――卑賤なる聖人




 断りの一つもなく戸を開ければ、嵐のような室内が視界に飛び込んできた。所狭しとおかれた書物類や器具に紛れ、やれ乾燥した植物だの液体だの粉だの、最早元が何だったのか謎な物質がこれでもかとばかりに散乱し、足の踏み場を奪っている。
 初めて目にする者なら、物盗りの犯行かと驚くところだ。予測どおりの図―――というよりも相変わらずの光景に、四奇は溜息をつくことも呆れ顔をすることもせず、一旦沈黙する。
 この房間が一度として整理整頓されていたためしはない。幾度となく訪れている四奇にも、房間が本当はどれだけ広いのか皆目不明だった。何せここの主人は散らかっていることになど全く頓着しない性質だから、一向に綺麗にならないのだ。
 四奇だって、別に綺麗好きというわけではない。元々マメな方ではないから、頻繁に掃除もしない。しかしだからといって気にしないわけではない。あとが面倒なので、ただ汚くしないだけだ。
 だからこの室の持ち主の感覚が一時期は理解できなかったが、今では慣れたこともあって何の感慨も浮かばなかった。何かに長けている者は、往々にして何かが欠けているものだ。
 障害物を避けながら、僅かに床の覗く面を器用に縫って、奥で何やら書き物をしている男の背中に声を投げつけた。

「先生」
「……」
「せーんーせー。……オイコラ気づけ」

 手近な簡で後頭部を容赦なく叩けば、ようやく「いてっ」という反応が返ってきた。
 痛む箇所を撫でながら、華陀が振り向く。側に立ってる四奇を見上げ、目をパチクリさせた。

「ああ、何だ来てたのか」
「来てたのか、じゃないだろ」
「どうかしたのか?」
「定期健診に来た」

 このやりとりも最早定例のようなものである。
 華陀は随分長いこと筆を滑らせていたのか、凝り固まった首筋を揉んだ。

「わざわざ来なくとも、人よこしてくれりゃあ俺がそっちに行ってやったのに」

 それに、四奇は肩をすくめてみせた。

「いいんだよ。俺だって外出たいしさ。第一人よこすくらいなら自分から行った方が早いだろ」

 そりゃそうだが、と華陀は曖昧に相槌打つ。大体は華陀自身が水鏡の書院まで足を運ぶのだが、同様の理由で四奇の方からこの華陀の診察所まで尋ねてくることも、何度かあった。華陀が突貫で建てた診察兼養生所は、城街から少し離れた北側にある。きっと街に遊びに行くついでに寄って来るのだろう。
 四奇は室内をキョロキョロ見回しながら、「相変わらずきったねぇ部屋」などと呟いている。四奇の悪態は、口の悪さに比べ悪意はなく、挨拶みたいなものだと心得ている華陀は適当に流して書き物を仕舞う。
 その間に患者の方は勝手知ったるものと、繋がっている別室に向かう。隣は診察室になっていて、そちらの方はさすがに綺麗に片付いていた。
 定位置に陣取った四奇の前に掛け声一つ上げて座ると、華陀は腕を出すように言った。

「ここのところ具合はどうだ?」
「別に」
「別にってお前な」
「可もなく不可もなくってことだよ」

 微笑する四奇に、華陀は呆れて溜め息をつく。
 問診しながら脈をとり、視診、触診、聴診と一通り望聞問切(ぼうぶんもんせつ)を行って、最後に鍼を打つ。いつもどおりの手順であり、さほど時間は要しなかった。
 一連の作業を終えると、四奇は着衣を整えて軽く伸びをした。
 その前に、奥から戻った華陀が碗を差し出す。煮立つ煙と、仄かな香り。四奇はあからさまに顔を顰めた。

「げっ」
「げっじゃない。ホラ、文句言わず飲む」
「つーかコレ、前よりも匂いと色ひどくなってない?」
「またちょっと内容変えてみたからな」
「……飲まなきゃ駄目?」
「駄目」

 華陀が断固と答えても、なお四奇は渋る。碗を受け取るどころか、できるだけ離れようとするように、円座上にかいた胡坐をにじり動かしている。

「こらこら、何逃げ腰になっているんだ」

 逃げたくもなるわ、と口鼻を覆いながら四奇思いっきり眉根を寄せている。
 水鏡八奇の中でも、三奇と並んでどんなことに対してもいつも不敵に構えている少年だが、華陀の薬だけは相当弱点のようだ。

「別に今はどこも悪くないんだから良いじゃん。具合悪くなったら飲むよ」
「お前な」

 華陀は両肩を落として嘆息した。それから咳払いを一つ、

「医者っつーのは、本来は患者が病んでから薬出したり治療したりすべきじゃないんだ。そういう薬は下品(げぼん)といって、有害かつ最悪の(ほう)で、そんな治療の仕方は最も賤しいとされる。『素問』に『聖人は已病を治さず、未病を治す』と言ってな、聖人たる医者の本義は病になる前に芽を摘むことにこそあるってことだ。……まぁお前の場合、未病の時点で予防しきれないわけだから、やっぱり俺の仕事にも責があるんだがな」

 最後の苦笑じみた小さな呟きは、自身に向けて放たれたものでもあった。
 それを聞いたからか否か、四奇はしばらく押し黙った後、華陀の手中から薬茶をもぎ取った。

「仕方ないから、あんたの下手くそな遊説に乗せられてやるよ。鼻摘まれて無理やり流し込まれるのも勘弁だしな」

 不承不承吐き捨てた四奇は、渋い面持ちで碗に目を落とす。至極嫌そうではあるが。華陀はもう一度苦笑する。何だかんだ言って、四奇は結構気配り屋なのである。確かにその弱味を狙った面もあるが、しかし華陀の言葉は本心でもあった。
 四奇が覚悟を決めて一気に呷ると、その表情がこれ以上もなく歪んだ。苦悶とも悲哀ともつかぬ微妙さだ。
 押しつけるように碗を返し、代わりに用意された温い白湯を奪い取って流し込む。

「……ぷはー!」
「ほんっと不味そうに飲むよな、お前って」
「不味いからな」

 口元を拭いつつ、要因たる医者を睨めつける。

「しかも何が不味いって、苦いくせに微妙に甘いってところだ。相殺するどころか余計酷い味を醸してて最悪」
「文句言うな。甘草は咳を鎮めるのに欠かせないんだ」

 辛辣な批評に、作った方は苦笑するしかない。

「でもお前は偉いよ。それでも自分の境遇に文句一つ言わないもんな」
「生まれつきのもんなんだから、否定したって仕方ないだろ」

 あっさりそう言い放てる四奇は強いのかもしれない。先天のものだからこそ、その不公平さ、理不尽さに憤る者も多いというのに。
 しかし華陀は、その物分りのよさに時折不安を覚える。諦観しすぎているほどに諦観している四奇は、逆にとれば己自身はおろか、この世にも、何にも執着が薄いように見えた。生に執着しないというのは、ひいては生きがいがないということだ。生きがいを持たない人間は、たとえ健全な肉体を持っていても病を克服できない。それも心配ではあったが、何より四奇自身の心のありようが気がかりであった。空虚に生きるのではあまりに憐れだ。

「でもさ、こんな体に生まれなかったら俺は今の俺じゃなかったし、そしたら老二や老三とか華陀先生にも出会えなかったかもしれないじゃん。だから案外、これはこれで気に入ってるんだ」

 仄かに笑って告げた四奇の面を、華陀はまじまじと見つめる。全く、いい年した大人の自分がこの子どもにはつくづく驚かされるな、と情けなく思う反面、少し安堵した。自分の心配はただの杞憂かもしれないと思い直す。
 すると、四奇がおもむろに立ち上がった。華陀は目を瞬く。

「何だ、もう行くのか?」
「うん、ちょっと待ち合わせしてるからな」

 適当に暇を告げられてから、ああそうだ、と思い出したように華陀が言った。

「お前、今日は東に向かうといいぞ」

 怪訝そうに眉を顰める顔に指をつきつけ、彼は軽い調子で告げる。

「そういう卦が出てた。吉方だってな。何かいい事があるかもしれん」

 四奇は呆れた様子で言った。

「華陀先生は(せん)の真似事なんてのもするのか?」
「知らんのか? 醫は毉とも書くだろう。古来医者は巫師でもあるんだぞ」
「そう言われれば確かにそうだけど」

 宙になぞられた字を見やり、四奇は胡乱気な視線を神医と呼ばれる古馴染みに向ける。元より医者という輩は総じて怪しい上、華陀も元より胡散臭いところがある男だが、よもや占いまでするとは思っていなかったようだ。
 疑心を向けられても、むしろ華陀は一層磊落に笑った。

「俺のコイツは結構当たるんだ」
「……ふーん。まぁいいけどさ」
「あとお前な、遊ぶのもいいがあんま不摂生はするなよ。二師兄殿がヤキモキしてたぞ」
「はいはい」

 四奇は面倒臭そうに適当な返事をして、「またな」とヒラリと手を振り長衣を翻した。
 未曾有の室を踏み越え戸口に立ったその背を華陀の声が呼び止めた。今や戸に手をかけようとしていた四奇が何だとばかりに振り向けば、

「口開けてみ」
「?」

 素直に従った口内に、小さな粒がいくつか放りこまれる。
 反射的にその唇を閉じると、舌の上に柔らかい感触とともに甘やかな風味が広がった。小さいが歯ごたえもある。驚いている四奇に、華陀は笑って教えた。その手には、いつの間にか小さな壷が乗っている。

「枸杞の実だよ。不老長寿の妙薬さ」
「……」

 四奇はなんとも言えぬ微妙な表情を作った。

「不老長寿、ねぇ……」
「蜜漬けにして乾燥させてあるから、こっちは甘くて美味いだろう?」

 確かに、口中に残っていた先程の薬湯の後味が拭われる。

「確かに美味しいけど。どうせ眉唾だろ?」
「さてな。本当かどうかはともかく、人体に効用があるのは確かだ」

 自分も口に含みながら華陀は答える。不老長寿なんて極めて怪しいものだが、しかし年齢不詳の神医の(そこそこ歳は行っている筈なのに)変わらず若々しい風体を見れば、何となく信じてしまいそうになる。

「思い込みも薬効の一種さ。効能はな、心で生まれるものなんだよ」

 医薬従事者にあるまじき発言をかました男は、懐の袋からお馴染みの葉を一つ取り出す。袋の中を覗けば、最後の一本だった。
 食もうとしたところで、四奇が横から引っ手繰った。すかさず華陀は非難の声を上げる。

「おーいコラ。そいつは俺のだ。お前が飲んでも意味ないぞ」
「薬効は心で生まれるんだろ? 霊験あらたかな華陀先生にあやかって、こいつは貰っておいてやる」

 摘んだ葉茎をクルクルと回しながらそう言うと、四奇は戸を開けた。胡粉色の午陽がサッと差し込んでくる。明かりの中に埃が紋様を描くように舞うのがよく見えた。

「人の不摂生を説教するなら、次来る時までにこの室どうにかしろよな。医者の不養生なんて笑えないぜ」
「どうせ片付けたところで元に戻るんだ、面倒じゃないか」

 華陀が頭を掻きながら言えば、

「『人にして(つね)なければ、もって巫医を()すべからず』ってな」

 四奇はニヤリと不敵に笑い、ぱちくりとしている華陀の返答を待たないまま、それを捨て台詞にバタンと木戸を閉めた。
 華陀は扉の向こうに消えた姿の残像を呆然と見送る。
 それからポツリと

「何だ、知っているんじゃないか」

 と零した。




 人而無恆、不可以作巫醫。
 ―――根性のない人間は医者にも占い師にもなるべきではない。




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