結び




 その草原は二人のお気に入りだった。見渡す限り遮るもののない野と、どこまでも澄み渡る天は、世界の雄大さを幼い二人に教えた。日々少しずつ変わる草と空の色、風の匂い、生き物の息遣い、雲の模様は、二人に世の移り変わりを感じさせた。そして草原の東にぽつんと立つ小さな街は、二人に俗世の無常と汚濁を見せ付けた。
 この地は二人にとって、父母であり師であり、何にも変えがたい宝だった。
 二人は丘に並んで座り、ぼんやりと雨上がりの草原を眺めていた。草に露が斜陽にきらめき、水と緑の匂いが、色濃く立ち上っている。ここは一番綺麗に風景が見渡せる特等席だった。でもいつも来ることはない。たまに見るからこそ価値がある。
 晩秋の肌寒い風が吹く。兄弟子は上衣を掻き抱こうとして、肩に温もりが触れるのを感じた。やはり寒かったらしい弟弟子が身を寄せるてくる。まるで動物のようだなと思う。

「寒いか」
「少し」

 三奇は溜息をつき、着ていた長袍を広げて小さな身体ごと懐に包み込んでやった。くっついているとお互いの体温で暖かかった。
 同じことを思ったのか、あったかい、と四奇がポツリと言った。
 会話が途切れる。けれどこうした沈黙は、嫌なものではなかった。
 ふと、再び三奇は口を開いた。

「老五とはうまくやっているみたいだな」
「まぁね」

 ズズッと鼻を啜りながら答えている。洟が外気に凍って鼻元に白く張りついているのを見止めて、しょうがないなとばかりに袖で拭いってやった。

「お前があんなに可愛がるなんて意外だった」

 言ってから、そういえば似たような台詞を二奇から言われたことがあるのを思い出し、可笑しくなる。

「だって老五は可愛いから」

 四奇はされるがままになりながら、ぼんやり景色を眺めている。眠たげだった。

「老六がごねてたぜ。自分には容赦ないくせに、何で老五には甘いんだって。不公平だってさ」
「老六は可愛くないんだもん」

 単純明快な答えに三奇はいっそ感心したが、

「それだけか?」

 何となく、突っ込んで聞いてみた。
 四奇が五奇を構うのは、師兄が師弟に親しむという意味では当たり前のようだが、三奇にはどこか謎めいても見えた。確かに五奇は愛らしい(一応男児だが)。しかし四奇の接し方は他の師兄たちとどこか違う。二奇が優しいのは人柄だが、三奇は別にそれほど構ってやらない。大師兄の袁方にいたっては論外だ。しかし四奇は、不思議なほど五奇を可愛がっている。四奇の性格を考えると、どうにも不思議でならない。
 四奇は茫洋とした表情で、ひと時ほど考えるように黙り込んだ。

「昔、犬を飼っていたことがあるんだ」

 唐突に何の脈絡もなく始まった話に、三奇は瞬いた。
 四奇は構わず続ける。

「真っ白い子犬でさ。可愛かったな。野良だったのを、親が拾って俺にくれたんだ。ほら俺戌年生まれじゃん。いつも病気してるから、お守り代わりにってさ」

 もったりと瞬きをするその瞼を、上から眺める。
 これは後で聞いた話だが、四奇はこの書院に来る前に二親を亡くしたらしい。遺った児たちは各々別の親族の元へと引き取られたが、四奇だけは引き取り手がなかった。病弱な子どもなど、手間と経済的負担がかかるだけで、何の役にも立たない。いつ死ぬかわからない者など面倒だと、親戚誰もが嫌がったのだ。そこで話し合いが行われた結果、同世代の内で一番病弱であったが一番聡明でもあった四奇は、水鏡先生の元に預けられることになったらしい。

「名前は『(こう)』ってつけた」

 三奇は脱力して体勢を崩しかけた。だが四奇を潰してしまうとまずいので、何とか留まる。
 命名というかそのまんまでは……という感想は喉の奥に押し込める。

「俺、きょうだいはいたけど、皆年上なんだ。だから『狗』って呼んで、あいつが尻尾振って飛んでくるのが、弟ができたみたいで嬉しかった。でも、ある日いきなり狗がいなくなった。いくら呼んでもこないし、最初はどこか遊びに行ってるんだろうって思ってた。けどいつまで経っても戻って来なくて、不安になって家を抜け出して里中を捜したよ。ずっとずーっと、ぐるぐる歩き回った。そしたら道端で大人の男達が棒を持って輪になってた。『今日は運がいい』『肉なんて久しぶりだ』そんな感じの話が聞こえた。それから、『子犬よりもっと成長したのが良かったが』って話してた」

 寒さのせいか、四奇の瞼が微かに震えた。しかし声音は落ち着いている。

「覗いたら、真っ赤になった白い毛が見えた。あいつら、それを物みたいにぶら下げて言うんだ。『飼い犬だったみたいだぞ、大丈夫か』『こんな時世、犬なんて飼う余裕のあるのは金持ちだけだ。民衆が苦しんでいるのに、道楽に金を使う腐った奴らだ。そんな奴から奪ったところで何が悪い』『そうだ、俺たちだって食わなきゃ死ぬんだ』」

 まさか一言一句まで、ずっと覚えているのだろうか。そう思えるほど、四奇の言葉は淀みがなかった。

「そう言い合いながら、目の前を通り過ぎていったよ。道端には、俺は狗につけていた赤い紐と鈴だけが捨てられていて、あとは皆どこかへ持っていかれちゃった。血だらけのそれを持って、俺は一日中泣いてた。慌てて捜しに来た親に連れ戻されるまで、ずっとそこにいたらしいよ。そのあと3日間は高熱出してたから、そのあたりの記憶は曖昧なんだけどね。目が覚めたとき、母上が泣いた。危ないところだったんだって」

 ほ、と息をついた。白い吐息が浮かんで消える。
 そこまで、まるで他人事みたいに語り終えた四奇は、疲れた顔をしていた。
 要するに、可愛がっていたその犬と五奇を重ねているのだろうか。本人がいれば、犬と同じに見られていたことに複雑な心境になっただろうが、四奇にとってはそれだけで十分意味があるのだろう。逆に四奇らしい理由でもある。その出来事を親には話したのか、と三奇は問いかけた。

「訊かれたけど、言わなかった」

 いっそ素っ気無いとも思える答えが返った。

「どうして。そいつらが憎くはなかったのか?」

 憎い……。四奇は初めて耳にする言葉であるかのように、反芻した。それから、分からない、と続ける。

「分からない。でも狗が連れて行かれるのを見た時に、何となく分かったんだ。しょうがないんだって。食べるものがない人がいて、道端の子犬でも殺す。でも仕方ないんだ。だって食べなきゃ死ぬもんな。みんな生きたいから、嫌でもそうするんだ。悪いのはそういう時代にした奴だから」

 そこで終える風に、四奇は口をつぐんだ。
 その出来事は、今の四奇を駆り立てるきっかけになっているのだろうか。
 三奇は、不意に危ういと感じた。四奇は、この年にして人をあまりに見つめすぎていた。生まれた時から、動くこともままならず何もすることのない病床の上に多くあったせいか、彼は書物を友とする傍ら、そこから見える人を、人の心を観察し続けていた。だから四奇は人の心の機微にひどく聡い。とはいえすべての病弱な人間がそうなるわけではなく、もちろん生来の性の占める割合もあるだろう。けれど、それは通常人が成長の過程で経るべき、懊悩や葛藤や怒りや自己嫌悪などをすべて飛び越えて至ってしまった境地だ。早熟の子どもは、その分の歳月をどこかへやってしまったかのように、寿命が短い。三奇にはそれが危惧されてならなかった。
 だから彼は、ことさらおどけて言ってみせた。

「お前は物分りが良すぎる」

 そういう時はもっと怒って暴れていいんだ。己の杞憂を吹き飛ばすかのように明るい口調でどつく。四奇は小さく微笑んだ。

「そうかも。俺は長く生きられないから、きっと人よりも道に迷う回数が少ないように生まれついたんだ」

 それは三奇が今しがた抱いた危惧を言い当てるような科白で、一層ひやりとさせられた。複雑な心境を隠すために、目の前の柔らかな曲線を描く頬を思い切り引っ張った。

「何するんだよ」
「お前はもっと馬鹿になった方がいい。じゃないと人生損するぞ」
「老三に言われたくない」

 むっと眉を寄せて、両手を当てた頬を膨らます。相応に子どもらしい仕草に、三奇はようやく少しだけほっとして笑みを浮かべた。

「世界を変えたいか?」
「どうだろう。よく分かんないな。変わればいいとは思うけど」

 でもさ。四奇は白い息を、青く高い空へ向けた。黒い瞳が雲の白を吸い込む。

「こうしてここに坐って見てると、時々分からなくなる。俺たちが泣いたり怒ったりしてても、一日は終わってまた明日が来るだろ。人間がじたばたしてるのを、無駄な努力だと鼻で笑うみたいに、世界は勝手に進みたいように進んでいく。俺たちに、本当に何かを変えることなんてできるのかな」

 世界はあまりにも雄大すぎて。綿々と継がれて来た、抗いがたい歴史の流れに押しつぶされそうになる。草原の見せる変化の美しさは、そうした底知れぬ無力感をも時に与える。そして問うのだ、お前は何をするのだ、と。ちっぽけなお前に何ができる、と。

「いいじゃないか、自分が自分を信じていればそれだけで何かは変わる。世界が人間を笑うなら、俺たちも世界を笑ってやろうぜ。お前達にはこれほど充実した気持ちを感じることができないんだから、哀れだなってさ」

 三奇があまりにも芝居がかって言うものだから、四奇は思わず噴き出した。

「老三、言ってる意味わかんないよ」
「俺もだよ」

 自分で言っておきながら、三奇はあっけらかんと笑った。
 あ、と四奇が声を上げた。腕を伸ばす。

「虹」

 小さな指が指す先で、筆で刷いたような光彩が浮かんでいた。七色の帯がすっと宙に走り、雲間に溶け込む。とても綺麗だった。三奇は知らず歓声を漏らした。

「綺麗だな」
「うん」
「そういえば虹の根元には宝が埋まってるらしいぜ。宝には興味ないけど、虹を掴むことはできるのか気になる」
「でも虹に触ると気が狂うらしいじゃん。きっと、あれは誰もたどり着けないところにあるから、夢があるんだよ」

 他愛もないやりとりをしながら、その幻想的な色の流れを眺める。
 虹が見られること自体珍しいものだったが、夕方に見えるのはもっと珍しいことだった。二奇もいたら良かったのに、と悔やまれる。
 しかしすぐに虹は消えてしまった。あーあ、と四奇が残念そうに呟く。
 変わりに、夕差しが強くなったようだった。

「日が沈む」

 今や消えようとする日が、最後のひと頑張りとばかりに光を放っている。これから最も美しい刻がやってくる。一瞬の、世界が美しく見える瞬間。
 意味なんか必要ないのだと、三奇は思う。こうしてささやかな幸せをかみ締める時間と場所と、心さえ守れるのなら。それさえあれば、目に映る世界はこんなにも鮮やかなのだから。世から見ればちっぽけなものでも、それこそが何よりも得がたいものなのだ。

「暗くなる。そろそろ帰ろうか」

 ひとしきり移ろいを楽しんだあと、三奇は腰を上げようとした。しかし返ってくるのは鈍い返事。首を傾ければ、頭が重たげに揺れている。

「おいおい、こんなところで眠るなよ」

 「んー」と聞いているんだか聞いてないんだか分からない様子で、目を擦っている。それから三奇の袖を引っ張った。

「おんぶ」

 しょうがないな、と若干眉を下げながら、三奇は後ろ向きに腰を屈めた。背中に重みを乗せ、よっこらしょとよろけながら背負い上げる。草を踏みしめた。
 重なる二つの黒い影法師が、藍色の空に溶け込みながら、ゆっくりと山の方へ去っていった。




 煌びやかに宴に舞う 花衣
 一つ二つ色を重ね 七つの帯が天空を結ぶ




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