梅下の廟戦から三日後。
 華北の反乱が終結したという情報が許都に舞い込んできた。

『反乱、袁公動かずして自ら鎮む。決起軍の総大将の首級は、味方の手によって討ち取られたり』

 からくりは、知ってしまえばいたって簡単な話であった。
 反乱を起こしたのは地方の有力豪族連合だったが、その豪族の連合自体が全くといって統率の取れていないものであった。
 蜂起を訴えていたのはその実ただ一人だけ。周りの者たちは無理やりつき合わされているような感があり、元々あまり乗り気ではなかったのだ。
 当たり前といえば当たり前、何せ彼等には袁紹にたてつく理由はなかったのだから。
 ある程度の不満はあれども、袁紹の強大な軍事力をわざわざ敵に回すほどではない。
 それにも拘わらず強引に推し進めて、勝手に蜂起した。
 そのように内部の意志がバラバラな状態で反乱が成功するわけがない。袁紹もそこまで愚かではなかったし、すぐさま内部の者と密約を交わし、呼応して離間の計を行った。
 このまま進めば必ず負ける戦だ。そのようなところで命を落とすよりも、首謀者の首を土産に投降したほうが蒙る害は少ない。そこで彼等は酒宴を設け、盟主たる総大将に酒を飲ませた上に酔った隙を狙ってあっさり討ち取り、首級を掲げて袁紹の元に献上した。
 そう、初めから成功するはずの無い反乱だったのだ。



 後宮へと続くあの走廊を司馬懿は足早に進んでいた。
 やや西に傾いた日の光が、格子状に装飾された石床に文様を描いて落ちている。まだ少し寒さを残す硬い大気のうちに仄かに漂ってくる梅香。
 しかしそんなことも気に這入らぬほど、司馬懿の頭はただひとつのことに占められていた。逸る気持ちのまま一心不乱にあの場所を目指す。
 数日前と同じ角を曲がれば、すでに司馬懿が来ることを予期していたかのように、室の前の高覧に背の高い卓子(つくえ)と腰掛を用意して、あの時の男が待っていた。人を迎えるのに足を垂らして胡坐(すわ)っているとは大層無礼な居住まいだが、今はそのようなことはどうでもよかった。
 息切れをしたまま立ち尽くす司馬懿を一目見、男は悪戯気な笑みを浮かべた。

「賭けは俺の勝ちだな」

 してやったりと双眸を細める男に、司馬懿は呆然の態で凝視する。

「一体……何者なのだ」

 あの時と同じ問いを繰り返す。
 だが男は聞こえなかったかのように、

「そんなところで突っ立っていないで、こっちへ座ったらどうだ?」

 男が己の対面の席を指差す。よく見れば、卓の上に江南風の壺と小ぶりな盃が二つ置いてあった。かつて江南の客人が家にやって来た時に目にしたことがあった。確かあれは茶を飲むための道具だ。北の方では専ら薬湯の向きが強い茶だが、長江流域の方では嗜好品として飲まれており、司馬懿も一度目の前で淹れてもらったことがある。芳しい香りと仄かな苦みが印象的な、旨い味だった。

「誰かいたのか」

 人がいた痕跡に司馬懿が訊けば、男は不思議な微笑をつくり「ああ、今ちょっと―――小さな客人がな」と呟いた。

「そんなことはいいから、とりあえず座れよ」

 怪訝そうに眉を顰める司馬懿を促しながら、男は皿の上に盛った桃饅頭を掴み頬張る。幸せそうに緩むその表情を見ていたら、何だか気が抜けすべてが馬鹿馬鹿しくなってきた。

(もう何がどうでもいい……)

 投げやりな気分になって勧められるままに席に着けば、「あんたもどうだ?」と鼻先に桃の形をした饅頭が突き出された。顔を上げて見れば正面にはにこにこと饅頭を差し出す男の姿がある。

「……」

 無言で受け取り、一口かじる。
 美味い。

「美味いだろ?」

 腹が減っていると苛々しやすくなるからな―――にこやかに同意を求める男に、司馬懿はハッと自分の頬が綻びかけていたのに気づき、気まずさに顔を逸らす。
 司馬懿の行動を気にすることもなく、男はまた一口、二口と饅頭を口に運んだ。

「あんははー」
「……しゃべるか食べるかどちらかにされよ」

 口一杯入れたまま言葉を発そうとする男へ司馬懿はすかさずそう突っ込む。思わず脱力感が伴った。
 こちらを驚かすほど切れたことを言うかと思えば、今の彼はまるで子供のようではないか。

(何なのだ一体)

 あまりの相手の落差と掴みどころの無さに、額を覆う。
 司馬懿に言われ、男は素直にごくんと飲み干すと、改めて口を開いた。

「あんたさ、なんで殿の出仕の求めになかなか応じなかったんだ?」
「そ…」

 それは―――と言いかけ、司馬懿は口を噤む。
 理由はただひとつ。あまりに稚拙な個人的感情だ。
 男の追求の眼差しから逃れるように、司馬懿はふいと顔を背けた。

「……あの男が嫌いなのだ」

 ポツリと小さく漏らす。
 その言葉に、男は目を丸くする。
 眼前で黙り込んだ横顔は、むすりとしている。
 しばらくの沈黙がその場に降りた。
 齧りかけの饅頭片手に、男は司馬懿の仏頂面から目を外すと、あらぬ方を見上げどうしたものかと頭を掻いた。

「えーっと、てことは、あんたは単に殿が嫌いだから仕えたくなかったと」
「改めて訊くな」
「んじゃあ、皇叔や麒麟児の方が良かったとか?」
「馬鹿なことを言うでない。誰があのような偽善者や脳筋になど」

 司馬懿は心底嫌そうに顔を顰める。演技でない嫌悪の露に、男は首を傾げる。

「それじゃあまさかの大穴、劉表?」
「あんな大言だけの男などなお願い下げだ!」

 思わず立ち上がった司馬懿の剣幕に、男はのんびりとした調子で言った。

「なんで殿が嫌いなんだ?」
「……理由などない」

 ストンと、気の昂ぶりを恥じるように司馬懿は座り直し視線を逸らした。

「国への忠誠が全くないわけではない。だが、どうしても曹操だけは受け入れられぬのだ」
「ふぅん」

 男は饅頭を齧り、鼻で相槌を打つ。頬杖をつきながらふと目線を司馬懿から庭の梅へと移した。目にも鮮やかなその色をぼんやりと眺め、

「悪い方じゃないんだけどねぇ」

 とぼやく。

「分かっている。甚だ腹の立つ男だが、根からの悪人ではない。その裁断力も統制力も政策も采配も認める。君主としての器も、恐らく当代一だろう」

 それでもあの男は私の主ではない、と司馬懿は言った。私の求める真の主ではないと。
 頑なな司馬懿の様子に男はただ困ったように唸るばかりだ。

「まぁ、合う合わないは人それぞれあるからな……」

 そう嘯けば、司馬懿は横を見つめたまま、小さく口を開いた。

「私も己の才や力を国のために用いるのが嫌なわけではないのだがな」

 あの男でさえなければ。
 そんな呟きを耳にし、男は静かな趣を湛えた瞳を所在無さげにしている司馬懿に当てる。
 その顔に、不意に何事かひらめいたような色が宿った。しばしの間考え込むような仕草をした後、ゆっくりと唇を動かした。

「仲達殿」

 字を呼ばれ、司馬懿が気だるげに顔を上げる。
 男はあの不思議な微笑を浮かべ司馬懿を見つめていた。

「いいことを教えてやるよ」

 きっと、あんたのためになる―――
 彼は意味深にそう囁いた。




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