草原の向こうに、夕陽が沈む。
 いくらしばらくご無沙汰であったとはいえ、もう幾百度、幾千回となく見てきた光景であるのに、不思議と毎回新鮮な感動がある。
 いや、むしろ歳を重ねるにつれて、心に感ずるものも深くなっていくような気がする。
 年を取ったということか、と三奇は微かに笑んだ。自嘲も皮肉もない、爽快とした笑みだ。

「何笑ってんの」

 声を掛けられて、今度は喉の奥で笑う。驚きはしない。馴染んだ気配を見過ごすはずがないし、そもそも草を踏む音で、そばまで近づいてくる人物の存在にはとっくに気が付いていた。
 振り向きもせずに応じる。

「年を取ったと思ったのさ」

 ふーん、とさして興味もなさそうな茫洋とした声音が返ってくる。

「確かに老三は年取ったかもね。俺はまだ若いけど」
「そんなに年の差はなかったと思うが?」
「気持ちの問題だよ」

 四奇はひょいと肩を竦めた。
 確かに彼は元が童顔なせいか、いつまでも若々しい。コツは感動と興味と工夫と好奇心を忘れないことだそうだ。健康が抜けてないか、と思ったが、理由は一目瞭然なので、あえて黙っておいた。まぁ四奇の場合、むしろ賭けと妓女と薬と決策と興奮なような気もするが。

「いきなり寄るって言い出すから、どこへ行くつもりなのかと思った」
「近くまで来たからな。挨拶もなく素通りするのも、礼に失するというものだろう」

 実は地方監察中なのだ。たまたまそばを通りかかった時に、三奇が突然「寄る場所がある」と言い出して足並みを止めた。指令書に記された帰還の期日までには余裕があるし、今のところ許都の方でも急を要する仕事はないから、一日足を留めたところで大きな問題はない。
 そう、問題はないのであるが。
 いささか呆れ顔になった四奇は、腰に手を当て、兄弟子であり同僚である男を見下ろした。

「ほぉー。ちなみに礼を失するってのは、誰に対してだ?」
「もちろん我らが愛しのこの場にさ」

 いけしゃあしゃあと答える。
 夕陽を見つめ光を弾く眼差しは楽しそうだ。

「老師はどんな様子だった?」

 悪気の欠片も感じさせぬ口調で、逆に問い返す。
 四奇はあきらめにも似た溜息を零してから、

「元気そうだったよ。老三のことも気にしてた。顔見せてあげれば?」
「今あの老頭子(くそじじい)と顔を合わせたら、言い争いにしかならなそうだからな」

 道理かもな、と四奇は先ほどとは別の意味合いで再び小さく息をつく。
 水鏡は三奇の考え方、やり方に批判的だ。だが三奇は己の信念を強く持っている。そして二人とも、互いに絶対に退かない頑固な性質ときた。いや、考えてみれば八奇は基本的にみなそうだ。この老師にしてこの弟子ありといったところか。
 とりわけ中でも三奇と水鏡のこの師弟においては、昔から理や論に関することで何かと衝突していた。
 もちろん四奇は、見方の上ではどちらの言い分にも理があることが分かるので中立だったが、立ち位置はいつでも三奇の側だった。習慣的にそうなってしまったのだ。特に三奇は誤解を受けやすい。二奇ですら時に戸惑っているくらいである。なのに誤解を解く努力を一切怠っている。自然、四奇が時折間に立つ羽目となった。全く世話の焼ける兄貴だ、と四奇はたびたび悪態づいたが、三奇に直すつもりがないのは目に見えて明らかだった。

「お前は平気だったのか」

 三奇の問いに、四奇は自慢げに胸をそらした。

「俺は要領がいいからな」

 誰かさんと違って喧嘩っ早くないし、と嘯く。よく言う、と三奇は鼻を鳴らした。

「まぁ何だかんだ言って老師は結構老三のことも気にかかるんだよ。よく言うだろ、馬鹿で聞き分けのない弟子ほど可愛いもんなのさ」
「俺を老六と同じ土台で語る気か」
「似たようなところがあるからな」
「人のこと言えた義理か」

 口は文句を言っているが、本気で臍を曲げているわけではない。
 三奇は一旦口を閉ざし、じっと正面を見た。
 その傍らに佇んだまま、四奇もまた同じ方角に目を向ける。

「不思議なものだ。ここにいると時の感覚を忘れる。今もあそこに戻れば皆がいて、夕時の食卓を囲み、そしてまた明日老師の講義がはじまるんではないかと錯覚してしまいそうだ」
「らしくなく感傷的だな。懐古的なことを言い出すと年だよ、老三」

 四奇が揶揄する。しかし穏やかな声音と笑顔に、軽んじる趣きはなかった。三奇の言わんとする所を理解しているのだ。

「俺たちはここから始まって、ここに還ってくるのかもしれないな」

 刻々と色を変える空模様を見つめたまま、三奇はポツリと言った。
 微笑しながら、傍らに站つ四奇は瞼を伏せる。

「母親の胎の中みたいな?」

 三奇は母の顔を覚えているが、そこまで親しみはない。恋しさを感じたこともない。
 だが四奇の使った言い回しは、言い得て妙だという感覚を与えた。

「俺たちを育んだ()だからな」
「親父臭い駄洒落をかますのは年取った証拠だぞ老三」

 四奇の表情が盛大に顰められている。
 だがまさしく、ここは今の三奇や四奇を育て上げた原野だった。
 懐かしさがこみ上げてくるのは、そのせいだ。
 ふと渋面を解いた四奇が顔を上げ、遠くを見据えて瞳を細めた。

「明日は雨だな」

 再び三奇を見降ろす。淡く笑みを刷いたその面に影ができる。

「母なる大草原への再拝(あいさつ)は済んだか?」

 ああ、と三奇は答えた。完全に暮れれば冷える。近頃前以上に体調不安定な師弟には毒だろう。
 腰を上げようとして、つと空を見上げた。
 雲と光とが玄妙な輝きを放ち、文様を描いてその姿を変えていく。

「明日は雨が降るか」
「ああ」
「相変わらず、よく分かるものだ」

 四奇が不敵に目を細めた。

「俺が天の時を読むのが得意なのは知ってるだろ」

 三奇の方へと手を差し出す。

「そうだったな」

 その手を取って、三奇は笑いながら立ち上がった。服についた土と草をはたき落とす。

「そしてあんたは地の利を読むのに長けている。なぁ行陣の王」
「お前が天の時で、俺が地の利か。ならば人の和は誰が掴む?」
「それはもちろん老二に決まってるだろ」

 許都で頑張ってもらおうじゃないか、と四奇は笑った。




 先に行く彼の背後で、三奇は立ち止まってもう一度後ろを振り返った。
 眼前に広がる、果てしない草原。そこにあるものは、何者にも侵されず縛られず、自由に風に身を任せる。

(俺たちはここから始まって、そしていずれこの地へと還る)

 願わくば、その瞬間までこの地がこのまま、変わらず在り続けることを。

「老三、何してるんだよ。先行っちゃうぞ」

 遠くから呼ぶ声に「ああ」と応じ、三奇は裾を翻す。
 今度は振り返らなかった。




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