄弟弟子たちの関係がわかって来た気がした。
 とりあえず三奇は絶対キライな人間だ、と心中で確認する。

「まぁ、どうせこれからは嫌でも顔を合わせるんだ。せいぜい仲良くすることだな」

 まるで他人事のようにそう言い置くと、三奇は二人の前を通過して悠々と去っていく。

「……老七」
「大丈夫です。気にしてません」

 歳のわりに存外しっかりした返答を聞いてか、二奇は軽く瞠目すると共に苦笑した。

「……えっと、あと一番目と四番目の師哥は?」

 今まで会った兄弟子たちを順番に思い浮かべて、欠けている頭数を見出す。
 二奇は少し困ったように首を傾むけ、

「大師兄はご実家の方に戻られているところで、今はいないんだ。老四は……」

 一旦切るようにして、息を吐く。

「老四は生まれつき身体が弱くてな。今は臥せていて、会うことができない」

 全快したらちゃんと紹介してあげよう、と二奇は約束した。




 それから庭院を抜けて、回廊の一端にある室に向かう。此処が老七の(へや)だと告げられ、綺麗に片付けられた室内を見渡す。すべてこの日のためにそろえられたのだろうか。室の中の物たちは、持ち主となる者をずっと待っていたかのように、ひっそりとそこにあった。
 どこかまだ自分のものと感じられぬ違和感の中にあって、四方を見回した。二奇が気を使ってくれたのか、「夕飯時になったらまた呼ぶから、しばらくゆっくりしておいで」と言って出て行った。
 それからしばらくして、両目を布で覆った老人がやってきたのだ。
 彼が此処の門下生の老師―――水鏡先生なのだと知った。
 ふと思い出して叔父のことを尋ねれば、すでにすべてを託し、帰ったと聞いた。兄と同様、ちゃんと別れも告げられぬまま去ってしまった。そのことがまた、正体の分からない胸の疼きを呼び起こした。
 それからまた他の師兄たちが顔を覗かせに来たような気がする。
 でも、よく覚えてはいない。ただわけも分からない思いだけを抱いて、牀台に突っ伏していた。何も考えなかった。あえて、何も考えたくなかった。




 日暮れの時刻になって、二奇が再び訪れた。正直あまり食べたくはなかったのだが、心配そうに体調を窺ってくる優しい師兄に申し訳なくて、ゆっくりとあとについて行った。
 夕餉の席にもやはり二人の兄弟子の姿は見当たらなかった。当然といえば当然のことだったのだが。
 確か隣に座っていた六奇が、(おかず)の肉包子をひとつ掠めとったのは、その席でだったか。あまりの急なことに、怒るどころか呆然としていた自分を哀れんだのか、逆隣の五奇がそっと己の皿からとって置いてくれた。
 年齢もそう変わらぬ相手にまでそのように気をつかわれたのは初めてで、何だか急に自分が激しく恥ずかしく、無性に歯痒かった。そういう感情を抱いたのも、初めてであった。
 笑いに満ちて明るい食卓。和気藹々とした空気は、叔父の邸でとそう変わらない。
 それでもまだ自分がここの者ではないような、何か異質なものであるかのような、微妙な居心地の悪さを拭えずにいた。




 講義は朝餉の後、鐘の音とともに起床だから起こしに来ると言った二奇に、しかし首を振って大丈夫と告げた。別に早起きは苦手ではない。もしかしたら自分はそこまで幼い童子ではないと見栄を張りたかったのかもしれない―――まだたかだか七つなのに。
 二奇は、しかしそのちっぽけな矜持に感づいていたのか、あえて何も言わず微笑んだ。
 ただ、もし一人が心細かったり家が恋しくなったりするようだったら、遠慮なく言っていいのだからな、と言った。ここに来た時は、皆最初はそういうものだから、と。
 だがこれにも、やはり自分は首を振ったのだった。

 心細い?―――そんなこと、あるわけない。

 それでも、暗くなると何故だか眠れなかった。
 火は消され、かろうじて視界を照らすのは、戸口や窓の格子蔀から入る月と星の光だけになる。重厚な様相の建物が、よりずっしりと圧し掛かってくるように感じられた。外のほうがよほど明るかった。
 ただでさえ閑静な山中の屋敷で、さらに静寂が押し包む。
 いわれのない苦しさが、しくしくと迫る。身体の胃や心臓を緩やかに締め付けるような、曖昧な圧迫感。
 ひどく寝苦しかった。緊張のせいだとも思ったが、それ以上に身体が眠りを拒否していた。息がしにくくなり、新鮮な空気を求めるように何度も大きく吸い込んでは吐く。それでも、圧迫感は増すばかりだった。
 そのとき、明るい表が目に入った。暗闇の房間の内から見る外は、ずっと開放感に溢れて見えた。
 水を求める魚のように這い出し、冷たい石の回廊をペタペタと裸足で歩く。ざらざらした感触と、ひんやりした心地が、足の裏から伝わってきた。冬の夜の凍えるような冷気が薄い夜着のままの身体を撫でる。それでも、上着を取りに戻ろうとは思わなかった。

 日が落ちてより刺すほどに硬く澄んだ風を吸えば、胸の締めつけがふっと楽になった気がした。夜に見る庭院はどこまでも静かで、昼とはまた違った印象に見える。もっと不可解な、忘れ去られた古人の遺物のようにも感じられた。
 そのまま、どこをどう彷徨ったかは分からない。ただ心落ち着く場所を求めて、足裏に感じる触覚のまま、歩き続けた。
 そして、ふと気がつけば此処へ来て最初に座り込んだあの場所へ辿りついていた。
 あの時は欄干の下だった。
 そこを勾覧の上から見下ろし、何となくそのまま傍の階に腰を下ろしす。
 気分が入れ替わるかと思ったのに、苦しさは前以上に胸を酷く蝕んでいた。
 両膝に顔を埋めるようにして、縮こまる。身体の芯にまで染み入るような寒さが、よけいそれを際立たせた。

 苦しい、苦しい。

 ふと二奇の言葉が耳の奥に蘇ったが、その場で首を振った。こんなことで、迷惑をかけるわけにはいかない。
 けれども、どうしようもなく苦しかった。苦しくて―――そして切なかった。
 何がそうさせるのか、人よりは賢いと思っていた自分にも分からなかった。
 ただ、少しでも内に宿ったぬくもりに閉じこもろうとするように、小さく丸くなって身体を抱きしめた。

「……誰かいるのか?」

 ビクッと背中が跳ねる。
 心臓が飛び出すのではないかというほどバクバクした。
 少し上体を持ち上げて、恐る恐るゆっくりと首だけで斜め後方を見やる。

「誰だ?」

 繰り返し問う声。
 視界に入ったのは少年だった。自分よりは年上の、しかし青年と呼ぶにはまだ幼い少年が、柱に手をかけて、こちらを見つめている。月明かりに浮かぶ面は青白く、どこかぼんやりとした表情をしていた。風が吹いて、肩口までのその黒髪が揺れる。ふと、眠たげな瞳が、合点がいったように眇められた。

「ああ、そっかお前が……」

 口の中で小さく呟いて、軽く咳き込む。

「どうした、そんなところで」

 雰囲気に似て、ゆったりとした声音だった。
 なんと答えていいかわからず、言葉を捜しあぐねていると、重ねて問いかけられた。

「眠れないのか?」
「……」

 これにもまた答えられずにいれば、クスリと笑われる。

「一人じゃ眠れないか」
「……違う」

 思わずムキになって、そう返した。そしてハッと気づく。はじめて声を発したのだった。

「隠すことはないさ。眠れなきゃこんなところにはいない」
「眠れないけど、別に一人だからじゃない」
「……お前、結構見栄っ張りだな」
「見栄じゃない」
「ウソつけ。顔に思いっきり苦しいって書いてある」

 ハッとしたのは二度目だった。
 同時にドキリとした。覗き込まれたかと思ったのだ―――心の中を。
 プッと、その少年が噴き出した。

「図星だろ。俺、読心術は得意なんだ」
「…………違う」

 それでも、面白くなくて頑なに否定する。
 彼は、やれやれとばかりに嘆息し肩を竦めた。柱に寄りかかるように肩をつける。

「今回はまたえらく意固地なガキが来たな」

 そんなぼやきが聞こえて、カチンときて反論しようと身体を返した。

「寂しいんだろう?」

 目を見開く。口から出掛かっていた文句が、瞬時に形を崩したように消えた。
 さみしい?
 その単語が、歯の合わない歯車のように、あまりにも自分の心中にそぐわなくてきょとんとする。―――いや、違う。これ以上もなく、ストンと胸におさまったのだ。そぐわないように、無意識のうちで頑なに考えないようにしていたのだ。
 苦しい、辛い―――寂しい。
 すべてが慣れ親しんできたのとは違う環境で、急に景色が、触れる世界が変わってしまって―――自分の居場所が、自分を自分と知り認めてくれる人がいなくて、ひどく心細かった。
 別れを惜しんでくれる人に会えなくて、切なかった。
 一人で残されて、本当は寂しかった。
 周りに人が多くいても、心は孤独を感じていた。

「ほら、来いよ」

 顔を上げる。言われた意味がよく理解できずに、その白面を見つめたままぱちくりと瞬きを繰り返した。
 少年はどこか倦怠感の漂う顔で、

「仕方ないから今日は一緒に寝てやる」

 それでも差し出された手を呆然と見ていると、彼は疲れたように溜息をつき、傍まで寄ってきた。

「俺も寝つけなくて誰か探していたところだったから丁度いい」
「え?」
「いいから来いって。さすがにもう寒い」

 おずおずと手をつなぎ、引かれるままに立ち上がった。
 彼の房は、本当に目の前だった。丁度戸を開けて出てきたところだったのだろう。
 初めて踏み入れる他人の生活空間だ。しかし内装はそう自分の房と変わらない。ただ、書物の類が室の隅々に散乱するほど多量だった。そうしてふと、あの室を自然に『自分の房』と思ったことに気づく。
 彼は牀台に横になると、隅に寄って一人分の隙間を空けてくれた。
 まだどこか理性で躊躇っていれば、「ホラ」と急き立てられた。帰れと言われるのが恐ろしくて、慌てて潜り込む。―――ここでやっぱり帰るという選択肢が思い浮かばなかったどころか、帰れという言葉に恐れを感じた時点で、完全に彼の言を認めたことになったのだろう。思い至ったとしても、恐らく選ぶのは同じ結果だろうが。
 潜り込んだ牀台は、暖かかった。そうして、ようやく自分の手足どころか身体全体がひどく冷たくなっていたことに気づく。あれだけの寒さの中にずっといたのだ、当たり前だった。

「よく見たらお前、変わった眉してるな」

 今更気づいたように指摘される。自分の眉の形が、普通に比べて少しばかり奇抜なのは嫌になるくらい知っている。
 ムッとして、言い返した。

「人のこと言えないくせに」
「失礼な、俺のは生まれつきだ」

 自分だってそうだ、と勢い込んで反駁すれば「ああハイハイ、いいから寝るぞー」と抱き込まれた。小さい子供にそうするように、背中を小さく叩かれる。
 もう腹は立たなかった。固く強張っていた身体の緊張が、少しずつ解れてゆく。人の肌の暖かさが、ひどく安心した。不思議と、もうあの息苦しさはなかった。

「あの、訊いてもいいですか?」
「んー?」
「さっき『誰か探してた』っていうのは」
「ああ、ちょっとな……今夜は冷えるから」
「? それってどういう……」
「……」

 答えを聞く前に、彼は早々と寝入ってしまった。寝つけないと言っていたわりにずいぶん寝つきのいいことである。
 消化不良の疑問を抱えたまま、しかし仕方なく、自分も瞳を閉じる。
 より暖を求めて、身を寄せる。鼓動とぬくもりを感じていると、安堵感からか、徐々に睡魔が襲ってきた。
 そのまま安らかな波に誘われるように眠った。




 翌朝、鐘が鳴る前に、その房間の前に立つ者があった。

「老四ー、生きてるか?」

 軽く扉を引きながら、許可も得ず堂々と踏み入る。

「昨日は一際寒かったからな。ほれ、薬を持ってきてやったぞ。具合はどう……」

 だ、と言おうとして、牀台に眠る二つの小さな影を目にし、思わず口を噤む。
 驚いたように、仲良く寝息を立てているものたちを凝視した。
 それから「ナルホドな」と呟きニヤリと唇の片端を上げると、一度室の外に戻って、同朋に声をかけた。

「おい、老ニ! 老ニー! ちょっとこっち来てみろ。面白いものが見れるぞ」
「何なんだお前は、朝っぱらから……」
「いいからいいから、な」
「それよりも老三、老七を見なかったか? 房に姿が……」
「その謎もすぐに解けるさ」

 朝の支度を整えている最中で、袖を無理やり引っ張るようにして連れて来られた二奇は、最初眉間に皺を寄せながらも、三奇が唇に当てた人差し指が差し示したものを見、呆気にとられた。

「室にいないと思えば……」
「全くって感じだよな」

 堪えきれぬとばかりに身体を震わす師弟を横目で見やって、ハァと二奇は息をついた。
 それから牀台の内を見比べて苦笑を浮かべる。

「まだ起床までには時間がある。もう少し寝かせておいてやろう」

 寝る子らを起こさぬように小声で言いながら、三奇の背中を押す。

「くっくっ、しばらくはこれをネタにできるな」
「……老四には効かないだろうよ」
「チビの方に決まってるだろう?」
「あまり老七をいじめるなと言っただろう」
「何、これも親愛の表現さ」
「お前の親愛の表現は分かり辛すぎる……」

 言い合う声が徐々に遠ざかってゆく。




 身体を包む柔らかくぬくぬくとした心地に、もう少しこのまま眠りを貪りたいという欲と、初日で寝坊などと恥はかきたくないという理性が働き、ふと瞼を押し上げた。
 このままもう一度目を閉ざせば気持ちいいだろうに、と甘い誘惑に誘われながら、ぼんやりと目前のもう一つの気配を見た。そしてはたと思い出す。
 回された腕の重みを感じる。いささか顔向けがしにくい状況だった。そのまま硬直して、半分まどろみの中に足を突っ込んでいる状態で昨夜のことを反芻する。
 さすがに気まずさもあって、のそのそと腕の下から身を起こす。
 しかし胸は妙にスッキリとしていた。日が明けてみれば気持ちは落ち着くとことに落ち着くものらしい。あれほど感じていた違和感も拍子抜けするほどあっさり抜け落ちている。
 眠気と一緒に、昨夜までのすべての「負」が洗いざらい流れ去っていたようだった。
 妙な感慨ともに、未だに起きる気配の無い人物の顔を見下ろす。
 日の下で見た面は、思ったよりも随分幼かった。ただ、顔色の悪さはどうも月明かりのせいばかりではなかったみたいだが。
 このままどうしようか……と思っているうちに、鐘が遠くで鳴るのが聞こえる。
 ハッと戸を振り返った。鐘は起床の合図。昨夜は断ったが、二奇の性格ならば様子見がてら房に来るかもしれない。さすがに朝一番で自室にいないことに気づけば心配をかけるだろう。
 自分はもう行かなくてはならない。迷ったあげく、あとで改めて礼を言うために、せめて名前だけでも―――と、彼の肩を躊躇いがちにゆする。だが起きない。

「あの……」

 声を掛けてみたが、全く反応がない。
 困り果てて、もう少し強くゆすってみる。

「……んー」

 ようやく反応らしい反応があったと思ったが、唸りのみで起きる気配は全くだった。

「あのう、すみません」

 忍耐強く声を発すれば、何度目かでやっと薄くその目が開いた。
 が、

「煩い。寒い。眠い」

 剣呑に眇められたかと思うと、実に明快な単語だけで返し、再び寝入る体勢に入った。

「うぎゃ、ちょっと待った! 起きて下さい!」

 しかも引っ張られ、枕代わりのように抱き込まれた。

「湯たんぽはもっと静かにしてろよ……」

 もごもごとそう呟き、再び寝息が立つ。
 そこでようやく気づく。自分が一緒に寝ているわけ。彼は『丁度誰か探していたところだった』と言っていた。それはつまり―――

「もしかして……暖がわり……?」

 昨夜は、自分的には結構重く深刻で真剣な感じだったというのに。
 軽く衝撃を受けながら、この体勢でさてどうしよう……と混乱する頭を宥めて方策を練りはじめたのと、外から忙しない足音が近づいてきたのはほぼ同時だった。

「老四ー! 約束のもの、水鏡先生の部屋からくすねてきたよ! さあ今日の試験のヤマを教えてくれ!」

 バンッと勢いよく戸を開いて開口一番叫んだのは――――春画を片手にヒラヒラとたなびかせた、六奇だった。

「って、あ?」
「あ」

 ばっちり目が合った。
 時が止まる。
 ついでに表情も動きも凍結する。
 一人、牀台に沈み込んでいた人物だけが、場違いにのんびりとした呟きを発した。

「んー……何だよ朝っぱらから煩いなぁ……」
「老……四?」

 ぼんやりと、その人物を見下ろす。
 まさか彼が?
 六奇を見る。
 彼は相変わらず春画片手に固まったまま、あんぐりと大きく口を開け、残ったほうの手で指差している。
 しかしその顔は、まさに「マジで噴き出す五秒前」といったもの。
 老七こと七奇―――こと自分は、この日からこれをネタに永遠にいじられ続けるであろうことを悟り、今後の己の運命を覚悟した。




MENU