夢三夜
<第夜> ~笛舟~





 ぷうぷう、と拙い草笛の音がする。
 たどたどしい音色に誘われるように、草を掻き分ける足がある。
 その物音に気づいて、川縁で草に埋もれるように座っていた奏者が、ふと演奏を止めた。

「こんな時間に誰かと思えば……」

 軽く溜息をつき、五奇が七奇を見下ろす。
 七奇は無言だった。この弟弟子が自分を心の底で苦手としていることを、五奇は知っている。常ならば必要以上に話はしないのだが、今日は少し違った。
 七奇と少し離れたところに、腰を下ろす。月明かりしかない宵闇の中ではほとんど何も見えないが、せせらぎから足元に川があることは分かった。
 再び、曲とも言えぬ楽が流れる。

「悔いているか」

 きらきらと月光を閃かせる川面を見つめながら、ぽつりと五奇が言った。
 草笛が止む。
 七奇は、無感動に訊き返した。

「何を?」
「謀って、華大夫を北から引き離したことだ」

 五奇は真綿に包むことなく直截に告げる。
 胡坐をかき、川に視線を向けていた七奇が微かに身じろいだ。

「そう言うお前の方こそ、どうなんだ」

 問いを問いで返すのは、答えたくない心の裏返しのようだった。

「愚問だな」

 言いながら、五奇はこの答えも狡いな、と自嘲した。
 愚問―――それは、是か否か、どちらの意味でなのか。結局はこれも、己では確答を避けて相手に解釈を任せる言い方だ。
 その逃げを、臥龍と称号された男が気づかぬはずがない。

「狡い答えだな」

 案の定、五奇が自分で思ったことを、そのまま口にした。
 五奇は静かに息をつく。

「仕方ないだろう。これでも私はお前と違って、直接面倒を見てもらったんだ」

 水鏡の書院では直上の兄弟子が弟弟子の世話を受け持つ。五奇は随分と可愛がってもらったものだった。そうでなくとも他の師兄弟同様、長い時をずっと共に過ごし、机を並べて学んできたのだ。何も思わぬはずがない。
 それでも、七奇から今回の策を聞いた時、六奇はもちろん、五奇も止めなかった。それが兄弟子の命を奪うことになると知っていながら。だから罪と言うならば、七奇だけの責任ではなく、三人とも同罪だ。
 後悔を恐れない。もう迷わない。五奇はすでに何にも変えられぬ最も大切な同胞(はらから)を失った。そこで覚悟は決まったのだ。

「お前こそ、私の問いをはぐらかしているな」

 五奇はちらりと横目で視線を送り、言葉を返した。

「はぐらかす? 何故。後悔する必要などないのに」

 戻って来たのは、冴え冴えと冷めた声音だった。
 しかしその底には、押し込められた熱が揺らめいている。
 感情を極力殺してわざと素っ気なさを装うようなそれに、五奇はいつものごとく「そうか」と無表情で返した。

「それでも私は正直意外だったよ。お前は、師兄をよく慕っていたから」
「……」

 沈黙の中、風が吹く。さやさやと草が鳴った。こんな南の地でも、冬の風は骨身に沁みるほど冷たい。空気が湿っているせいもあるだろう。それでも雪は降らない。

「道を別った時から、こうなることは覚悟していたはずだ。俺も、お前も、老六も――師兄も」

 七奇は淡々と呟き、眼を伏せる。
 後悔をするくらいなら、初めからするな。かつてそう言われた。
 だから七奇も心を決めたのだ。たとえそれが苦渋の、断腸の思いの決断であっても。
 全力で潰しに来いと彼は言った。真正面から七奇を見据えて、来るなら全てをかけて、手心なしで挑んで来いと。だから全霊をかけた。それがたとえどんな結果となろうとも、七奇にできるのはそれだけだから。そうすることが、尊敬する兄弟子への、七奇なりの誠意の示し方だと信じた。
 けれど。

(貴方は誰のために、すべてをかけた?)

 確かに戦乱を憂えていた。最高の学問を授かった水鏡八奇の一人であることの誇りもあったし、これと見定めた主君を仰いで世直しに己の力を注ぐことも本望だっただろう。
 だが本当の理由は違ったはずだ。

(あの人は確かに情に強い人だった。だが何よりも師兄弟への思いが深い人だった)

 四奇が誰の求めに応じて、誰のために自分の人生を投じたのか、七奇は知っている。
 彼は彼の愛する師兄達のために、心身を顧みず、余命を擲った。

『死に損ないのくせに、なかなかどうして敵ながら天晴れといいましょうか』

 ふと、庵を尋ねて来たあの男の影が脳裏をかすめる。

『前から手強い相手とは思っていましたが、今はその頭の冴えに鬼気迫るものを感じますよ。まるで己の命を燃やしつくそうとしているようでさえある。あの身体で、よくもそこまでできるものやら』

 以前にはなかった退廃的な空気をかすかに纏った男は、「いやはや恐ろしい」と読めぬ笑みを湛えて言った。

『これ以上脅威になる前に、留めを刺しに行ってもいいのですが』
『残兵の頭は今も刺客を生業とされるのですか』

 羽扇を翻し、思わず強く見据え返した七奇に、彼は軽く首を傾げて喉を鳴らした。

『今は残兵ではなく、「趙雲」ですよ、臥龍先生』
『……』
『必要であればやります。彼には昔年の借りがありますしね。これでも個人的には、好敵手として敬意を抱いているのですよ。だが誰も動かぬというのなら、いっそ――』
―――その必要はない』
『ほう?』
『間もなく、すべて片がつくでしょう』

 重く低く告げれば、彼は目を細めた。

『……期待しておりますよ』

 決して陽の気ばかりではない笑顔に、七奇の心は打ち沈んだ。
 あの男は暗に脅したのだ。いつまでも出山に応じず引きこもる七奇に焦れ、挑発した。お前が出ぬのであればこちらで手を下すと。
 動かぬわけにはいかなかった。

「ああそうだ。殺したのは俺だ」

 手の中の草切れを弄びながら、呻く。
 どうあっても、師兄の意志は翻らない。こうと決めたら譲らない、そういう人間だ。
 脅威は取り除かなければならない。ならばせめてこの手で。
 ―――孔いに明たれ。
 かつて強請ってもらった字に、今の自分は恥じないものだろうか。
 名付けた本人に訊いてみたい気もしたが、それが不可能であることは、七奇自身がよく分かっていた。
 代わりのように、手を川面に翳す。
 月明かりに白く照らされながら、足元に流れてきたものに、五奇はふと瞬きをした。

「これは?」
「……弔いだ」

 そうしたところで、この身についた“兄弟殺し”の業はあまりに深く、祓い清めることなどできまい。それでも、せめて心を託せるなら、この小舟に乗せて、どうか泉下にと願う。
 草で出来た舟は、ゆらゆらと揺れながら、ゆっくりと遠くへと流れ去る。
 すぐに闇に紛れてしまったそれを、五奇はなおも探すように見つめながら、

「弔い、か」

 と呟いた。そしてぷつりと側の草を千切る。

「そういえばこれは、老四から教えてもらったんだったな」

 あの時、すぐに吹けてみせた五奇を「お前は才能があるな」と四奇は笑って褒めたものだった。
 五奇は葉を唇に当て、息を吹き込む。
 細く長く、どこか物悲しい調べが夜の寒空を流れる。
 まるで鎮魂歌のように、音は川下へと消えた草舟を追うように溶けていった。




MENU