龍吟ずれば雲起つ~6~




 それはよく晴れた暑い日だった。紺碧の空は低く、時折気紛れのように微風(そよかぜ)が吹いては厳しい陽射しを和らげ木蔭を揺らす。蝉の大合唱は乾いて白茶けた地面に落ち、笛音のような甲高い鳥の啼き声が蒼穹を切り裂く。
 太陽に熱せられた空気は、むっと籠った匂いがする。日を照り返す土が目を焼き、陽炎立ち昇る灼熱の大地が足裏を焼いた。
 若者二人は郷の境を歩いていた。彼らは暑さを厭い、先程まで郷外れの濂河の上流で水遊びをして涼んできたところだった。浅い崖と木立の幕に挟まれ、ちょっとした渓流を形作っているそこは、生い茂る枝葉のおかげで終日木陰になっており、川の清流から立ち上る冷気と相まって、夏場涼をとるのに格好の場所だった。

「あちぃ~。これじゃあ折角川遊びしても焼け石に水だ」

 茹だるような熱気に当てられ、袖で流れ落ちる汗を拭う。川水を含んだ衣はすっかり乾き、代わりに今は汗で濡れていた。

「まったく、こうも暑くちゃたまらないな」

 郭嘉は同意して、やれやれと浅い呼吸を整えた。暑さが圧迫感となって息苦しい。

「サボって正解だぜ。こんなの、とても稽古どころじゃない」

 倒れちまう、と侯甫が天を恨めしげに仰ぎながら呻く。だらしなく襟を大きく緩めながら、

「しかし阿曉、お前は不味かったんじゃないの」
「何が?」
「一番の主役だろ。俺みたいな兵卒その一みたいな端役じゃないんだから。今頃父老連中、怒ってるんじゃねえ?」
「ほっときゃいいさ。むしろ早いとこ見限って代役立ててくれたらもうけもんだよ」
「それもどうなんかなあ。ていうかお前確か一度蹴ったんだろ? 何で結局引き受けたんだ?」

 怪訝そうに首を傾げて覗きこんでくる友人に、郭嘉は長嘆息してみせた。

「受けたくて受けたんじゃない。父老達に泣きつかれてどうしようもなかったんだ。今だって乗り気ってわけじゃない」
「またお前も贅沢だよな。だって恒禮役だぞ、大役じゃないか。郷の野郎なら誰もが望むってのに」
「やりたきゃ阿玄、お前に譲るよ」

 郭嘉はだれた面持ちで再び煩わしそうに息をついた。
 何度も拒絶し突っぱねたのに、郷の権力関係を視野に含んだ父老たちに半ば強引に押し切られた形で結局恒禮役をやることになってしまった。しかし元よりやる気がない上に、この炎夏の中、秋の祭礼に向けて儀礼の稽古をせねばならないのだから、嫌にもなるというものだ。
 大体、郭嘉は己の限界をよく心得ている。この状態では体力が続かず、そう遠からず床に伏せる羽目になるのが目に見えていた。すでにして連日の暑さで体調が思わしくないのだ。

 もちろん、儀式の指導に当たる師とて郭嘉の身体の事情を承知はしている。決して無理をさせているわけではない。
 しかしながら根本的にそれでは賄えないほど、虚弱体質というのは厄介なものなのである。酷い暑さ、厳しい寒さ、三寒四温の激しい季節の変わり目、ほとんど年中調子が崩れない時はないといってもいい。医者曰く、人に本来備わっているべき自己調律の機能が著しく欠けているらしい。

 これだから嫌だったのに、父老らは、引き受けなければ郭瑛の嫪娰役を取り下げるとさえ言ってきた。恒禮役が郷の若衆の誉れであるのと同じく、あるいはそれ以上に、嫪娰役は邑娘たちにとって憧れの的だ。表だって見せはしないが、郭瑛とて本当は嬉しくないわけではない。人一倍稽古し、また人知れず懸命に努力していることも知っている。自分のせいで妹がとばっちりを食って降板の憂き目にあうようなことがあってはならない。父老達はそういった郭嘉の弱みに付け込んできたのだ。全く卑怯な古狸達である。

「つまんない世界だよな、大人って。俺たちは結局いいように道具にされているだけな気がしてくるわ。こんなちっぽけな郷の父老でさえこうなんだから、国となりゃあ、この子にしてこの親ありだ。歴史を紐解いてもさ、教育ってつきつめれば国にとって使える都合のいい人材を育てるためだろ。洗脳だよ洗脳。そうでなきゃ自分らにとって都合の悪い言論を取り締まったりはしないもんな。今でこそ好き勝手みんな言えてるけど、太平の世ならこうはいかないぜきっと。そりゃあ統治する側から見れば、この方が秩序を保ちやすいもんな」

 侯甫は後ろ頭に腕を組み、妙に冷めたことをぼやく。侯甫はしばしばこんなことを口走ったりする。郭嘉が侯甫とよくつるむのは、彼のこうした感性が自分と合うからだ。

「でも俺たちも、この国の子として生まれた以上は、そんな(おや)に従わざるをえないんだ。割り切るしかないんだろうな」

 郭嘉はいかんともしがたい現実に諦めを滲ませる。

「それが大人になるってことなんだろうか」

 侯甫もまた、気のない調子でごちた。
 隣で歩く郭嘉は己の将来に思いを馳せてみる。彼は侯甫ほど与えられる教育に悲観的ではない。どんな思惑があろうと、知識を入れられる環境にあることはいいことだ。だからこそ国や朝廷の言うことを鵜呑みにせず、自分で疑問を持ち考えることもできるのである。
 では、得た知識をどう生かすのか。

 誰かに仕える、あるいはその道もあるだろう。自惚れでなく、郭嘉は己の才能に一定の自負がある。最初は分からなかった。井の中の蛙という諺があるが、郭嘉の場合、周りの世界があまりにも小さすぎて、逆に己の持つものに気づかなかったのだ。
 しかし私学に上がって、各地より集まった優秀な貴族の子弟らと交わっているうちに、比較対象が生まれ、自覚が芽生えた。同時に理解した。自分にはもっと上に行ける可能性がある。

 けれども逆上せあがるのは禁物だ。己の錯覚かもしれぬし、それこそ井の中の蛙になって有頂天になってはいけない。もっと大海を知らなければ客観的な見極めができない。力を試すためには、より一層広い世に飛び込んでいかなければ。
 戻ってこいよ、と許で親しくなった年上の朋友が別れ際に言った。
 己の才がどこまで通用するのか試したい。その衝動は強い。自らの手でもって動かしたい。何を? 軍を、国を―――人を。

 遠くから大勢の声が聞こえる。地響きのような足踏み、武具の擦れる音、剣戟、怒号。翻るのは無数の旗。染め抜かれたその字は? 緊張と喧騒が押し寄せる。整然と並び、時に変幻自在に動く編陣を丘の上から望む。まるで地上にとぐろを巻きうねる大蛇だ。背後にも多くの気配が立ち並ぶ。そして己の傍らに佇む一人の人物。―――これは誰だ?

―――おい、阿曉聞いてるのか?」

 呼ばれて、ハッと郭嘉は目を瞠った。顔を上げた拍子に顎から伝った雫が白い土に滴り、黒い染みを落とす。

「どうしたんだよ」
「ああ・・・・・・悪い」

 瞬きをして、額に手をやる。掌に嫌に冷たい汗が触れた。幻を見たのだろうか。一瞬、肌を焼く陽熱も煩いほどの蝉の声もすべてが遠のいていた。

「大丈夫か? どこか具合悪いんじゃないか」

 侯甫が気遣わしげに覗きこんでくる。幼馴染の彼は郭嘉の虚弱体質をよく知っている。先にも川遊びをして風邪をこじらせただけに慎重だ。
 郭嘉は若干疲れ気味に笑いながら手を振る。

「ヘーキ。暑さで少しぼんやりしただけだよ」
「そうか?」

 なおも疑わしそうにしながらも、侯甫はひとまず納得した様子で会話を再開する。
 郭嘉は適当に相槌を打ちつつも、しかし半ば上の空で聞き流していた。心は先程のことにとらわれている。
 きっと暑さのせいでのぼせたのだろう。それにしても妙に現実味を帯びた白昼夢だった。残り香も生々しく、未だ動悸がやまない。
 ふう、と深く息をつく。一瞬ちかりと視界に光が瞬いた。
 そこに垣間見える、束の間の幻。それはあるいは、己の深層にある欲望が見せたものだったのではないだろうか。

(違う)

 不意に反駁が去来した。誰に対し何を訴えているのか、自分でも分からない。

『そうやって、自分を殺し続けるつもりか?』

 郭泰の深みある声音が鼓膜の奥に響く。違うよ泰伯、と今度こそ意思をもって否定する。俺はそんな聖人君子じゃない。本当は兄達に気を遣っているわけじゃないんだ。
 もっと学びたい。もっと人を知りたい。もっと広い世界を見たい。果てなき不思議を追い求めたい。仕官とか国のことなんてどうでもいい。この焦燥を、飢餓を、渇望を癒したいだけ。
 けれどそんな自分も、いずれは生きていくために何かに身を投じなければならない。その時自分はどうするのだろう。今後乱れゆく世の中で、どのように生き方を定めていくのか。この情動と、どのように折り合いをつけてゆくのか。

 そういえば父にも兄にもまだ告げていないことがある。それをいつどの間合いで言うべきか、迷いがいつまでも胃の奥を彷徨っている。
 そう、混乱だらけだ、この心の中は。小賢しく表面を取り繕っているだけ。その実、張りぼてと同じく虚ろでしかない。唯一分かるのは、この手に辛うじて握っているのは、「己」というちっぽけな核のみだということだ。あとには茫漠たる混沌が広がっている。

(俺はまだ俺自身を掴みきれてない)

 とはいえ“自分探し”には意味を感じない郭嘉である。探すも何も、己は今ここにいる己でしかないのだから、探すだけ無駄だ。それよりも、どれだけ自分を知ることができるか。今後の進路はそこにかかっている気がする。
 ようやく堂々巡りの思考に一つ折り合いをつけたところで、真面目に侯甫の話に身を入れようとした時、突如物音が背後で鳴った。
 あまりの物々しい響きで会ったものだから、雑談していた二人はびくりと肩を跳ねさせ、飛ぶように振り返った。
 そこに広がる光景に、二対の双眸が丸く見開かれる。

「な、なんだよ・・・・・・」

 震える声でようよう言ったのは、侯甫だった。口の中が渇いているのか、喉がひどく掠れている。
 その傍らで、郭嘉は言葉もなく棒立ちになり、それを眺めていた。
 二十人、いや三十人だろうか? 黒い集団が首を揃えてこちらを窺い、にやにやと嫌な笑みを浮かべていた。その風体はどう好意的に視てもまともな人間ではない。拾いものを接ぎはいだような不揃いの装備に、各々携えた刀剣弓矢の類。面は賤しく、下卑た表情を乗せている。
 その中央に陣取っている若い男は、強面の一団にあって比較的理性的な容貌だった。よく日に焼けた肌、引きしまった二の腕、無精ひげの中の唇は片方だけ皮肉気に吊りあがり、野性味のある精悍な面差しには理智の眼光がある。しかし結うこともなく伸ばし放題の髪や、身に纏う機動性重視の袖無しの単衣に胡袴と長靴といった姿は、絵に描いたような荒くれの無頼者だった。
 彼はゆったりとした態度で二人を見やり、目を細めた。

豎子(ガキ)ども。この先にある邑の奴らか?」

 存外深みのある声音だった。だがその底には人を震えさせる残忍さ、冷酷さが隠れている。
 いち早く我に返った郭嘉は、隙を見せぬよう咄嗟に表情を消し、眦に力を込めた。考えてのことではなく反射的な反応だった。

「だとしたら?」

 斜め後ろで後退りかける侯甫の手首を、袖の下でぐっと抑えて制止する。
 頬のあたりに戸惑いの視線を感じながらも、決して男たちから目を外さない。暑さによる汗は一瞬で引いていた。代わりに伝うのは冷たい汗だ。
 しかしこの反応に、若い賊はおやとばかりに面白がる光を瞳に浮かべた。
 それから不意に謡うように言った。

「世間では俺達を黒山賊と呼ぶ」

 その名を聞いた瞬間、郭嘉は息を呑んだ。侯甫は怪訝そうに、ただただ硬直している。
 黒山賊。その名は許にいた頃、耳にしたことがあった。
 ここ数年、世の乱れと太平道の広がりに便乗して頭角を現し、急激に勢いを増し続けているという賊徒の集団。
 それが何故このようなところに。郭嘉は慎重に出方を探った。

「俺たちの郷に何の用だ」

 震えそうになる声を叱咤し、務めて平静を装いながら睨み据える。すると男はますます面白げに、

「賊がすることなど、古今東西一つしかないだろう?」

 芝居がかった様子で両腕を広げれば、どっと周囲の男たちが笑った。
 郭嘉はそれとなく友人へ身を寄せ、小さく囁いた。

「阿玄、お前足に自信あったよな」
「阿曉?」
「時間を稼ぐから、合図をしたらお前はその隙に邑へ知らせに行け」
「何言ってんだ、お前見捨てて一人逃げられるもんか」
「大丈夫だ、俺に考えがある」

 げらげらと笑い続ける男たちに目を離さないまま、すっと息を吸い込んだ。

「走れ!」

 掴んでいた手首を振り放し、後ろ手に侯甫の身体を後方へ押しやる。
 動揺に目を白黒させていた侯甫は、躊躇いながら何度も郭嘉を見たが、ついに歯を食いしばるとまろぶようにして一目散に駆けだした。

「一人逃げやがったぞ!」
「逃がしゃしねえ」

 追いかけんと足を踏み出した男たちへ、郭嘉は大声を放った。

「動くな!!」

 片膝をつき、いつの間にか鞘を払った懐剣を突き付ける。常に護身用にと足首に携えていたものだ。
 若い男がさっと手を上げ、途端に他の賊徒たちが静まった。なるほど、先程から予想していた通り、やはりこの若い男こそが彼らを率いる頭目のようだ。

「俺は小郭庄郷の地主、郭昭が三男」

 郭嘉は一同を見据え、丹田に力を込めながら一句一句ゆっくりと言い放った。

「へ、そんな辺鄙な邑役人の名なんぞ、誰が知るか」

 小馬鹿にした笑声と野次が飛ぶ中で、郭嘉は負けじと声を張り上げる。

「そして郭林宗の甥だ」

 ピクリと男の眉が動く。そしてそれまで耳障りに騒いでいた集団から、ざわりと不協和音が生まれる。

「林宗?」
「郭林宗だと」

 若頭はしばし思いを馳せるように目を伏せ、にやりとした。片方の唇のみを上げる皮肉な笑い方は癖なのかもしれない。

「ほう、郭林宗の身内とは。これは好都合、質に取ればどれくらい絞り獲れるかな」
「生憎だね。我が一族は郭弘、郭躬父子より続く世々誉れ高い法官の血筋。父郭昭を始め宗族とも決してお前たちのような無法の輩に屈しはしない」
「ご託は美しいがな、人間は我が身と身内が可愛いものだ。試してみようか」

 ざり、と一歩出たところで、郭嘉は鋭く言い放った。

「それ以上近付けば後悔することになるぞ」

 しかし若い賊頭は恐れることもなく、むしろ興味深げに、白刃の切っ先を眺めた。

「そんな懐剣一つで、俺らに太刀打ちできるとでも?」
「当然、思っているわけないさ」

 郭嘉はこめかみに浮かぶ汗を隠すように不遜に笑んだ。

「だからこうするんだよ」

 不意に手首を返し、刃を己の頸筋にピタリと当てる。
 男の眉が初めて訝しげに顰められた。
 その反応を確かめてから、郭嘉は更に言を紡いだ。

「俺が死ねば郭一族と荀家、陳家をはじめとする郭林宗の知友らがさぞ盛大な“弔い”を行ってくれることだろう」

 ここぞとばかりに強く諸刃を当てて見せる。刃を返した瞬間から、先程まで煩いほどに早鐘を打っていた心臓が落ち着いてきた。
 郭林宗の雷名は伊達ではない。多くの名士、有力者に留まらず、遊侠らの中にも慕う者は多く、“死して”なおその影響力は強い。もしその甥が山賊に殺されたとなれば、ただでは済むまい。官軍はいざ知らず、衣冠お抱えの私軍まで出てくるかもしれない。半ばはったりではあったが、ありえない話ではなかった。
 遠回しの脅しは効を奏したようで、賊は誰もが一転して二の足を踏み、躊躇気味に頭目を窺った。

「成程、それで己の命を質にとったということか」

 黙り込んでいた若頭目がくっと喉を鳴らして笑った。

「考えたな。だが、真にその剣を引く勇気があるか?」
「はったりだと思うか」

 質問に質問で返し、鼻で一笑する。
 否や、郭嘉は唐突に己の左腕を前に立て、懐剣で斬り裂いた。
 にわかに赤い血が滲んで溢れ、次々と地面に吸い込まれていく。汗とは別の、黒い染みが広がった。
 若頭目は軽く瞠目した。
 血に濡れるのも気にせず、再び喉元に剣を当てた郭嘉は、脂汗を浮かべ浅く呼吸しながら、苦痛を押しやった。
 元より二十歳までは生きられぬと言われた蒲柳の身。死などさほど遠い存在ではない。

「二度は言わない。この郷から去れ。俺は本気だ」
―――・・・・・・」

 沈黙と膠着が始まった。
 郭嘉は必死だった。傷口がどくどくと脈打っている。加減を知らず相当深く切ったためか、血が止まらない。痛みと熱と貧血で朦朧としてくる意識を気力で繋ぎとめる。これは賭けだった。
 どれほどにらみ合いをしたころだろうか。突然、若頭目が噴き出した。

「はははは!」

 天を仰ぎ、声を上げて高らかに笑う。郭嘉はいわずもがな、率いられた男たちもしばし呆気にとられた。
 ひとしきり笑ってから若頭目は首を垂れ、そのまま衝動が収まるのを待った。そして髪を掻き上げながら顔を擡げ、郭嘉を鋭く見据える。
 その表情に、郭嘉の背に戦慄が走った。血と汗で柄が滑りそうだった。すでに感覚のなく震える冷たい指先に力を込め、辛うじて耐える。

「確かに今、清流派の連中を敵に回すのは不味いな」

 だが、と眦が眇められた途端、刺すような殺気が膨れ上がる。

「小生意気な餓鬼に虚仮にされるくらいならそれもやぶさかではない」

 打つ手を誤ったか。郭嘉は乾いた喉に唾を飲み込み、死を想像した。もとより成功すると確信していたわけではない。最大の目的は時間稼ぎだ。
 当たれば儲けものではあったが、ひとまずこれだけ足止めできれば、侯甫の俊足ならば賊が至るよりも先に邑へ知らせられるはず。自分の役目はここまでだ。
 己の死を意識した瞬間、動悸は早まったが、思ったよりも心は落ち着いていた。病で何度も生死を彷徨い、その度に奇跡的に峠を越えてきた身だった。ここで終わるのもまた定めかもしれない。
 覚悟を決める郭嘉の内心を見透かすように、若頭目はまるで獲物を睨む猛獣のごとく瞳を光らせ、うっそりと微笑する。

「しかしその小癪な度胸に免じて、一度だけ機会をやろう」
「機会?」

 思わぬ発言に、郭嘉はわずかに眉を顰め、慎重にその語彙を舌に転がす。そうする間にも左の袖が血に濡れすぼり重みを増してくる。

「今から一つお前に問う。もしお前が俺の満足のいく答えを口にできれば、このまま帰ってやってもいい」

 どうだ、乗るか? その勇気がお前にあるか?
 そう促す挑発の眼差しに、郭嘉は僅かな逡巡を挟み、挑みかかるように顎を上げた。

「・・・・・・俺が負ければ、俺の命もないということだな。いいよ、乗った」

 あくまで相手にとっても郭泰の親族を手に欠けるという危うい橋渡りであることを強調する。これで対等だ。
 頭目は満足げに頷き、口を開いた。

「我ら黒山賊は頭数が多く武器や装備も十分にある。手下どもの武力、士気、忠義とも問題なく今や向かうところ敵なしだ。ではほかに我らに欠けており最も必要なものを一つだけ上げるとすれば何だ」

 まるで謎かけのような口吻に、郭嘉は跪いた姿勢で懐剣を動かさぬまま瞬きをした。

(必要なもの?)

 瞳を落とし、しばし沈思する。
 迂闊な答えはできない。組織に重要なものとして思いつくものは様々あるが、指定されたのは一つだけだ。もし外せば己の命はなく、郷もただでは済まない。
 考えろ、と己に言った。考えろ阿曉。相手の望む答えを探れ。

「・・・・・・組織の維持に必要なものは秩序と生産、そして再生」

 ぽつりと零れ落ちた言葉に、若頭目は笑みを深めた。

「それはつまり?」
「秩序は戒律、生産と再生は具体的には・・・・・・鍛冶屋と医者だ」

 郭嘉は目を地に落としたまま、何かを諳んじるように滔々と紡ぐ。

「戒律はすでにそれなりにあるだろう。問題は資源の生産と再生。人も物も無尽蔵じゃない。使い物にならなくなったからといって、その都度外から調達し続けるのは効率が悪いし危険も多い。その分、身内に生産要員を囲っておけば何かと便利だ。足りなければ増やせるし、毀れたものは修理できる。その点、最もいいのは金物を扱う職人だろう。農作物では時間も人手も場所もかかるからな。それから人も同じ理屈だ。兵を一から育てるのは手間も時間もかかる。だが傷病を治す医者がいれば生存率と回復率は上がり、人的損失を防げる」
「すでに両者とも有しているとは思わないのか」
「いいや。だって、あんたたちの装備には一つとして揃いのものがないだろ」

 郭嘉は瞼を上げ、男たちを見渡した。誰もがバラバラの武具防具を身につけている。大方、どこぞの軍を襲った時の戦利品だろう。特に特徴的なのは矢だ。矢羽根は各軍で異なる。しかし賊徒の矢筒から覗く羽根は統一感がない。極めつけは、大きな罅や破損がある鎧をつけている者も少なくないことだ。

「それからそこのあんたと、そっちのでかい人。いつ負ったものか知らないけど、傷口が腫れててかなり膿みが溜まってる。俺は専門家じゃないが、そのままにしておけば身体中に毒が回って命に関わるだろう。医者がいるならとっくに何らかの治療を施しているはずだ」

 指差された二人は、ハッとして各々に患部を押さえた。郭嘉は体質柄長らく医者の世話になり、診療所にもしょっちゅう足を運んでいるから、軽重様々な怪我人や病人は見慣れている。

「ならば答えはどちらだと?」
「どちらでもない」
「何だと?」

 きっぱりとした返答に、若頭目は一瞬鼻白んだようだった。
 郭嘉は毅然と顎を上げ、それを見据えた。

「要るのは智嚢だ」

 若頭目の眇目がきらりと閃いた。

「秩序も生産も再生も、この程度のことは賢い人間が一人でもいればすぐに思いつく。つまりあんたらに欠けていて何よりも必要なもの、それは知恵による補佐」

 一息に言い終えると、一瞬の間があった。
 二呼吸ほどして、頭目が天に笑い声を放った。今度はからりとしたものだった。

「ひとつだけ誤りがあるから訂正しておこう。俺たちの仲間にも医者はいる。だがどうやら藪のようだ。抱えるべきは『腕利きの医者』だな」

 腕を組み、にやりとする。

「いいだろう。お前の勝ちだ」

 郭嘉は安堵に詰めた息を吐いた。念を入れて懐剣は離さないが、緊張していた身体から力が僅かに抜ける。
 それを見計らったように、若頭目は唇を開いた。

「気に入った。小子(こぞう)、お前俺の下につかねえか」
―――は?」

 言われたことがすぐには分からず、郭嘉はキョトンと目を瞬いた。

「お前が今てめえで言っただろう。俺たちに必要なのは智嚢だってな」
「何を―――
「喜べ。その小賢しいくらいによく回るオツムと豎子のくせに据わった胆を買ってやる」
「老大」

 突然の決定に後方に控えていた手下たちが戸惑いと非難の声をかける。

「まさか本気でそんな豎子を」
「うるせえ、俺の決めることに口を出すんじゃねえ」

 一瞥もむけず静かながら迫力のある一喝に、意見しようとした一人が怯んで下がった。
 若頭目を腕を組み直し、目線の上から郭嘉を睥睨する。

「お前、本当はこんなとこにいたくねえんだろう」
「!」

 郭嘉は瞠目し、声を呑み込んだ。

「窮屈なんだろ。こんな辺鄙な邑なんざ退屈で仕方がねえ。広い世界に飛び出るにしたって平々凡々な人生も詰まらねえ。もっと刺激がほしい。てめえがどこまでいけるか試したい。そうじゃねえか」
「だからと言って、賊徒に与するほど零落れてはいない」

 動揺を覆い隠すように強弁する。

「強がっても無駄だ。誤魔化したってな、分かるんだよ。お前は心のどこかでそれを渇望している」

 ―――餓えた顔しているぞ。
 言われて郭嘉は愕然と絶句した。
 剣を持つ腕が震えるのは、傷からの失血のためだからだろうか。

「図星だろ」

 にやりと口端を上げ、男は軽く手を挙げた。そして親指で後ろ―――己と手下達を指し示す。

「“ここ”ならばお前の望むものを与え、見たいものを見せてやれるぜ」

 その言葉は麻痺してきた脳芯に甘美に響いた。
 郭嘉は惑いに瞳を彷徨わせた。
 何故すぐに拒まないのか。答えなど分かり切っている。否というべきだ。頭では分かっているのに言葉が出て来ない。
 自分は何を欲しているのか。
 求めているのは何だ。
 両親や兄妹や伯父や幼馴染らの顔が脳裏に過ぎる。

「俺は・・・・・・」

 ふと言い差した時であった。後ろから慌ただしく聞えて来た足音に、空気が張り詰める。

「阿曉!!」

 先程別れたばかりであるはずの聞き慣れた声に、郭嘉は思わず振り返った。
 侯甫は誰も連れず、単身駆け戻って来ていた。

「阿玄? 何で戻って―――
「阿曉、大変だ!!」

 言い差す郭嘉を遮り、侯甫が声を被せた。未だいる黒山賊や、郭嘉の腕の怪我に一瞬怯みながらも、それ以上の焦燥をもって飛びつくように肩を掴む。

「郷が!!」

 悲鳴のような叫びに、何かを感じ取った郭嘉は、それまでのやりとりを忘れ立ち上がった。そこにいる賊徒たちに見向きもせずに邑の方へ駆け出す。

「おい、小子!」

 背中によく透る声がぶつかる。

「明日の暮れまで待ってやる、覚悟が決まったらここへ来い」

 郭嘉は足を止めなかった。振り返りもしなかった。それを言った男の意図など、意識の外に追いやった。



 駆け去っていく後ろ姿を、その場に佇み眺める若頭に、徒の一人が近寄った。

「老大、良いんで?」
「邑のことか?」

 若頭目はフンと鼻を鳴らし組んでいた手を解いた。

「あの煙が見えねえのか。手癖の悪い軍の連中だったら面倒だ」

 くるりと踵を返し手を振る。引き上げの合図だ。

「そうすると“約束”が」
「約束だあ?」

 若頭目は思い切り片目を眇めて不快を露わにした。

「他人の手のついたものなんざ興味ねえな」

 言う間にもどんどんと郭濂郷から遠ざかる。

「その代わり面白い拾いものをした」

 にやりと笑む頭の後ろに男たちが不完全燃焼気味にもそもそと従った。

「まあた老大のおかしな気紛れが始まった」
「ああ? なんか言ったか」

 ギロリと肩越しに睨まれ、口を滑らせた舎弟がどもる。
 代わりに他の男がのんびり問いかけた。

「あの豎子、来ますかね」

 周りで笑いともつかぬ吐息が零れる。
 しかしそれに若頭目は「さあな」と素っ気なく返すだけだった。
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