龍吟ずれば雲起つ~7~




 自分の呼吸が嫌に大きく響く。
 流れる血もふらつく頭も、一切意識から消えた。ただただひたすら、胸を打つ警鐘に追い立てられ郷を目指す。
 そして―――
 辿り着いた先は、一面の劫火に覆われていた。
 瞳に映る情景に、郭嘉は呆然となった。
 悲鳴。叫喚。呻吟。物の焦げる匂い。その中に漂うこれは、何が焼けている臭いだ? 逃げ惑う人。泣き叫ぶ人。地に倒れ伏す人。そこかしこを染めるあの赤は何だ?

「阿曉!」

 後ろから腕を掴まれ、ようやく我に返る。それから侯甫の手を振りほどき、脇目も振らず邸へと走る。
 郷を襲った者達はすでに引き揚げたのか、今は一人もいない。
 息が切れているのも構わず全速力で走り、やがて見えて来た門をくぐった。
 郷の他と同じく、邸はあちこちから炎が上がり、見るも無残な姿であった。屋根ごと崩れ落ちた棟もある。いたるところを火が舐め、煙が燻っている。石の壁にはひびが入り、まるで打ち壊しにでもあったようなありさまだった。
 踏み込んだ郭嘉は数歩ほど行って息を呑んだ。
 門近くの石畳に、田が倒れ伏していた。
 背中には大きく割かれた傷があった。見開いた目は微動だにせず、半開きの口からどす黒い血が零れている。好々爺で、郭嘉たちがどれだけ悪戯をしでかしてもいつだってにこにこしていた田が、いま見たこともない恐ろしい形相をしている。
 一目で絶命しているのが知れた。

「・・・・・・っ」

 込み上げるものに思わず片手で口を塞ぐ。何度も嘔吐き、喘いだ。饐えた臭いが鼻腔の奥を突く。呼吸が追いつかない。
 一度目をきつく閉じ、何かを耐えるようにしてから、振り切るように瞼を押し上げて足を動かした。
 回廊や室には至るところに家僕たちの亡き骸が転がっていた。誰もが刃で斬りつけられ、事切れている。
 その中に、母の代わりとなり時に厳しく時に優しく接してくれた呂媛の姿を見つけた瞬間、ついに堪え切れず、壁端の方へ走って胃液を吐いた。目の端がじわりと熱を帯びた。
 生きている者はいなかった。恐怖、憤怒、苦痛、悲嘆―――それぞれに表情を張りつかせ、開いた瞳は洞のごとく黒く、底知れぬ恐怖を掻きたてる。古くから馴染みの人々のはずなのに、まるで全く見たことのない他人のようだった。
 室の中もまたひどく踏み荒らされ、散乱したものが回廊にまで転がり出ていた。価値のあるものは丸ごと持って行かれているか、床に落ちて粉々に砕けていた。

「父上! 瑛!!」

 吐いてひりひりと痛む喉から声を振り絞り、家族を片端から叫ぶ。しかし応える声はない。

「瑛、母上! 誰もいないのか!!」

 邸の敷地はこんなにも広かっただろうか。ここは本当に、自分が生まれ育った家なのか。
 崩れ落ちてできた瓦礫を避け、炎を迂回しながら、喉が掠れるまで呼び続ける。誰でもいい、生きている人間の応答を、切に求めて彷徨う。
 仕官している兄達は陽翟城の自宅に戻った。伯父は今日は外出していたはずだ。
 では父は? 母は。妹は。

(お願いだ、奪わないでくれ)

 頼むからどうか。
 何度も何度も祈った。
 邸中を巡りながら煙に涙の滲む目を擦りながら息を整える。ひょっとすると郭昭は何かの用事で出かけたのかもしれない。郭瑛ももしかすると稽古で外に出ていて、今はどこかに身を隠しているのかも―――浮上した一縷の望みに縋りつく。
 しかしそこで、郭嘉はどきりとした。背筋が音を立てて凍りつく。
 屋根が落ちた奥の棟。
 拒否するように震える足を叱咤し、裾を翻す。
 崩れていたのは、郭嘉や郭瑛の自室のある一角だった。
 瓦礫の隙間を覗きこむ。まさかと動悸が早まる。
 頼む、と誰へともなく願う。誰でもいい、頼むから。

―――・・・・・・)

 その時、ほんの微かに風に乗って何かが聞えた。
 郭嘉はハッとしてそれが聞えた方を振り返った。服が汚れるのも構わず、重く圧し掛かる柱を力任せに持ち上げて反対側に転がし、重なり合う壁の残骸を全身全霊で動かす。己でつけた腕の裂傷から激痛が走る。小さく呻き、硬く瞼を瞑る。伝い落ちた汗が目に入って滲みた。
 腕が使い物にならなければ、今度は身体ごと使って押した。
 非力な己の身を、この時ほど厭わしく思ったことはない。
 ようやくの思いで、大きな一枚が音を立てて横に滑り落ちる。
 大きく息をしながら、とるもとりあえず現れた隙間に飛びつく。そして―――
 闇が凝った間に、傷ついた小さな手が覗いていた。
 垣間見える袖の色はくすんでいるが、その刺繍を見間違えるはずがない。
 郭嘉は何かに取り憑かれたように上に乗る瓦礫を退かし続けた。爪が割れ、掌が切れて血が滲んでも、気にかからない。やがて見覚えのある男物の衣も見えた。これは今朝、父が着ていたものだ。
 眼前に晒された光景に、傷だらけの手が強張る。

「父上! 瑛!」

 父娘は重なり合い、煤や塵に覆われて黒や灰色に染まっていた。
 郭嘉は急いで、しかしどこか怯えるように郭昭の身に触れた。その感触にビクリとして手を引く。
 父の肌は、とても冷たかった。
 半ばに開いた目は理智の光を失い、最早生ける世界を映すことはない。その口から息子への励ましも叱咤も紡がれることは永遠にない。
 郭嘉は湧き上がる衝動にしばらく放心した。ともすれば喚き散らしてしまいそうな烈しさと、気力を根こそぎ奪う無力感が拮抗し、真っ青な顔色で茫然とする。それからのろのろと、物言わぬ父の体を慎重に横たえた。
 その時、小さく呻き声がした。
 ハッとして急ぎ身体を返す。
 父の下に庇われるようにしていた妹。うつ伏せの姿が、微かに震えている。

「瑛!」

 生きている。生きている!
 その思いだけで胸を熱くしながら、まだ暖かい身体を抱き起した。
 だが仰向けた面を見た瞬間、衝撃に心臓が大きく脈打った。
 息が止まる。

「・・・・・・瑛」

 呼びかける声が喘ぐように詰まり、震えた。
 彼の妹は、大切な末の妹は、その面の右半分がひどく抉れ、爛れて、鮮やかな血に塗れていた。
 裂けた肉から骨が覗き、右目は失われ黒い虚ろが覗いている。炎に焼かれた大量の黒い血が肌にこびりつき、胸まで染めている。
 瞠った目から、我知らず涙が伝った。胸を打ち、突如全身を襲った得も言われぬ寒さに震えが止まらない。
 それは変わり果てた郭瑛の姿への恐怖ではなく、いつまでも変わらずそこにあると信じて疑わなかった日常が、失われていくことへの恐れだった。

三哥(サングー)・・・・・・?」

 無事な方の、それでも憐れなほど傷だらけ唇が慄く。白い瞼が震え、薄っすらと開かれた。しかし粉塵に痛めつけられた目は真っ赤に充血し、何も映していなかった。

「どこ? 暗い・・・・・・(とうさま)? (にいさま)?」
「ここにいるよ」

 傷を気遣いながら、伸ばされた手をそっと握る。

「兄様、良かった・・・・・・無事だったのね。父様は? 天井が落ちてきて、父様が私をかばって」

 郭嘉は答えるべき言葉を見失った。頭が働かない。その沈黙をどうとったか、郭瑛は喉の奥から歪な嗚咽を漏らした。

「父様、私の・・・・・・せいで」

 目尻から雫が伝い耳へ落ちる。

「瑛、もういいよ。大丈夫だから。しゃべらなくていい」

 引き攣れたように微笑む。何が大丈夫なのか、自分でも分からない。何も、考えられない。

「兄様。私、だめだった」

 ほろりと吐息を零して、郭瑛は泣き笑いの顔をつくった。

「え・・・・・・?」
「私ね、三哥の嫪娰に、なりたかった。なろうと思ったの。でも駄目だね」
「瑛」
「やっぱり私には、無理だったみたい。半分は血が繋がっているって分かっていても、嫪娰みたいに、想いを封じることなんてできなかった・・・・・・」
「・・・・・・」

 泉下に赴きつつある者の静かな告白に、郭嘉は無言で耳を傾けるしかなかった。苦しげに、辛そうに面を歪めながら。

「瑛は泣かないよ。笑うから。どんなに辛くても、笑顔で見送るよ。兄様のために」

 幸せそうに半分だけの顔で微笑む。どんなに歪でも、それは間違いなく郭瑛の笑顔だった。「だから、ね、兄様」と囁く。

「瑛を思い出す時は、こんな醜い姿じゃなく、綺麗なままの私を思い出してね。お願いよ」

 溶け行く声と共に、瞳から光が消えていく。

「大好き。兄様・・・・・・」

 するりと、握った手から力が抜けおちた。

「・・・・・・瑛?」

 呼びかけても、その唇は微笑んだまま、もう答えない。開かれたままの黒瞳が自分を映すことは二度とない。

「ごめん、瑛。ごめんな」

 小さく囁き、郭嘉はその身体を抱きしめた。
 失われた尊く愛しい命の余韻を、せめてあと少し、留まらせてくれと願うように。

「阿曉」

 かけられた静かな声に、郭嘉は涙と煤に汚れた顔をゆっくりと上げた。
 後ろに佇む人物に、焦点を向ける。

泰伯(たいおじ)・・・・・・」

 郭泰は、その腕に呉珋を抱きかかえていた。
 血だらけになりながら、それでも最期まで、幸せな夢を見る無垢な少女のまま。事切れた母の顔は、初めて心から穏やかに安らいでいるように見えた。

「私が見つけた時にはもう・・・・・・」

 郭泰は苦しみの塊を無理矢理呑みこむように首を振った。
 それから郭瑛の姿に目を向け、一層痛々しく顔を歪めた。

「可哀想に・・・・・・なんという、なんと惨い」

 歯を強く噛み、唸る。
 不意に、力なく項垂れていた郭嘉がポツリと言った。

()は繰り返すものなのかな、泰伯」
「阿曉?」

 妹の身体を膝に乗せ、何の前触れもなくそう呟いた甥を、郭泰はハッとした顔で見詰めた。

「まさかお前―――

 気づいていたのか、と。しかし郭泰はその言葉を飲み込んだ。代わりにただ瞳を伏せ、昔年の過ちと後悔を噛み締める。
 一時の気紛れ。気の迷い。魔が差した。何とでもいえる。しかし事実は変わらない。

 潁川に経つ前夜、他には何も望まないからどうか、と強くせがまれ、ついに拒みきれなかった果てのことだった。
 郭泰は確かに妹を愛していた。それは男女の愛ではなかったが、泣いて嫌がる彼女を無理矢理知人に嫁がせることへの責念と憐みがなした過ちだった。せめて最後くらい彼女の望むとおり、我儘を聞いてやりたい。それがどれだけ常軌を逸し、郭昭を欺き裏切る行為になると知っていながら。
 郭泰は寛容な友人の良心につけこんだのだ。郭昭が気づかなかったはずはない。それでも郭泰に何も言ってこなかった。まさかそのたった一度の過ちで、というのは言い訳にすぎない。

 郭嘉の先天的な病弱さを知った時、郭泰はこれ以上もなく己の愚かさを呪った。
 郭濂郷に伝わる古の妹神は何と言っていた。
 降りかかった禍。過ちを犯した自分ではなく、まさか罪のない子に咎を負わせることになるなど。伝説に託けて、暗に人々が近しすぎる血の交わりを戒めた理由を知らぬ己ではなかったはずなのに。

 そしてひた隠しにしてきたはずの真実を、この聡明すぎる“甥”は、肌となく悟ったのだ。
 いつから気づいていたのか。一体今までどんな気持ちで―――
 許してくれなどと、郭泰には口が裂けても言えなかった。過ちは戻らず、事実は覆らない。

 郭嘉は郭瑛の遺体をそっと横たえ、立ち上がった。
 背を向けたまま、請う。

「ねえ泰伯。俺に字をつけてくれないかな」

 少年にしては穏やかすぎる声音に、郭泰は僅かに何かを言いかけたが、そこに秘められた決意の響きを聞きとって呑み込んだ。向けられた背に、一つの星が宿ったように見えた。目の錯覚だったのかもしれない。しかしその時、郭泰の目には確かな閃きが見えた。
 だから、思うところがある風情で感じ入り、「良かろう」と重く返した。
 一拍を置いて、息を吸って告げる。

「『奉孝』。お前は奉孝だ。―――お前の父(・・・・)が、お前のために用意していた字だよ」

 孝を奉る。
 それを聞いた瞬間、郭嘉ははじめて肩を震わせ、音を立てて息を吸った。兄達と同じ『奉』を頂いたそれは、郭昭の子としての証(・・・・・・・・・)
 郭昭はすべて判っていたはずだ。その上で、郭嘉を我が子として受け入れ、認めてくれていた。

「そっか。・・・・・・ありがとう、泰伯」

 そう言ったきり、いつまでも天を見上げて佇む背を、郭泰はいつまでも黙然と見守り続けた。
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