数日後、司馬懿は燦々とした陽光に陰る走廊を、あの時のように歩いていた。
 結局あの出来事は戒言令でも敷かれているのかあまり大きな噂話は聞えてこなかったし、陳羣にも会えずじまいだったので、一体何事だったのか、その後どうなったのかなどは皆目分からぬままであった。知る人は知っているだろうが、誰かに尋ねようにも、日頃他人と距離を置いているだけに、訊くに訊けない。
 別に知りたいとも思わなかったが、あの尋常でなさはずっと気にかかっていた。
 何より、あんなに取り乱した陳羣を見たのは初めてだった。
 自分が見たことのない表情―――。そうさせたのがかの勅使であった事実に、もやもやするものがある。それはほんの小さな嫉妬。
 だが、この自分がよもやそのような凡愚極まりない感情を持つはずがないと、そんな自分を否定するかのように、司馬懿は首を振り、ことさら荒い足取りで歩を進めた。

 最近、司馬懿は隙を見ては執務から抜け出すようになった。曹操は信賞必罰に厳しい男だが、才のある者は殺さない。むしろあちらから首に縄をかけてでもと請われたほどなのだから、多少仕事をサボったところでたいした咎めもないだろう。馘首になるならば願ったりだ。半ば反抗心とやりきれなさで、司馬懿は昼前に室を抜け、宮城の走廊をずんずん進む。
 先ほど、身を落ち着かせる場所を求めて、青々とした竹林の生い茂る裏手の院子へ足を運んだら、先客がいた。自分と同じく仕事の合間の小休止を取っているのか、その男は司馬懿が近づくと何故か大きな期待の混ざった表情で勢いよく振り返ってきた。
 どこかで見た顔だ、と思えば、そういえば自分の屋敷に来た執金吾の使者ではなかったかと思い至る。
 だが彼は驚く司馬懿を一目認めるなり、あからさまに落胆したように再び元の陰気な表情に戻った。誰かと間違えたのだろうか。こっそり逢引をしていたのかもしれないが、甚だしく気分を害された司馬懿はすぐさま別の場所を探すべく踵を返したのだった。

 どこか他に収まり良い場所はないだろうか。
 歩きつつ首をめぐらせば、渡り廊下が入り組み続く庭院の向こう側に、ちらりと鮮やかな色が目に入った。
 ほのかに風に乗ってくる匂い。あれは梅だ。
 そういえば暦の上ではもう春である。
 司馬懿はその風流な姿に惹かれ、そちらのほうへと爪先を向けた。あそこは宮殿の奥向きに続く走廊で、官吏は殆ど足を踏み入れることはない。身を隠すにも丁度いいだろう。
 花霞が風に揺れている。徐々に濃くなる甘香。視界に入る艶やかな紅は目を奪うほど鮮烈で美しい。
 ひとひら舞う花びらに誘われるように、更に近くへと足を踏み出した。

「誰だ?」

 心臓が口から飛び出しそうになるとは、まさにこのことを言うのか。
 ドクンと音が聞こえそうなほど大きく脈動し、肩が飛び上がった。ひゅっと喉が鳴って唾が気管に入る。
 噎せながら勢いよく振り向けば―――そこは、蔀を開け放たれた室の前であった。
 その内で、牀台に肩肘をつくようにして半身を起こしている男と目があう。

 ―――人が居たのか。

 司馬懿は目をむくばかりで言葉がでない。驚きすぎて、自慢の思考回路がすっかり固まってしまっていた。
 黙然と立ち尽くす闖入者に、その男はしばらく不思議そうにまじまじと観察した後、ふっと頬を和らげた。
 動悸と混乱のあまり司馬懿は気づかなかったが、男の方は司馬懿の姿を一目見て、得たりといった表情を浮かべる。

「ここはもう後宮の入口だぞ。こんなところで何をしているんだ?」

 にやにやと悪戯っぽい笑みを浮かべ、男は言った。
 司馬懿ははっとし、ようやく我に返った。脳内に血が巡りだす。そうだ、よく思い返せばこのあたりは後宮で従事する者たちの自室の区間である。梅花に誘われ、思わぬところまで足を踏み入れていたらしい。
 とするとこの男は宮に仕える者だろうか。よくよく見ればまだ二十代後半ほどの若い男だ。どこかで見たことがあるような気がしたが、不思議とどうやっても思い出せない。宮仕えとは言っても、見たところ宦官でもなさそうである。一体何者なのだろうか。

「っ、失礼した。こちらへ来て間もない故、勝手が分からず―――
「道に迷ったのか」

 ずけずけとした遠慮のない物言いに、司馬懿の眉根が寄る。
 さも面白いといわんばかりの男の態度が、決して低くない矜持に障り、自然と顔つきがきつくなった。

「それとも花に迷ったのかな」

 だが言い返そうとした矢先に、男が風流めいたことを呟いた。一瞬司馬懿は出しかけた声を飲み込む。
 心を見透かされたようなのが何やら癪で、棘を含んだ声音で司馬懿は言った。

「先ほどから大層慇懃(・・)なご様子であられるが、貴殿は一体何者なのだ」
「さぁ?」
「……人を馬鹿にしているのか」

 おどけた風に首を傾げる男に、司馬懿は目元を険しくする。

「別に馬鹿にしちゃいないさ。あんたはどう思う?ってだけ」
「それを馬鹿にしているというのだ」

 初対面で『あんた』呼ばわり。ますます司馬懿の機嫌は急降下した。
 だが隠しもしない司馬懿の刺刺しい雰囲気にも、男は何処吹く風で飄々と笑っている。

「そりゃあすまなかったな。だが礼儀を言うなら、他人に名を尋ねる時はまず己からとも言うだろう?」

 司馬懿はうっと言葉に詰まった。確かに道理だ。
 しかし普通ならば司馬懿は仕事中である。それを無断で抜け出して、あまつさえ後宮の域にまで踏み込んでしまった。バレたらいささか気まずい事態だ。名など名乗れるはずもない。
 だが男はそんな司馬懿の心情も見透かしているようだった。
 牀の上で行儀悪く胡坐をかき、片膝に頬杖をつきながら半眼で司馬懿を見やる。フフ、と意味深に笑った。

「あんた、司馬仲達殿だろ」
「!」

 司馬懿は半歩飛び退いた。唾を飲み込む。動揺を隠し切れぬ表情で男を凝視すると、男はなんと言うことでもなさそうに「そりゃ知ってるよ。有名だもの」と肩を竦めた。
 依然涼しげな様子で司馬懿を観察している。
 はじめから知っていたのであろうか。あまりにいただけない話に、司馬懿はその柳眉を険しく寄せる。何だかふつふつと怒りが込み上げてきた。
 知っていながら、知らぬ振りをして司馬懿の動向を楽しんでいたのか。

(一体何なのだ、こいつは!)

 司馬懿の醸す冷たい怒りに気づいているだろうに、男は全く気にした風もなく疑問を口にする。

「でもその高名な司馬仲達殿が、一体なんでまた仕事もせずこんなところにいるんだ?」
「…小用で出ていたのだが、帰り道が分からず往生していたのだ」

 憮然としながらも司馬懿はそう口にする。我ながらダサい言い訳だが、妥当なところだろう。
 だが男は一瞬きょとんとした後、しばし逡巡して、再び微笑んだ。

「ま、そういうことにしておこうか」

 すべてお見通しとばかりの顔に、男の掌の上に転がされている気分となり、司馬懿はますます憮然とした。この自分が、こんな得体の知れぬ奴の口舌に間誤付き、上手を取られている。状況としてはかなり面白くない。
 司馬懿の顔と名が一致しているということは、この男も何れかに所属する官吏であることは間違いない。己こそ仕事もせず、日も高いというのに出仕するでもなく、のうのうとしているではないか。
 嫌味のひとつでも言ってやろうかと思った矢先、男が咳き込み出した。ただの咳ではない、もっと発作的なものだ。苦しげな様子に、そういえば男が未だ白い寝着のまま、髪も結わずにいることにようやく思い至った。

「病か」
「少し、な……」

 ごほ、と仕舞うように咳をひとつして、男は淡く笑ってみせる。荒い呼吸の下で、それでも笑もうとする男に、なぜだかやたら腹が立った。何故だかは分からぬ。それが先ほどとは異なる感情からの苛立ちだと当人は気づいていない。

「皆、大袈裟なのさ。咳はまだ少し出るが体調はもう全然平気なんだ。なのに寝てろと言って聞かない」

 何故か肩越しに背後へ視線を送りながら男は不満げにぼやく。

「そのような戯言はもっと顔色が良くなってから言うことだな」

 冷たくそう言い放てば、男は驚いたように目を見開きぱちぱちと瞬いた。その意表をつかれた様子に、一太刀返してやったような気がして司馬懿は少し溜飲が下がった。

「道理だな」

 男は苦笑し、それから良いことを思いついたとばかりに顔を上げた。

「そうだ、なぁ、ちょっと暇つぶしに付き合わないか?」
「は?」
「どうせあんたサボりだろう?」
「なっ」

 ズバリ図星を突かれ、司馬懿は眉を吊り上げる。狼狽えてしきりに袖を振り、なんとか否定しようと言葉を搾り出そうとする。

「違う! 私は別に」
「まぁまぁ。しばらくでいいからさ、俺の遊びに付き合ってくれよ。ずっと寝てばっかでヒマだったんだ」

 司馬懿の否定などはじめから聞く耳も持たないようで、さっさと勝手に話を進めて行く。男は「少し待ってろ」と言い置いて牀を下り、奥へと消えた。
 完全に男の調子に流されている自分がいて、司馬懿はただでさえ短気な血管がさらに短くなるような気がした。それでもさっさと帰らぬあたりが、この男の妙に律儀なところである。
 一旦室の奥に消えた男が再び何かを持って現れたのは、そう間もなくだった。それを牀の近くに置き、司馬懿を手招きする。
 仕方なしに招かれるまま近くに寄れば、そこには大きな紙の上に描かれた地図と、散乱する駒があった。

「これは」

 一瞥しただけでそれが何かを悟った司馬懿が、瞠目する。これは、軍議において配陣などを検討するために用いるもの―――廟戦だ。

 男はにやりと笑んだ。

「ひとりでやっていても面白くないからな」

 どうやら途中まで一人二役で動かしていたらしい。不規則なようでいて、きちんと考えられた部隊の駒が配列されている。
 だが司馬懿が最も注目したのは、その両軍の駒数や記された地形。見たことのある構図に、それが何を表しているのか司馬懿にはすぐに分かった。

「この配置―――もしや袁紹軍との?」
「ご名答」

 両瞳を細め、男は言う。盤上に視線を落とし、川沿いに乗る駒の一つにを指で玩んだ。

「これはあくまで俺のお遊びみたいなもんだ。だが折角切れ者と名高い司馬仲達殿がいることだし、どうせだから相手してもらおうと思ってね」

 その才がどの程度のものなのか。

「いいか。こちらが我が曹軍だ」

 そう言って、少ない方の色の駒を指す。次に過半数を占める駒に指を向け、「そしてこちら側が、袁軍」

「さぁ、この状態であんたならどう動かす?」

 男の笑みが深まる。
 先ほどの飄々としたものではなく、ぞくりとするほど冷徹で不遜な、だがどこか面白がるような凄烈な色。
 試そうというのか―――司馬懿は剣呑と双眸を眇めた。

 ―――いいだろう、受けて立ってやる。

 散々良いようにからかわれて憤然としていた司馬懿は、ここで一手報いんと、形勢不利な駒へ手を伸ばした。




 ところがである。勇むままに挑んだは言いものの、数時の後、司馬懿は手元を見つめ愕然としていた。
 動かせど動かせど、盤上の戦は思うように運ばない。
 それは対戦する男の手のためだった。どれほど裏をかいて攻めようとも、必ず先回りされているか巧みに躱され、こちらの手を封じられる。それどころかじわじわと追い込まれてしまった。

「これで八方塞がりだな」

 男は紅い着色をされた駒を動かし、青い駒の退路を塞いだ。今や青い駒たちは紅の群れの中、二進も三進もいかない。

「四面楚歌の出来上がりだ」
「……」

 楽しげに嘯く声音に、司馬懿はついに黙り込み、眼下の情景を見つめるしかない。
 確かに完全に囲まれている。
 これはあくまで仮想であって、現実ではない。実際の戦場では何が起こるかわからないものだ。その時々の気象や地理といった条件、あるいは情報戦の如何でも多種多様に変わってくる。
 だがそれを差し引いても、男の指摘した袁紹軍の反応は、恐らくどれも実戦において正しいと思われた。袁紹自身がそこまで頭の切れる男かどうかはさておき、知略に長けた人間ならば必ずそう打って出てくるだろう手である。少なくとも司馬懿とこの男が戦えば、勝敗は盤上のとおりになるだろう。
 勝敗を計る算木があれば、どちらに算が多く上がるかは明白であった。
 司馬懿は顔を上げ、驚愕の表情で男を見た。
 自分の才覚には自信があった。自惚れ抜きにしても、己と比肩しうる人間はそういないだろう。
 だが、それに匹敵する―――認めたくはないが、あるいは上回るかも知れぬほどの男の智謀に、これまでの認識を覆される。
 怪訝を抱くと共に、初めて喫した敗北感。
 一矢報いるどころか、これでは真逆だ。

「貴様―――否、貴殿は一体何者なのだ」

 じっと睨み据え、低く問う。
 ここまで戦術戦略に通じているのは只者ではない。一介の下級文官では決してありえないはずだ。もっと上層の、それもかなり実戦慣れをした人間。
 だが、司馬懿の凄味にも男は曖昧に微笑んではぐらかすのみ。
 いい加減苛立った司馬懿は、荒らしく立ちあがる。

(人を馬鹿にするにも程がある!)

 無言で踵を返すと、男の柔らかい声がかかった。

「司馬懿殿」

 決して強いる色はない。なのに、その声には行く者を立ち止まらせる威力があった。
 意に反して足を止めてしまったことが悔しく、だからといって進むこともできず、せめてもの矜持で司馬懿は振り向かずに佇む。
 男はその非礼を咎めることなく、その背へ向かって声を掛ける。

「賭けをしないか?」

 やはり司馬懿は答えない。それでも気にせず、男は続けた。

「いま華北で豪族たちがかなり大きい反乱が起こしている。もちろん知っているな」

 突然の話題に、司馬懿の眉根が訝しげに顰められる。何の話をしようと言うのか。

「それが何か?」

 一瞥くれることなく、そっけなく答える。
 男は笑いを含ませ、言った。

「あんたは、あれがどう収拾つくと予測する?」
「……どうもこうも、袁紹がさっさと大軍を派遣してあっさり鎮圧されるだけだろう」
「いいや」

 不意に、声響が深まった。

「袁紹は動かない。動かずして、反乱は鎮まる」
「何だと?」

 思わず司馬懿は振り返る。
 男は先ほどと変わらず牀台の上に座し、意味深な色を瞳に湛えていた。

「どういうことだ。いくら袁紹とはいえども、莫迦ではない。軍を出せば制せられるだろうが、放って置けばただではすまぬことは分かっているだろう」

 地方豪族たちの起こしたという反乱の情報は司馬懿の耳にも入っている。いくつかの有力豪族が連合をなして蜂起した、相当な規模のものだと聞く。袁紹でもよもや見す見す好きなようにさせるはずは無い。下手をすれば領内が不安定になり、敵に隙をつかれる。

「然り。だがそれでも反乱は自ら収束するだろう」

 予言めいたその言葉に、しかし司馬懿は同意を示さなかった。
 ふんと鼻を鳴らし、再び身を翻す。

「馬鹿馬鹿しい」

 ありえるものか。ただの病人の戯言だ。
 捨て台詞にそう吐き、もはや何も聞く気はないと、司馬懿は足早に室を出る。
 何だか今日は妙な、そして散々な一日だ。
 そんな司馬懿の踵を追い、もう一度だけ男の声が響いた。 

「もしこの予想が当たったのなら、もう一度此処へ来るといい」

 それに返事することなく、司馬懿は憮然と立ち去った。




 消えて行った濃紺の残像を追うように、男は涼しげな目を眇めた。その口元には意味ありげな微笑が刻まれている。
 その時、男の背後から、かたんと音が立った。
 大きな衝立の陰から、小柄な男が現れる。見れば壮年の、しかし鋭い眼光の男だ。
 司馬懿は一向に気づいていなかったが、男ははじめからずっとそこにおり、陰で二人の遣り取りに耳を欹てていた。
 というよりも、彼が寵臣の様子を見に来たついでに色々と話し込んでいたところへ司馬懿が現れたのである。あの廟算の駒は実はそれまで彼とこの男で動かしていたものだった。まさかあの司馬懿がこんなところまで足を運ぶとは思いもよらなかった二人である。
 司馬懿はここがまさか侍医の室に近いために宛がわれた彼専用の病室であることは知らない。
 小柄な男は病床に近づきながら、その目は彼と同じように今しがた司馬懿が去っていった方を眺めやっていた。

「どうだ?」
「殿の仰っていた意味が分かりました」

 幽かに笑みを含んだ声が、空気を震わす。
 男はへの字に口を曲げる。そうすると男の持っている威厳が和らぎ、まるで子供のようでもある。

「使える奴だが、危険だ」
「でしょうね」
「手なづけられるか」
「さあ、どうかな……けれど長文には素直なんでしょう? 文若殿に対しても並々ならぬ敬慕ぶりとの話ですし」
「だが文若や長文ではあやつの野心まで止められぬ」
「まぁ……ねぇ」

 飄然とした微笑が、苦笑へと変わる。

「なかなかに難しいでしょうね。何と言っても殿のことが嫌いじゃあ」
「儂も好かんがな」
「ていうか殿の苦手な性質ですよねぇ」

 小柄な男の表情が、更に渋くなる。

「ま、なんとかやってみますよ。元々は俺が面倒見るはずだったんですしね」

 仕方ないと長い髪を掻き揚げて言えば、壮年の男は「おう、任せたぞ」と鷹揚にその肩を叩いた。それからふと空の色を眺めやり、

「おっと。そろそろ行かねば文若にまた怒られてしまうな」
「あまり文若殿の苦労を増やさないであげてくださいよ」

 そんな減らず口に、渋みを濃くした声音が返る。

「お前もな。何が『体調は全然平気』だ。ちゃんと養生しろ」
「へいへい」
「真面目に聞け」
「はいはい、ほら、早く行かないと文若殿が角生やして待ってますよ」
「おお、そうだった。それじゃあな、奉孝。また来るぞ」
「じゃあ次は桃饅でも持ってきて下さい」
「お前って奴は……主君をパシリに使う気か」
「なに、『養生』してるまで」

 買って来てくれるのなら大人しくしてますよ。

「ふん、病を得ても口だけは減らぬ奴だ」

 小柄な男はニカッと笑うと、誰にも見つからぬように身を屈めてこっそりと出て行く。
 世にも恐れられる天下の姦雄の、あまりに似合わぬ格好にひとしきり笑った後、ふと鼻先を掠めた香りに顔を上げた。
 せめてもの心遣いと、かの主が彼のために設えた専用の室の院子(なかにわ)に植えてくれた紅梅。春立ち、もう少し暖かくなれば今度は桃の木が蕾を綻ばし、また異なった華やかな色を見せてくれる。
 柔い風に煽られる紅い花弁を眺めながら、ひとり残された男は目を眇める。

 ―――さて、吉と出るか凶と出るか

 ふわりと、密かに甘さを含んだ香りが、また一つ吹き抜けた。




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