医学は決して万能ではない。

 そんなことは、嫌というほど思い知らされている。




 卓に肘ついた手で目を覆う。室内は静寂に沈み、自分の憑かれた溜息だけが聞こえた。
 掌に、消えゆく鼓動と奪い去られていく体温の残滓が、まだ残っている。
 ―――また救えなかったか。
 無念と虚しさ。幾度経験してもこれだけは慣れることない。

『先生……御礼、申し上げます……』

 血の気が失せ、痩せこけた面で、最期にそう呟いた患者。生気の代わりに、穏やかな光を宿した瞳だった。

『お医者様、どうぞありがとうございました…妻もきっと安心して逝けたと思います』

 涕洟を流して哭泣しながらも、心から礼を述べる遺族。
 感謝など……結局自分は大したことはできなかったというのに。
 名医だ、神医だなどと呼ばれても、救えるのは所詮ほんの一握りだ。できることといえば、少しでも苦痛を和らげてやることだけ。死に向かう者を留めることはできない。
 無力だとは思わない。いっそ、無力であれば諦めもついた。しかし全くの無力ではないから―――中途半端に知識があるから、分かってしまう。その者が助からないこと、その病が自分には治せないこと、あるいは本当に何も治療法などないのか、もしかしたら自分がもう少し献身を怠らなければ見つかったのではないのか、と―――
 無力無能であれば。何も分からぬまま、これほど苦しむこともなかっただろう。
 力が無いのではない。だが、力が及ばないのだ。
 床に落ちた『黄帝内経』が目に入った。

 ―――何が黄帝だ。

 胸中で吐き捨てるように毒づく。全民の始祖にして、世界の創造主。人間に知と文明と医学を賜った偉大なる神王。

 ―――全知全能の医神だと言うのならば、何故人間に全能の医学を与えなかった。

 中途半端に知識を与えておいて、これではひどく残酷な仕打ちだ。
 ゆるゆると面を上げる。散々に散らかり、床にあらゆるものが散乱する室を改めて見回せば、妙にやるせなくなってきた。
 何度この思いを味わっても、それでもきっと自分は医の道を捨てることはできないだろう。
 たとえ幼い一人息子の命と引き換えに麻沸散という大きな治療法を得たとしても―――いや、引き換えにしたからこそ。
 救えぬと分かっていながら、諦めきれず治療を続ける自分がいる。

(これもまた俺の業か)

 カランと一つ、落ちた木簡が音を立てた。




「先生、俺あとどれくらい生きられるかな」

 唐突に発せられた言葉に、華陀は思わず鍼を持つ手を滑らせかけた。

「何だ、いきなり藪から棒に」

 馬鹿なこと言うな、と言外に窘める。改めて鍼を持ち直し、慣れた手つきで抜いた。
 対する四奇はさして悪びれた様子もなく、むしろあっさりとした口調で返した。

「だって本当のことだろ。昔から色んな医者にかかったけど、誰もが永くはないだろうって言ったよ」
「確かに生来の性質を完治させることは難しいが、治療法によって改善することはできる」

 「ふーん」とどうでもよさげな返答が戻ってくる。真面目に取り合っているのか、適当に聞き流しているのか。こちらに背中を向けているので、どんな表情をしているのかは分からないが、見えたとしてもその心中を量ることは難しかっただろう。会ったときから、感情を読ませないのが上手い子供だった。
 永くはないと言った医師たちの言葉も、恐らく直接聞いたのではなく暗に知ったものだろう。聡い子供だったのだろうから。
 華陀が出会って来た病人たちの中でも、四奇はどこか違った。
 その年に合わぬ諦悟した所作が、幼い時より死を間近に感じながら育ってきたことによるものだとすれば―――華陀は昏い気持ちになる。
 今も平素のように話しているが、四奇は実は熱を発している。触診の感じでは、相当辛いはずだった。けれどこれだけ普段どおり振舞っている。……慣れてしまっているのだ。
 こうして定期的に訪れ、薬方や鍼灸を施しても、四奇の体質が根本的に改善する兆候はあまり窺えない。床に臥す度その度に対処療法を行うことはできるが、それでは所詮その場しのぎでしかなく、根源的な解決には至らないのだ。それだけ先天の性質というのは厄介であり、最も難しい病といえる。
 華陀が治療を請け負ったのはそういう理由があったからであるが、その一方で―――この病を治すことができれば、今まで積み重ねてきた無念と呵責があがなえるような気がしたから。
 勝手な自己満足だとは分かっていても。

(こいつは俺の生涯の患者だ)

 心の奥底で密かにそう思っている。旅の頻度や範囲を大幅に減らし、医院つきの宅を建ててまで治療法の研究に専念するのは、だからかもしれない。

「一番大切なのは心の持ちようさ。病は気からとも言うだろう。最終的に病に打ち克つのは自分自身の意思の力だ」

 最後の一本を抜き取り、終わったぞ、と剥き出しになった背を叩く。
 袖に手を通し、襟を引き上げながら、四奇はおざなりに礼を述べる。

「あとはこの薬を飲んでおけ。一日一回な。薬包を一週間分置いていってやる」
「嫌だ」
「お前な……」

 呆れる華陀を無視して、四奇は袷を整え、胡坐をかいていた牀台の上に横たわった。微かに億劫そうな吐息が漏れる。やはり慣れているとは言っても、体は辛いのだろう。
 綿の入った被子を胸上まで引き寄せると、四奇は道具を仕舞っている華陀の後ろ姿をじっと見つめた。

「元化先生」
「んー? どうした」

 字で呼ぶなど珍しいな、などと思いながら、華陀は目線はそのままで返す。

「何かあった?」

 片付けていた手が、一瞬止まった。
 しかしすぐに何事でもないように振る舞い、顔を上げて四奇を見やる。

「またいきなりだな、お前は」

 苦笑しながら「別に何もないよ」と言い聞かせ、再び作業に戻る。何もなかったわけではないが嘘ではない。これは四奇に話すべきことはないからだ。けれども心中には、静かな漣が立っていた。
 しばらくの沈黙が室内を包む。やがて、再び四奇の声が聞こえた。

「先生、世の中に絶対のものなんかない」

 波紋が大きく波打つ。
 もう一度振り返れば、しずかにこちらを見据える双眸に打ち当たった。

「全能の道なんてないし、全能の知なんてない。そんなものがあれば、そもそも世が乱れたりなんかしない」
「……」
「でも、確かに言えることもある」

 四奇の相貌に、かすかな笑みが浮かぶ。

「俺にとって先生は命の恩人だよ。薬は死ぬほど苦くて不味いし、鍼はめちゃくちゃ怖いけど、でも先生のおかげで俺が今もこうして生きているということも、俺が先生に感謝しているということも、それは絶対だ」
「お前……」

 呆然と言葉を失くす華陀に、四奇はニヤリとした。

「当たった? 読心術は得意だって言ったろ」

 それに、華陀も苦笑いで返す。

(患者に顔色を読まれちゃ医者の面目もないな)

 気まずそうに髪を掻きやる。正直、ドキリとした。まさか、慎重に腹内に沈めていたものを見抜かれるとは思わなかったから。
 全く油断ならない病人だ。
 ふふ、と四奇は屈託なく笑う。その笑顔を見て華陀は思う。自分は『それ』が欲しかったのかもしれない。
 医の行い続けることによる虚しさを、より多くを救うことで、自分が救われたかったのかもしれない。
 あるいは絶対という物がないことを知っているからこそ、絶対と思えるものを得たかったのだろうか。
 このような時代だからこそ、なお。

「老四」
「何?」
「お前の病、俺が一生をかけても(なお)してやるからな」
「……期待しているよ」

 四奇は横になったまま、華陀を見て目を細めた。

「だからこの薬は飲めな」
「ゼッテー嫌」




 建安十二(二〇七)年 郭嘉は袁家と烏丸の討伐のため北方に遠征し、その先で風土病を得、都に戻ってから重篤となり、数え三十八歳で死去する。

 華佗(またの表記を華陀)の没年は不明であるが、建安十三(二〇八)年より前に、曹操の怒りを買ったことにより処刑されたとされる。享年は不明。
 華佗の著した医書は華佗自らの手によって燃やされ、後世には残っていない。




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