あの拝命からもう半年。
 大分出仕生活にも慣れてきた日々だが、それでも司馬懿は場に馴染めないでいた。
 というよりも自ら人と一線を置いている。
 理由は明白だった。
 司馬懿は現在、小さな部署に所属している。
 というのも、そろそろいい頃合だろうということで、先の議において陳羣の監督下から異動し、正式に任官が下ったためだ。
 しかし自分から無理やり引っ張り出しておいて、曹操は司馬懿をすぐには要職につけなかった。
 むしろ任じられたのは一介の雑用ともいうべき役職。
 以来その能力が真に発揮しきれない場所で司馬懿は日々を送る羽目となっている。

 曹操は司馬懿を一目見た時から、警戒の対象と判断したようだ。だから更に相応の地位を検討するまで、己の目の届く範囲で、しかし力の出しようのない部署に置こうという魂胆なのだろう。
 なかなかにあの男はそういうところに鋭い。司馬懿の中に何か己にとって危険なものを見たのだろう。野性並みの危機察知本能だ。

 司馬懿は不遜な微笑を浮かべたが、それは今の自分の立場を嘲笑するかのようでもあった。
 そもそも司馬懿は今の状況に本意では無いのだ。それに加え、名門の誉れと己の才に対する自負もあって、なかなか気位が高い。
 思う存分力の発揮できぬ場所で、能の無い上司の下につき、低等な連中とともに雑用まがいの仕事を延々させられているのだ。苛立ちこそすれ、誰かと親しくする気も起きない。

 それが司馬懿が未だ浮いている理由。
 始終彼は誰に対しても無愛想で冷淡な態度であった。
 はじめは気安く声をかけてきた官も、今では誰も近寄ってこなくなった。




 そんなある日の穏やかな昼下がりのことである。
 気鬱な執務の場からようやく解放され、どこへともなく向かいながら、司馬懿は重い溜息をついた。
 一体、こんなことがいつまで続くのだろうか。
 先の見えぬ問いに更に気重になる。
 司馬八達の一たるこの司馬仲達が、只の小回り程度とは―――
 再び嘆息。足の運びも心なし鈍い。
 そんな中に、目前に人の背を発見した。
 見慣れた後姿に、司馬懿の心が少し浮上する。陳羣だった。
 小走りに追い、名を呼ぼうとしたところで、ふと留まった。
 何やら陳羣の様子がおかしい。
 いつになくそわそわとしており、どこか落ち着き無く視線をあちらこちらと泳がせている。こんな姿を見るのは初めてだった。

「陳羣殿?」

 思わず訝しげに声を掛ければ、陳羣ははっとして司馬懿に気づき、振り向いた。一瞥するなり相貌を僅かに緩める。

「ああ、司馬懿殿」

 微笑を浮かべるが、それはどこかいびつに引きつっていた。

「どうかなされましたか?」

 明らかにいつもと違う態度に、不思議そうな眼差しで問う。

「いえ」

 陳羣は歯切れ悪く答え、すぐさま「その後調子はいかがですか?」と話題を変える。その違和感に気づきながらも、司馬懿はあえて知らぬ振りをしてその問いに答えた。
 二人並んで回廊を歩く。だが司馬懿の見る限り、やはり陳羣はいつもと様子が違った。話をしながらも、どこか上の空で意識が遠い。司馬懿を目に映しながら、別のものを見ているようだった。忙しなく何か気を取られている。
 さすがに怪しみ、再び問わんと司馬懿が口を開きかけたところで、にわかに宮城の正門の辺りからざわりと音がした。

 ハッと陳羣がそれに素早く反応する。司馬懿もそちらへ目を向けるが、それよりも早く陳羣は司馬懿の視界を通り抜けて真っ直ぐに騒ぎのほうへと小走りに駆け出した。
 止める間もなく去ってゆく背に、何事かと慌てて司馬懿も追いかける。
 仮にも主上のおわす朝廷で全力疾走するわけにはいかない。それぞれわずかに駆け足程度なのに、陳羣は存外速かった。付いて行くのに精一杯だ。おまけにその背は止まることなくどんどん先を行く。

 やがて見えてきた表門前の広場には、何処からか到着したばかりの一団が群れを成していた。旗印からそれが皇帝の命を拝した勅使の一行だと分かる。帰還したのだろうか。
 肝心の勅使とその従者は既に宮殿に上がっている。先着している陳羣の姿を探せば、彼は具合悪そうに体勢を崩している誰かを支えているところだった。その口から何事か叱責する声が途切れ途切れ聞こてきた。
 陳羣だけでなく、あの荀彧までもが血相を変え、医師を呼ぶべく指示を出している。

 その中で、司馬懿はただただ呆然と佇んでいた。
 渦中の人物の顔は人々に遮られている。ここからでは深青の袍が垣間見えるだけだが、その衣飾から彼こそが当の勅使であることは知れた。
 何処へ派遣されていた勅使か司馬懿には皆目見当がつかなかったが、それが高位の―――それもかなりの重臣であることは荀彧をはじめとする高官たちの様子で分かる。
 彼は周りに抱えられるようにしながら、宮殿の奥へと消えていく。
 その時横で支える陳羣の横顔が、怒っているかのような、苦しみを堪えるかのように強張っていたのが、司馬懿の目にしばらく焼きついて離れなかった。




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