邂逅



 一度目は外出しているふりをした。

 二度目は遠くの親戚の家を尋ねているということにした。

 三度目は居留守を使った。

 四度目は断った。

 五度目は病ということにした。

 六度目は完全に無視した。

 七度目は。




 家人に再び病と言って追い返せと命じれば、陰気な顔をした執金吾府の長はまるで捕り物のごとくずかずかと邸内に乗り込み、怯える家令たちを尻目におもむろに縄を取り出すと、実に無感動な声音で「断るようであれば首に縄をつけてでも引きずって来いと承っています」と告げた。
 罪人でもないのに縄を頂戴して、衆目の中司空府まで引っ立てられるなど、前代未聞の椿事。そのような不本意極まりない屈辱に晒されるくらいならと、嫌々ながらいた仕方なく装いを改め、とうとう司空府に参仕した司馬懿は、不機嫌そうな表情を隠そうともせず目前に座す男を睨み上げた。
 上座で不敵な笑みを浮かべ己を見下ろす男。
 曹操、字を孟徳。
 今や漢王室ばかりか中原域を席巻する実質最高実力者。
 だが、司馬懿は、この男がすこぶる嫌いだった。


 瀟洒な回廊を歩く。
 ふと気がつけば、向こう側に四人ほどの高位らしき文官が輪を作り、和やかに立ち話に興じていた。
 司空府に名高い、曹操の智嚢たち。
 それを遠巻きに羨望と憧憬の瞳を向けながら通り過ぎる下官に交じり、司馬懿も極力己の顔を見せぬようにしながらも、ひそかに談笑する四人組へ目を向ける。

 正面を向き、居住まいも立派に穏やかな微笑を浮かべているのは、常々自分が心内で尊敬している荀文若その人だ。
 その隣で、荀彧に似た柔和な面立ちで佇んでいるのは甥の荀公達に違いない。更に荀彧に相対して佇むのは、後ろ姿なので判然としないが、時折見える若い横顔からするに鬼才と名高い郭奉孝あたりか。そして笑顔を浮かべる威風堂々たる佇まいの文官が程仲徳といったところだろう。

 今や世に名を轟かせる才人たち。実にそうそうたる顔ぶれだ。
 司馬懿は気づかれぬよう歩み過ぎながらも、その華やかな一団をかすめ見る。

 別段、出仕するのが嫌なのではない。己とて仮にも清流派を名乗る文人の端くれ。司馬八達の中でも最も高しとも言われる自分の才にも自信がある。宮城に上がり、国を担う一員として、才名ある者たちと政に身を窶すのはやぶさかではない。
 ただ司馬懿が嫌なのは、あの曹操に仕えるということだった。
 彼はとことんあの男が嫌いだった。
 何故かと問われても、実は答えられない。理屈ではなく、単に嫌いなのだ。
 だからと言って司馬懿は別に漢王室に仕える心積もりも更々なかった。むしろ興味すらない。このあたりは曹操とよく似ている。
 だがそれと仕官とは別問題だ。

 司馬懿は名だたる参謀たちのなかで楽しげに談話している、己とさほど年齢も変わらぬ様な若い男の背に目を当てた。無意識のうちに宿る羨望と、ほんの少しの嫉妬。

 ―――我が才も、決して劣らぬ。

 この自負には根拠も確証もあった。ただ、これまで活躍させる場がなかっただけだ。
 仕官を拒否していたくせに、この思い。矛盾した自分の感情に苦々しさを覚え、司馬懿は忌々しげに舌打ちを堪えて足を速めた。
 さっさとこの場を離れたかった。

「司馬懿殿?」

 逃げようとしたところをいきなり背後から呼び止められ、不覚にも間抜けな声を上げてしまった。
 胸の動悸を抑え咄嗟に見やれば、そこには逆に虚を突かれたように瞬き立ち尽くす陳羣の姿があった。

「ち、陳羣殿」

 ほっと息を吐けば、陳羣は気遣わしげに首を傾けた。

「先ほどから声を掛けていたのですが、司馬懿殿全然気づかれていないようで。どうかされました?」
「いえ……すみません。少し、その、考え事をしていたものですから」

 呼びかけられていたことに気づかなかった自分を恥じ、申し訳ないと再び呟く。
 だが陳羣は気にした風も無く、にこりと微笑んだ。

「まだ仕官して間もないですし、いろいろと気煩うこともおありでしょう。何かあれば遠慮なく相談してくださいね」

 裏の無い優しい言葉に、先ほどまであった心の刺々しさが治まる。司馬懿は陳羣に対しては少なからず好感を持っていた。
 それは遡ること二週間ほど前。
 曹操に召し出され正式に官職を拝する朝議の場で、司馬懿の人事について曹操が任命を下す時のことであった。

「さて、司馬懿は何処に配属させるべきか。仕官したばかりでは色々と学ばねばならんこともあるしな。本来であれば軍師祭酒の下にしばらくつかせる心算だったのだが―――

 そう呟いて朝議に立ち並ぶ面々を見渡し、苦笑を滲ませる。

「当人はまたサボっておる様子。しょうのない奴だ。まぁ、あやつはこれより江東へ遣らねばならんからどちらにしろ無理か」

 ふむ、と顎に触れながら首を横へ逸らし、しばらく何事か逡巡してのち、

「よし、陳羣」
「は」

 名を呼ばれた陳羣が畏まって前へ出る。

「お主は常よりあやつの目付をしておるし、その分役にはうってつけだろう。司馬懿があやつのようにならんよう、しっかり教育して遣ってくれ」
「……はぁ」

 陳羣は何やら不服そうな微妙な表情を浮かべていたが、このときより司馬懿はこの陳羣の下につくことになったのだった。
 曹操の指す「あやつ」というのが誰のことなのかは分からない。だがこの人選は、正直司馬懿にはありがたいものだった。
 実直にして公正な人柄。何事にも真面目、自ら研鑽を怠らぬ努力の人である陳羣の姿勢は、司馬懿にとって好ましいところであった。何よりも陳羣の纏う空気は、どこか人をほっとさせる。それは、荀彧のそれにもよく似ているように感じられた。
 さすが荀彧を尊崇し、そして彼からも認められ娘婿にと望まれた人物だ。同じく荀彧を尊敬する身としては共感するところが多く、一緒にいて安らぐ数少ない人物の1人だった。
 おそらく相が合うのだろう。陳羣といると、不思議と落ち着く。
 陳羣も教育係に推されるだけあって面倒見がいい。色々と声を掛けてくれる彼の存在は、この居心地悪い司空府にあって救いだった。
 彼とはよい友人でやっていきたい、と司馬懿は心内で漏らした。




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