龍吟ずれば雲起つ~8~




 一日が経ち、郷を蹂躙したのが何であったのかは不明なままだった。ただ、皇甫左中郎将と染め抜かれた旗と、曹騎都尉の字の旗それぞれを掲げていたと、生き残った郷人は口々に言い募った。
 後で知ったことだが、彼らは叛乱討伐の官兵であったらしい。当時、潁川では波才が率いる黄巾賊が決起したところだった。叛乱軍は張角を教祖とする太平道の徒であり、一様に黄色い巾をつけていたため黄巾、あるいは蛾賊などと呼ばれ、方々で朝廷から派遣された官兵や豪族の私兵等による討伐が行われていた。
 しかし郭泰の話では、少なくとも曹騎都尉の軍は戒律が非常に厳しく、漢高祖の配下であった韓信のつくった十七禁令五十四斬をそのまま軍令に組み込んでいるという。禁令“其九”に照らせば、「所到之地,凌虐其民,如有逼淫婦女,此謂奸軍,犯者斬之。」すなわち、現地にてそこに住まう民を迫害したり、あるいは婦女を強姦する者は、奸軍であり、これを死罪とする、というのである。これが本当ならば、郷を襲った兵らは、全くの独断で事に至ったということなのだろうか。
 その後、彼らが処罰を受けたかどうかは定かではない。いくら厳格な軍令があったとしても、兵の暴行や略奪行為というものは、彼らの働きへの報酬、あるいは興奮の発散として、ほぼ黙認されているに等しいご時世だ。中には許可している軍さえある。郷人の何人かは県府に直訴しに行くと息を巻いていたが、果たして聞き入れてもらえるかは怪しかった。
 また、真偽は定かではないが、対抗意識を燃やす双方の一部の兵士が、愚かしくも付近の郷を賭けの対象にし、優劣を決するために襲ったのだと、かなり経ってから聞いた。
 もし郷の人々がその話を耳にしていたら、県府に直訴どころの騒ぎではなかったかもしれない。しかしその時は、まだ誰一人として一体何が起きたのか全く分からなかった。まさしく青天の霹靂であり、誰もが突如襲いかかった悲劇に茫然とするばかりであった。
 そして郭嘉は郭泰に付き添われ、親しい身内の遺体を並べながら、天に怨嗟を吐き、地に慟哭を零す郷人たちの姿を、ただ他人事のごとくぼんやりと傍観するばかりだった。




 瑞々しい緑の上に、可憐な白い花が、霞の如く咲き誇ってさやさやと揺れる。
 その中に、花に囲まれるようにして、塚が一つある。大きな塚の前には三つの石が立っていた。
 元来、塚は一人一座にすべきところだが、三人バラバラよりは共に埋めてやった方が淋しくあるまいと思った。本当は使用人たちの墓も周りに掘ってやりたかったが、生憎とそれには時間がなかったため、あとを郭泰に頼んだ。
 ただ家族だけは、即席の墓であっても、この手で埋葬したかった。一人で荷台に遺体を乗せてここまで運び、土を掘り返し、塚を盛るのは、決して容易ではなかったが、全く苦に思わなかった。さすがに名字を彫った墓碑は間に合わないから、周辺に転がっていた形の丁度良い石を選んで置いた。これも後々兄達が立派なものを建ててくれることを期待する。
 山腹にあって、郷を一望できるこの白い花の海原は、小さい頃から郭瑛のお気に入りだった。まさにその字に相応しい場所だ。きっと喜んでいるだろう。
 しばらくぼんやりと塚の前にしゃがみ、魂を遠くへやっていた郭嘉は、ふと背後に足音を聞いて腰を上げた。
 振り返れば、そこには長い黒髪を風になびかせる美しい少女が佇んでいた。

「よう」

 卞貞姫は少し驚いた様子だった。しかしすぐ表情を改めると、

「私をここに呼びだしたのは、阿曉(にい)?」
「うん」

 郭嘉は肯き、きっと来ると思っていた、と続けた。

「それ、瑛のための?」

 そう言って目を卞貞姫の手元に移す。果物と花の入った籠を提げていた。

「ええ、せめてもと思って・・・・・・でも、こんなに花に囲まれてるのなら、きっと寂しくないね」

 彼女は一人だった。若い娘がこのような場所に単身で来るのはあまりに不用心だ。おまけに昨日の今日である。

「お付きの人は?」

 郭嘉が首を巡らせると、「こっそり抜け出してきたから」と卞貞姫はついと顔を背け無表情に答えた。
 郷が襲われたばかりなのだ。いくら墓参りと言っても、周りがそうそう外出を許すはずはない。聞くところでは商家である卞家も相当な被害を受けたという。卞家の主人夫妻つまり卞貞姫の両親も亡くなったとのことであった。そうであれば尚更、大事な一人娘だ。今回はたまたま運よく難を逃れたに過ぎない。
 けれど郭嘉は少しほっとした。もし付き人がいたら、声の届かぬ位置まで下がってもらわなければいけないところであった。それによって卞貞姫が気まずい立場に置かれるのを懸念していたのだ。一方で、郭嘉は何となく卞貞姫は単身で来るのではないかとも予想していた。

「こんな風に呼びだすなんて、随分ややこしいことをするんだね」
「悪いな。・・・・・・話の前に、先に参ってやってくれないか?」
「ええ、そうね」

 卞貞姫は三つ並んだ石の前に両膝をつくと、供物を置き、右手を上にしてそっと拝した。随分長いことそうしていた。
 やがて一息をつくと、立ちあがって、改めて郭嘉に向き直った。黒く濡れた瞳が、静かに射る。

「それで、話って?」
「・・・・・・」

 どう切り出すべきだろうか。郭嘉はしばらく逡巡した。彼女が来るまでの間、ずっと考えていたのに、結局いい案は思い浮かばなぬままだった。だからもう下手に繕わず、正面から単刀直入にいくことにした。

「何故、黒山賊を呼んだんだ」

 卞貞姫は無表情だった。何のこと、と言わぬばかりにことりと首を傾げている。けれど、一瞬だけ眉がかすかに痙攣したのを、郭嘉は見逃さなかった。

「郷の外れで遇ったんだ。・・・・・・やっぱりお前だったんだな」
「どうして」

 唐突に、形のいい唇が喋った。鈴を転がすような声だった。
 しかし郭嘉を見つめる双眸は、底が見えぬほど暗い。そう、まるで昨日見た、死に絶えた人々の目のように。

「どうして、私だと分かったの」
「・・・・・・」

 郭嘉は一旦口を閉ざし、伏目になって視線を落とした。足元には、のどかな花の雲が、我関せずと風にそよいでいる。

「あいつらは、まるで最初から俺たちの郷を目指して、現れたようだった。妙にのんびりと構えていて、別に物資に困窮しているとかいう様子でもない。いくら賊とはいえ、行き擦りでなくわざわざあんな何にもない辺鄙な郷を襲う理由が理解できなかった。―――誰かが意図的に招いたのでもなければ」
「だからって、あれだけいる郷人の中から、私だって特定できたわけじゃないでしょう」
「勘だよ」
「勘ですって」

 郭嘉はいよいよ疲労に耐えられない風に瞼を伏せた。

「郷には今、泰伯がいる」

 卞貞姫が息を飲むのが分かった。

「知っているだろう。泰伯は世間上は鬼籍に入ったことになっている。けど、お前の家のような郷の有力者や侠客連中も、泰伯が実際は生きていることを知っていて、黙ってる。だから泰伯は俺たちに気兼ねなく会いに来られるんだ。そして、郷の中で黒山賊に繋ぎをつけられるような人間は侠客連中くらいだが、奴らが泰伯が滞在しているのを知っていながら呼び込むとは到底考え辛い」
「・・・・・・たった、それだけで?」
「最初に言ったろ、勘だって。全部当て推量に等しい」

 だが全くの無根拠かといえばそうではない。
 たとえ遊侠の中に良からぬ考えの者がいたとしても、郭泰がいる限り、賊を呼び込んだところで賊が郭泰のために手を引くかもしれないし、あるいは後々周囲の制裁に遭う可能性があり、損が大きい。ではもし遊侠たちでないとすれば、賊徒と取り引きを行えて、かつ得をするのは誰であろうか。
 彼らのような裏社会の輩と交渉が行えるとなれば、伝手と同時に相応の財力が必要だろうから、平凡な庶民という線は薄い。だがすでに一定以上の利得権益のある者は往々にして現状維持を愛するから、これもなかなか考えにくい。
 それなりに財を手にすることができる環境にあり、現状に不満を持つ者。となれば、大体候補は限られてくる。そこまで考えて、郭嘉の記憶に一つひっかかるものがあった。

「郷の若衆の間では、近頃お前が人目を盗むように頻繁に誰かに文を宛てているというのが専ら噂になっていたよ」

 広くはない郷だ。特に郷中の男衆の目を引く卞家の美人娘となれば、いくら隠そうとも隠しきれるものでもない。連絡には下男を使っていたようだが、その男がある時、酒に酔ってうっかりそのことを漏らしたのである。さすがに下男も厳重に封をされた文の内容までは覗けなかったようだが、文の遣り取りというだけで、秘密はあっという間に広まった。

「だからカマをかけてみたんだ」

 これは賭けだった。正直、最後まで迷ったのだ。根拠としては決定打に欠けていたし、何より富豪の深窓の令嬢が賊の手引きなど、あまりにそぐわなすぎる。なのに一度思いついてしまうと、頭から離れなかった。考えすぎだと思えば思うほど、不思議な確信が芽生え根を張った。
 外れてくれればいいと祈っていた。しかし認めたのは卞貞姫自身である。

「俺も信じたくなんてなかったよ。瑛の親友のお前がだなんて」

 卞貞姫は唇を結び、じっと黙り込んだ。それから、ポツリと言う。

「だって、しょうがなかったんだもの」

 その科白に、郭嘉はふと目を上げた。
 卞貞姫は顔を横に背けていた。美しくも何かが欠落した横顔が、どこかを眺めている。

「逃げたかったの」
「え?」
「あの牢獄から、逃げたかった」

 一人ごちる風に、卞貞姫は繰り返した。それから驚くべき告白をした。

「私ね、父様に手籠にされたの」

 郭嘉の頬が強張った。衝撃のあまり瞠目したまま声を失う。
 しかし当の本人は、いたって何のことでもないかの表情だ。

「十三歳の時だった」

 痛かった。何もかも訳が分からず、ただただ気持ち悪くて、何より怖かったと、淡々と続ける。

「それまで優しかったはずの父様が、急に恐ろしい顔になって、人間とは思えないくらい怖かった。母様は見て見ぬふりをしていた。むしろ、父様が夜私の寝室に通うようになってからは、母様は私を疎んじられるようになった」

 皮肉気に微笑むその面は、十五の少女とは思えぬほど女の色をしていた。

「苦しくて、辛くて、いっそ死んでしまえたらよかったのに、死ぬほどの勇気もなくて。誰も助けてくれなかった。助けてって言えなかった。逃げ出したかった。だから考えたの。私は外に出させてもらえなかったから、まずは下男を手懐けてね。長い時間をかけて、慎重に。そうやって少しずつ、郷の無頼者を通じて、黒山賊の一味に繋ぎをつけたの。最初は断られたけど、諦めず何度もお願いして、代価として父に強請って貰った高価な宝石をたくさん渡して、ようやく約束をとりつけた。別に黒山賊じゃなくても、誰でも良かった。ただ、この狂った世界を壊してくれるなら。私を、解放してくれるなら」

 滔々と述べられる独白は、まるでよくできた物語の一節にも思えた。しかし、すべてが抜け落ちた卞貞姫の目も表情も声音にも、偽りは感じられなかった。いずれも紛れもない真実なのだ。
 郭嘉は彼女にかけるべき言葉を何も思いつかなかった。慰めも違う。非難も違う。
 代わりに、静かに問いかけた。

「それで、解放されたのか?」

 卞貞姫はようやくこちらに顔を向けた。ちらりと微笑む。どこか壊れた色を宿して、

「どうかしら」

 そうはっきりと返した。その瞬間、ぽろりと、二つの黒曜石から一粒の水晶が零れ落ちた。

「皮肉なものだね。災厄を願っていた時には何も起こらなかったのに、自分から引き起こそうとした矢先、本当にやってくるなんて。あの日、兵が来た時、てっきり彼らが約束の使者だと思ったの。でも違った。彼らは救世主じゃなくてただの殺戮者で、蹂躙者だった。私は父に邸の地下に押し込められて生き残り、そして白華は・・・・・・賊には、郭のお邸だけは襲わないでって頼んでいたんだよ。その分の対価も注ぎ込んで、約束したはずだった。だから白華に、あの日は一日邸から出ないでって言っておいたの。占でよくない卦が出たからって嘘を言って」

 白華は、と卞貞姫は止まらぬ口調で語り続ける。泣きながら、笑いながら。
 けれど郭嘉の目には、卞貞姫が喋れば喋るほど、その心が血色の涙を流しているように映った。

「あの子は妬ましいほど無垢で穢れなくて、でも私と同じ歪みを持ってた。自分の血の繋がった兄様を本気で愛してしまうなんて本当に愚かな子。でも、でもね。私は、白華には死んで欲しくなかった。こんな風に、殺すつもりじゃなかった・・・・・・!」
「お前が殺したんじゃない」
「私が殺したんだよ。私の醜い嫉妬心が。あの子のこと好きだった。でも憎んでもいた。だって私は阿曉哥のことを―――

 潤んだ黒瞳が、郭嘉を映し熱を帯びる。
 けれど郭嘉はそれを振り払うように、首を振った。

「違うよ、貞姫。お前が本当に慕っているのは()じゃない」

 どこか悲しげな面持ちで、それを暴く。

「お前は俺に泰伯の面影を重ねているだけだ。ここへ来たのも、呼び出しの文にあったのが泰伯の名前だったからだ」

 そうだろう?と、囁くように問う。涙に濡れる卞貞姫の頬が大きく強張った。

「お前と同じ眼で俺を見ていた人がいたよ。だから分かるんだ。・・・・・・俺と泰伯は、どうも、似ているらしいから」

 郭嘉は目線を逸らしながら言った。最後の語尾は自嘲気味に揺れた。
 丸きり生き写しというわけではない。だが郭嘉の面立ちは確かに郭泰に似ていた。上背高く容貌魁偉な郭泰に比べると、郭嘉はどちらかといえば母親似の優顔ではあったが、一目見て血の繋がりは疑いようのないほどに、特徴が似通っていた。
 もともと実の兄妹から生まれた、れっきとした親子。罪過の子だ。似ないはずがない。
 皆、歪んでいる。誰もが少しずつ歪んでいたのだ。
 卞貞姫は未だ信じられぬ様子で呆然としていた。まさか心の底に秘めていた思いを言い当てられるとは思いもよらなかったのであろう。
 しかしすぐに我に返って、気を取り直すふうに再び無表情になった。

「可笑しいと思う?」
「何が」
「あんなに歳が離れた人を慕ってることに」

 郭嘉はいいや、と小さく答えた。取り繕ったのではない。本心であった。
 人の数の分だけ、想いの形がある。それは年齢も、性別も、時には血縁さえ関係ないことを、郭嘉はすでに知っている。
 それに郭泰は、不思議なほど人を引き付けて止まないものを持っている。言葉にできない、理由はない存在感。だからこそあれだけ多くの人間に慕われたのだ。

「初めて林宗おじ様に会った時、私はまだ七つだった・・・・・・」

 卞貞姫は回想する。たまたま父に連れられ、中原に名高い名士へ挨拶に赴いた時のことだった。その頃郭泰はすでに耳順(ごじゅう)を越えていたが、そうとは見えぬほど若々しく、凛々しかった。人と空気が違った。風貌には大人物の威厳が滲み、しかし言動は決して奢らず磊落で、自分の父よりもずっと温かみがあった。彼は怖気づく幼い卞貞姫を抱き上げ、にっこりと無邪気な満面の笑みを浮かべて、『妹妹(おじょうちゃん)』と深い声音で呼んだ。

「私はあの時から、あの人のことが忘れられない」

 痛々しい微笑とともに吐き出された言葉は微かに震えていた。
 もしかすると、卞貞姫は十三になる前から、己の父に対する違和感を無意識のうちに抱いていたのかもしれない。父親から向けられる歪んだ愛情と目線を敏感に感じ取り、戸惑い、同時に嫌悪していた。父親よりも年の離れた郭泰に思いを寄せてしまったのも、父性を求める複雑な心理状態から来る恋慕だったのかもしれない。
 だから、郭泰がこの郷へ来る時を狙って賊を呼んだのか。たまたまだったのかもしれないが、卞貞姫の頭の隅にそれがかすかでもあったことは否定できない。

「何度も夢見たわ。自由になって、おじ様についていけたら、どんなに幸せだろうって。願いは半分叶えられた。父様も母様も死んだわ。でもひとり生き残った私は、籠から解き放たれた代わりに、この過ちと空しさに囚われて、死ぬまで生きていかなければならないのね」

 天を仰ぎ、両手で顔を覆いながら、卞貞姫は声のない慟哭を漏らした。
 郭嘉は何も言わなかった。ただ、己を責めて、苦しみ続けて、その先にいつか許される日が―――この憐れな少女が自分を許し、心穏やかになれる日が来ればと良いと、そう祈った。




 残り陽が篝火のように山端に凝っている。夕暮れは不思議で不気味だ。意味なく急きたてられる。それは郷愁であったり、憂鬱であったり、狂気であったり、恐怖であったりする。黄昏には人を狂わす魔力が秘められているに違いない。
 尤も、そのような情緒を感じるような繊細さはとうに失って久しい。今こうして眺めてみていても、ああまた無駄な一日が終わるな、と感慨なく思うだけだ。

「老大、もう暮れですよう」

 背後に控える小太りの手下がしきりに汗を拭いながらふうふう声をかけてくる。日が落ちても相変わらずむっとする暑さは弱まることを知らない。
 聞えなかったふりをしていたら「いくら待ったって、もう来やしませんよう」と愚痴っぽく粘着質に言う。うざったらしい奴だ。一日待ちぼうけくらわされていい加減退屈疲れしたのだろう。堪え性がない。
 なおも無視をすると、縋りつくように老大~と呼ばれた。
 いい加減、うるさいと一喝しようとしたところで、ぴくりと耳をそばだてる。口角を上げた。

「来たな」

 男は立ちあがり、振り返った。手下もまさかという表情でポカンと見つめている。



 赤い光に照らされて道の真ん中に佇む郭嘉は、挑みかかるように毅然と顔を上げ、長い影尾を引き、逆光で黒く塗りつぶされた男を真っ向から見据えて口を開いた。

「何をすればいい?」

 影がにやりと笑った。
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