「やれやれ、皇叔殿にもほとほと困ったものよな」

 壇上の椅子に腰掛け、今を時めく大司空曹操は苦笑を浮かべた。
 朝議の間の中心に、道を作る形で両岸にずらりと並んだ幕僚たちの顔を見回し、「何か意見のある者は申してみよ」と言った。




 建安五(200)年、太医令吉本による曹操毒殺未遂から、車騎将軍董承らの密謀が明るみに出た。実際にこれらの企みが発覚する切っ掛けとなったは、吉本の遠戚にあたる吉先が曹操の身辺を窺った、つまり暗殺の機会を窺っていたとして、曹操の護衛を勤める許褚に斬り殺された事件からであった。
 吉先の身元から、皇族の専属侍医である吉本、そして最近その吉本が頻繁に足を運んでいた王子服、呉子蘭、种輯、呉碩の名が芋づる式に挙がり、そして執金吾府に運び込まれた「国舅に密謀あり」という密告によってその全貌が暴かれるに至った。国舅というのは董承のことである。董承の娘は時の皇帝献帝の貴妃であった。密告してきたのは董承の家に下仕えする秦慶童という若者で、執金吾府に在していた賈詡が裏で調査した結果、前述の五人に加え、董承、馬騰、劉備、そしてついに献帝の関連が裏付けられたのだった。

 というようなことを、郭嘉は予め賈詡から聞き知っていた。
 というのもこの二人、何故だかよく顔を合わせる。別に示し合わせているわけでもないのに、郭嘉がよくサボり場にしている宮殿裏の回廊に賈詡もまたよく訪れる。たまたま息抜きの場所が同じだったというだけであるが、以来二人はなんとなく井戸端ならぬ宮殿裏の世間話仲間になっている。
 賈詡は冷徹かつ豪胆な策を立てるわり、平素は自己主張をしない男である。人とあまり馴れ合う性分ではないのか、無口で親しい友人もいない。同僚からもそこはかとなく敬遠されている節があるし、確かに見た目からしていかにも地味で陰がある。
 郭嘉自身、朝議や公場ではあまり話さない。というか向こうが近づいてこない。しかし時折、郭嘉がその回廊へ行くと先客としており、そう言う時は互いにポツポツと言葉少なながら情報を交換する。ただ大の男二人が腰を並べて何やらボソボソと真顔で話し込んでいる光景は、傍から見ても一見仲がいいのか悪いのかよく分からない不思議な関係だった。
 だが郭嘉は賈詡のことが嫌いではなかった。同僚の中には、曹操の長子の仇であるとか、せこい手を考えるとかで嫌悪する者もいたが、寛大な措置のもと投降した人間なんていうのはザラだし、せこい手というのは言い換えれば人が極めて引っ掛かりやすい効果的な策ということだ。特に賈詡が賊に命を取られかけた時、冷静に大胆なハッタリをかまして難を逃れたという逸話は、口笛を吹いて感嘆したものだった。そういう点で郭嘉は賈詡という人物を高く評価していたし、賈詡もまた若輩ながら郭嘉の傑出した才に一目置いていた。彼らの間にはある種の同士意識があり、気が合っているといえた。

 とりあえず一連の密謀云々も、そういった経路で耳に入っていたわけだが、そのとき賈詡がぽつりと呟いた「殿は、献帝が関わっていると知ったら董貴妃をどうするだろうな」という科白には、郭嘉はあえて何も言わずのままであった。
 暗殺の謀が顕かになって、吉本は自ら命を絶ち他五人は当然処刑された。密謀が献帝の勅命によるものであったために、董承の娘で献帝の御子を御腹に孕んでいた董貴妃にまで誄が及び、追放の憂き目にあうこととなった。
 董貴妃が絹衣を剥がれ城外へ追放されたと聞いた時、郭嘉はやはりな、と思った。
 もし献帝が曹操に対し敢然と貴妃を庇うか、もしくは我が身と帝位さえ捨てて貴妃を放さないほどの気概を見せれば、曹操は献帝の御意に従っただろう。名ばかりとはいえ皇帝は皇帝である。献帝が我こそが国の頂点に座す者という誇りのもと「我が貴妃に手を出してはならぬ」と厳命すれば、臣下である曹操は世間体上逆らうことはできないし、また報復で献帝を暗殺なり廃位するという恐れも、今の曹操にとってはただ不利益につながるだけなのでありえない。
 ところが、献帝は情けを請うたものの、聞き入られないと分かると、我が身の無力を嘆いて貴妃へ「怨まないでくれ」と言ったという。

 その不甲斐のなさに、曹操はどれほどがっかりしたことだろう―――郭嘉は壇上に座する曹操へ目を向けた。
 さもとりあえず、暗殺計画の首謀者と、血の連名をしていた者たちは殆ど処分した。しかし残る二人―――劉備は徐州におり、西涼太守である馬騰もいまなお自領に籠っている。密謀の片棒をついだ者を放っておくわけにはいかない。
 この二人をどうするか。議題はそこだった。
 主君の声に、最初に進言したのは、曹操の片腕である荀彧だった。

「西涼の馬騰に関しては、今は処分を急くこともないと存じます。恐らく董承らの一件はもう伝わっているでしょうから、しばらくは警戒してこちらには近づこうとしないはずです。いずれ機を見て、ほとぼりが冷めた頃に何らかの口実をもって許へ誘き寄せ、始末なさるのがよろしいでしょう」
 これに一同は賛成し、曹操も頷いた。

「そうするほかあるまいな―――では徐州の劉備はどうするか」
「恐れながら」

 次に前へ出たのは程昱だった。

「軽々に兵を出すのは危険です。殿は現在北の袁紹と対峙しています。確かに今の劉備であれば殿が主力を持ってこれを征伐することは容易ですが、徐州へ遠征している隙に空の許都を狙って袁紹が黄河を渡り南下してくれば厄介なことになりましょう。何といっても目下最大の敵は袁紹なのですから、取るに足らぬ雑草は後に回しても禍根はなかろうかと存じます」

 これも同意見の者が多数だった。曹操は隣に立つ荀彧へ、

「文若はどう思う」
「私も程昱どのの意見に賛成です。今は袁紹に全力を向け、雑草の駆除はそれからでも遅くはないかと」
「ふむ……」

 曹操は一声思案気に唸り、それから目を巡らした。
 多数並び立つ官の中、ただ一人気のなさそうにしていた郭嘉へと視線を当てる。
 図らずも目が合ってしまった郭嘉は、げっと心の中で零した。曹操の含みある笑いに何を意図しているか察してしまう。

「奉孝、お前はどうだ?」

 思わず投げやりになりかける態度をなけなしの理性で制しながら、話題をふられた郭嘉は渋々と袖を合わせて拱手した。

「恐れながら主公に申し上げますれば、劉備を放置するのは反対です」

 ざわ、と幕僚たちにどよめきが走る。
 郭嘉は構わず続けた。

「むしろ今は徐州を攻むるべきでしょう」

 ほう、と曹操は面白そうに口元を歪めた。この茶番を楽しんでいるな、といっそ恨みがましい気持ちになる。

「皆は背後を袁紹に獲られるのではないかと申しておるが?」
「袁紹は優柔不断な上、機を見る眼に欠けた男です。殿が許都を空しくしても、すぐさま攻め込んでくるということはまずありません。むしろ今ここで叩いておくべきなのは劉備です。確かに袁紹は強大な兵力を持ち、目下最大の勢力誇っていますが、対してそれを統治する人物の器は小さい。比べて劉備は、兵力も勢力も微々たるものですが、相当な傑物です。下手に野放しにして力をつけられてはそれこそ後々の禍根となりましょう」

 郭嘉は程昱をちらりと見、不敵に微笑した。

「雑草というものは芽の内に摘んでおかねば、根を張って増殖してからでは取り除くのが非常に厄介なのですよ」

 程昱はフン、と半眼の一瞥を返してくるのみで何も言わなかった。彼とて郭嘉の言葉の道理を分からぬでもないし、己よりはるかに年下の謀士の読みの鋭さは認めている。
 曹操は膝を打った。

「まさにその通りだ。皆の者、この儀は徐州への進軍に決議いたす。ほかに異論はあるか」

 朝議の間、曹操の前に参列する幕僚たちは、一様に拱手を掲げた。




 掲げた両袖を前に頭を垂れる下で、郭嘉はやれやれと溜息をついた。
 曹操は端から劉備を攻める気でいたに違いない。つまり郭嘉の考えと同じことを考えていたわけである。それをあえて言わず各々に意見を求めたのは、己の意見を押し付けるのではなく様々の意見を広く聞くという意味合いもあるが、それらの意見を覆すことで結論により強みを持たせるためだ。
 そしてわざわざその結論を郭嘉に言わせたのは、郭嘉が自分と同じ考えを持っていると確信しており、自分が言うよりも客観性が増すため。曹操は時折こうして、郭嘉や荀彧らを試して遊ぶ。己と同等の智謀を持つ人物との駆け引きを楽しんでいるのだ。己の意に則していることに満足し、同時に自分の意見と同じであることをあえて確かめることで更に自信を確証しようとする。或いは、自分の意見の更に上を行く考えを聞いて、目が覚めるような思いをするのを楽しむのであった。
 朝議が滞りなく終了し、皆が広間から退出するなかで、回廊を行く郭嘉の背を追う者があった。

「奉孝殿!」

 ん?と振り返る。あちらから小走りに近寄って来るのは陳羣だった。

「長文」

 追いついた陳羣に一声かけると、陳羣もやや息切れ気味に挨拶を返してきた。

「珍しいではないですか、貴方が朝議にまともに出席するとは」

 空から槍でも降ってくるんじゃないですか、と欄干から身体を乗り出して空を覗く。今日は気持ちのいいくらい快晴だった。
 郭嘉は遅刻常習犯だ。朝議に寝坊してくるだけでなく、重役出勤もままある。朝議の開始から終わりまで顔を見せていることは滅多にないといってもいい。それが今日は、初めからちゃんといた。途中何度か眠たそうに欠伸をしていたものの、これは普段ではなかなかお目にかかれぬ現象である。
 同じ司空府から先だって司徒府に配属された陳羣は、いわば郭嘉のお目付け役だった。遅刻だけでなく、郭嘉は仕事中によく抜け出す。サボる。その度に追いかけては連れ戻し、また酒や女にだらしない郭嘉の私生活の乱れを口を酸っぱくして注意するなど、もはや世話係のような有り様になっている。執務の場が変わっても遠路はるばるやってきて説教をするという徹底ぶりだ。辟易した郭嘉が一度「分かったよ、爺や」と言ったら烈火のごとく怒られた。
 本来は、頭の堅すぎるきらいのある陳羣と、逆に緩みっぱなしの郭嘉を一緒にすることで、巧い具合に調和しようという曹操の思惑があったのだが、色んな意味で別の効果を生んだ。喧嘩するほど仲がいいを地で行くこの二人の掛け合いは、すでに日常茶飯事の光景であり、司空府の名物にさえなっていた。
 そんな周りの認識を不服に思いながらも、私的な場においては陳羣は郭嘉とは気の置けない友人同士である。仲良しといわれると陳羣は非常に不愉快そうな顔をするが、第三者から見ると十分仲が良い。陳羣の遠慮のなさは、ある意味この関係にからくるものでもある。

「おいおい、そりゃないだろう」

 陳羣のあんまりな言動に、郭嘉は苦笑しつつ抗議した。対する陳羣はけろりと、

「何せ普段ならまず絶対有り得ないんで」
「いつも口煩く朝議に出ろって言ってるくせに、出たら出たで酷い言い草」
「いや、こうも素直に言うとおりにされると逆に何か起こりそうで恐ろしい気が……」
「お前ね……」

 本気で気味悪がっている陳羣を半眼で睨み、郭嘉は長い溜息をついた。

「今朝はなーんか胸騒ぎがしてな」
「胸騒ぎ?」

 んー、と郭嘉は曖昧に返事をする。

「長文じゃないけど、何か起きそうな気がするんだよ。こりゃひと嵐来るかもな」

 やっぱり?と言って陳羣は再び空を見上げる。抜けるような青空からは嵐が来そうな気配は全く見られない。
 そっちの嵐じゃないんだけど、とはあえて口に出して言わず、ふと郭嘉は陳羣の顔を見た。

(そういやこいつ、たしか劉備の許からこっちに流れてきたんだっけ)

 実に珍しいことではある。その他の勢力、例えば袁紹の幕下から抜け出して来る人間は多いが、劉備はそれでなくても人望があるし、配下からの忠誠心も篤い。そのような傑物の下から、よりにもよって一番の宿敵であろう曹操の陣営へ鞍替えするというのは、相当変わっていた。
 どこか不思議にまじまじ見つめてくる郭嘉に、陳羣は怪訝そうに眉を顰めた。

「私の顔に何か?」
「いや。そういやお前、なんで劉玄徳を見限ってきたんだろうと思って」

 陳羣の顔が、今度は至極嫌そうに顰められた。ああ、と投げやりに唸る。

「話しませんでしたっけ? 私、ああいう人間嫌いなんですよ」
「はぁ?」
「だってあの人、偽善者なんですもん。果ては私が進言したことを聞き入れずに敗北したし」
「……なんか、後半の方が主な理由っぽいが」
「違います」

 陳羣は憤然と身を乗り出して言い張った。

「そりゃあ確かに人は好いと思いますよ? でも計算しているところもあるし、中途半端に人徳ぶるから名を惜しんで出るべきとこで出ないし。ならば、悪名轟かせようとも堂々と道を貫こうとする殿の方がずっと潔いと思ったまでです」
「は、はぁ」

 鬼気迫る剣幕でまくし立てる陳羣に、両手で牽制しながらとりあえず相槌を打つ。向こうが力んで前のめりになるたびに少しずつ後ろへ押され、郭嘉は心なし汗を浮かべた。

「うん、とりあえず分かった。お前の主張は分かったから」

 どうどう、と宥めながら郭嘉は引き攣った笑いを浮かべる。

「要するにお前は劉備よりも殿の方が度量があると思ったわけだな」
「そういうことです」
「しかも曹操陣営には古馴染みで憧れの荀令君もいたしな」
「まさにそのとおり……って何言わせてんですかあんたは」

 思わず勢いで頷きかけ、一転して憤る陳羣を背後に、郭嘉はすたこらさっさとその場を逃げ出した。




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【参考図書】三好徹「興亡三国志」
なかなか読みやすく、しかも状況解釈や心理描写などがとても丁寧で個人的に好き。




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