洛陽の(あか) 月影の青 燃えたつ黄金(きん)の森の影

うたかたの日々 彩るものは 切ないほどの愛おしさ




美貌の




 誰ぞに街まで用を申しつけようかの、と老いた教師が呟いたのは、ある麗らかな夏の日の昼だった。
 その日は七日に一度の休日。昼餉を済ませ、みなが共有の堂で思い思いに午後を過ごしている時のことだ。
 聞き慣れぬ単語に、六奇と弾棊をしていた七奇はふと顔を上げた。―――まち?

「さて、誰に行ってもらうか…」

 髭を扱きながら独り言のようにごち、水鏡は首をめぐらす。布の下の盲目は、実は見えているのではないかと七奇はしばしば思う。

「四奇」
「ハーイ」

 指名を受けた四番目の弟子は、三番目と真向かいになって碁盤に目を落としつつおざなりな返事をした。

「よし、詰めだ」
「ムムム」
「これで15勝14敗だな。先に15勝した方が教室の掃除一回肩代わりだって約束だよね」
「うークソ……」

 珍しく渋面を作っている三奇に、四奇はしてやったりと笑いながら立ち上がった。軽く伸びをして、水鏡の方を向く。

「何用ですか」
「清書堂の張元殿にこの文を届けてくれ」

 「遵命、師父」と答え、水鏡から黒塗りの小さな函を受け取る。

 あの四奇のことだからさぞかし面倒くさげな態度をとるかと思えば、案外あっさり―――むしろ心なしウキウキとした様子であることに、七奇は内心吃驚した。

「それじゃ早速」
「待て四奇。もう一人につける」

 えー、とあからさまに嫌そうな表情を浮かべる。

「俺一人で行けますよ、子供じゃあるまいし」

 それに対し、水鏡は厳かな声音で告げた。

「万が一具合でも悪くなって行き倒れたら誰が知らせる。第一お前はすぐ道草を食うじゃろうが。―――七奇」

「は、はい」

 まさか呼ばれるとは思ってなかった七奇は、思わず声を詰まらせながら慌てて返事をした。
 水鏡の双眸―――とはいっても隠れているが―――が真っ直ぐ最年少の弟子を射抜く。

「お前、ついて行け。まだ山下の街には行ったことがなかっただろう。四奇について、道を覚えるがよい」
「はい、先生」

 視界の端で四奇が「げー」という顔を作っているのが気にかかったが、老師の言いつけとあれば断るわけにもいかない。

「ついでに四奇をしっかり見張っておれよ」

 しっかり釘を刺され、頷くしかない。
 街は楽しいぞー、とこっそり耳打ちしてきた六奇を横目で見ながら、七奇は当惑気味のまま、支度をすべく立ち上がった。
 思えばこれが入門以来はじめての外出だった。




 水鏡先生の私塾の門を叩いた時は、冬の寒い日だった。
 今は季節がめぐって、夏。山道を、あの時とは逆に辿っていく。
 笠も面も今はつけてはいない。つけると小さな街では逆に目立つと、いたって普通の装いで出掛けていた。
 歩きながら、七奇は隣の四奇をこっそり見上げる。出てくる前の不満そうな態度から、自分がついてくることで不機嫌になっているのではないかと心配したのだが、見た限り怒りの色はなかったのでホッと胸を撫で下ろした。

「一本道だから迷うことはない、お前も来る前に一度通っているだろう」

 不意に言われ、「え?」と声を上げる。それから昨年の記憶を掘り起こす。―――そういえば確かに、山中に入る前にひとつ街を通った気がする。しかしひどくおぼろげで曖昧な記憶だった。
 やがて見えてきた街並みや建物の屋根を見ても、やはり記憶にピンとくるものはなかった。

「こちらは街の南東側だ。大体は南門から入る。そちら側が市街だからな。清書堂―――普段先生が懇意にしている書具の店も街南にある」

 あっち、と、坂の上で四奇が指差した方を望めば、版築の壁に囲まれた中に、人々が出入りする門が見えた。

「だが、今日は東門の方から入ろう」
「どうしてですか?」
「近いから」

 でも先生は東門からは入るなと言うけどな、と付け加えられた言葉に、七奇は小首をかしげた。

「まぁいいから来てみな」

 あえて詳しくは語らず、のんびりとした調子で四奇は東門に向かって歩き出した。来てみれば分かるという四奇の言外の含みに、七奇も大人しくあとについてゆく。
 南門より近場に見えた東門には、そう時もかけずに辿りつけた。
 入る前に多少緊張していたものの、しかしいざ東門をくぐって見れば、さして何がどうということもない普通の街の様子のように感じられた。老師が何を以ってそのように禁じているのか、七奇にはよく分からなかった。
 無言の四奇の後ろをついていきながら、しかしやがてその理由を悟った。

 道の端々に座り込む人々。色どころか原型も定かではないほどにボロホロになった布を身につけ、そこから覗く垢にまみれた手足はまるで木の枝のようだった。破れた茣蓙を敷いて寝ているものもいれば、まさに着の身着のままといった状態でいる者もいる。異臭が漂う。老人とも若者とも性別すらはっきりしない人々。どの人の前にも器がおかれているが、中には何も入っていない。
 七奇は無意識に歩調を速めて、前を行く四奇に身を寄せるようにする。戦乱によるこういった難民を見ることは初めてではなかったが、言い知れぬ恐怖を感じた。こちらを見る幾対もの目。ギラギラと異様に輝くその強烈なまでの視線。胸の奥がザワリとする。焦燥のような、無性に急かされるような、堪らない感覚。
 衝動的に兄弟子の服の端をつかもうとして、寸前でためらう。小さな子供ではあるまいし、と嘲笑われるかもしれぬという意識が、その行動を留めさせた。
 すると、所在無く宙に浮いていた手が掴まれた。驚いているうちに、ごく自然な流れで手を握られる。
 顔を上げれば、兄弟子は何ということでもないように、いつもの表情で前を見ていた。七奇は躊躇いがちに自分よりもやや大きい手を握り返す。そうすると少し安心した。

「ちょっとあそこ寄っていこう」
「え?―――うわ」

 急に進行方向とは別の方角に手を引っ張られて、七奇は目をしばたたく。
 四奇の目線の先を辿れば、その先にあったのは菓子をならべている屋台。ほのかに甘い香りが鼻をくすぐった。
 おいしそうだなと思いながらも、すぐさま七奇は頭を振る。

「駄目ですよ、老師は寄り道するなと」

 しかし四奇はそんな言葉も聞いていない。戸惑いながらも必死に制止するが、引っ張られるままにそちらに来てしまう。―――四奇はこう見えて腕力が強いのだ。

「金銭餅だ。先生は自分でこっそり独り占めしてなかなか食べさせてくれないからな」

 嬉しげに呟きながら屋台の親父に注文しようとして、ふと七奇を見下ろした。

「お前は?」

 七奇はブンブンと首を振った。本当はちょっと欲しい気もしたが、老師の言いつけを破ることに罪悪と抵抗を感じ、理性で我慢する。
 ふぅん、と四奇はどうでもよさそうに鼻を鳴らし、じゃ三つ、と告げる。
 一体どこで溜めた金なのか、四奇は悠々と懐から財布を取り出して代金を支払い、商品を受け取る。それを背負った荷から取り出した布に慎重に包むと、再び荷の中に戻す。

「三つも食べるんですか?」
「いや。残り二つは老三と老六の土産さ」

 誰かが街に出たときには買ってくるように決めてるんだ、と答えた。今更ながらに微かに勿体無かったかな、と未練を感じ、七奇はそんな感情を追い出すように首を振った。

「なんだ、やっぱりお前も欲しいのか?」
「いえ、いいです」

 妙に意地を張って言うと「頑固なガキ」と返ってきた。
 憮然としていれば、また四奇はすぐさま興味を別のところに見出した。

「お、あそこ。あそこ寄るぞ」
「え……て、師兄! 先生から……」
「あーいいっていいって、そんなもん」

 良くない、と主張したが、当人はやはり聞く耳持たずだ。七奇を無視して四奇はスタスタとその建物に近づく。妙に煌びやかな、色彩派手派手しい店だ。
 店先で退屈そうにしていた店子らしき女性が、四奇を見て笑顔を浮かべる。

「アラ、坊やじゃないの。いらっしゃい」

 親しげな雰囲気から、四奇と知り合いだと知れるが、七奇はなんとなくその店に近寄りがたかった。何だかとてもいけないものに触れるような―――
 とか躊躇しているうちに、女性に呼ばれて店内から幾人か別の女性がわらわらと出てくる。

「こんにちは」
「街に来るの久しぶりじゃないの」
「姐さん達も相変わらず元気そうで」
「ヤッダァ、いつもながらマセた子ねぇ」

 フフフ、と笑い声が上がる。にわかに女性に押し包まれるようになった師兄の姿に、どうしていいか分からず七奇はうろたえる。八つとはいえ、知っているものは知っている。これは―――オトナの来るところだ。

「あら、この間のカワイイ子は一緒じゃないの?」
「五番目は来てない。今日はアレ。新入りだよ」

 笑って答えながら、四奇が振り返る。

「おい、何だよ。そんなところで何してるんだ」

 七奇は思わずビクッとする。呼ばれても微妙に困る。
 おずおずと近づけば、急に抱き上げられた。ほのかな香りが鼻を掠める。

「うわ……キャー!」

 気がつけばあっという間に女たちにもみくちゃにされる。たまらず悲鳴を上げた。

「まあ可愛い子」
「ウフフ、坊やいくつ?」

 撫でくりまわされ、頬といわず額といわず接吻され、七奇は頭が真っ白になった。
 一体、一体何なのだろうかこれは。混乱のあまり、脳が回らない。
 気が済むまで存分に遊ばれたあと、女性たちの好意で瓊脂(たまあぶら)なるものを振舞ってもらった。店先の長椅子に座り、四奇と七奇は並んで食べる。

「ふふ、いいだろ? ここにくるといつも気前よくタダで菓子を振舞ってくれるんだ」

 悪戯気に四奇が囁く。七奇は何だか疲れ果て、がっくりとうなだれたい気分だった。ただ暑い中初めて食べる透明の麺はよく冷えており、甘い蜜が絡まっていてとても美味しかった。
 街でははじめて経験することばかりで、衝撃を受けたことも少なくなかったが、何故四奇があんなにも楽しみにしていたか、七奇にも少しだけ分かった気がして、小さく笑った。




 妓楼の女性たちに別れを告げ、ようやく清書堂の張元という店主に書簡を渡し終え、二人は帰路につく。

「今度は西門から出るぞ」
「えぇ!? だって真反対じゃないですか……」

 用事を無事済ませて一安心していた七奇は、大分傾むいてきた陽を見上げた。
 ただ書簡を届けるというだけなのに、かなり時間を費やしてしまった。それというのも四奇があちらこちらへと寄り道をしたからなのだが―――

「早く帰らないと先生に叱られてしまいます」
「大丈夫さ」

 何がどう大丈夫なのか七奇は問い詰めたかったが、四奇はやはり七奇の意向などはじめから無視の方向で、すでに西につま先を向けている。
 七奇は深くため息をついた。自分にこの人を止めるのは無理だ、と諦める。もうこうなってはとことん付き合うしかない。
 その時だった。

「そこの方、どうか食べ物を……」

 目の前に、木の根のような腕が差し出されている。
 その持ち主は、頭を地に擦りつかせるようにして、手を伸ばしていた。

「ご慈悲を……」

 喉を詰まらせながら、掠れた声で乞う。歯は腐って抜け落ちてしまったのか、殆どが欠けていて滑舌もはっきりしない。端の欠けた碗を持つ手も細かく震えていた。
 恥も己も掻き捨てた物乞いの姿に、七奇は哀れみの目を向ける。叔父とともに色々な場所を歩いたが、何処に行っても必ず彼らはいた。
 乱の生むもの。今の漢朝の腐敗の片鱗。
 それでも、今の自分には何もできない。してやれない。
 しかし、そう思った次の瞬間に、横にいた四奇が立ち止まる。荷の中から丸いものを取り出し、無造作に碗の中に入れた。先ほど買った、金銭餅。
 何も言わず、そのまま通り過ぎる。驚きに目を丸くしながら、七奇は慌ててその背を追った。背後から小さく礼を言う声が、何度も何度も聞こえた。

「し、師哥」
「何だ?」
「あの……」

 言いかけた声が尻すぼみになる。
 七奇は、ずっと昔叔父に手を引かれ歩いた時のことを思い出していた。
 小さな物乞いの子供が差し出した手に、そのとき七奇は持っていた乾飯をあげようとした。
 だが叔父は七奇の腕を止めて、首を振った。

『哀れむのは仕方ない。だが、それはならん』
『どうしてですか』

 自分には、何故叔父が止めるのか理解できなかった。目の前に飢えた子供がいる。自分は食べ物を持っている。渡したところで自分は死にはしないが、この子供は死んでしまうかもしれない。渡すことが道理だと単純に思った。
 それでも叔父は難色を顔に浮かべた。

『いいか。たとえ今それを与えて腹が膨れたとしても、この次はどうする。また飢えて、苦しみが伸びるだけだ。中途半端な慈悲は、残酷にしかならない』

 今この場をしのげても、後にまた苦しい思いをする。哀れんで気まぐれに食物を与えようとするのは、持ち得る人間の傲慢なのだ、と。
 その難しすぎる言葉は、今でも耳の奥に焼きついている。
 七奇はその出来事を、躊躇いがちに訥々と語った。
 だが、四奇から返ってきた答えは、七奇の予想をはるかに超えていた。

「ばーか、そんなこと考えてたのか?」

 七奇はぱちくりと目を瞬いて自分より上にある顔を仰いだ。

「与えられたことで恩義に感じるか恨みに思うは、あちらが決めることだ。そいつが幸だと思えば幸だし不幸だと思えば不幸。どっちに転ぶかなんて考えるだけ無駄さ。だいたい俺はゴチャゴチャと面倒臭い理屈をつけて気を回したりするのは嫌いだ」

 ポカンとしながら七奇はただ只管視線を注ぐ。

 ただ、と声色を落として四奇は続けた。

「思うのは、もしそこで命をつなげられたら、その先に何かがあるかもしれないということだ。また別の誰かから恵んでもらうかもしれないし、あるいは盗賊になってでも、食いつないで生きるかもしれない。生き続ければ、戦乱が終わって稼ぎ口が見つかるかもしれない。あるいはひょっとすれば朝廷を助ける人物になるかもしれない。ただ飢えて死ぬだけだなんて、誰が言える?」
「……」
「先のことなど誰にも分からない。推測だけで他者の未来を決めつけ、与えられるものも与えないと言うことこそ、持ち得る者の驕りだろう。その些細な食物で可能性が開けるなら、最後まで足掻けばいいと思う。どれだけ足掻いても、それ以上は生きられないというのでないのなら」

 最後の呟きは、ひどく静かに、しかし強い響きを持っていた。
 なんともいえぬ気持ちが、七奇の胸中に滲む。でもそれは、目からウロコが落ちるような、ハッとした瞬間でもあった。

「師兄はお優しいのですね」

 それは率直な感想で、そして素直に出た言葉だったが、途端に四奇は大いに顔をしかめた。

「やめろよ。俺は老二みたいな善人じゃない。ましてや聖人君子でもない。ただ『欲しい』と乞うから渡すだけだ。そいつのためじゃない。だって後味が悪いだろう?」

 苦々しく言う様を聞いても、やはり七奇は最初の印象をぬぐえなかった。
 この師兄は優しいのだ。突き放すようなことを言いながらも、結局は救いを求める声を無視できない。―――本人がどう思おうと。

「つまらないこと言ってないで、行くぞ」

 癇に障ってしまったのだろうか、四奇はそれ以後むっすりと口を閉ざし、七奇もまた四奇の空気に、口を開けなくなってしまった。
 機嫌を損ねてしまったかもしれない。先ほどまでの楽しい時を振り返り、七奇はガッカリと肩をおとして、重い沈黙に耐えた。
 やがて西の門を通り、街を出る。その先に広がっていたのは、のどかな野原だった。
 七奇は顔を上げ、食い入るように見渡した。
 広く遠くまで背丈のある草草が生い茂り、すっかり傾いた日差しが一面を紅く染めている。昼間にあった青や緑の色は消え、空も原も、今はただ赤かった。
 思わず見とれてしまう。不意にえもいわれぬ懐かしさが去来する。
 それほどまでに、ひどく心を奪われる、そんな風景だった。

「知っているか」

 不意に、ずっと黙り込んでいた四奇が言葉を発した。怒っているかと思っていたが、声色からそんな様子はなかった。
 四奇はただ真っ直ぐ、淡々と赤い草原と夕空を見つめている。その面も、全身も、同じ色に染まっていた。

「空に一片の雲もない明るい夕焼けが見られたら、次の日の天気は晴れだ」
「本当ですか?」
「朝焼けは雨。夕焼けは晴れ。でも少し黒がかった赤色の夕焼けだと雨か曇りだな」

 七奇は感動して兄弟子を見上げる。空を見て天気を読む方法など、知らなかった。
 四奇は軽く笑い、足を草原の中に進める。あるところまで来てしゃがみ込んだ。それに習えば、草むらの影に隠れるように、小川が流れていた。
 その傍の葉を一枚採り、四奇がおもむろに唇に当てる。ややしてから、葉の隙間より微かな音色が流れた。

「すごい」
「やってみるか?」

 勢いよく頷けば、また一つ丁度いい大きさの葉を採り、渡してくれる。

「どうやるんですか?」
「ただ口に当てて、こう」

 七奇は言われたとおりに唇に葉を当て、指で押さえて息を吹く。しかし葉はスカーというなんとも間抜けな空気音だけで、何度吹いても一向に音が出ない。もうちょっと強く、という四奇の言葉通り思い切り吹き込めば、今度はブビーッと妙な音が出た。

「なんだその屁みたいな音!」

 たまらず噴き出した四奇が笑いながら指を差す。七奇はむむ、と眉根を寄せながら懸命に吹くものの、なかなか巧く吹けないようだった。

「お前ヘッタクソだなぁ。音才ないのかな。老五はすぐに吹けたっていうのに」

 老五の名を聞いて、七奇は我知らずムキになった。ムキになって何度も挑戦するが、やはり出るのは変な音だけ。最終的に葉がヘナヘナになってしまい、その有様が妙に物悲しかった。
 それを見た四奇は苦笑し、貸してみろ、と葉を取った。
 器用に端を折りたたみ、切れ込みを入れて組み立てる。
 でき上がったものを、小川に浮かべて流した。

「七夕には少し早いけどな。まぁあれだけ息を吹き込んでれば十分厄落としになるだろ」

 七奇は目を向ける。七夕の故事は知っているが、四奇がやったことが何を意味するのか、分からなかった。

「今のは?」
「笹舟だよ」

 笹じゃないけどと付け加えながら、何だ知らないのか、と四奇が呆れたように両眸を開く。

「笹葉の舟にああやって穢れと厄を移して流すんだよ。厄落としのまじないだ」
「もう一度、もう一度作って下さい」

 しつこくせがまれ、仕方なさそうに四奇はもう一枚葉をちぎり、同じように組み立てる。それを見ながら自分も、と七奇は葉を手に取った。

「ここを千切って……」
「アレ?」
「お前、もしかして不器用?」
「うう」

 何度目かでようやく成功した笹舟を、小川に浮かべる。七奇が一舟完成させる間に、四奇はいくつも作っては流していたが。
 流れていく緑色のものを見送っていれば、四奇がおもむろに荷から布を取り出した。―――金銭餅。
 ふたつ取り出して、ひとつを七奇の方へ差し出す。

「食うか?」
「え。でも、」

 老三と老六のものじゃ、と躊躇う七奇に四奇は肩をすくめた。

「二つしかない。俺は自分を犠牲にする気はないんでね。そうするとあと一つが中途半端だろ」

 ニヤリと笑まれ、七奇も笑い返す。ひとつ受け取った。黄金色は、今は夕色に染め抜かれていた。

「これで共犯だからな」

 口止め料、という四奇の台詞に七奇は再び笑う。もうはじめから共犯だというのに。
 食べ終えてもなお、二人して草むらに座り込み、その先をずっと眺めていた。

「どんなものにも、(のり)がある」
「則?」
「法則と言ってもいい。あらゆる事象の根と(もと)、それらを貫くのが則だ」

 分からない、と首をひねる七奇に、四奇は微笑んだ。

「物事には、大本に相通じるものがあるということだ」

 四奇は呟く。

「則を知っていれば、世事の諸々も分かる。でも則を見極めるには、それだけ多くのことを知らなければいけない。専門知識だけじゃ駄目だ。いくら天文を修めようと、無学の徒でさえ知っている空の見方を知らぬのでは意味がない。笹舟の作り方一つでも何でも、たとえそれ自体が些細な、何の役にも立たないものであったとしても、より多く知れば、それがいつか本質を見極める判断材料になる。雑俗の中にこそ真理はあるんだと思う」

 静かに淡々と言う四奇の言葉は、水鏡が生徒に対して語るものとはまた違う。七奇には、まだそれを完全に理解するには経験も知識も足りなかった。ただ、柔らかな声音が相まって、まるで詩を吟じているようだと思った。
 もっと大きくなれば、四奇の言うことも理解できるようになるのだろうか、と七奇は思う。
 すべて理解できるようになった、その時は。

「……帰るか」
「……はい」

 差し出された手を握る。
 帰路は空と同じ色をしていた。




 すっかり空の色が藍に変わってから帰りついた矢先に、七奇は水鏡から呼ばれた。
 四奇はすでに房間に戻っている。
 やはり寄り道して遅くなったお叱りがあるやも、と心中で覚悟を決めながら老師の室に赴く。
 椅子に腰掛けた水鏡は、入ってきた七奇に対しまさに真正面に座していた。

「ずいぶん遅かったな」
「あ、はい……ごめんなさい」

 先手必勝とばかりに素直に謝っておく。自分としてはこれ以上もなく楽しかった一日なので、後悔はない。ただ水鏡の言いつけを破ったことには変わりはない。
 てっきり今にも雷が落ちるだろうと身構えていたのに、しかし水鏡は深く長く嘆息を零しただけだった。

「あやつめ、またあちらこちら道草を食ったな」
「いえ、あの」
「別にかばい立てせんでもよい」

 水鏡は杖先で床を軽く叩いた。

「それだけ脂粉の匂いを撒き散らしておれば一()瞭然じゃ。全くあれだけ東門から行くなと言うのに」

 身を縮ませるようにして、七奇は耳を傾けた。
 ふー、と再び長嘆息が聞こえる。

「……四奇はな、生まれつき病持ちでの」

 不意に落ち着いた声音でそう告げた水鏡に、双眸を向ける。

「恐らくそう長くは生きれまいと言われておる」
「え……」
「だからできるうるだけ好きにさせているが、本人もそのあたりをよう分かっておるから言うことを聞かんのじゃ。……あれだけの才を持ちながら実に惜しいことじゃがな」

 告げる、というよりも、独り言のようだった。
 何故この老師が自分にそれを聞かせたのかは分からない。しかし、脳裏に昼間の四奇の台詞がよみがえる。

 ―――どう足掻いても、それ以上生きれないというわけでないのなら……

 生まれつき病を持つというのはどんな気持ちなのだろう。何度も臥せって、繰り返し苦しい思いをして、そのたびに治療によって辛うじて命をつなげても、生の限りはあまりに短い。
 それは、どんな思いだろう。

「七奇」
「はい」
「今日は楽しかったか?」
「はい」

 そうか、と水鏡は低く呟く。

「その思い出は、大切にしておきなさい」
「はい、老師」

 七奇は、しっかりと頷いた。
 遠くで、葉笛の音が幽かに聞こえたような気がした。




洛陽の(あか) 月影の青 燃えたつ黄金(きん)の森の影

虚空にひびく音楽を聴く 星の秘密に触れるよう


蒔絵に見える 色あでやかさ 春夏秋冬 風に揺れ

時は変われど 変わらぬものは 人と寄り添う愛しさ




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