蕭娘臉上難生涙 桃葉眉頭易得

   天下三分明月夜 二分無賴是揚州



二分明




 久方ぶりに固く閉じていた門を開き、表へ出た。
 城壁の上から、遥か彼方、空の向こうを遠く望む。
 天が暗い。風に乗って細かな灰が視界をちらつき、きな臭い匂いが鼻をつく。炎々と立ち昇る煙を見やり、二奇は双眸を眇めた。
 数日前目にしたときと同じ。衰えることなく徐州の天に地に燃え盛りつづける炎。―――人々を呑む暗黒の焔火。
 きつく寄せる眉根の下で、瞳に苦痛に耐えるかのような光が宿る。
 見たくなかった―――望んでなどいなかった、このようなこと。
 風に延々と流される黒煙と炎の上に、長を共にしてきた己の弟弟子たちの顔を描く。
 ―――望んでなど、なかったのだ。
 はじめは何故、と思った。どうして、という憤りもあった。彼を―――四奇を登用した主曹操に対して、当惑とやりきれなさを抱いた。
 これもまた曹操の選んだこと。
 分かってはいても、二奇にはどうしても受け入れられなかった。
 政は仁と道を以って行なうべし―――これを己の信義とする二奇には、このような仁にも道にも悖る手法は、耐えられない。
 ―――分かってはいるのだ。四奇が、三奇が望んでいることは。彼らが目指すところも。彼らが自分に課しているものも。
 硝煙を含む大気に清らかな色をした髪が浚われる。憂鬱そうにそれを抑え、小さく吐息を漏らした。

「やれやれ、やっと出てきたな」

 突如、背後から声が掛けられる。しかし別に驚きはなかった。長く馴染んだ兄弟の気配は、たとえ柱の陰に隠れていようと、すぐに分かる。だが二奇は振り返らない。口も開かない。
 無言の相手に、しかし声の主は先刻承知だったのか、小さく喉で笑う。

「まだ怒っているのか」
「……」
 やはり答えはない。再び笑う気配が空気から伝わってきた。
 日差しの影の内で柱に腕を組みながらもたれかかり、三奇はゆっくりと口を開いた。

「分かっているだろう」

 二奇の反応など構わないかのように続ける。

「必要な過程だ―――曹孟徳が天下を得るためには」
「暗黒の先の光明、か」

 ようやく、ぽつりと二奇が呟く。そして、

「理由なく無辜の民を大勢殺して、天下を治められるとでも?」
「犠牲なき大業はありえない」

 言外に「綺麗ごとだけでは大事は成せない」と言われ、二奇は眉を顰める。

「無血の改革など絵空事だ、老二。お前ほどの者がその条理が分からないはずがないだろう」
「分からない」

 淡々と、しかしどこか駄々を捏ねるように、二奇は即答した。それから苦しげに呻くように言う。

「……分かりたくもない」

 影の中で三奇は苦笑を刻む。

「ならば、それでもいい」

 二奇の役割は『理解すること』ではないのだから。逆にそうであってもらわねば困る。

「お前はお前の信ずるところを行なえばいい。俺は―――俺達は俺たちの為すべきことを為す」

 日差しに照らされながら、二奇は唇を噛んだ。今にも背後を振り返って、思い切り罵ってやりたい。思いのまま、怒りのたけをぶちかましてやりたい。
 だが―――本能が言う。潜在する、普段は目を背けている本能が。
 彼も、そして四奇も、自分にはできないことをしている。自分には到底できはしない、険しく重い道を自ら進んでいる。綺麗事を並べて仁道から離れることができない自分の代わりに、最も合理的かつ現実的で、それが故に最も苦痛と辛酸を得る道に身を置く。
 『悪行』を行なう彼らはきっと悪名を背負うだろう。世々の誹謗も後世の中傷も彼らだけに向かうだろう。その後の、仁道によって破壊と乱れを整える自分は、きっと賞賛を集めるだろう。辛苦に耐え、罵倒にただ黙然と甘んじる彼らを背に―――
 彼らと自分の立つ位置の、どんなに違うことか。

「……理不尽だとは思わないのか?」

 何故それを問いかけたのか、二奇自身にも分からなかった。
 しかし柱の影の人は、そんな師兄の心中も見通しているかのようにただ淡々と微笑した。

「己が選んだ道だ」

 ひいては、すべては乱世の平定のために―――

「でも……それでも、私はお前達を受け入れることはできない」

 頭では分かっていても、理性では納得できない。駆け巡る矛盾と葛藤。数日間室内に閉じこもって考えても、結局答えも決着もつかなかった。
 三奇は後頭部を柱に当てるようにして宙を仰ぐ。ふぅ、とひとつ嘆息を漏らした。
 二奇はやはり前を見ている。日を浴びる彼と、その日の影に身を置く三奇。それは今の彼等の立場と距離を示しているかのようだった。
 光と影―――光明と暗黒。長きに亘り同門として共に育ったのに、一体どこでこんなにも差ができていたのか。あるいは気づかなかっただけで、初めから歩んでいる道が異なっていたのか。
 不意に、柱の向こうから言葉が紡がれる。

 地有一片冥火 高高地燎天下
 天有二分明華 皓皓地照地上

 地上の焔獄は空高く燃え上がり、天に浮かぶ明月は皓々と地上を照らす―――その意味に、二奇はハッとした。

「暗黒過去天地 後出現是何哉?(暗黒去りて天地 後に出づるはこれ何ぞ)」

 謡うように吟ずる声は風に乗って二奇の立つところまでいたり、そして柱の気配は風に流れるように離れていった。

「……」

 誰もいなくなり、にわかに虚無と沈黙が場所を支配する。
 その中で、ただ声の韻だけが、二奇の耳に木霊する。

「暗黒ののち出るは、これなにぞ……」

 口の中で呟き、それから軽く俯く。にわかに影になった顔の下で、ふ、と苦りきった微笑を浮かべる。

「分かっているさ」

 そして、顎を上げる。真っ直ぐ、天を見つめる。
 その白面を、陽光が照らす。

 私は光明。

 闇を照らす光。

 乱の後の治を補する者。

 私は、二分明月―――




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漢詩はエセです。押韻とか平仄とかでたらめなので変でもお許しください。
ちなみに『二分明月』というのは、唐代の詩人、徐疑の「憶楊州」という詩出典の成語です。
有名な『天下三分明月夜 二分無賴是揚州』の部分から来ているそうです。
最初の方は意味分からないのですが(訳がなかったので)、後半部分は「天下を照らす月を三分すると、三分の二は揚州に在る」という意味で、当時の揚州の繁華ぶりを謳ったものだそうです。それが転じて、「揚州で見る月は他の場所で見るより二倍明るい」→「一際明るい月光(満月)」→「皓々と輝く光」のような比喩で今では使われているとか。
で、なんで「二分明月」なのかというと、実は八奇全員、それぞれ古典のある成語に当てはめられているらしいのです(設定資料集があるらしい)
ちなみにここで並べると、

一奇:袁方,字・顕謀
一方之任
【出典】 班固(漢) 《漢書.終軍傳》 「不足以抗一方之任,竊不勝憤懣。」
【用法】 独りで一つの方面の任務を担うことができること。
 名前の「方」は、逆に此処から取ったのかも。

二奇:荀彧,字文若
二分明月
【出典】 徐凝(唐) 詩《憶揚州》 「天下三分明月夜,二分無賴是揚州。」
【用法】 上にあげたとおり。
 二奇の役割が『光明』だから?

三奇:賈詡,字文和
三年之艾
【出典】 《孟子.離婁上》 「今之欲王者、猶七年之病、求三年之艾也,為苟不畜,終身
      不得。」
【用法】 常にあらゆる事柄において用意周到であること
 何せ暗黒軍師ゆえ


四奇:郭嘉,字奉孝
肆無忌憚
【出典】 《禮記.中庸》 「小人之中庸也,小人而無忌憚也。」
【用法】 勝手気ままにふるまってなんら憚るところがない。したい放題。
 まんまというか、言わずもがなというか


五奇:周瑜,字公瑾
五日京兆
【出典】 班固(漢) 《漢書.張敞傳》
【用法】 任期が極めて短いこと。三日天下。
     (京兆は“京兆尹”の略で古代の長官の官名)
 多分……短命だから?


六奇:龐統,字士元 「鳳雛
六韜三略
【出典】 《六韜三略
【用法】 中国古代の兵法書の一つ
 えっと……多分鳳雛だから(段々苦しくなってきた)


七奇:諸葛亮,字孔明 「臥龍
七擒七縱
【出典】 七度捕らえて七度逃す……自分の技じゃん!
【用法】 策略を用いて相手を心服させるたとえ。諸葛孔明が南夷の首長孟獲を七度捕ら
      えて七度逃がし、ついに心服させたという故事から。




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