夢三夜
〈第夜〉 ~仕組と原理~





『お主は、騙されたのだ』

 足元から世界が崩れていくような、そんな音がした。




 いつの間にか見慣れぬ室の前に佇んでいた。
 外には、己がいる南では決してありえない真白い雪が深々と降り積もっている。
 これが夢だと、華陀は漠然と悟っていた。
 室に踏み込む。中はたくさんの書簡や書物に溢れていたが、存外整頓好きの室の主は、それらをきちんと端の方へ摘み上げて寄せていた。
 そこを掻きわけるようにして、灯りの揺らめく奥へ近付く。

「やあ、先生」

 目的の人物は、牀の上で、いつものように笑みを浮かべて華陀を迎えた。
 傍らに腰かけながら、額に巾帯を巻いた姿に気持ちが沈む。

「加減はどうだ」
「駄目だな」

 あっさりと即答する。

「もうもたないだろうよ」

 灯りのせいか、全く死にそうにもない血色のよい顔で微笑みながら、四奇が言った。

「……すまない」

 思わず、口をついて零れた。 
 四奇はおかしそうに首を傾げる。

「なんで先生が謝るんだよ」
「俺が治すと言ったんだ」

 神医の名にかけて約束した。
 なのに自身は今、罠にかけられ、彼のいる北とは程遠い場所にある。
 医の道には精通していても、政の道には素人も同然。一介の医者が、やはり慣れぬ真似をするものではなかった。だからあっさりと足を掬われ、思惑に填められてしまうのだ。

『お前なしで、どれだけ持ちこたえられる』

 何故気づかなかったのか。どうして側を離れてしまったのかと、悔やんでも悔やんでも悔やみきれない。約束したのに。厭世的だった彼を、半ば強引にこちらの世界に引きずり込み、艱難の道を歩ませた一人は、他でもない自分だったのに。

「別に、初めから当てにはしてなかったさ」

 意地悪く言われ、華陀は背けていた顔を向けた。

「まあ、期待しているとは言ったけどね」

 くすくすと笑っている。どの言葉も、真意が計れない。

「なあ先生。病とは、そんなに悪いものかな?」
「何?」
「人は遅かれ早かれ、必ず死ぬんだよ、元化先生」

 まるで言葉遊びのように言い、笑みを消して表情を改める。

「誰かが生まれて誰かが死に、そしてまた誰かが生まれる。当たり前のことだ。人も獣も植物も、世界はそうして循環していくんだよ。でなければ世の中は停滞し、不変で溢れかえってしまう。古きがなくならなければ新しきは育まれないんだ。人間だけ理に抗えるはずがない」

 静かに諭すように語る。彼がこんな風に世を達観した言動をするようになったのはいつの頃からだっただろう。

「病と言うのは一つの役割なんじゃないかと思うんだ」

 どういうことだ、と問う。

「生き物は生まれた時から死に向かう。病は身体の不足や異常を教えてくれるが、一方で命を終わらせる仕組みでもあるってことだよ」
―――……」
「物は使い続ければいつかは壊れるし、壊れたらまた新しい物に変えるもんだろ。同じ原理さ。そりゃ長寿であれるならなによりだけど、病もまた、その肉体が役目を終え、次世代に渡す時が来たという合図なんだよ」

 だから、自分もそうだと言いたいのか。

「それでは俺は何のために居る」

 そう言ってしまえば、病を肯定すれば、華陀のような医師は存在を否定されてしまうではないか。

「完全に駄目になるまでに何回か故障はするものだろう? 少しくらい壊れたって、できれば長く使い続けたいのが人情じゃないか。先生は故障を修理するのがとびきり巧いんだよ。ただ、どうしようもないこともある。そのものの寿命がなくなるわけじゃないってだけだ」
「それでも俺は、救いたいんだ。天に無謀な喧嘩を売っているのだと分かっていても、望まずにはいられない」

 華陀は苦痛を耐えるように双眸を閉じる。
 冷たくなって死んでいた息子。病から救えなかった妻。あんな思いを二度としたくなかったから。

「先生の所為じゃない」

 不意にした懐かしい声に、ハッとして目を開けた。
 そこには、幼い頃の四奇が、ふとんに埋もれるように華陀を見上げていた。丁度、初めて会った時と同じ年の頃だった。あの時も彼はこんな風にじっと視線を向けてきた。
 面には、いつもの楽しむような笑みが讃えられている。

「先生の所為じゃない」

 もう一度、幼い声音で、力強く言った。

「これは『仕組み』で、『原理』なんだ。誰にも止められないし変えられない。早いか遅いか、それだけのことさ。重要なのは、その間に自分がどれだけのことを為したかだろ。―――俺はもう充分満足してる」

 にっこりと、華陀を見返す。

「感謝してるよ、先生」

 その姿が、ふうと霧に霞んだ。

「あんたは確かにこの世で一番の名医で、そして一番の藪医者だったよ」

 からかうような口ぶりだけを残し、周囲が見る間に白靄に包まれていく。
 何を言うのだ。これではまるで今生の別れではないか。
 縁起でもないことを言うのはやめろと心が叫ぶ。

「奉―――

 華陀は咄嗟に手を伸ばした。




 指の間をすり抜ける蛍を見たような気がした。
 ぼんやりと残光を目で探す。
 蛍―――こんな季節(ふゆ)に?
 不思議に思った時、はたと意識が醒めた。
 月明かりの下で、華陀は窓辺に足をかけるようにして腰かけていた。どうやら、うとうとと居眠りをしていたらしい。そういえばここのところ寝不足だった。眠ろうにも眠くなかったからなのだが、思う以上に身体は疲れていたのか。

『医者の不養生なんて笑えないぜ』

 いつか言われた言葉が、不意に蘇る。
 夢現に伸ばした手の先には何もない。

(何もない―――

 この手は、結局何も掴めなかった。

『先生の所為じゃない』

 夢の残り香のように、夢幻の声音が鼓膜の奥を打つ。
 窓の外に雪は降ってない。暗がりに沈む室を見回した。がらんとした室には、己の置き散らかした医療道具が何かの遺跡のように沈黙を守っている。
 茫然と、空虚な宙を見つめた。
 徐々に、その瞳に光が戻ってくる。
 ああ、これが、現実なのだ。
 もうどうしても、間に合わないのだ。

『感謝してるよ』

 罪悪感を慰めるために都合のよい夢を見ただけか、それとも 情けない自分を見かねて、わざわざ会いに来てくれたのか。先程の季節外れの蛍が脳裏をよぎる。
 否。夢でも現でも同じだ。彼ならばきっとそう言っただろう。華陀のよく知っている彼は、そういう人間だった。最後の最後で憎まれ口を叩きながら、笑って、こればかりはどうしようもないことなのだから気に病むなと。
 それでも。
 それでも。

(俺は助けたかったんだ)

 たとえそれが、世の理に背くことであったとしても。
 頬を熱が伝う。初め熱かったそれは、外気に冷やされすぐに冷たくなった。
 項垂れ、声なく呻くその背に、月の光だけが静かに降り注いでいた。




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