空に十六夜月 たおやかに栄枯 見つめてゐる

人の世を (いにしえ)より

映して曇らぬ 鏡の月




(かがみづき)



 時折、飄と音を立てて風が立ち上る。巻き上げられた枯れ葉が、陽光の中を舞い閃く。
 黄葉の季節は、すでに去ろうとしていた。秋晴れの空にある太陽は、それでもまだ仄かな暖かさを残しており、外で過ごすのにも苦はない。
 やや暮れ始めた快晴の空と、落ち始めた黄紅の枝葉の色の対比が美しく、二奇はこの季節の、この場所から見るこの情景が、一番好きだった。

「もう晩秋か」

 三奇がしみじみと呟いた。高覧から手を伸ばし、冷えた指先を陽熱で少しでも溶かそうと試みていた彼は、友人の医者お墨付きの末端冷え性だ。

「さむさむ……酸辣湯が飲みたいな。厨房借りるかな」
「やめろ。お前の(タン)は辛すぎて誰も食べられない」

 揚々と言い出した三奇に、二奇はすかさず制止の手を入れた。
 以前三奇が気まぐれに湯をつくったところ、三奇を残して全員が水場に直行した。あまりの辛さに涙は流れるし鼻水は垂れるし汗は止まらないし舌が麻痺するしで、えらい騒ぎだったのだ。作った当人だけが何事もなくぺろりと完食し、二奇はそれを化け物でも見るような目で見たものだった。

「何を言う。あれは身体にいいんだぞ。老四だってあれ飲んだだけで、こじらせていた風邪が一気に治ったじゃないか」
「丸一日寝込んでからだっただろう」

 確かにあの時微熱が続いていた四奇は常からすれば驚異的な速さで快調したが、あれは湯の効果というよりあまりの刺激が反動になっただけではないかと二奇は疑っている。
 ちなみに盲目な分常人より他の感覚が鋭い老師は再起不能になり、翌日は一日休学になって六奇が喜んでいた。
 「なんだ、あれは美味しいのに……」とブツブツ文句を垂れながら、持っていた碁石を盤に置く。
 お前の舌は異常なんだと言いかけて、不意に背後から騒々しい音が近づいてくるのに気づき、二奇は軽く振り返った。
 うわさをすれば何とやら。向こうから四奇が歩いてくる―――しかも物凄い勢いで。
 と思ったら、脇目も振らず二奇と三奇の横を通り過ぎた。一拍置いて、今度は七奇がその後ろから同じ速さで横切っていく。
 遅れて、風が通り抜けた。

「……」

 先の角を曲がった二人を、二奇たちは勾覧越しに目で追う。

「いい加減ついてくんな」
「あともうひと勝負!」
「さっきもそう言ってただろ」
「だってあれイカサマじゃないですか!」
「イカサマでも勝ちは勝ちだ」

 ぎゃあぎゃあ言い合いながら、嵐のように去っていく。

「なんだかんだ言って、あの二人って結構仲良いよな」

 来た時と同じ速さで遠ざかる背を眺めながら、二奇はしみじみとそんな感想を述べる。

「……」
「どうかしたのか、老三」

 同じ方を見ながら、微笑を浮かべつつも何か思うところあるように黙していた三奇は、「いや……」と視線を戻した。

「それよりも、老二の番だぞ」
「ああ……」

 気づいて、二奇は目を碁盤に戻した。
 寒いのなら室内でやればとも思うのだが、あいにく日中でも屋敷内は薄暗い。昼間から明かりを付けるのも勿体無い。
 さて、とばかりに碁石を打とうとした瞬間、彼方でドカッと言う音と、蛙が潰れたような悲鳴が聞こえてきた。

「……やったな」

 そろそろだと思ってたんだ―――と三奇が人の悪い笑みを浮かべている。どうやら先程の黙考はこれを読んでのことだったらしい。
 二奇は七奇の怪我のほどを案じて、額を覆った。まぁ四奇のことだから少しくらいは手加減はしただろう。多分。
 そうして、ふと笑った。
 緩やかにすぎていく刻。
 時にうるさく、賑やか過ぎるまでに騒がしいが、こうして師兄弟たちと過ごす穏やかな日々が二奇は嫌いではなかった。

「早いものだな」

 何の前触れもなく、三奇が唐突にそんなことを言った。
 二奇は目を上げる。

「秋がか?」
「いや。―――もう随分長いこと、ここにいるものだと思ってな」

 何だいきなり、と軽く返しながらも、心中でそういえばと納得する。
 七奇がこの書院に来てから、八年が経った。それよりずっと前からいた自分たちは、もっと長い時間を此処で過ごしていることになる。
 その間に世間は大きく様変わりをしていた。いや、水面下にあったものがようやく顔を覗かせたといったところだろう。それでも、未だ氷山の一角に過ぎない。

「これからどんどん荒れていくだろうな」

 嘆息とともにそう漏らした。
 乱の火はまだ此処にまでは達していないが、離れて暮らす自分の家族が心配だ。
 迫り来る禍の気配に、以前二奇は郷里の人々に警告を発していた。結局それに従って郷里を離れた親族累々は難を逃れたが、残った者たちは多くが命を落とした。
 しかし三奇が言わんとしていたことは、もっと違うものだったようだ。

「それもあるが、それだけじゃない」
「何だ」
「そろそろ潮時(・・)か、ということさ」

 勘の鋭い二奇はそれだけで察せた。
 つまりそれは―――『出山』する、ということ。
 いつまでもこうして緩々と、穏やかな時間に浸っていられるわけではない。
 昏い気持ちで、己より一つ下の師弟に訊いた。

「もう決めているのか?」

 つくべき主を。

「まだだが、大体見当はつけている」

 そうか、と二奇は静かに息をついた。
 いつかは来る日だ。いつまでも皆で馬鹿騒ぎをしたり笑いあったりしていられはしない。あえて考えないようにしていたが、特に年長の二奇や三奇は、そのあたりをより現実的に受け止めていた。
 かくいう二奇自身も、近頃は世論に敏感に耳を傾け、いくつかの人物に目をつけている。

「時折疑問に思うことがある。老師は、何故私たちを集めたのだろうと」

 それぞれが、それぞれの理想と考えと、それを実現するための才を持っている。いずれ対立し合う事は、確実だろう。

「さぁな。俺にはあの爺の考えていることは分からん」

 昔から肌が合わなかったし、と三奇は飄飄と笑う。

「だが、知識を与えてくれたことは感謝しているよ」
「戦の知識か」
「無駄な争いをしない知識さ」

 平然とそう言える三奇は、精神的に強いのだろう。
 でも二奇は、人の血が流れるのを見るのはあまり好きではなかった。
 兵法は学んだし、それなりに使いこなせる自信もあるが、政治や外交の方が自分には向いていると思っている。
 己が握る白い碁石を見下ろす。白と黒の石は、まるで自分と三奇の考え方の相違を表しているようだった。

「何故平和は続かないんだろうな」
「そりゃ無理な話さ」

 これもあっさりと三奇は返した。

「考えても見ろ。遡ること五帝の時代も、夏殷の時代も、周の時代も、そしてこの漢の王朝も。どんなに名君が立ち栄えたとしても、必ず腐敗し、乱が起こり、次の代が立った。長い歴史の中、一つとして長く泰平を保てた朝はないだろう」

 世とは、そういう風にできているのさ。誰が決めたのでもなくな。
 そう言う三奇の言葉に対し、二奇はいまいち煮えきらぬ表情で遠くを眺める。赤みを帯びた空には、早出の月が仄かに白く浮いていた。
 あの月は、どれだけ多くの王朝交代の歴史を見てきたのだろう。

「どうしても無理なのか……」
「人とはそういうものだ老二。それが例えお前が受け入れがたいことでもな。大体争乱がなければ、平和などという概念は認識されない。逆に乱があるからこそ和がある。両者は表裏一体で、切っても切り離せん」
「陰陽の理か」
「世の真理だよ」

 笑って言う三奇には、厭世観も悲壮感もない。

「お前の論理でいくと、我々がどれだけ頑張って乱を収め国を安んじても、結局は徒労に終わるということだな」
「そのとおりだ」
「じゃあ、何故お前はあえて乱に身を投じようとする?」

 三奇を真っ直ぐと見据え、二奇は尋ねた。
 水鏡八奇はそれぞれが比類なき才能を持っている。元々乱世という時代に、貢献することを前提に集められ、教授を受けた集団だ。その中でそれぞれが持つ志は、大きく二つに分かれる。ある者は己の才がどこまで通用するか、それを試す機会に野心を燃やしている。そしてある者は、真に国を憂い、国のために力を尽くしたいと願っている。
 三奇は、こう見えて不思議なことに、真剣に平和な世のことを考えている者だった。ある意味誰よりも純粋に、強く。
 二奇の問いに、三奇は少し逡巡するように瞼を下ろした。

「そうだな……己の存在証明かもな」
「存在証明?」

 訝しげに眉根を寄せる二奇。
 三奇はいつもの笑みを刷きながら、うなずいた。

「人間ってやつは、死んだらそれまでだ。しばらくなら覚えている奴らもいるが、やがてそいつらが死ねば、最早思い出されることもなくなる。それはひどく虚しいことだと思わないか?」
「歴史に名を刻みたいというやつか?」
「近いが、それも違うな」

 三奇は高覧に肘をかけ、外を眺める。

「大半の人間は、別に理由を持って生まれてくるわけではない。生まれつき生きる意味を持っている奴など稀だし、そもそも意味を探すだけ無意味だ」
「?」

 言わんとしていることが分からず首を傾げる二奇に、まぁ聞いてろと三奇は手を振った。

「だからこそ時に迷うんだ。自分は何のために生まれたのか。己の存在意義、ひいては己自身を見出せずにな。そのまま死んだら、やがて人々の記憶からも消える。それこそ、最初から生まれなかったのと同じだ。だがもし何かの形で己の思いを残すことができれば……肉体は滅びようとも、己の存在は生き続ける」

 それは、自分が確かに生きてここにいた証。

「歴史に名を刻むというのも、そういう意味では正しい。人の誹りを受けても己の信念を貫き通すことをよしとするか、あるいは後世称えられることこそをよしとするか、それは人それぞれだな。どちらにしろ自己満足には変わりないが」

 そう言って三奇は笑う。

「折角生まれてきたなら、何かしたいじゃないか。無駄と分かっていても、その時にできることをする。それが俺にとっての、俺自身の存在証明だ」

 何もせずただ生を貪るよりも、何かを残して、満足して死ぬ。たとえ世間的に良いことでも悪いことでも、悪評がのころうとも、自分の信念を貫いた結果ならば構いはしない。

「大事なのは自分自身さ。死ぬ時に後悔などしたくないだろう?」
「まあな」

 二奇は苦笑した。この男らしいと思う。
 だが、確かにやってもやらなくても一緒ならば、やった方がいい。やらなくて後悔して人生を終えるのは、もっと無意味なことだ。
 ふと、再び月を見る。
 あの月は変わらずそこにありながら、愚かな歴史の繰り返しを、見続けているのだろう。 今も、昔も、そしてこれからも。
 けれどその時に生きる人間は、悠久の歴史など関係ない。それぞれがそれぞれのために、ただその時の生を懸命に謳歌するのみだ。
 二奇は、摘んだ石を打つ。それを見て、三奇が陽気に笑った。

「守り手から攻め手に変わったな」
「誰かさんに肖ってみようかと思ってな」

 予行練習だ、と二奇も不敵に笑う。
 二奇には、別に勲功を立てたいとか、歴史に名を刻みたいといった願望はない。ただ、何もせずにいたくはない。何か出来るだけの才と力と機会を持って生まれたなら、それを役に立てたい。
 生まれ出たからには、自分に恥じぬように生きる。最後、笑って死ねるように。

「ところで、酸辣湯に麺を入れても結構イケそうだと思うんだが」
「やめろ」



やがて下弦の月 物思ふ如く 身を細める
幾千の人の嘆き (かいな)に抱いた女神のやうに


空に新たな月 たおやかに白く 生まれ出づる

現し世(うつしよ)を 映す如く

光は輪廻し 鏡の月




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