夢三夜
〈第夜〉 ~(もがり)




 どこからともなく響いた笛のような音につられて、司馬懿はつと辺りを見回した。
 うらびれてもの淋しい、岩ばかりの道だった。
 だが見えるのは己の周辺だけで、その先は墨を零したような闇と、対照的な白い靄に覆われ、何も見えない。
 霧の幕の向こうからは、軋轢音が聞こえてくる。
 ここはどこだろうかと思った。
 見覚えのない場所だった。

 そうこうして、木偶の坊よろしく茫然と佇んでいる間に、ゴトンゴトンという音がどんどん大きくなる。何かがこちらに近づいているのだ。
 やがて、濃霧を掻きわけるように、馬車が現われた。
 くすんだ暗い色合いの馬車。
 漆黒の毛並みの馬三頭が、濃い灰色をした、広く低い屋根の車を引いている。かつて書物で読んだ、秦始皇が乗っていたという車を彷彿とさせる。
 車の正面には、御者と思わしき人影が、やはり黒い官服を纏い、手綱を持って座っている。
 帽子から長い黒の紗を顔の前に垂らしており、薄く不気味な笑いを浮かべた口許だけが見える。
 司馬懿はただ突っ立って、それがゆっくりと時をかけて近付くのを見つめていた。
 そして馬車が間近に迫った時、紗越しに御者の面立ちが透けて見えた。

―――元龍?」

 遠くで死の淵に瀕しているはずの、かつての戦友の名が思わず口から転がり出る。
 声が届いたかいなか、彼はかすかに顎を動かし、こちらを見た。健康であった時とは比べ物にならないほど痩せこけ、陰鬱な翳りを落とす相貌と、落ちくぼんで昏い双眸は、どこか歪だ。

 ―――何故あいつが。一体何を運んでいるんだ。

 どこかで再び笛声がした。
 黒光りする車の壁にある窓は小さく、中に誰が、あるいは何が乗っているのか皆目分からない。
 だが、何故かその時、司馬懿の身の内にえもいわれぬ衝動が走った。
 ぎりぎりに近付くまで、道の真中で棒立ちになっていた彼は、馬車が横をゆったりと通り過ぎる瞬間に、ギクリとした。
 車の屋根の上に、大きな烏がいた。
 ともすれば周囲の闇に溶け込んでしまいそうな漆黒の鳥羽が、はっきりと目に映る。
 まるで冥府の使者のようでありながら、不思議と禍々しさを感じなかった。
 屋根にとまり、項垂れるようにして車を見下ろす姿が、何かを悲しんでいるように見えたからかもしれない。
 その烏と、眼があった。深い色を湛えた眼だった。

 ―――中には、一体何がある?

 ただそれだけだった。けれど、直感だったのかもしれない。
 司馬懿は弾かれたように身体を動かした。人の歩みほどの遅さで動く車の後ろに回る。
 塗装の剥げかかった木製の昇降口には錆びた鍵がかかっていたが、構わず戸の取っ手を掴み、力任せに引っ張った。鍵の抵抗はあったが、何度か強引に引くと、元より腐りかけてボロボロだった扉は脆く破れ、蝶番が軋みをあげて開いた。
 中は、真暗闇だった。
 だがその中で一つだけ、淡く小さな、翡翠色の光を放つものがあった。
 がらんどうの空洞の中に、ぽつんと瞬く、蛍。
 それが、戸を開け放った瞬間、司馬懿の頬をすり抜け、さっと空中に飛び出した。耳元をかすめる時、「ありがとうな」と吐息のような囁きが聞えた。何度も聞いたことのある、からかうようにかすかな笑いを含んだ声。
 羽ばたきの音がする。
 ハッとして、光を眼で追えば、屋根に留まっていた大烏がそこにおり、蛍を背に乗せて、笛の音色を目指し高く高く飛び去っていった。
 茫として見上げていた司馬懿は、ある気配に気づいた。車がいつの間にか停まっている。その横で、御者姿が佇み、昏い眼差しでこちらを睨んでいた。

 ―――仲達……

 間延びする、不気味に低い声が名を呼ぶ。奥の見えぬ仄暗い瞳が強く責めていた。

 ―――何故だ―――仲達―――

 轟と強い風が吹いた。まるで声に呼応するように、声と風が一体となり、司馬懿の身体を正面から叩きつける。

 ―――何ェ故ェダァァ……!!

 仲ぅ達ぅう―――と、怨みがましい、非難の叫びが、吹き荒ぶ風のうねりに乗って鼓膜に響く。負の感情に支配された顔が、醜悪に引き攣れ、獣のように叫んでいた。
 オオオンと嘆くような咆哮は、人の声なのか風の音なのか、最早分からない。
 陳登が怒っている。その根深い憤怒を肌で感じる。
 “彼”を逃した自分を責めている。
 何故だ。何故邪魔をするのか。この怨みを晴らせてくれぬのか。お前も怨んでいたのではないのか。

「違う、俺は怨んでいたわけじゃない」

 顔に腕を翳し、風から庇いながら、司馬懿は言った。
 いや、怨んでいたかもしれない。家を奪われた。肉親を奪われた。彼の主君のせいで。
 なのに、どうして戸を開いたのか。
 もしかすると、見てしまったからかもしれない。
 死病に侵されながらも、苦痛を押し殺し、直向きな面持ちで前を見定める眼差しを。
 全ての偽りも装いも剥ぎ取ったその本心は、その業深さに似つかわずあまりに静謐だった。
 いかなる覚悟と信念のもとに、悪名の道を選び取ったのか。誰からの理解も求めず、弁明もせず、文字通り血を吐きながら、命をかけ病を圧して最後のそのひと時まで乱世の先に目を向けていた。そのことを知ってしまったから。

「怨み続けるだけでは、何も変わらない」

 風に負けぬように、怨嗟に対抗するように、司馬懿は声を張り上げた。

「お前はその怨みで、誰のために何を成せた、元龍」

 唸り声が渦を巻く。
 苦しみを与えたいのだと。あまりに強い切望に、怨みの深さを知っていっそ吐き気がする。結局は、自己満足ではないか。

(まあ俺のこれも自己満足だ)

 風の中にまたあの笛の音色がする。

「悪いな。小憎らしい上官でも、お前には連れてゆかせない。奈落への旅路はお前一人で往け」

 憎悪に染まった陳登の叫声が鳴る。
 ごうっと、一陣の豪風が吹いた。
 司馬懿は歯を食い縛った。だが踏ん張り切れずに身体が浮き、そして次の瞬間には闇の底深くへ落ちていきかける。その瞬間、風の中に力強い羽ばたき音が聞え、襟首を強く誰かに引かれたような気がした。





 落下する浮遊感に、びくりと身体が痙攣し、反動で眼が覚めた。
 開いた目に映ったのは、闇ではなく、見慣れた自分の室の天井だった。まだ夜が更けてそれほど経ってないのか、煌々とした月明かりが窓から注ぎ込み、室内を仄白く染めている。

 ―――夢か。

 ほっと息をつく。随分と生々しかったわりに、現実味のない夢であった。
 迷信など信じぬ性質だが、夢の中があまりに五感が明瞭としていたため、柄にもなく神妙な気持ちになった。
 夢は心を映すと聞く。ではあれは、己の心が視せた幻だったのだろうか。あの時放った言の葉は、己が心に思うことだったのだろうか。
 とすれば陳登に対し、自分は後ろめたい気持ちを持っていることになる。同じ怨恨を共有する戦友よりも、怨恨の矛先たる「小憎らしい上官」の方を取ったのだから。
 だが意外なようにも、そうでもないようにも思えた。
 夢の中での科白を思い返し、髪を掻きあげて自嘲する。

「思っていた以上に、嫌いではなかったらしい」

 声に出して一人ごち、目を伏せた。眼裏には、あの時のことがまだまざまざと描ける。
 こちらの退路を断ち、強引に仮面を奪った上で、「駆け引き抜きで本音の話をしよう」と真摯な瞳を向けて来た彼を。
 これではかの臥龍を笑えない。かの天才に協力して初めて彼の前に立ちはだかったのは、もう十年も前のことだ。あの男は彼のことを評価し、敵対しているくせに敬っている様子だった。その複雑な心境は当時の司馬懿には理解できなかったものだ。

 何故彼が自分を見込み、ここまで引き入れたのか、未だに司馬懿には分からない。わざわざ自分のやり方を見せ、手の内を教えた。彼は一体何を見据えていたのだろう。司馬懿の本性は商人だ。彼のように国のことを第一に思うのではなく、家の繁栄こそをまず考え、行動する。そのために一時は真っ向から敵対し、彼の計画を破綻させたこともあった。どうみても腹に一物も二心もあるこんな人間を、どうして信じ、己のすべてを与えてまで後事を託そうと思えたのか。

 何を考えているかはわからないが、いずれにしても彼は司馬懿を同じ土俵に引き摺りあげた。一人の人間として、一対一で向き合った。司馬仲達という人間に正面から意志を託したのだ。
 それまで、彼に行動の逐一を見られていることはとっくに分かっていたが、望むところだと思ったし、却って心は高揚した。利用されているふりをして、こちらが利用してやろうと。
 畢竟、利用されていたのは自分の方だったのか。掌の上で転がしていると思わせて、こちらが転がしてやるつもりが、やはりすべて彼の掌の内にあったのかもしれない。彼は司馬懿の腹を見透かしながら、あえて気づかぬふりをして、自由にさせていたのだ。

(すっかり、思う壺に嵌められたというわけか)

 そして彼の計算通り、司馬懿は気づかぬうちに、思っていた以上の深みに足を踏み入れていた。
 あの男は、最後の最後で自分に楔を打ったのだ。曹軍から逃れられぬよう枷を填めた。

(今頃、あの世でしてやったりと俺を笑っていることだろうな)

 いつも浮かべていた、得意気で不敵な表情が思い浮かぶ。
 司馬懿は喉を鳴らした。

(ああ、いいさ。お望み通り、俺はこの先も曹軍を離れず、使われ続けてやるよ)

 不思議と、愉快な気持ちだった。

(曹操のためではなく、一途に未来を信じたあんたと、問答無用で押しつけられた俺自身のために)

 静かに握った拳を見下ろした時、膝あたりの被子の上に、ふとあるものが目に入った。わずかに瞠目する。
 それは、一枚の漆黒の羽根だった。
 それを見た瞬間、胸に何とも言えぬ気持ちが込み上げた。
 これを、世の人は喪失感と名付けるのだろうかと思いながらも、そうとは決して認めない司馬懿なのだった。




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