龍吟ずれば雲起つ~1~




 たとえば人に生まれてくる意味があるのだとしたら、己に与えられた役割は一体何なのだろうか。

 生まれた時からこの身体は欠陥だらけだった。
 後に聞いた話によれば母は大変な難産だったようで、空が明るむころようやく(はら)から取り上げられた時には泣き声も脈も弱々しく、産婆の要請でかけつけた医者からは二十歳は越せぬだろうと宣告されたという。それを聞いた父は、「阿曉(あぎょう)」という幼名をつけた。黄昏が死や終わりに譬えられるように、暁は生と始まりを象徴する。暁の頃に生まれた子が、次の日も、また次の日も、この先幾千幾万の暁を迎えられるように。幼い命を攫う魔が、明けの光を恐れるがごとく、この子を避けてくれるように―――と。
 それは万感の祈りと思いが込められた護りの名だったのだろう。




三哥(にいさま)、三哥―――・・・・・・」

 心地よい春の風がそよぎ、閑静な林道に少女の声音が木霊する。
 年は十あまり五つほどであろうか。背を流れる黒髪は濡れたように艶やかで、耳の上に二つ髷を軽く結い上げている。挿した花飾りの歩揺が慎ましく音を奏でていた。稚さの中に微かな大人の色を宿す、そんな匂やかな年頃だった。
 再び呼び声が響く。
 郭瑛は人を探していた。兄弟の中で末の自分にとっては一番年の近い、三番目の兄である。
 彼女は、かの兄がこの静かな林を気に入りの隠れ家にしていることを知っていた。そして常日頃から昼の寝床としていることも。猫のように気が多く気まぐれな彼女の兄は、その他にも気に入りの場所をいくつも持っているが、すでにそのうちの数か所を廻って不在を確認してきた郭瑛の勘からすると、絶対に此処だという自信があった。
 本来は自分のような年頃の娘が、こうして一人で外に出て人気のない山道にフラフラしているのは危険であり、はしたないことだとは知っている。乳母や父達に知られたら大事だ。
 けれども郭瑛は、他人に教えるくらいなら己の足で探しに来たかった。自分だけが知っている兄の秘密の居所を、他の誰にも教えたくなかった。
 そうこうするうちに、繊細な刺繍を施した臙脂の靴がふとひとつの大樹の根の前で止まる。
 郭瑛は凛然と顎を上げ、腰に手を当ててみたび声を張り上げた。

「そこに居るのは分かっているんだからね三哥。降りてきて。―――阿曉兄様!」

 今度ははっきり名を呼べば、やがて黒々と生い茂る葉陰に包まれた枝の上から、

「・・・・・・あーあ、やっぱり誤魔化せなかったか」

 軽く笑みを含んだ、柔らかい声色が落ちてくる。
 声変わりをしても、程よい低さで保ったこの声が、郭瑛は大好きだった。一たび耳にしてしまうと、それまでの怒りも何もかもが吸い取られて、つい許してしまいそうになる。

「いつも小妹には見つかってしまうな」

 そうぼやきながら太い枝の上より顔を覗かせたのは、飄々と煌めく瞳を持った少年だった。年の頃は郭瑛よりも数歳上で、十七、八。実際、少年と呼ぶにはもはや大きく、青年と呼ぶにはいまだ幼い。しかし彼の纏うゆったりと落ち着いた雰囲気が、どこか彼を大人びて見せていた。
 姓を郭、名を嘉、幼名は阿曉。それが郭瑛の兄の名である。

「で、一体どうしたんだ?」
(とうさま)大哥(にいさま)たちが呼んでる」

 郭嘉は枝の上で小さく「そうか」と呟くと、よっと一声、そこから飛び降りた。
 郭瑛の目の前に、新緑と鮮やかな水色が翻る。決して背の低い樹ではなかったが、郭嘉は慣れた身のこなしで枝につかまり、易々と着地してみせた。
 郭瑛には突然のことで視界に捉える間もなく、目の前で沸き起こった風圧に思わず悲鳴を上げた。

「兄様! 危ないってば! もし怪我でもしたら―――
「ははは、ダイジョーブダイジョーブ。これくらいでどうかなったりしないさ」
「そう言って、先日も年甲斐もなく水遊びなどして風邪を召されたのはどこの誰かしら」

 棗形の二つの眼を据わらせて睨みつける。知ーらない、と郭嘉はすっとぼけてみせた。
 曉の頃に生まれたこの兄は、生まれつき身体が虚弱だ。それゆえ阿曉という幼名を与えられた。明け方に生まれたことに因んだだけではない。曉は夜を越えてやがて必ずやってくる昇陽の光明だ。そして子どもの魂を好む鬼は黎明を嫌い、朝陽を目にすると逃げ去るという。そこから父は夜を常世にたとえて、必ず朝を迎えられるように、鬼に厭われるようにと、その名をつけた。
 その阿曉こと、郭嘉は芝居がかった仕草で嘆く。

「そんなこと言って、昔は瑛だってとんだじゃじゃ馬だったのに」
「小さいころの話でしょ! 私だってもう15よ、子どもじゃないんだから」

 郭瑛は唇を尖らせ、猛然と抗弁した。確かに幼い時の郭瑛は人一倍きかん気が強く、いつも兄達の後ろについて外に遊びに出ては、泥だらけで帰ってきて、乳母たちに叱られていた。けれど郭瑛だって成長するのだ。今はちゃんと娘らしく淑やかに振舞ったりする(多分)。いずれにしても今更あんな昔のころの自分の話題なんて持ち出さないで欲しい。
 郭瑛は兄の調子に流されまいと首を振り、自分の目線より上にある顔を胸を反らして睨みつけた。詰め寄って指をつきつける。

「話を逸らそうとしても駄目なんだからね、兄様。兄様は身体が丈夫でないくせに、全然そこのところ顧みないんだもん。もっと気をつけないと」
「はいはい」

 一向に聞いている様子のない生返事に、いよいよ頬を膨らませる郭瑛の頭を、郭嘉はぽんぽんと叩く。

「瑛は心配性だな」

 穏やかに微笑みかける。

「けどお前も、危ないから一人でこんなところまで来ちゃ駄目だ。もう『子どもじゃない』んだからな」

 自分の反駁を逆手にとって刺された釘に、郭瑛はぐっと口を詰まらせた。わかってはいてもそこを突かれると痛い。
 そんな郭瑛の頭を再度撫でてから、郭嘉が行こうか、と踵を返す。
 まだ成長途中の背中を見つめながら、ふと郭瑛は表情を解いた。
 黒瞳が、物思うように揺れる。

(ねぇ兄様、気づいている?)

 薄い空色の衣へ、声ならぬ声を投げかける。

(私、もう15になったんだよ―――




 西に山を望み、東西を濂河に貫かれた、緑豊かな陽翟県郭濂郷。
 陽翟の郭氏は代々名望ある家柄で、土地の者ならば誰もが知っている。しかし郭濂郷の郭家は、名望があるとは言っても本家筋ではなく傍流であるし、誰もが知っていると言っても(ムラ)自体は小さい。
 更にその中でも有する敷地はせいぜい中ほどの大きさのもので、屋敷にいたっては非常に慎ましく小ぢんまりしたものだった。

「おや、郭さんとこの三公子(ぼっちゃん)小姐(じょうちゃん)じゃないか。元気してるかい」
「やぁ徐さん、最近足の具合はどう?」
「ぼちぼちさね」
「おお三男坊、久しぶりじゃないか。いつ帰って来たんだ?」
「先月だよ、羊の親方」
「あら小姐、少し見ない間に綺麗になったねぇ。ほら、採れ立ての芋だよ。持って行きなさい」
「方おばさん、ありがとう」

 道行く邑人達が、郭嘉や郭瑛を見るや気さくに挨拶をしてくる。それに対して二人も慣れた調子で返した。
 この郷では貴族だ農民だという括りは希薄だった。それはひとえに郭濂郷郭氏の現当主であり二人の父親である郭昭の人柄によるところが大きい。
 郭昭は都で法に携わる官吏であったが、朝廷の動揺と世の乱れを敏感に察し、数年前に職を辞して家に戻って来ていた。今は長男と次男が県廷で働いている。
 代々土地に根付いているということもあるし、公平無私が服に着たような人柄の郭昭は、邑の人々からもよく慕われている。それを見て同じ陽翟の同族の者からは、落ちぶれたものだと鼻で嘲笑われることもあるが、郭昭はのんびりとした気質で、そういった陰口を気にしない大らかさも持ち合わせていた。そんな父を、郭嘉も郭瑛も心から尊敬していた。

 通い慣れた道を行くと、やがて落ち着いた色合いの土壁が眼に入る。
 壁伝いに歩いていけば、奥ゆかしい構えの門に至った。深い色合いの木材は質素だが温かみがある。
 門を潜ると、掃き掃除をしていた白髪頭の家僕が顔を上げた。大分歳のいった老人である。二人を認めて、肉が削げた細い足で慌てて駆け寄ってくる。

「ああ坊ちゃんにお嬢様、良かった。老爺(だんなさま)方が何処へ行ったのかとお探しでしたよ」
田爺(でんじい)、悪かったな。ちょっと外に散歩しに行っていたんだ」

 老家僕は細い眼を更にしばしばさせて、小さく溜息をついた。

「坊ちゃんの放浪癖はよく存じ上げておりますとも。それよりもお嬢様、乳母の呂媛がお怒りですぞ。何やら晩餐のお手伝いをお願いしたいと思ったら、姿が見えぬとかで。早く行かれませ」

 途端に郭瑛の顔色から血の気がさっと引いた。目に見えてうろたえる。

「えー! ああ嫌だ、どうしよう・・・・・・」
「俺が一緒に行って事情を話してやろうか。父上が探してるから俺を連れ戻しに行ったんだって」
「うー・・・・・・いや! いい。自分で何とかする」

 兄の申し出に、郭瑛は悄然としながらも俄然首を振った。どちらにしろ誰にも言わずに一人で出て行った事実には変わりない。
 呂媛は郭瑛にとっては乳母であると同時に母代わりのようなものだから、郭瑛は彼女には頭が上がらないのだ。
 意気消沈して屋敷の北の方に去っていく郭瑛を見送り、郭嘉は田に首を傾けた。

「晩餐って、誰かが来てるの?」
「はい」
「誰?」

 田は顔中の皺を更に深めて、好々爺然とした面に思わせぶりな笑みを浮かべた。

「ご自分で行ってご覧になってみなされ。皆様、すでに応接間においでですよ」
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