草風の誓い







 遠く、呼ぶ声が、青空の下に広がる見渡す限り若緑の草原に風に乗って渡る。
 ざぁざぁと、柔らかな碧が風に揺れなびく。暖かな春の風だ。吹きは強いが、不快ではなくむしろ心地よい。
 一面の草に足を埋めるようにしながら、一人の人影が彷徨う。笠に、鼻から下を面で覆い顔を隠したその姿は、一見怪しげで異様でもある。
 彼は、ふと見やった樹の向こう側の根元に、目的の影を見つけた。歩み寄った。

「捜しましたよ、老四」

 またこんなところにいたのですか、と呆れたように吐息を漏らす。その声はまさに草原に群がる新緑のごとく清爽たる精力に満ちていて、落ち着いた響きながらも彼がまだかなり若いことを示していた。
 返る返事はない。だが聞こえてないわけではないのだろう。
 浅くない付き合いで彼の人となりをよく知る青年は、構わず樹の向こうに回りこんだ。
 そこには、根を枕に、頭の下で腕を組み寝転がる人がいた。着物は青年と同じ装いだが、違うのは彼の者が笠も覆面もつけていないところだった。その口元には微笑が刻まれている。

「老七か。よくここが分かったな」

 青年は覆面の下で再び嘆息した。

「師兄。外にいるときは面をつけろと、あれだけ老師に言われたでしょう」

 大気に触れるまま晒された相貌を、四奇は軽く弟弟子に向ける。目だけで小言煩い青年を面白そうにちらりと見上げた。そうして、視線を戻す。

「折角こんなに気持ちいい天気なのに、そんな無粋なものつけてられないさ。お前もその暑苦しい面を外したらどうだ?」

 七奇は諦めたように肩を竦めた。
 若さは見たところさほど変わらぬ様子だったが、明朗溌剌とした青年の声に比べ、彼の声音はどこか深い響きを帯びていた。

「それで、決策の王はこんなところで一体何を考えていたのですか」

 七奇は投げかけられた言葉は黙止して、探るような口調で質問した。

「別に何も。ただ、空を眺めていただけ」

 笑みを浮かべたまま、四奇はごく簡素に答える。まるでそれ以上の理由はなく、それ以下の理由もないという風に。
 いつも彼はこうだ、と七奇は思う。どこか曖昧で、フラフラと所在定まらない。その考えていることも思いもとにかく掴みがたい。およそこの兄弟子の行動理由を特定しえたためしが一度もなかった。
 七奇はそれ以上は問うこともなく、用件を述べた。

「老師がお呼びですよ。今日は山を下りて出掛けると、聞いたでしょう」
「ああ……例の密書の解読か」

 興味なさ気に、ポツリと呟く。
 それに僅かに心にかかる響きを感じて、七奇は彼を見つめた。

「あまり、乗り気ではなさそうですね」
「観客の前で己の才を披露して、他の軍師達と知恵比べみたいなのをするのは趣味じゃない」

 どうでもよさそうに漏らして、上半身を起こす。結い髪や背中に付いていた葉が、動きに合わせてハラハラと舞い落ちた。

「大体、俺達が雁首そろえて行く必要もないじゃないか。すでに出仕している老大はともかく、どうせ皆が行くわけじゃないんだろう。いいよ、俺は留守してるから他の連中を連れて行ってくれ」
「老師は我々五人と指名されたのです」

 軽く駄々を捏ねるような相手へ、諭すように七奇は告げる。
 はぁ、と四奇は再び息をついた。

「めんどくさ……」

 億劫そうに呟いて顔を草原に向けた。強い風が吹いて、二人の服を揺らす。緑が舞った。

「仕方ありません。国の上層部からの命令とあれば、行かぬわけにもいかぬでしょう。―――恐らく老師は俺達の才を『外』に見せるのと同時に、俺達に直接この目で『外』を見せようとしているのだと思いますよ」

 盲目の老師の姿を思い浮かべながら、七奇は言う。老師のやることには、何かしら必ず意味が含まれているのだ。
 四奇は遠くを眺めやっている。

「老師はそこで俺達の内から『臥龍』と『鳳雛』を見定めるつもりかもな」

 サラリと発された台詞に、軽く七奇は瞠目した。
 身を起こしたものの今だ坐り込んでいる男をまじまじと見返した。

「まさか。老師は、今だかつてその称号に価した二傑はまだいないと」
「さあね」

 四奇は軽く咳込んで、肩を竦める。

「どっちにせよ俺には興味のない話だ」

 七奇は笠の下で目を眇める。その瞳に、複雑そうな光が宿っていた。
 四奇はいつもこんな調子だった。決策の王と冠されるほどに計略に長け、人の心理を読み、先の先を見通す才を秘めているくせに、それを自ら積極的に活用しようとしない。水鏡先生の門内ですら、仕方なくやっている、という風情だった。特に自分にかかわりがない時の無関心はより顕著だった。
 彼は闘争心がなかった。いや、正確にはないわけではないのだろう。
 四奇は平素はわりに穏やかな気質ながら、内には抜き身の刃のような刹那がある。秘められた激しさがある。
 しかしこちらから意図的に挑発して揺らそうとしても、気が乗らなければ全くその気にならない。かと思えば、ふとした時に本気を見せて勝負を仕掛けてくることもある。ひどく気紛れだった。
 ただどちらかというならば、闘志がないときの方が多い。
 こと、病が重くなってからは特にその傾向が強くなったように思う。
 その気になれば恐ろしいまでに容赦ない策略を弄するのに、今は妙に老成した雰囲気がそれを押さえ込んでしまっているようだった。

「……我々は、いつか皆山を出て主君を定め、仕えることになります」

 七奇は無意識に口にしていた。
 四奇は無言だ。遠方を望む瞳の奥で、何を思っているのか。

「水鏡八奇は、その宿命から逃れることはできない。―――逃げることは許されない」

 そうあるべく―――乱世に身を投じるべく、自分達は今まで学んできたのだから。
 水鏡八奇とは、そのために存在する。

「俺もお前も、いずれ選択を迫られる時が来る、って言いたいのか?」

 どこか投げやりな、他人事のような口ぶりで、四奇は呟く。
 もし彼が自分の前に立ちはだかった時自分はどうするだろうと、七奇は不意に遠くで思った。自分にとって、彼はきっと大きな壁となりえるだろう。その時は。

「正直なところ、俺は貴方とはあまり戦いたくない」

 もしも万が一敵対することになったら、互いにただではすまないほどの戦になるだろう。老師の教えた雷電の操術を体得できたのが、八奇中で彼と自分だけであったときから、何となくそんな気がしていた。

「俺もお前だけはなるべく敵に回したくないよ」

 いつもの表情を向け、四奇はそう答える。優しげな風貌に浮かべられた不敵な微笑は、考えていることを読ませない。意図を量ろうとする七奇の視線をやり過ごすように、再び彼は正面へ首を戻す。

「お前が敵になれば、厄介なことこの上ないだろうからな」

 冗談めかした軽い口調だが、実際冗談なのか本気なのかは分からない。
 七奇はその後姿を見つめた。少し霞んだ蒼の空の中にある、その姿。
 敵対はしたくない。けれど―――

「でも、俺には予感があるんです。きっと俺は老四とは別の主君につくでしょう」

 かすかに笑う気配が、伝わってきた。

「俺もなんとなく、そんな気がするよ」

 深く柔らかく響く声音。
 風が駆け抜けた。

「さてと、そろそろ戻るとするか―――老師が待ちくたびれていることだろう」

 四奇はのんびりとした所作で立ち上がって、服についた土草を払い落とした。
 身体を伸ばし、それでも今だ草原を遠望し続けている後ろ姿に、七奇は師兄、と言葉を投げた。

「ご存知でしたか。俺はまだ、あなたの策を一度も破ったことがない」
「そうだったか?」

 四奇は覚えてないかのように首を傾げる。

「まぁ、しょせん軍師の真価なんてものはあんな机上の『ままごと』じゃ決まらない。実際の戦場に出てから初めて分かるものさ」

 腰に手を当て、穏やかな口調で彼は言う。
 それからふと、

「俺にも予感があるよ。―――きっとお前は『臥龍』『鳳雛』どちらかの称号を得るだろう」

 ざぁっと大気が唸る。いい風だな、と四奇は髪を押さえるようにしながら仰いだ。

「老四がそう言うならば、そうなのかもしれませんね」

 四奇の、天才的なまでの先見を知る七奇は、素直な気持ちでそう言った。彼の予言はよく当たるから。
 背を向けたまま、四奇は言葉を紡ぐ。
 唸りを上げる風音と草葉のざわめきのなか聞き取った内容に、七奇はただ黙って拱手を掲げた。

「もしお前が俺の敵に回った時は、全力で潰しに来い。俺は見ていてやる。お前が、どう俺の計略を破るのかを」




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