龍吟ずれば雲起つ~4~




 郭濂郷には、年に一度大きな祭りがある。釐孳(りじ)祭と言い、恒禮(こうらい)嫪娰(ほうじ)という孿子(ふたご)の神を奉じた祭りだ。儒の思想の浸透した現在の社会では珍しいが、郭濂郷を初めこのあたり一帯の民間では今でも共通の土着の神が信仰されており、この兄妹神もそのひとつである。
 一心同体の彼らは戦さ神で、生まれた時から常にともにあり、まさしく双宿双飛、比翼連理の一対だった。周囲は彼らがいずれ結ばれるだろうと思い、誰もがそれを後押ししたが、聡明な妹の嫪娰は近しい血の交わりは子孫に禍をもたらすとして、その座を別の女神に譲った。以降は決して前には出ず、常に(あね)を立て、二人をよく助けた。ただ戦の時だけは兄の側に立ち、その背後を守った。恒禮は嫪娰とともに出陣すると、決して負けることはなかったという。これを『嫪娰の貞』と言う。兄を心から愛しながらも、血の理を選び、なおかつ徳の心を保ち続けた。嫪娰は貞女の鑑として、地域の娘達から憧憬を受ける存在だ。

 釐孳の意味は家福子孫繁栄であり、古い方言では双生を指す言葉だ。
 祭りでは三人の男女がそれぞれ恒禮、嫪娰、嫂神に扮し、故事を再現しながら郷中を練り歩くのである。毎年郷の中から年頃で未婚(神事なので当たり前だが)の若者が選ばれるわけだが、当然のことながらこれに選ばれるということは名誉であり、誰もが憧れた。特に少女たちが恒禮の妻の女神よりも嫪娰役こそを競ったのはいうまでもない。

 愛し合いながら決して結ばれることのなかった悲恋の神。けれど心はどこまでも清く強く、兄との絆は妻以上であった妹。年頃の少女たちが夢中になるのも無理はない。
 そしてこの年嫪娰に選ばれたのが、齢15の郭瑛だった。





 郭瑛は縫い付けをしていた手を力なく膝に落し、はぁと吐息を零した。
 親友の物憂げな溜息を耳ざとく聞きつけた卞貞姫(べんていき)が、その手の内の布を見咎めた。縫われた刺繍は、先刻見た時からほとんど変わっていない。

「白華ってば、全然進んでないじゃない」

 幼名を呼びながら指摘する。

「気が乗らないの」

 言いながら刺繍を放って窓辺に頬杖をついた。卞貞姫は眉を軽く顰める。彼女は商家の娘で、郭瑛と同い年の幼馴染だった。今日は祭りで使う服の準備のために、卞家に招いて刺繍を手伝っていたのである。
 しかし一向にやる気のない郭瑛の様子に、「ははぁ」と意地悪な笑みを浮かべる。

「さては恋煩い? 愛しの兄様が帰ってきたもんだから」
「そんなんじゃないわよ」

 郭瑛は慌てたように身を起こし、親友を軽くにらみつけた。

「でも阿曉(にい)が帰郷した時はすごい喜びようだったじゃないの」

 くすくすと「で、どうなの? 進展はあった?」と揶揄する。

「やめてよ、もう!」

 肘で突付いてくるのを払い退ければ、卞貞姫は楽しげに笑い声を上げた。

「まあ冗談はともかくとしてさ、折角栄えある嫪娰に選ばれたってのに、もっと喜ばないと罰が当たるよ」

 そう言って彼女は恨めしげに、そしてちょっぴりの羨望を滲ませながら、怒ったふりをする。しかし口元は笑みのままだから迫力はない。
 郭瑛も衣服を整えて仏頂面を作った。

「私が選ばれたのはたまたまよ。父老会の魂胆なんて分かりきってるわ、どうせ兄様と私にやらせたかったんでしょ。でなきゃ選ばれるはずないもん」

 卞貞姫は「そうかな」と首を傾げる。さらりと髪が肩をすべり落ちた。窓から差し込む陽光に黒く真っ直ぐな髪が艶めいていて美しかった。
 商人の娘だからかさばさばした性格の卞貞姫だが、同性の目から見ても美しい少女だった。このところ成長とともに特に女らしくなって、どんどん綺麗になっていく。小さな顔に輝く、黒目がちの大きな瞳が郭瑛を映している。そこに移る自分が、この親友に座る資格もないほど貧相に見えて、悲しくなる。本来なら彼女が嫪娰に選ばれてしかるべきだったのに、何故自分なのだろうか。父老たちを恨めしく思う。

 祭りの主役である男女の選抜は、基本的に郷の父老たちが話し合いで決める。まあ大体は見目の良さが前提なのだが、小さな郷なりに思惑も絡むわけで、純粋な審美基準で人が選ばれることは少ない。
 だからこそ郭瑛は憤りを隠さず、本音を口にする。

「本当は貞姫の方が適役なのに。でなきゃせめて嫂神役とかさ、なのによりにもよって嫂神があの小慧だなんて! 絶対におかしいわよ」

 王小慧は父老の頂点に立つ最長老の孫だ。見てくれはまあ悪くないが、性格は図々しく婀娜じみて、いつも媚びたような濃めの化粧をしているのが、郭瑛には好きになれなかった。どう考えても彼女が祖父に役を強請り、祖父も孫可愛さに父老会で働きかけたに違いなかった。
 自慢の親友を差し置いて、あのような少女が選ばれたことも、そして自分のような娘が選ばれてしまったことも、郭瑛には我慢ならないのだった。

「まぁ、小慧は阿曉哥のこと好きだからね。この間帰ってきた時に姿を見てから、一層お熱みたいだし」

 その内容に郭瑛はますます頬を膨らます。卞貞姫は苦笑気味に友を宥めた。

「でも肝心の阿曉哥が恒禮役を引き受けないんじゃ意味ないけど」

 と付け加える。

「誰もがうらやましがる名誉なのに、あんたの兄様はずいぶん欲がないね」
「『自分は身体が弱いから重役に耐え切れないだろうし、すでに婚約済みで清らかな身の上ではないので神事に参加したら神罰が下る』って言ってのけたそうよ」

 郭瑛は床に身を投げ出した。呂媛がいたら良家の娘がはしたないと目を吊り上げて怒るところだが、ここは卞家で、ここには卞貞姫しかいない。

「全く、どこまで本気なんだか」

 小さな声でぶすりと零す。よりにもよって口実が婚約だなんて。

「果たして断り切れるかな。父老会の決定は絶対だからね」
「兄様はあんまりああいうことは好きじゃないもの。私も反対だわ。練習は大変だし、兄様に余計な負担がかかるのは嫌。何よりいくらフリとは言っても、あの小慧が兄様の花嫁役だなんて我慢ならないわ」

 卞貞姫は人差し指を当てた顎を軽く上げた。

「でも、郭のお家はみんな剣術を嗜んでるし、きっと恒禮役も様になるだろうからちょっと見てみたい気もするな」

 郭瑛は黙り込んだ。自分だって兄の晴れ姿が見たくないわけじゃない。むしろ一番望んでいるのは自分かもしれないとさえ思う。でも、それが大衆の目に晒されるのは何となく嫌でもあった。兄は自分だけの兄なのに。誇らしい半面、みんなが好きになって欲しくない。子供じみた独占欲だと分かっていても。
 憮然と渋面をつくる郭瑛に、卞貞姫は困った子どもを見る眼差しで微笑んだ。

「小慧のことはともかくとして、白華はもっと自分に自信を持ちなよ。あんたは自分で言うほど貧相でも不細工でもないよ」
「・・・・・・」

 実際、卞貞姫の目から見て郭瑛は決して醜女ではない。むしろ整っている部類に入るだろう。柔らかな黒髪も、健康的に焼けたふっくらとした頬も愛らしいと言える。特に大きな二重の目じりが少し垂れ下がっているのが、いかにも可愛い妹という雰囲気があって微笑ましい。けれど決して甘えん坊で舌足らずなお嬢様ではなく、しっかりと自分の信念と主意を持って行動できる娘であるのは、やはり郭昭の教育の賜物だろう。ついでに頑固なところは、郭家に共通する性質だった。
 嫪娰にはまだ少し幼すぎるきらいはあるが、それでもきちんと化粧を施し着飾れば、決して役名に遜色ない見栄えになるだろう。
 それでも郭瑛は納得がいかないらしい。自分を卑下しているわけではない。
 卞貞姫はふと顔つきを改めた。刺繍布を置き、真剣な瞳でひたと郭瑛を見据える。

「さっきは冗談で言ったけどね、白華。あんたさ、兄様命なのもいいけど、もう15なんだから。そのうち加笄だって迎えるんだし、もう子どもじゃないんだ、昔みたいに兄様ばっかり追いかけてはられないんだよ、そろそろ現実を見なきゃ」

 彼女の言う『現実』とは、すなわちそう遠くない将来に待ち受けている縁談である。女は男よりもこれが早い。下手をすれば三歳違いの郭嘉より先に成人の儀を迎え、家を出ることになる。それは郭瑛にも痛いほどよく分かっていた。
 けれど郭瑛はすぐには答えられなかった。先ほどみたいに口先ばかり誤魔化しても、この聡い親友にはすぐに見透かされてしまう。
 ただ、郭瑛も知っていることがある。親友の横顔を見た。女らしく、儚げな白い顔。

(私、知っているんだから)

 郭瑛はそっと心の中でその横顔に囁きかけた。
 卞貞姫は王小慧のことを他人事のように口にしたが、本当は気にしている。彼女もまた自分の兄に秘かな淡い思いを寄せていることに、郭瑛は気づいていた。卞貞姫が表立ってそういった言動を見せたことはない。けれども郭瑛には不思議と分かるのだった。兄のことを話すときの微妙な声の調子や、兄を見る時の瞳の色で。
 でも、いやだからこそ思うのだ。卞貞姫ならいい。彼女なら、兄と釣り合う。
 やがて窓の外に目を滑らし、ポツリと「分かってるわ」と漏らした。
 懐疑的な、そして心配げな親友の視線を感じながらも、郭瑛は気づかぬフリをしてただそう言った。






 すっかり気が削がれた郭瑛は、刺繍を早々に切り上げて侍女とともに卞家を後にした。

「お嬢様、本当に歩くんですか」
「そうよ、悪い?」
「悪くはないですけど・・・・・・」
「折角こんなにいいお天気なんだから、散歩がてら歩きましょうよ。気持ちいいし楽しいよ。でも嫌なら先に帰っても構わないわ」
「そういうわけには・・・・・・」

 胸に荷を抱えた侍女は言い淀み、口先を尖らせて不満を露わにした。
 質素倹約を絵に描いたような郭家でも、名門のはしくれだ。往き帰りの車くらい用意しようと思えばできる。けれど郭瑛は街中をゆっくりと眺めながら歩くことが好きだった。草葉や空の色、空気の匂い、人々の様子に、季節の移り変わりや生活の香りを感じ取るのが好きだった。それでも昔は違ったのだ。野原や山で兄とその友人たちと遊ぶ時以外は、外に出るのが嫌な子どもだった。街を歩くのは疲れるし、たくさんの知らない人々の目に晒されるのが怖くてたまらなかった。
 ほんの小さい頃の、まだ甘えたがりだった頃。
 けれどそれを変えたのは、一つ上の兄だった。

『ほら瑛、見てごらん。外にはたくさんの不思議が詰まってる。見ようと思えば色んなことが見えてくるよ。車に乗ってるだけじゃ勿体ない。目や鼻や耳や肌、身体全部で感じ取らなきゃ』

 そう言って幼い郭瑛の手を引き、口うるさい上の兄たちの目を盗んで何度も街へ遊びに連れて行ってくれた三兄。やがて郭瑛にも、外の世界が鮮やかな色彩と意味を帯びて映ってきた。見えぬものを見出す目、知らなかったものに気づく視野の広さを教えてくれたのは、彼だった。時折兄たちに見つかって怒られても、郭嘉と一緒なら舌を出して笑い合えるくらい、何ということもなかった。

 その大好きな兄が、ここから離れた許という場所へ行くことになったのは、郭瑛が10の時だった。郭嘉は13である。それまでは家の近くの庠に通っていたのが、何を思ったか父はかねてから親交のあった名門荀家や陳家の子息も通う許の県校に遊学させることにしたのだ。更に15になるやそのまま許にある私学へ通わせた。
 息子に非凡の才を見出し、よりよい環境で学ばせようと思ったのか、はたまた彼にもっと広い世界を見せるためだったのか。家督を継ぐことのできぬ三男坊であれば、少しでも仕官の道に近づけさせようという親心だったのかもしれない。

 郭嘉にとっては良いことだったろう。元より彼は好奇心旺盛だったし、当時から他の地に飛び出したいという願望が強かった。
 しかし郭瑛にしてみればある日天地がひっくりかえったような大打撃だったのだ。まさに青天の霹靂とはこのことかと、いきなり大好きな兄を奪わてしまうという衝撃に耐えられなかった。許は国全体からすればほんの目と鼻の先だったが、それでも郭瑛にとっては最果てと同じくらい遠い場所であった。
 それは当時の郭瑛にしてみれば、本当に心に絶望が溜まってはじけてしまうのではないかと思うくらい耐えがたいことだった。三哥と離れたくない、そう駄々を捏ねて癇癪を起こし、周りを困らせた。呂媛ですら「あの時のお嬢様ほど手に焼いたことはありませんでした」と苦笑気味に話すほどである。
 あまりの悲しみの痛みに、最終的には何も喉を通らなくなった郭瑛を宥めたのは、当の本人である郭嘉だった。泣きじゃくりながらしがみついて離れない郭瑛に、

『瑛、瑛。そんなに泣いてばかりいると、そのうちカラカラになって乾屍(ミイラ)みたいになっちゃうぞ。それとも瑛は乾屍になりたいのか?』

 他人は真剣なのに、こんな風にふざけたことを飄々とのたまうのが兄だった。けれどこうした軽い口調が逆に事がそれほど深刻なことではないと相手に思わせて、郭瑛の心を少し軽くしたのだ。昔から本当にそういうことがうまい人だった。

『そんなのヤダ、瑛は乾屍になんかならないもん』
『じゃあ泣きやもうな。俺もそんな瑛は見たくないよ。瑛が乾屍みたいになっちゃったら悲しくて病気になってしまうかもしれない』

 この時郭瑛はいやいやと首を振ったと思う。それから「兄様行っちゃいやだ」と駄々を捏ねただろう。夢の欠片のごとく情景は朧げだが、断片的な記憶がある。

『瑛。許にはたくさんの本や学者や偉いお医者様がいる。許で勉強すれば、二度と病にならない丈夫な体に治るかもしれない。そしたら瑛とももっと一杯遊んでやれる。それとも瑛は、俺がずっとこのまま、病気の体のままでいて欲しい?』
『嫌』

 郭瑛は何度も床に伏せる兄を、ある時は死の淵をさ迷う兄を見てきていた。その恐怖が郭瑛を包んだ。

『なら我慢できるか? ほんのちょっとの間だけだよ。もし瑛が泣かないで、呂媛の言う事を聞いて、ご飯もちゃんと食べてずっと良い子にしていたら、すぐに戻ってくるよ』
『ほんとうに?』
『ああ約束だ』

 そう笑う兄は、思えばその当時から子どもにしてはどこか老成していた。郭瑛と小指を絡めてゆびきりをすると、「それじゃあ笑って見送ってくれ。俺は瑛の泣き顔より笑顔の方が大好きなんだ」と言った。今にしてみれば郭嘉の言ったことは方便もいいところだが、それでもその時の郭瑛にはそれだけで頑張れるだけの力を与えた。
 兄との約束のために、悲しさを飲み込んで笑顔で出立を見送り、身の切れそうな寂しさを耐えて毎日苦手な行儀作法を必死に学んだ。
 そうして月日が流れていつの間にか一年経ち二年経ち、五年が経つころには郭瑛も思慮分別を覚えて状況を受け入れることができていた。
 けれど―――




 郭瑛は、いつの間にか北向きの部屋に爪先を向けて、気がつけば母の枕元に佇んでいた。
 母は健やかな寝息を立てて眠っていた。このところ郭嘉がまめまめしく見舞っているからか顔色がいい。傍らには白い梔子花が活けられており、甘い芳香を放っていた。
 その横に、魂が抜けたように座り込む。被子(ふとん)の上に放り出された枯れ木のような左手をそっと取った。人形みたいに冷たい手だった。それでも確かに生きている人間の暖かさがあり、脈打っている。
 母の手をこうして握るなど、十年ぶりだった。幼かった郭瑛は心を病んでしまった母を見るのが辛く、悲しく、嫌悪していた。その残滓が今も胸の底に残り、なかなか溶けない氷晶となっている。後ろめたさという名の氷に。
 それでも今は、少しだけ母のことが理解できる気がした。

「ねぇ母様」

 蝋のように透き通った瞼へ、静かに言葉を降らす。こうして語りかけるのも、どれくらいぶりだろうか。
 郭瑛はすべてを捨て去ったかのような無表情で、しかしその翳の内に微かな悲愴と自嘲を滲ませて、言葉を紡いだ。

「母様も、このような気持ちを抱いたの?」

 その声は、聞く者も受け止める者も、ましてや返す者もなく、あてもなく彷徨い、空気の中へ溶け込んでいった。
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