~ゆかり、えにし~




 夏が近づくと、太陽と地上の距離が短くなる気がする。空気が、それまでの春の甘やかな匂いから、深い緑と水の匂いに変わる。
 地面に木漏れ日が揺らめいていた。まるで緑の浅瀬の中を行くようだ。強い日差しは頭上に多い被さる枝の向こうに遮られ、じりじりと焦がしつける強さが和らいでいる。これでそよ風でも吹けば大分心地よくなるところだが、あいにく熱せられた大気は凪いだままだった。

 一人道に影を落としている男は、途中で足を止め、片腕でぐいと額をぬぐった。袖を捲くりむき出した腕は引き締まっており、健康的に焼けている。堂々とした風采が、男の年齢を実際よりもずっと若く見せていた。否、それは『若作り』の範疇をとうに突き抜けていた。誰も男の実年齢を知らないが、相当長い人生を歩んでいるだろうことは知られている。若さの秘訣がどこにあるのか、さてはついに不老不死の丹薬でも作り出したのかと、人々は影でしきりに噂を交わす。しかし男にはどうでもよいことだった。彼は基本的に目の前にいる患者を救うこと以外には、ほとんど興味がない。

 一息ついたあとは、両肩にかかる荷篭の紐を背負い直し、再び足を動かす。幾度となく通った道だが、この時期が一番きつい。いつまでたっても慣れることはない。揺らめく木漏れ日の数を数えるともなく、地上に目を落としたまま無心に坂を上った。
 やがて見えてくる大門は相変わらず荘厳だ。この門は材木の素材といい色といい、不思議なことに春に見れば和やか、夏に見れば涼しげ、秋に見れば趣があり、冬に見れば暖かみを感じる。
 しかし彼は大門まで行くことなく、裏へ回り勝手門を潜った。大門は白昼は人の出入りが多く、人目の煩わしさを避けるためだった。それに、直接内院に入れる裏門の方が男には都合がいい。

 敷居をまたぐと同時にふぅと息をつく。ようやく辿り着いたと、全身から力が抜けた。
 その男の、日に焼けたにしてもなお明るい色の頭を、楼の上から眺める少年がいた。
 桟に片足を、高覧に片腕を乗せ腰掛けていた少年は、見知った人物の到来にニヤリと口角を上げる。そっと桟から離れた。




 自分の名前を呼ぶ声が振ってきた。と思った。
 釣られて太陽の輝く上を仰いだ華陀の面に、ふっと影がかかる。その顔がにわかに引きつる。
 何せ、目の前で人が落ちてきているのだ。それも自分めがけて。
 恐怖ともつかぬ形に強張った表情の裏で、刹那の逡巡が交わされる。今なら避けられなくもない、いやむしろ避けたい。しかし相手は自分がよく知る人物で、しかも己の患者である。放り出したらとんでもないことに―――実は華陀が躱そうとも相手は平気の平左なのだが、相手の性格や人となりよりも、「患者」という事実を先に条件反射で考えてしまうのは、悲しい医者の性だった。
 結果、瞬きほどの葛藤の後にぎゃあ、と蛙の断末魔のような声が上がった。同時に衝突音が響き渡る。その辺にいた鶏たちが驚いた様子で啼きながら逃げ去った。

「あいよー……」

 華陀は下敷きになった下から呻いた。結局受け止めた形で仰向けに倒れ、二人もみくちゃになっている。医者の心得(?)として、咄嗟に後頭部などの急所を打つことだけは免れたが、それでも痛いものは痛い。背中などは衝撃のあまりしばらく伸ばすも曲げるもままなりそうにない。背負っていた篭が脇に転がり、中から草葉の類が飛び出して散らばった。それらを横目で見ながら「ああ、折角採取した薬草が」ともの悲しげな嘆息が漏れる。
 いやいや、それどころではない。はたとして、華陀は自分の上に圧し掛かっている人物に声をかけた。

「おい、大丈夫か?」

 背中が痛むので、寝たままその肩を揺する。
 しかし相手は何の反応も返さず、ぐったりとして動かない。
 いよいよ華陀は慌てた。とるもとりあえず脈を取ろうとしたところで、逆にその手を突然捕まれてぎょっとなった。ついでに変な声も出た。

「ぎょわあっ」

 どきどきしながら見やれば、上に乗る身体が小刻みに揺れていた。必死に笑いを堪えているのだ。
 先ほどまで力なく項垂れていた頭が持ち上がる。逆光で影になった顔の中、二つの目がこちらを見てにやにや笑っていた。

「ひっかかったな」

 何が起きたかをゆっくり理解すると、急激に怒りとも呆れともつかない感情が沸き起こってきた。

「お、お前なぁー! 悪ふざけはいい加減にしろよ、こっちは冷や汗が流れたぞ!!」

 泣いていいのやら笑っていいのやら、ひとまずよくわからない心地で怒鳴れば、当の相手はしれっとした顔で、

「悪い悪い」

 ちっとも悪いと思ってなさそうな顔で笑い声を上げ、よっこいしょと立ち上がる。膝を叩いて、少年は会心の面持ちで華陀を見下ろした。

「ちょっと賭けしててさ」
「はぁ?」
「ちぇ、なんだ。老四の勝ちか」

 訝しげに眉を顰めているところへ、再び上から声がした。
 見やれば、欄干にはもうひとつ人影がある。こちらも似たような笑みを刷きながら(全く、兄弟というものは血の繋がりがなくともこんなに表情の造作が似るものなのか)、二人の様子を文字通り高みから見物していた。
 老四と呼ばれた少年は、己よりも大分年上の兄弟子を上目遣いに見返し、不敵に笑った。

「ほらな、老三。俺の言ったとおりだろ。華陀先生は絶対騙されるって」
「あーあ、がっかりだよ華陀」

 三奇は詰まらなそうに高覧に両頬杖をついた。拗ねているように見えるが、内心はかなり楽しんでいる。
 要するに二人係りで華陀をからかったということだ。
 おまけに一方的に被害を受け、かつ「がっかり」と駄目出しされた。
 全く割に合わない。華陀は憤慨した。

「お前らな! 大人をからかうもんじゃない!」

 しかし華陀がどれだけ怒鳴ろうと、そこはかとなく懇願めいていてあまり迫力がないのが致命的だった。だからまだ年端もいかぬ少年たちにさえいじられるのだが、本人にそんな自覚はない。全く今時の悪餓鬼どもはろくなことに頭を回さんとぷりぷり怒っている。

「ほら、先に老師に挨拶してくるんだろ。早く行ってこいよ」

 年齢に似つかわしくない大人びた口を利いて、四奇は華陀を小突いた。全く生意気極まりないが、言うとおりでもあったので、ここは大人の矜持でぐっとこらえる。相手していたらきりがない。
 調子付いた様子で、四奇はえへんと胸を反り、付け加える。

「しょうがないから薬草は拾っておいてやる」
「何がしょうがないだ、誰のせいだと思ってるんだお前は」

 偉そうな四奇の言にげんなりしながら、お返しにデコピンを見舞う。「いてっ」と額を押さえた少年の鼻先に、華陀はビシリと指を差した。

「いいか、いくら自分が薬飲みたくないからって勝手に捨てるなよ。それから後で診察するからくれぐれも逃げるんじゃないぞ」
「チッ」

 盛大な舌打ちが聞こえてきた。本気でそのつもりだったのかと思うと、華陀は呆れのあまりがっくり肩を落とした。




「あれらがお主に迷惑をかけたようじゃな」

 簡単な挨拶を交わした後、水鏡は開口一番そう言った。華陀は言葉を詰まらせた。

「いやはや、ご存知でしたか。お恥ずかしいところを……」
「儂は耳が良いからの」
「さすがは老師。何でもお見通しですな」

 それを言うならお『聞き』通しか?と自分で突っ込みつつ、華陀は力なく笑い頭を掻いた。
 子どもの手の上で簡単に転がされている自分が恥ずかしいやら情けないやら。

「すまんの。何分あれらも遊び盛りなのだ。普段あまり外に出られぬ分、お主が来るのを実は楽しみにしておる。儂は構ってやれぬしな」

 あれも親愛表現の一つなのじゃ、多少癖はあれど―――軽く揶揄を含んで言われれば、ついに返す言葉も見つからず華陀はひたすら萎縮するしかなかった。愛情表現ならもっと自分に優しいやり方で表現してほしいものだとつくづく思う。

「そこは普通の子どもらと違うのでの。やり方が複雑かつ歪んでしまうのも無理はない」

 心を読んだように水鏡が付け加える。その理解もどうなのだろうか、と心の中で思いながらも、華陀は口に出す愚は冒さなかった。
 ここに集められた子ども達は生まれも育ちも違うが、水鏡の書院で特別な教育を受けると決まった時点で、普通の子どもと同じように育つことも、また常人の人生を歩むこともできぬ定めにあった。それを誉れと判ずるか、憐れと見なすか。華陀にはどちらと言うこともできない。ただ身近で彼らを観察する限り、決して己の境遇を嘆いているわけでないのは確かだった。むしろ彼らはそれなりに今の生活を楽しんでいる。頭の良すぎる子どもは何かと孤立しがちであるから、むしろこういう暮らしの方がずっとあっているのかもしれない。華陀としては彼らが良ければそれでいいと思っている。

「しかし、お主がここへ通うようになってからもうどれくらいになる?」
「かれこれ五年といったところでしょうか」
「そうか、もうそんなになるか」

 歳を取ると時の感覚が分からなくなるのじゃ。水鏡は髭の下で独り言めいた呟きを零した。
 そうだ、もう五年になる。
 その数字に、華陀の胸中で不意に懐かしさがじわりと込み上げてきた。
 感慨深い気持ちで、初めてこの俗世と隔離された書院へ足を踏み入れた日のことを回想した。




 その日、華陀は山の麓にある小さな城街で、例のごとく長の逗留をしていた。修行を兼ねた遍歴医である華陀は、こうして立ち寄った所にしばらく留まり、病や傷に冒された人々を診るのが習慣だった。
 彼がいつものように宿の一室を借りて患者を診ていたところへ、突然飛び込んできたのが、当時まだ七歳だった三奇だった。
 初めて三奇を見た時の華陀の印象はといえば、「子どもらしからぬ顔つきをした餓鬼」だった。七つと言えば一般的に判断はおろか自己表現も思い通りにできない年頃だ。にも関わらず三奇は、見た目は幼くあっても、すでに確立した自己を備えていた。斜に構えているのとも違う、強い自我と独特の観点を持っていたのだ。大人顔負けの弁舌もさることながら、妙に捻くれていて、人を小ばかにしたところのある眼光が、華陀に彼を子どもとして扱うことを許さなかった。
 そんなチグハグな印象を小さな身体に収めた、のちの悪魔の化身が、華陀の部屋に入ってくるなり開口一番「街で評判の神医ってのはあんたか?」と訊いてきた。随分尊大な態度の餓鬼だと思ったが、華陀も呆気に取られていたものだから「評判かどうかは知らんが、そうかもしれん」と間抜けた答えを返した。
 その返答のどこがお気に召したのか、三奇は瞳に面白げな光を浮かべて、

「いつも世話になっている張大夫がいなくて困ってたら、あんたのこと教えてもらった。忙しいとこ悪いけど、老師が急病なんだ。診てもらえる?」

 まるで積年の朋友のような気安さで、そう言った。
 山の上に高名な先生が開いた私塾があり、数多の学生たちが足繁く通っているという話は聞いたことがあった。しかし華陀自身は直接関わりがなかったので、そこへ足を踏み入れたのはその時がはじめてであった。

 水鏡の病は急激な気候の変化からくる単純な風邪だった。しかし年齢が年齢であるから、拗らせて肺を悪くする危険もある。華陀はすぐさま手持ちの中から適当な薬草をかけあわせ、薬湯を毎日三度飲ませると、水鏡の熱はすぐさま下がり、五日もすれば身を起こすこともできるようになった。礼金にと、過ぎるほどの額を渡され度肝を抜かれたが、街の人々相手に無償に近い治療を行っていた分懐寂しくもあったので、生活のためにありがたく頂戴することにした。

 出て行く時には、わざわざ三奇が見送りに来て「さすが神医って呼ばれるだけあるんだな」と彼なりの(?)手放しな賞賛を口にし、華陀を苦笑させた。
 以来、水鏡書院とは長い付き合いが続いている。華陀が山裾の小城を訪れる時は、どこから聞きつけたのか三奇が必ず顔を出し、旅中の土産話を強請った。どうやら華陀はこの皮肉屋の小鬼に気に入られたらしかった。嬉しくもないが。
 その彼が、ある時いつぞやの如く、華陀の宿室に駆け込んできた。けれどその表情は、いつになく硬く強張っており、常に余裕を湛えた双眸もこの時は焦燥に揺れていた。
 一目見て、尋常ならざる状況であることが分かった。

「師弟を助けてくれ」

 いつものふざけた調子でも、華陀を騙してからかおうとしているのでもない。切羽詰った声音で一言そう告げると、無言で華陀を山の上に誘った。
 三奇は振り向きもせず坂を早足で登る。日は沈み、あたりは暗く、薄っすらと道や木々の輪郭が見える程度だった。華陀は道中、三奇の言った『師弟』について考えていた。三奇の弟弟子ということは、水鏡は新しい弟子を『引き取った』ということか。するとそれは四奇ということになるのだろうか。

 暗い中でも、その門は持ち主の性格そのままに異様な存在感を放っていた。
 通されたのは学生たちの自室が並ぶ棟だ。ここまで入るのは華陀も初めてであった。
 回廊の奥に一角、浩々と明るい室があった。表に、一番弟子である袁方が不機嫌そうに背中を凭れかけさせており、華陀を見るなり眉を顰めたものの、一応目礼をしてきた。本当は部屋に戻りたいのだが、皆の雰囲気がそうさせてくれぬ。そういった様子だった。
 三奇は一奇のことも目に入っていないとばかりに脇を通り過ぎ、何も言わずに室に入っていく。躊躇する間もなく、華陀も従った。

 中には水鏡の姿だけでなく、二奇の姿もあった。三奇とそう変わらない歳の頃の彼もまた、大人びた落ち着きを纏った子どもだった。心配そうに四奇を見下ろしていた目が華陀を認めるや、すぐに立ち上がりきちんと礼をする。その二奇が腰掛けていたのは牀台の傍で、床の上には小さな影が横たわっていた。
 まだほんの子供だった。三奇も十分子供だが、もっと幼い。
 そのまだあどけない顔を目にした途端、突然息子の面影が重なった。
 被子から覗く顔色は、蒼白なのに頬だけが紅潮していた。ひゅーと細い呼吸を弱々しく繰り返している。血流の異常と呼吸困難。かなり危険な状態であると、瞬時に華陀は判断した。
 熱に浮かされた手を、いつの間にか傍に寄っていた三奇が握り返していた。

「大丈夫だぞ、老四。この世で一番すごい大夫がきてくれたから」

 意外なものを見たような心地で、華陀はそれを見ていた。まだ数えるほどしかない付き合いの中で大分分かってきていたが、三奇は性格にひと癖もふた癖もある反面、実は情に厚い。むしろ他の同じ年頃の街の子供たちに比べると、性根は一途だった。

「昼から熱が下がらなくて、どれだけ呼びかけても反応がないんです」

 二奇が囁くような声で説明した。華陀は頷くと、すぐに沸騰した湯と冷えた井戸水、そして明かりを用意させた。
 脈を取りながら、四奇の額に手を置き、病状を観察する。大本の要因は恐らく先天性のもの。虚弱体質の人間は、本来人が自然にできるはずの体内の調節や、外から入ってくる邪に対する免疫機能が著しく欠けている。血流や気脈が乱れやすく、制御できない。
 今回の四奇の場合、何らかの原因で血の流れが速くなり、急激な変動に身体がついていけず、心臓に大きな負担がかかっている。意識も混濁状態。血が熱邪に侵された状態―――血熱による熱入血分証の一種だろう。まずやるべきことは涼血と瀉火だった。
 鍼を使って、血流の速さを抑え気脈を安定させる。大人と違い、子供の経穴は繊細で、気をつけなければ経絡を傷つけてしまう恐れがある。華陀は慎重に煮沸消毒した鍼を差し込んでいく。
 それから許容限界を超える高熱を下げるために、解熱作用のある薬を飲ませ、脇や膝裏など各所に水で冷やした布を当てた。熱で温くなるたびに何度も水に浸してこれを繰り返した。

 華陀の額にじっとりと汗が浮かぶ。幼い身体には、これだけの熱に耐え切れるだけの体力はない。長くかかれば命にかかわる。しかし治療の効果が現れるのは個人差がある。時間との勝負だった。
 三奇が側で真剣な面持ちで華陀の手元を見ている。
 処置を終えると、あとは自分が看るからと言って華陀は老師や兄弟子たちに休むよう促した。ここにいても役には立たずむしろ邪魔になるだけだろうと、袁方や水鏡は華陀にあとを託し、二奇は心配そうに何度か振り返りながらも、己の室に戻っていった。三奇だけは最後まで動こうとしなかったが、二奇に諭されて渋々室を後にした。
 誰もいなくなった中で、華陀は牀台の横に座り、体内の乱と戦う幼い顔を見下ろしながら、温くなった布を取り替える。未だ効果が現れる兆しはない。夢でも見ているのか、小さく魘されていた。何かを探すように布団を彷徨う手を、先の三奇と同じように握り、死ぬんじゃないぞ、と祈るような気持ちでつぶやいた。




 覚醒したのは、服の裾をちょんちょんと引っ張られる感覚によってであった。
 気づいて、華陀はハッと瞼を開けた。外は明るみ、曙の光が窓から差し込んでいる。丑の刻を過ぎたころ、ようやく四奇の熱が下がり始めた。呼吸も大分穏やかになったのを確認して、安心するとともにいつの間にか寝入ってしまっていたらしい。ずっと禅を組んだ姿勢で寝ていたせいか、腰から背中、首一帯がきしきしと痛んだ。
 いてて、と呻きながら背を伸ばしたところで、こっちを見ている二つの眸に気づいた。
 枕に頭を乗せたまま、眠たげながら真っ黒な瞳でじっと華陀を見上げている。

「あんた誰」

 開口一番の台詞は、三奇に負けずふてぶてしかった。
 初めて聞く四奇の声は熱のためかかすれていて小さかったが、しっかりとはしていた。

「医者だ」

 華陀は疲れもあり、ぶっきらぼうに即答した。
 「医者?」と四奇は不思議そうに、大きな目でまじまじと眺めてくる。

「見えない」
「そりゃ悪かったな」

 折角助けてもらったというのに、感謝の欠片もない口調だった。

「何だか不良みたいな医者だな。名前なんてーの?」
「華陀だ、チビ四」

 四奇が虚を突かれたのか、瞼を大きく押し上げる。

「俺のこと知ってるの?」
「何だ、自分の師哥から聞いてないのか」
「……そういえば老三が話してたことがあった気がする」

 どこまでも適当な。華陀は溜息をついた。心身ともに倦怠感が包んでいたが、それ以上に助けられたという安堵感と、喜びがじんわりと心に広がっていた。
 死にかけていたとは思えぬ小生意気な口を適当に流しながら、脈を計り正常であることを確認する。熱はまだ少しあるが、ひとまず危難は去ったようだ。

「ねぇ華陀先生」

 先ほどまで「あんた」だの「不良」だの言ってたくせに、もう慣れ親しんだ相手のように呼びかける。まさしくあの師兄にしてこの師弟ありだ。
 時間は早いが、水鏡ならもう起きているかもしれない(老人は往々にして早起きだ)。伝えに行くべきか逡巡しながら、「なんだ」と生返事をする。

「沸って誰」

 華陀の思考が止まった。
 四奇を振り返る。
 どこでその名前を、と心中で漏らしたところで、四奇がまるで先読みしたかのごとく口を開いた。

「すごく苦しくて、怖い夢見てた時に、声が聞こえたんだ。『沸、死ぬな』って」

 そういえば、と華陀は思い返す。看病している途中で、そのようなことを口にしたかもしれない。

「……俺の息子の名前だ」
「息子さん?」

 四奇は首を傾げたが、それ以上は何も訊いてこなかった。子供のくせに気の遣い方を知っているのが生意気だと思った。
 沸。それは華陀のたった一人の―――遅くに授かった愛息子だった。華陀とその妻は、どうしたことかなかなか子種に恵まれず、その中でようやくできたのが沸であった。だが彼は、ある日家族で山に薬草採取へ来た最中、誤って毒の実を口にし、死んだ。華陀や妻が目を離した先の出来事だった。華陀が見つけたのは、すでに冷たくなった息子の姿だった。

 皮肉なことに、華陀は息子の死から、長い研究の結晶であり華陀自身の最高傑作である『麻沸散』を作り上げた。しかし子の命と引き換えに至高の治療法を手に入れたという苦しみは、ずっと華陀の中に巣食い続けた。最高の理解者であった妻は、そんな夫を責めることなく、これで多くの人を救えば沸の供養となると励ましたが、それでも悲嘆のうちに病を得て、治療の甲斐もなくほどなく没した。身体の病気や怪我と違い、心の病ばかりは、華陀にも手が出せなかったのだ。己の無力を、華陀は二人を失った時ほどかみ締めたことはなかった。

 忘れていたわけではない。以来、華陀は家族を持とうと思わなくなった。長い長い遍歴生活の中で、このことは華陀の心の底に重石のごとく沈む記憶となっていた。
 それが不意に浮上したのは、四奇を見たからかもしれない。牀台に横たわる彼に、幼くして死んだ自分の息子が重なった。何としても救わなければと思った。それが沸への贖罪になると思ったわけではなかったが、不思議とずっと心を蝕んでいた後悔と悲しみが、少し軽くなった気がした。我ながら都合がいい、と自嘲じみた気持ちになる。四奇は沸ではない。身代わりに見られても、四奇にしてもいい迷惑だろう。

「華陀先生がお父さんだったらさ、きっと自慢だろうね」

 不意に四奇が言った。

「自慢できるほどすごいもんじゃない」

 むしろ、最低の父親だ―――華陀は暗い気持ちになる。

「そんなことないよ。だって俺、もうだめかなぁって思ったのに、あっちから戻ってこれたもん」

 助けてくれてありがとう。
 無邪気に言う四奇の笑みに、華陀は込み上げるものを苦笑に変えて、返した。自分でもよく分からないひとつの感動が一夜明けた胸にあった。この子を助けよう。完全に治せるかどうかは分からないが、できるところまで面倒を見よう。
 それができれば、むざむざと妻子を死なせてしまった自分を少しは許せるような気がした。




 水鏡の室から外へ出、裏門に向かいながら懐かしい思いに浸っていたところへ、後頭部に衝撃が走る。
 当たったものはそれなりに弾力があったが、それでもかなり痛い。
 涙目になって振り向けば、案の定三奇と四奇がこっちを指差し笑っている。横には最近新しく入った五奇がぼんやり立ち、ぼんやり様子を眺めている。華陀の足元には鞠が落ちていた。
 どうやら自分は、本格的にこの困った小鬼どもに懐かれてしまったらしい。

「こンの悪餓鬼どもーー!! 今度という今度は許さーん!!」

 鞠を掴みあげて追いかけると、三奇と四奇は「きゃー」などと可愛いふりをした叫び声を上げて、笑いながら逃げ惑う。
 この二人がそのうち恐ろしい計略を叩き出す魔の化生になることも、それに自分が同調して暗躍することも、この時の華陀にはまだ知らぬ話だった。




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