夜の酒楼。 ほかの店が仕舞った後でも、ここでは灯が絶えない。むしろ今からが商売時だ。 店内には仕事帰りや気晴らしに来た男達で賑わっている。笑い声がそこここで上がり、赤ら顔を見せながら唄を吟じる者もいる。 そんな居酒屋の一角。隅の方で静かに酒を含む司馬懿の姿があった。 質素な服を身にまとっている。普段に比べればかなり地味な出で立ちである。だが醸し出す雰囲気は何処から見ても彼が上流の士大夫であることを窺わせた。 手酌で酒を杯に注ぎながら、司馬懿はじっと水面を見つめる。涼しげな相貌からは酔いの気配は全く見られない。さして面白くも美味しくもなさそうに酒を舐める姿を見ると、一体何故このようなところでわざわざ飲んでいるのか謎だった。 司馬懿とて自ら好き好んでこのような場所に足を運んだわけではない。実はこれには理由がある。 『今宵、城下のある酒楼に行ってみな』 笑みながら、男が告げた店の名。 何故かと理由を問えば、「行ってからのお楽しみだ」とはぐらかされた。 誰が行くものかと、はじめは男の言葉を信じず、行く気も更々無かった。 なかったのだが。 『ただそこで待っていればいい。きっと何か良いことがあるよ。信じる信じないはあんた次第だがね』 馬鹿な。 そう思いながらも、府を辞した後、司馬懿の足は時刻になると自然に告げられた店を目指していた。 だが、店に入って美味くもない酒を頼んでから、かれこれもう数刻が経っている。 (一体何があるというのだ) 待てど暮らせど男の言った謎が明かされる気配はない。段々忍耐力が切れ、イライラと杯を重ねる。 からかわれたのか。あの男のことだ、人懐こそうな笑顔の裏でそんな悪戯もやりかねない。 「此処……よいか?」 帰ってしまおうかと司馬懿がいよいよ思いかけた時、不意に高い声音が降りてきた。 顔を上げれば、卓子を挟んだ目の前に青年が立ち、こちらを見下ろしていた。 綺麗に整っているが、どこか無機質な冷たい面立ちをした青年だった。質素な服に身を包んでいるが上質の生地であることが判る。卑しからぬ風貌、そして身なりから、育ちの良さがにじみ出ていた。 青年を一目見て、司馬懿は不思議な感覚に包まれる。彼の持つ雰囲気のせいだろうか。他とは違う何か―――威厳のような気風を備えた若者。 若いながらに凛とした容姿に、どこかで見たことがあるような既視感に襲われた。 (誰だ?) 疑問に思う司馬懿を余所に、青年は再び「此処に座ってもいいか」と訊く。やや苛立ったような声だった。半ば威圧されるように、是と頷く。帰るつもりだったが、今はそのような気が失せている。何となくこの青年に興味を引かれた。 静かに青年が座る。妙に大人びているが、自分より五つほども違うだろうか、と中りをつける。すると再び青年が「一人か?」と尋ねてきた。 「ああ」 「寂しく独り酒か」 青年の僅かに嘲笑を含んだ言葉に、司馬懿はカチンと来る。 「それよりもこんな時間、このような場所に子供がひとりでいてよいのか。親御が心配するだろう」 子供、という単語を強調する。 案の定青年の表情が歪んだ。 「この私を子供扱いするか」 「何処からどう見ても立派な子供であろうが」 「この―――無礼者めが」 青年が睨みつける。それなりに迫力はあるものの、普段より強面に囲まれている司馬懿には効かない。 年長者の余裕を見せ付けつつ、片口端を僅かに上げて冷たく言い放つ。 「弱冠にも満たぬ風情で何を偉そうに。長輩への礼は儒の基本。そんなことも分からぬような者は子供で充分」 「よく言った」 二人睨み合う。酒場の雰囲気とは違う妙に熱く冷たく張り詰めた空気が両者を結んだ。 そのまま杯を片手に膠着してしばらく。空気に耐えかねたのか、青年のほうが先に視線を外した。忌々しげに吐く。 「……そのようなこと、誰も教えてはくれぬわ」 ポツリと漏らされた言葉に、司馬懿は力を抜く。 教えてくれない―――学問を、だろうか。 「学には行っておらぬのか」 この年頃、しかも良い家柄の男児ともなれば、大体が官学なり私学へ通うなりしているものだ。 「……行けぬのだ」 何故か青年は躊躇した後、そう応える。何か事情があるのだろうか。 「では父上などは教えてくださらぬのか」 「父上もその周りの者たちも、忙しくて私の相手などしておれぬ」 どこか寂しげに、青年は呟く。 「学を教授する者たちは多くいるが、それ以外では一人で書を読むだけだ。それで身についたものと言えばせいぜい詩を読むことくらい―――それも弟には敵わぬがな」 自嘲気味に笑う。そこで青年が、学問ではなく日頃の私生活のことを言っているのだと気づく。家庭教師はついていても、世間一般的な行儀作法や人と接する態度について注意する者はいないとは、よほど良家の令息なのだろうか。 「父はな、私よりも弟の方が可愛いらしい。その前は兄に大きな期待を抱いていた」 独り言のように、青年は語り続ける。酔っているのか、どこか熱に浮かされた様子だ。 「だが兄が死に、私が次なる後継となっても父の目が向くことはない。しかし父が何を思おうと、次なる後継者は弟でなく私だ」 グッと杯を握り込む手に力が入った。反動で中の酒が揺れる。 青年の顔つきが冷たく冴え、眼光が鋭くなる。 「父は大きい。間違いなく英傑の器たる人間だ。その周りを固める者たちも賢人勇人ばかり。しかし私は―――このまま見す見す次期の座に甘んじたくない。だから私は父には決して負けぬ。必ず超えてみせる―――そう自らに誓ったのだ」 何故この青年はこのようなことをわざわざ自分に聞かせるのだろう。 そう疑問に思いながらも、強い決心の告白に司馬懿は圧倒されていた。青年は孤独だった。しかし孤独でありながら、その意志はどこまでも気高い。たった一人で、偉大な壁に挑まんとしている。 自分にはない、障害に屈さず己の望む道を貫かんとする強い力を持っている青年を、司馬懿は羨ましいとさえ感じる。 そしてふと、このような人物に仕えてみるのもいい―――と思った。それは本当に直感的なもの。 天啓のごとく閃く。 己が求めているもの。まさしくそれは、このようなものではないのかと。 自分は、自分の力を必要としてくれる人間に出会いたかった。他の誰でもなく、自分の佐を欲する人物に仕えたい。曹操には自分は必要ない。彼の横には既に彼の「子房」がいるし、彼自身が才の塊のような人物である以上、自分などいてもいなくても、曹操と言う男の意識にはさほど影響を与えはしない。 そんなすでに「形」を作ってしまった曹操よりも、今これから「形」を作ろうとする者にこそ、自分はこの力を尽くしたいのだ。そう―――まさに今眼前にいる青年のような。 青年に「そうか」と相槌を打ち、司馬懿は酒杯に目を落とす。冴えない表情の自分が水面に映っていた。ひどい顔だ、と苦笑を滲ませる。 分かってしまえばすっきりするものだが、しかしだからと言って現状がどうなるわけでもない。 逆に不本意な状況に憂鬱さが増すだけだ。 司馬懿は嘆息を酒で喉に押し込んだ。 「……お前は随分と詰まらなそうに酒を飲むのだな」 「は?」 不意に指摘されて、司馬懿は一瞬返答に戸惑う。 青年は今は冷淡な表情に戻り、ジッと司馬懿を見据えていた。 「お前も、何か思い煩うものがあるのではないか」 「……何故そう思う」 「ある男が言っていた。不味そうに酒を飲む奴には、大概心内に病み患うものがあるのだと」 「―――……」 司馬懿は杯を運ぶ手を止めた。 ゆっくりと手を下ろし、正面の青年を見据える。 しばらくそのままの状態でいた後、フッと微笑した。 可笑しそうに、嘲笑うように、不遜に。 「病むもの、か」 瞼を伏せ、呟く。 「道理かもしれぬな……お前のようなお子様にまで分かってしまうとは私もまだまだ未熟と言うことか」 「子供と言うなと申したのに」 ムッと眉根を寄せる青年へ、司馬懿は笑いながら手を振った。 「ああ、すまぬすまぬ。ご立派な嫡男殿よ。私はな―――」 ぐっと身を乗り出し、青年の顔を覗き込むようにする。多少口元が軽くなっている気がした。すべてをここでこの青年にぶちまけてしまうのもまたよい。 酔っているな、と頭の隅で思う。こんな酒でも酔えるものなのか。 「これでも名門と呼ばれた家の出で、頭の方もすこぶる出来が良いと評判なのだ。だがそれゆえに本望でない出仕を強いられ、あげく今は一介の雑職に甘んじている。こんな可笑しいことはなかろう?」 「……上司、は観察眼のない者なのか」 「いいや、むしろ有り過ぎる方だ。だからこそ私をここまで警戒する」 「『上』で働きたいのか」 「『上』か―――それもいいな。私はこの才を発揮できる場所で動きたい。この力を、今より形作ってゆくものへ貸したいのだ」 杯を揺らしながら、司馬懿は言う。こんな子供に愚痴ってどうするのか、と自嘲する。「形作ってゆくもの」と前で繰り返す青年の声が聞こえた。 重くなる瞼を閉じ、瞑想にふける。 『仲達殿』 不意に耳の奥に甦る声がある。 柔らかい声音は、はじめ己を推挙した敬愛の王佐の姿を思い描かせた。 しかしやがてその姿は自分の世話役をしてくれた文官の姿へと移り変わる。 『仲達殿』 そして最後に、あの若い男の姿に。 誰もが皆、形作ってきた者が持つ笑みを浮かべる。柔らかく、世を悟ったような―――自信の表れ。 主との信頼で結ばれた、太い絆が見て取れる幕僚たち。彼等は生き生きとして、輝くようにその才を身から放つ。 自分も、あのようになりたいと。 あのような表情をしたい―――と。 緩やかな渦にたゆたいながら、深い泥沼にしずみ込んでいく感覚の中で、司馬懿はふとあの男に会いたいと衝動的に思った。掴みどころのない笑顔を浮かべこちらを見たあの男に。もう一度会いたい。すべてを見透かすような澄んだ瞳の前で、この胸内を話してみたい。一体どんな言葉が返ってくるだろうか。 そう、あの笑顔で。 深淵の闇に落ちて行く中で、誰かの手が柔らかく体に触れるのを感じ、どこか安堵を覚えて身を任せた。 |