許都の春。
まだ僅かに寒さを残す中に梅の薫香が漂いはじめ、人々も長い冬の終わりにどこか浮き立っている。ここのところ動乱続きで絶望の年を繰り越してきた民衆にしてみれば、曹操が政権を管理するようになってからようやく本当の意味での春が訪れたと言えよう。
ところが、明るい雰囲気に包まれる城街とは裏腹に、府ではちょっとした『嵐』に皆惑わされていた。
一部の者が陰でつけた名は、ずばり『雲長病』。
この間の徐州遠征から関羽を伴って帰還してからというもの、曹操は実にご満悦だった。
やれ雲長がどうした、やれこうした、と二言目には『雲長』という名が出る。立派な邸を用意してみたり、帝に上奏して偏将軍の位を授けてみたり、かと思えば素晴らしい宝物や美女を10人も贈ってみたりと、異例を通り越し最早異常な厚遇ぶり。何としてもこちらへ気持ちを傾けさせようという涙ぐましい努力は、傍から見ていていっそいじらしいほどであった。
曹操の性格を良く知る重臣たちはそんな主の様子を半ば呆れ半ば苦笑して好きなようにさせているが、半数以上の者達にとってはそんな関羽の待遇と、それに対する関羽自身の態度に不満を抱いているようだった。
そんな微妙な宮城の空気を感じているのだろう、回廊を歩く関羽は、周りの目線に辟易しながら書庫を目指していた。
劉備の所在がわかるまでの間、できることをできるだけやっておこうと心に決めていた。幸い曹操は自分には痛いほど目をかけてくれているから、好きなことは大概できる。
皇城の蔵には、ここでしか見られないような門外不出の貴重な書物が大量に収められている。どうせ時を費やすならば、享楽よりも読書や鍛錬に注ぎ、いざ劉備の元に馳せ参じたときに前以上の働きを示せるようにしておきたい。
その気持ちを正直に曹操へ言えば、やや不満そうな顔をしながらも快く書庫への通行証を渡してくれた。
書庫は他にも文官などが文献資料を求めて出入りするが、殆ど人気が無く静かな場所で、宮城中では唯一息抜きをできる隠れ場所であった。本来ならば劉備の二夫人がいる邸を片時も離れたくない気持ちなのだが、偏将軍として任命された以上、事実上仕事は無くとも要請があれば出仕しなければならない。
柱廊を幾度も曲がり、目的の入口に至る。戸の両脇には衛兵が立っており、彼等に証を見せ中へ入った。
古くなった簡牘の独特の匂いが鼻をつく。長い歴史の香り、知識の香りである。この匂いは昔から嫌いではなかった。
先ごろ読んだ書の続きを、と思って奥の棚の方へと足を進める。
棚を数えながらたしかこの辺りだったか、と思って覗く。
思わず上がりかけた声を寸前で呑み込んだ。
なんと、人が棚と棚の間の床の上で寝ていた。
はじめは倒れているのかと思い慌てて起こそうとしたが、よくよく見れば太い木簡を枕に健やかな寝息を立てている。大胆な奴だという呆れと、大切な書物を枕にするとは怪しからんという気持ちが綯い交ぜになり、しばらくそのまま硬直して様子を見た。よくみるとずいぶん若い男だった。
どこかで見た顔だなと思ったところで、ようやく思い出す。
つい先日、柱廊の曲がり角で突然飛び出してきてぶつかってきた官吏がいた。彼は強かに打った鼻を抑えつつ関羽に目を留めると、「げ、赤髭……」と口走り、それからしまったという顔つきで口を抑え、慌ただしく走り去った。
関羽が呆然としていると、今度は物凄い形相の別の文官が現れ、横に立つ関羽に気付かないまま凄まじい速さで同じ方向へ走って行った。
一部始終を無言で眺めていた関羽は、やがてその両者の顔に見覚えがあることに気づいた。
今しがたすれ違ったのは、かつて己の主に仕えていた陳羣だ。劉備に対し随分辛辣な評を置き土産にして離れたと聞いていた。その後の足取りは知らなかったが、曹操麾下に加わっていたらしい。
そして最初にぶつかってきた方。かつて劉備が許都へ滞在していた時にも、幾度か顔を合わせたことがあった。そう、確か名は郭嘉といったか。その鬼謀は若くして曹操の懐刀とも称されるほどだった。
そこまで記憶を掘り起こしてから、改めて床上の人物を見下ろす。だらしなく襟を緩め、高位の官らしい冠もつけず、単に巾で髷を包んでいる。気持ちよさそうな寝顔は実年齢よりもさらに幼く見せ、恐るべき軍略戦術を生み出す人間とはとても同一人物には見えなかった。
そういえば義兄であり主君である劉備が、許都に滞在していた当時に、彼について何か思うところがある風なことを言っていた気がしたが
―――
しばらく逡巡してから、関羽は音を立てぬようにそっとその場から立ち去ることに決めた。何をしに来たのだろうと憤懣に思うが、目的のものはまた今度でもいい。別にかの軍師の眠りに気を使ったわけではないが、郭嘉に目覚められても状況としてなんとなく気まずい。郭嘉は曹軍にあって、珍しく好奇の目も敵意の目も向けてこない人間の一人だったが(というかむしろ無関心だった。妙なあだ名はつけられているようだが)、だからといって二人きりになりたいものではない。
しかし気付かれまいとして慎重に忍ぶ時ほど、音は立つもの。
お約束のように、棚にあった木簡のひとつに肘が当たり滑り落ちる。室内が静かな分、予想以上に大きな音が響いた。
「んあ?」
寝そべっていた身体が身じろぐ。
しまった、と思っても遅い。関羽は硬直した。
「んん、何だ?」
むくりと起きて目を擦り、郭嘉はふと人の気配に顔を上げる。そして関羽と目が合った。
おまけに間が悪いことに、関羽は片足を出した状態の、妙に間の抜けた格好で固まっていた。
「……」
「……」
非常に気まずい無言の空気が流れた。
沈黙を先に破ったのは郭嘉だった。
頭をぼりぼりと掻きながら、
「ええっと、偏将軍殿? このようなところで踊りの練習ですか?」
「いや、まぁこれはその」
真面目な顔で口篭りつつ、さっと姿勢を戻し襟を正す。なんたること、敵に無様な姿を見られてしまった。
「貴公こそ、かようなところで昼寝か?」
「ご覧の通り」
悪びれもせずけろりと言う郭嘉に、関羽はよろめきかけた。こんな軍師を戴いていて本当に大丈夫なのだろうかと不覚にも敵方の心配をしてしまう。
「見ての通りというが、貴公、仕事は」
「サボってるに決まってるでしょう」
これまたはっきりと答える。関羽はいよいよ眩暈がしてきた。
動揺する関羽の反応を面白そうに眺めながら、郭嘉は片膝を立てて頬杖をついた。
「偏将軍は書庫へ書物を借りにきたのですかな?」
その言葉にはた、と立ち直る。そうだった、当初の目的はそれだ。
「然様だが」
「どの書ですか」
当惑しつつ関羽が書名と巻数を言うと、
「ああ、じゃあこれですね」
そういって郭嘉は先ほどまで枕にしていた太い冊を手にとり、関羽の方へと抛った。
放物線を描き宙を飛ぶ書物をあわてて捉える。
と、それを見計らったように
―――
「この系列は、軍式と兵制の解釈はなかなか面白いのですが、理論にやや難ありで実戦向きではありませんな」
可笑しそうな声音に、ハッとして目を下ろした。
評を下した本人は邪気なく笑っている。
確かにそれは関羽も同様に抱いていた感想だった。しかし存在として様々な考えを知っておけば、いざと言う時に生かすこともできる。
「もし応用を考えておられるならば、ここより二つ先の棚の一番上にある『聞氏釈兵』を参考にするといい。無名の兵家ですが、なかなか鋭い指摘を充てている」
関羽は更に瞠目する。背に一瞬冷たいものが降りる
―――心を読まれたかと思った。
「……ご助言、感謝する」
口では礼を述べつつ、やはり徒者ではない、と関羽は心中で呟いていた。
一見気怠げだが、その裏に確かな鬼謀神算の存在を感じられる。これは、決して単なる自堕落な文官ではありえない。
「ではそれがしはこれにて」
「あ、偏将軍」
呼び止める声に、踵を返しかけた足を止める。
「何か?」
郭嘉は相変わらず石床の上に胡坐しながら、掴みどころのない笑顔で関羽を見上げていた。
不思議なまでに澄んだ双眸でジッと見つめられ、何故だか居心地が悪くなる。
郭嘉はそのまま視線を外さずに、
「もうしばらく、うちの殿の気紛れに付き合ってやっといてくれませんか」
「それは、どういう……?」
郭嘉は、どこか遠くを見晴かすようにその目を細めた。
「殿は将軍のことが大好きなのですよ。貴方にしてみれば不本意の投降でも、殿は貴方を得て以来、まるで子供のようにはしゃいでおられる。あの方は将軍に憧れているのです。己にはないものを持っている貴方にね」
「曹公が?」
まさか、と関羽は目を剥く。かようなことがあろうはずもない。曹操は常に自信に溢れている。それを裏打ちするだけの能力を持っている。彼の下には優れた臣下が揃い、彼自身、事実上天下で最高の権威を手にしている。これ以上望むべくもないほどのものをすでに持っているはずだ。人から羨まれこそすれ、およそ人を羨む人柄ではないように関羽には思えていた。
しかし郭嘉は言う。
「殿はああ見えて、内面では色々な葛藤がおありなんですよ。それは周りが何を言っても決して拭い去ることのできぬものです。あの方は強いが、その反面とても脆い。そんな殿にとって将軍の“強さ”は、まるで自分の理想が具現した存在のように感じられるのでしょうね」
郭嘉は視線を横へ外して遠くを見ながら、ふと笑う。それは今までで見せたどの笑顔とも異なり、関羽を思わず動揺させた。
そこに滲むのは臣下の主君に対する忠誠と敬愛にしては深く、かといって龍陽の寵などと色俗めいたものなどでも決してない。子が親を慕うものとも、親が子を慈しむのとも違う。一人の人間として、心の髄まで惚れ込んでるからこその思いやり。
関羽はしばらくその表情に目が離せなくなった。
「元より本懐ここに在らずの将軍には煩わしく思われるところもあるでしょうが、あともう少しだけあの方の相手をしていただければ」
「煩わしいなどと
―――曹公にはこれほどもなく良くしてもらっている。恩義を感じこそすれ、よもやそれを邪険に思うはずがない」
それは何より、と郭嘉は再びあの食えぬ顔でにやりと笑った。
本心からの言葉であるといえば嘘になる。実際は少しも厭わしく思わなかったとは言い切れない。
しかし、彼を前にここでそれを言葉にすることは、心情的に憚られた。たとえ見透かされているとしても、全くの正直でなかったとしても。
ただ『あともう少しだけ』という含みに何やらひっかかったが
―――
「話はそれだけです。お引止めして申し訳なかった」
「あいや、謝罪には及ばぬ」
「ああ、そうだ」
郭嘉はぽんっと手を打つと、先ほどとは打って変わり悪戯を企むような目で囁いた。
「ついでといっちゃなんですが、もし外で鬼のような形相をした官吏が私のことを探していたら『ここには居ない』と言っておいてくれませんか」
あまりの変容に関羽はぱちくりと目を瞬く。よく判らない男だ。しかし人の心を翻弄する
間をよく心得ている。
内心苦笑しつつ、最後まで厳かに答えた。
「了解した」
頼んます、と軽薄に言って郭嘉はまた別の木簡冊を手にとると、関羽の眼前であるのにも関わらず再びそれを枕に敷いて寝始めた。
何やらキツネに摘ままれた心地で書庫を出ると、前からどたどたと足音も荒く近づいてくる者がいた。
例の『鬼のような形相』を浮かべている陳羣である。しかし彼は関羽を一目見るなり「あか……関偏将軍」と居ずまいをただした。乱世ではよくあることとはいえ、元は同じ陣営であっただけに心中は複雑だろう。
関羽が「こいつ今、赤髭と言いかけたな」と心なし憮然としていると、一応拱手で礼を取ってから「申し訳ありませんが、書庫の中に何者かおりませんでしたか」と訊いてきた。
「いや、私が中に入ったときは誰もいなかったが」
「左様ですか……」
残念そうに言う下で、殺気の籠った舌打ちをする。礼儀正しいが服を着て歩いているような陳羣の信じられぬ仕草に関羽が瞠目していると、彼は慌てて取り繕ったように笑顔をつくり、もう一度礼をして足早に回廊を戻っていった。
背後から一部始終を傍観していた衛兵たちが棒立ちの関羽を見かねたのか、すでに呆れを通り越した無感動な声で言った。
「将軍、どうかお気になさらず」
「軍師祭酒殿と治書侍御史殿のこれはいつものことゆえ」
「……」
然様か、と唸る。曹軍の大変な実情を一部垣間見てしまった気分だ。おまけに知ったところで何の利益にもならなそうな。
そうして関羽は、ふと背後の書庫の入口を振り返った。
―――怠惰な不品行軍師がにわかにみせた真摯な表情を思い出し、なんともいえぬ思いに更けた。