存分に昼寝を堪能した後、郭嘉は執務室に戻るや一も二も無く曹操に呼ばれた。呼び出しの理由は何となく察しがつく。 
 乗り気でないが、主命とあっては無視するわけにも行かない。と言いつつも無視するときは無視しているが、そこはそれ。今回は応じたほうがよさそうだと判断した。
 そう離れていない曹操の執政室の前に来ると形式ばかりに挨拶し、中へ進んで拱手した。顔をあげれば室には先に荀彧がいた。心なしか表情がどんよりしている。
 こりゃまた殿のアレに違いない、と郭嘉は内心辟易しながら一人ごちた。

「殿、お呼びでしょうか」
「おう、呼んだ呼んだ」

 室の中心で椅子に腰掛けていた曹操は、郭嘉を見るなり嬉しそうに席を立った。

「文若にも予め言ったんだが、お前にも聞いてもらいたくてな。実は明後日の望夜に、関羽を歓迎する宴を開こうかと思っているのだが」
「それ、つい先日もやったじゃないですか」
「はて、然様であったの」

 郭嘉の冷静な突っ込みも、曹操は素知らぬ顔で受け流す。

「まあともかくだな。そこでお主にも考えてもらいたいのは……」
「赤髭殿を陥落させるのに良い策はないか、ですか」
「奉孝、その赤髭はどうかと思うのだが」
「いいじゃないですか赤髭。『赤ら顔』に『美髭』を一言で言い表すのにこんないい表現はないと思いますがね」
「そうか……? というかそれでは赤い髭になってしまうのでは?」
「何やらさりげなく流行っているようですし今更ですよ。っていや、そんなことはともかく」
「そう、そうだ。その関羽の赤心をなんとかこちらに動かす案はないか」
「官位も駄目、金銀財宝も駄目、美女も駄目ときてますからね。欲などで動くような人間ではないと言うことですよ」
「そうなんだよなぁ」

 曹操はしきりに感心したように頷いている。その心意気や天晴れなり、といったところか。
 そこに荀彧が苦々しい口調で言葉を挟んでくる。

「ですから再三申し上げておりましょう。もう諦めた方がよろしいのです。どんなに殿が心を砕こうと、関羽の劉備に対する忠誠は揺ぎようもないのですから」
「いや、どうせ駄目なのならできるところまでやってみたい」

 曹操は俄然と言い張る。
 郭嘉は荀彧と目を合わせ、互いに申し合わせたみたいに嘆息した。
 こうだからこの殿の病気は厄介なのだ。
 郭嘉はもう半ば気の抜けたような薄ら笑いを浮かべながら、投げやりに言った。

「そうですねぇ……赤ら顔の御大将だから、赤兎馬などに乗せてみたら結構ウケるんじゃないですか」

 駄洒落っぽくて、と続けようとして、郭嘉は己の失態に気付いた。しまった、と顔を顰めるが、時すでに遅し。

「それだ!」

 曹操は嬉々として叫んだ。
 冗談のつもりだったのに、本気にしてしまった。
 あーあ、と言わんばかりの顔で荀彧がじっとりとこちらを睨み据えている。郭嘉はしれっと肩を竦めて見せた。
 こうなってはもうなるようにしかならんさ、と小さく呟いた。




 曹司空御自ら春の宴を催すとの由、貴公も是非に参加されたし、と告げにきたのは張遼だった。
 投降して以来、連絡役や使者は彼であることが多かった。恐らく旧友で説得役も果たしたこともあり、関羽が唯一警戒を抱かない相手であったためだろう。
 しかし関羽は困惑気味に眉を寄せた。内心またか、と思ったのである。
 ここのところ何かにつけて曹操は宴を開いては自分を誘う。歓迎してくれる気持ちはありがたいのだが、およそその期待には応えられそうもないので、自分としては申し訳ない気持ちの宴席だった。
 しかし折角の誘いを無下に断るわけにもいかず、関羽はとりあえず承知したと伝えると、身支度を整えた。
 曹操から貰った立派な衣もあるのだが、それらには一切手をつけていない。
 いずれここを去るときが来たらそっくり返すつもりでいた。
 劉備の妻たちにしばしの外出の許しを請い、庭先に繋いでいた馬の背を跨いで宮城を目指した。

「こちらです」

 司空府に着くと、すでに待っていた案内人が回廊を先導をする。
 宴と言うから、いつものように明るい楽の音や笑い声が聞こえてくるものだとばかり思っていたが、予想に反して宮殿内は静かだった。
 しかも案内先もいつもの大広間へ続く柱廊ではなく、もっと奥まった―――宮仕えの者たちの私的な区域へ入っていく。
 はて、と小首を傾げつつ黙って先導の者の背についていくと、やがて衝立で入口を仕切られた間の前で止まった。

「偏将軍殿がお見えになられました」
「然様か、待ちかねておったぞ」

 内側から喜色に満ちた声がし、入れ入れと促されるままに、関羽は一声断りを告げると足を進める。
 衝立を避けて中を覗きこみ、そして瞠目した。
 広間―――といっても幹部官吏級の執務室と面積はさほど変わらないが―――は出入口と反対側が庭院に面しており、今はすべて開け放たれて夜の情緒を晒している。室の中央に席を敷き、中心に置いた酒と杯を囲むように三人の人間が既に腰を落ち着けていた。
 もっと人数の多い形式ばったものを想像していた関羽は、現実の差にあっけにとられる。
 これは宴と言うよりは、むしろ内輪の酒盛りでは。
 曹操は鷹揚たる笑みを浮かべながら、関羽を迎える。

「よく来た、雲長。さぁさ、そこへ座れ」
「は、はぁ……」

 よくみると一つ円座が空いている。どうやらそれが自分の席らしい。

「見ての通りただの酒盛りだ。遠慮せず気楽にせよ」

 他の顔ぶれを見ると、正面には張遼がいた。おそらく曹操の配慮だろう。
 もう一人はこちらに背を向けて座っており、関羽を振り向こうともしないので誰だかわからない。しかし武官にしては細ぎすな身体の線から、文官であろうことは知れた。このような場にわざわざ呼ばれるのだから曹操の謀士の一人であろうし、恐らく面識もあるはずだが、皆似たり寄ったりの出で立ちと体格なので後ろ姿だけでは見極めがつかない。

「たまには月見を兼ねたささやかな酒宴もいいだろうと思ってな。文遠も同席していることだし、今宵は身分問わず存分に世について語り合おうぞ」
「雲長殿。殿もこう仰っておられることだ、いつまでもそんなところで突っ立っておらず座られてはいかがか」

 親しげに張遼が言うのに、ようやく関羽は動き出し、用意された席に両膝を折って坐した。
 曹操と対面する形になり、左の庭院側には張遼がやはり跪坐している。
 そうして関羽は、ようやく右手で先ほどから我関せず酒を呑んでいる人物の顔を見た。そして固まった。

「ああ、雲長はあまり顔を合わせておらんかったかな。一度紹介したと思うが、我が司空軍師祭酒の郭奉孝だ」

 曹操の言葉に、いかにも仕方ないと言わんばかりの仕草でその人物は顔を挙げ関羽を射た。
 若く整った顔立ちに、にやりと人の悪い、しかし同時に人好きする笑みを浮かべる。

「やあ、先だってはどうも」
「いや……」

 二人の遣り取りに、なんだ、と曹操が目を瞬く。

「何だお主ら、すでに交流が?」
「いえ、先日書庫で転寝していたところを偶々見られてしまいましてね」

 あっさりと白状する郭嘉に、関羽はぎょっとする。堂々と職務怠慢を言ってしまって大丈夫なのだろうか。
 しかし関羽の心配を他所に、曹操はといえば怒るどころか苦笑を浮かべた。

「またか。お主な、大概にしておかぬとさすがに長文が気の毒だぞ」

 意外な言葉に別の意味で驚く。
 なんと郭嘉のサボりは公認なようだ。信賞必罰を重んじる曹操とは思えない言葉である。
 そう思えば郭嘉の今の格好もとんでもないものである。曹操の前にも関わらず堂々と片膝を立て安坐しているのだ。目上に対する姿勢ではない上に、相手はそもそも主君である。しかし、自身も両足を組んで坐している曹操はおろか、張遼でさえ注意する気配がない。

「いいんですよ。やるべき時にはちゃんとやってるんで」

 立てた膝に肘をかけながら、その手に持つ酒杯を舐める。

「やるべき時以外にはやらんだけだろうが」

 突っ込むように口を挟んだのは張遼である。

「雲長も見たか? こいつと陳長文の捉迷蔵(おにあそび)は今や司空府の風物詩だそうだ」
「殿、妙なこと吹き込まないで下さいよ」

 ちょっと心外そうに眉を顰める郭嘉を他所に、曹操はからかうように続ける。

「本当のことだろうが。長文が放つ教育的指導はなかなか見ものだしな」
「いや、木簡の束で叩かれると本気で痛いんですが」
「そうされるようなことをしなければいいだけだろう」
「……」

 関羽は始終呆気にとられて会話を聞いていた。
 その表情や様子は、最早主従と言うよりはむしろ悪友同士のような感覚だ。

「雲長殿、一献どうぞ」
「む、かたじけない」

 張遼が酒瓶を傾けるのに、礼を言って杯を差し出す。一気に飲み干し、なんとか平常心を取り戻そうとする。
 何とも奇妙な顔ぶれであった。このささやすぎる宴席もそうだが、この人選をした曹操の意図もよく分からない。
 しかし最初は気まずい席でも、酒が進むと次第に緊張がほぐれ、口舌も柔らかくなってくる。
 話題は様々だった。関羽は張遼と互いの武勇を褒め称え合い、曹操の見識の広さに感嘆した。対し、素面顔の郭嘉は意外にもあまり喋らず、しばしば曹操の言葉に相槌を返すぐらいだったが、時折出る鋭い見解に智謀の一端を見え隠れさせていた。
 関羽は曹操と郭嘉を眺める。見ていて改めて思うが、この二人は実に仲が良い。主従ならば当たり前のことであろうが、それ以上に言葉なくしても互いに通じあう絆を持っているようだった。曹操は郭嘉に対し全幅の信頼をおきつつ依倚しているようなところがあり、郭嘉は郭嘉でそんな曹操へ同じだけの信頼を返しながら、支えるような雰囲気で笑っている。年の差すら感じさせない何かがそこにはあった。
 同じ絶対の信頼でも、自分や張飛と長兄である劉備との関係ともまた違う。劉備は基本磊落で隠し事もなくあけっぴろげだが、その反面、表面を取り繕ったような壁を感じる時がある。全てを曝け出さしてはおらず、裡に秘めたものがある。あるいは、よき相談相手である簡雍あたりとは踏み込んだ会話もあるのかもしれないが。
 不思議な思いと僅かな羨望を交えて、関羽は言葉遊びのような応酬を楽しんでいる主従を見ていた。
 時はあっという間に経ち、月夜は沈々と更けていく。
 やにわに曹操が顔をあげ、口を開いた。

「そういえば、大切なことを忘れておった」

 酒に顔を赤らめながら張遼が何ですかと問う。

「雲長にいいものをやろうと思ってな。そもそもお主を呼んだのはその目的のためだった」
「私にですか?」

 急に酔いが冷める。「またか」という思いが顔に出ぬように訝った関羽に曹操は頷くと、人を呼んだ。間をおかず一人の将兵が入ってくる。
 彼に何か耳打ちすると、将兵は二つ返事で一礼するやいなやさっと踵を返してどこぞへかと駆け去って行く。

「一体何なのですか」
「まあ、今に分かる」

 悪戯気に含み笑う曹操に疑問符を浮かべながら、関羽は鬱々としながら言われたとおり待った。
 しばらく経って、今度は何故か庭院から先ほどの将兵が現れ、揖拝した。

「どうした、連れて参ったのではないのか」
「恐れながら申し上げます。今宵は妙に気が立っているらしく、いつも以上の暴れように誰も手がつけられぬ状態でして……面目もございません」

 申し訳なさそうに言上する兵卒を見やり、曹操はこめかみに手を当て嘆息する。

「さて、それは弱ったな」

 『暴れる』? 何かの生き物だろうか。
 関羽は話の筋からそう推測した。曹操が困り果てたように唸っている。よほど凶暴な生き物なのだろうか。よもや虎などではなかろうな、と若干心配になってくる。ときめかないと言えば嘘になるが、虎など下賜されても劉備の元へは連れていけぬし困る。

「縄をかけ、力自慢の者らに引かせてみましょうか」
「それは―――
「その必要はない。俺が見てみよう」

 将兵の提案に張遼が僅かに表情を曇らせたところで、それまで黙って様子を窺っていた郭嘉が不意に口を開いた。

「奉孝?」

 ぎょっとしたように曹操が寵臣の顔を凝視した。

「というわけで殿、まことに失礼ながらちょっと席を外させて頂きます」

 そう微笑み、拱手して立ち上がる郭嘉を曹操は慌てて呼び止めた。

「待て。お主が行くのか?」
「まあまあ、お任せください」

 不遜なほど自信たっぷりに笑い、失礼、と一断りしたかと思うと、郭嘉はずんずんと室を過ぎり、よっとばかりに庭院へ飛び降りた。
 状況が分かっていない関羽のみは目を白黒させ、張遼に視線を送るが、彼も仔細は聞いていないのか肩を竦めて首を振る。そうこうするうちに郭嘉は戸惑う兵を促してさっさと庭の向こうへ消えてしまった。曹操が遠く去る明りを見送りつつ、「全く、あやつは何を考えているのやら」と首を傾けている。
 関羽は、およそ腕っぷしというものに全く縁がなさそうな細い文官に果たしてそんな猛獣をつれてこれるだけの力があるのだろうか、と別の意味で不安を抱いた。脳裏にはすっかり虎の姿が描かれている。
 それからしばらくしてからのこと。何ともいえぬぎこちなさの中、三人無言で酒精をちびりちびりとしていると、遠くから嘶きが聞こえた。
 すると、郭嘉だけが夜闇の中からひょっこりと現れた。その手には一頭の馬が牽かれている。

「こ、これは」

 関羽が思わず腰を浮かせ呻く。あれは、と張遼も同時に目を見開いた。
 郭嘉に伴われて姿を現したのは、月明かりの下でも燃え立たんばかりの赤い体躯。
 一夜にして千里を駆けると謳われた、あの赤兎馬だった。

「満月の晩は特に気が荒くなるようなんですよ、こいつは」

 かの主が死んだ日の夜も望夜でしたからね―――郭嘉は事も無げに言い、つんとそっぽを向いている赤兎馬の鼻先を優しく撫でた。その様子からはとてもではないが、そんなに気性の激しい馬のようには思えない。しかし赤兎の気位の高さと気難しさは有名だ。およそ己が許す以外の者には決して馬体を触らせようとしないことも、噂で聞いていた。
 関羽も呂布がこの馬に乗り戦場を縦横無尽に駆けていた雄姿を知っている。武人の端くれとして、一度でいいから駆ってみたいと何度か願ったものだが。
 見ればみるほど立ち姿も立派なこの優駿は、紛れもなくあの呂布の赤兎馬に他ならなかった。だが同時に疑問に思う。屈強な兵士たちですら宥められなかった暴れ馬を、この非力な男はどのような妙法を使って手懐けたのだろうか。
 そんな疑問を他所に、曹操は鷹揚に関羽を促した。
 関羽は自らも庭院へ降りると、赤兎馬に近づいた。近くで見れば見るほど、更に素晴らしい馬だった。手を伸ばす。鼻を撫で、鬣を梳く。
 赤兎馬は、不思議と大人しくされるがままになっていた。
 郭嘉から手綱を借り受けると、そのまま鞍に足を掛けふわりと跨ぐ。それでも赤兎馬は暴れることも無く、むしろ嬉しげに鼻を鳴らした。どうやら、赤兎馬はこの乗り手を主と認めたらしい。

「どうだ?」
「いや、実に素晴らしい」

 曹操の問いに、関羽は感極まって声を震わせた。

「お主ほどの者ともなれば、そんじょそこらの馬ではとても持つまい」
「はい。私はご覧の通りこの巨体と重貫ですので、いつも馬の方が先にへたばってしまうのです」
「しかし赤兎馬ならばその心配もあるまいて。そやつをお主に進呈しよう」
「まことですか?」

 思いもよらぬ言葉に、関羽は驚き入って曹操を見た。

「ああ。そやつもお主を気に入ったようだ。うちにおっても厩の肥やしにしかならぬが、雲長ならば乗りこなせよう。宝は持つべき者が持ってこそ真価を発揮する」

 関羽は降り、その場で深く拱手を掲げた。

「有り難き幸せ、曹公のご厚恩に感謝いたします」
「だが、それにしても面白い男だな」
「は?」
「お主は財宝にも美女にも興味を示さなかったが、よもや馬一匹にそんなに喜ぶとは」
「それは嬉しいですとも」

 関羽は晴れ晴れとして言った。

「一夜にして千里を走るこの馬ならば、劉皇叔の居場所が分かり次第、どこであろうともすぐお側に馳せ参ずることができますからな」

 喜色満面の言葉に、曹操は内心でしまったと声を上げた。相手を懐柔するつもりが、墓穴を掘ってしまった。
 郭嘉はしれっとあらぬ方を向いている。張遼も何やら複雑そうに苦笑いしていた。
 やる、と言ってしまったものを、今更取り下げるわけには行かない。曹操は引き攣った笑みを浮かべながら、途方にくれた。




 宴も酣を過ぎてお開きになり、関羽は赤兎馬を伴って城を辞した。張遼もまた、関羽に続くように自分の館への帰路に立つ。
 張遼は御前を辞す前にふと郭嘉へ視線を送ってきたが、郭嘉はそれに対し無言で目を伏せただけだった。
 そして今、郭嘉は広間に残り、曹操とともに残り酒をちびちびと嘗めていた。
 はぁ、と曹操が長尾の重たい溜息をつく。

「仕損じた……」

 心の底から哀しげに肩を落とす主君に、郭嘉は無感動に言う。

「仕方ないですよ。これもまた定め」
「お前、実はこうなること分かっておっただろう」

 じろりと上目遣いにねめつけられ、郭嘉は素知らぬ顔で視線を泳がせた。
 内心では、だから言わんこっちゃない、と思っていた。曹操が赤兎馬を進呈すると決めてから、この流れはあらかた予想がついていた。
 そう、分かっていたのだ。赤兎馬が関羽を新しい主に選ぶだろうことも、今宵が満月で普段世話をしている兵では赤兎馬を御しきれないだろうことも、そして、赤兎馬に認められているわけではないにしても彼らよりは気を許されている自分なら、宥めすかして連れてくることができようとも。
 だから張遼の物言いた気な視線に、ただ瞑目することで答えたのだ。
 だが、それを知りながら献策の対価にこの宴席へ同席することを願い出たのは郭嘉自身だった。
 その理由はただ一つしかない。
 郭嘉は杯を傾けた。

「そもそもの失敗の原因は、冗談を本気にした殿にあります。自業自得です」
「そう言うがなお主、あの時はこれ以上もない妙案に思えたのだ」
「いいじゃないですか。ご自分でも仰っていたように、どうせうちの厩にいても宝の持ち腐れだったんですから」
「だが、貰って喜ぶ理由があれでは」

 悄然とする主君に対し、郭嘉はおかしそうに笑んだ。

「仕方ありませんよ。それだけ関羽の劉備に対する忠誠心が強いと言うことでしょう。最初から分かっていたことでは?」

 はぁと再び曹操は嘆息する。それからふと目を上げ、

「そういえばお主は儂が雲長を厚遇するのにあまりとやかく言わなかったな」
「言ったところでどうせ殿は聞く耳持たないじゃないですか」

 酒を呷りしゃあしゃあと言った。むうと曹操は唸る。
 まあ、と郭嘉は微笑を浮かべ、

「才ある者をこよなく愛するのは殿の美徳ですがね」
「奉孝」
「ただ今回は縁が無かった。それだけですよ」
「しかし儂はなぁ」

 まだ未練がましく言い募る主君へ、殿、とのんびり呼びかける。

「人間っていうのは、なかなか自分の思い通りにはならないものです。だからこそ面白い」

 郭嘉は杯を片手に、開け放った夜の庭院へ視線を移す。

「たとえばですよ。もし私が劉備の捕虜となり、それはそれは手厚い扱いを受けて、しかも絶世の美女たちやら秘伝の美酒やら国蔵ものの書物やらを惜しみなく与えられたとして、殿は私が劉備に降ると思いますか?」
「お主に限って儂を裏切ることはないな」

 郭嘉のふざけるような言い振りに、普段ならば「お主ならば美女と美酒あたりで心変わりしかねん」と揶揄を返すところだが、曹操には軽口の裏にある真摯な響きが分かった。だから偽りない心で応える。
 自信満々に即答した曹操を仰ぎ、郭嘉は嬉し気に目を細めた。

「つまりはそういうことですよ。劉備が私を落とそうとしても到底叶わぬように、関羽もまた劉備に対する忠誠心に揺らぎはないのです。関羽がそういう者だからこそ殿もそこまで心を砕くのでしょう?」

 含み言い聞かせるような郭嘉の言葉に、曹操はふと顔つきを改めた。

「……奉孝、お主まさかそのことをわざわざ気づかすために」
「さて」

 郭嘉はただ笑うだけだ。
 曹操はやれやれと天を仰いだ。それからふっと口端を上げる。

「仕方ない。今日はフラれ酒だ。こうなったらお主にも存分に付き合ってもらうぞ」
「御意」

 恭しく拱手して、郭嘉は酒杯を掲げた。




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