下邳の夜は静かだった。
 朔であるためか、雲のない空には無数の瞬きがよりはっきり見える。天文を生業とする学者らにとっては、星図を読むのにさぞかし最適な夜空模様であることだろう。
 闇の中点々と灯る篝火と、立ち並ぶ幕舎の合間をすりぬけ、張遼は闇色の昊を仰いだ。自分には天文など解する知も識もないから、星を見たところで皆同じに見えて仕様がない。そんな漠然としたものよりも、現実に目の前にある事柄の方が、自分にとってよっぽど重要だった。




 郭嘉の建言どおり、曹操軍は許都を発して徐州に進軍した。
 そのころ劉備は義弟の張飛とともに小沛の城にあり、もう一人の義弟関羽は劉備の家族を守って下邳の城にいた。曹操軍がまず目指したのは劉備のいる小沛のほうである。
 劉備は曹操が許都を留守にしてこちらへ向かったという報告を受けたとき、天与の好機として、河北鄴にいる袁紹へと使いを出した。この機を狙って袁紹が許都に攻め込めば、劉備と呼応して前後挟み撃ちにすることができる。そうすれば曹操はその根拠を失うことになり、また許都にいる帝を奪うことで、袁紹は曹操に代わり勅命を拝して天下へ号令できる―――
 劉備は早速孫乾を使者に立ててこれを説き、万に一度巡ってきたこの機を逃してはならない、いまこそ宿願を果たす時であり、姦賊の手中より主上をお救い申し上げて漢皇室を復興させるべきだと訴えた。
 ところが当の袁紹はというと、末の愛息子が病にかかっており、自身も憔悴しきって、可愛い我が子が病で苦しんでいる時に天下の狩りをする気にはとてもなれぬ、と使者を送り返してしまった。子供の病は単なる口実で、今は動く気がないという意思にも思えた。
 これを聞いた劉備は舌打ちを抑えながらも、こうなっては自分たちの力で切り抜けるしかない、と腹をくくる。

 多くの者は小沛を捨てて徐州城へと走り籠城する策を推した。20万の大軍相手に、地の利を背景にするならば、野戦に持ち込むよりも堅牢な徐州城に籠もりある期間持ち耐えれば、遠征軍である敵方は次第に兵糧に困り士気も低下する。曹操自身、そう長く許都を開けておくこともできぬだろうし、その頃には袁紹の愛児の病も回復しているだろう、という意見が多数を占めた。
 ところがここで強気な発言をした者がいた。劉備の義弟張飛である。
 彼は、自分が予め山野に潜み、敵が遠路で疲れているところを狙って夜襲をかけ、同時に劉備達が城から出撃して挟み打ちにし、相手方の先方が混乱し総崩れになったところで、あとは小沛へ籠もって下邳の関羽と呼応し相攻撃すれば勝利は間違いない、曹操恐るるに足らぬ、と主張した。
 前回の張飛の頭を使った戦い振りにすっかり見直していた劉備はこの策を採用することにした。

 ところが、そんなことは曹軍の誇る智嚢の前には子供だましであった。

「……なぁ奉孝」

 曹操が斜め後ろに立つ参謀へと問い掛ける。

「お前はあれをどう見る?」
「どう見るも何も、どーみてもあれは罠でしょうが」

 半ば呆れたように、郭嘉は主君に答えた。だよなぁ、と曹操もぼやく。
 明らかに籠城に適しているのは徐州城の方であろうに、わざわざ小城の小沛に劉備たちが籠もっていることから、謀ありと判断した曹操たちは、その策を逆手にとることにし、夜を待った。
 ある意味では予想外のことではあった。頭のいい劉備のことだから、必ず攻めるに難い徐州城で篭城するだろうと踏んでその対策を予め講じていた郭嘉は、あまりの稚拙な策にむしろ呆れ返っていた。劉備を羊皮を被った虎と警戒していたが、一瞬そんな自分すら疑いたくなったほどだ。
 尤も、相手が「どうぞお召し上がりください」と言うのなら、こちらにとっては願ってもない。
 結局、夜営する素振りに騙され、のこのこと夜襲をかけてきた張飛は、逆に包囲されて命からがら逃げ出し、張飛の合図を受けて城門から出撃した劉備も、あっさり曹軍の術中にはまって敗走した。小沛城は落ち、その先の徐州城を守っていた陳登は抵抗する事無く開城したのだった。

 しかし問題は、下邳である。攻めるに難く守るに易い下邳城には、猛将と名高い関羽が守っている。
 これを攻めるに当たり、諸将は大変困った。というのが、指令を下すべき総大将曹操のせいである。
 病的な人材収集家の曹操は、関羽の武勇に惚れこんでいた。なんとしても生きて投降させたい、と言ってきたのだ。殺すつもりで攻めるならば策も浮かぼうが、生け捕りとなると、特に関羽のような義に堅く鬼神のごとく強い男は厄介である。

 そんななか、程昱が一つの案を出した。
 曰く、「ただ挑発したところで関羽は決して城より出てきますまい。城には関羽のほか、劉備の二夫人がおります。そこで関羽に『お前が城に籠もっているのは、美女と名高い劉備の妻君を独り占めする魂胆からであろう』と侮辱するのです。忠義に厚い関羽のこと、必ずや打って出ましょう。そのまま一騎打ちに持ち込み、機を見てこちらが逃げ出すふりをします。当然奴は追ってくるでしょうから、できるだけ遠くまで引きつけ、その隙に城を一気に陥落して二夫人を人質にとれば、関羽は身動きが取れなくなるでしょう。さすればあとは思いのままです」

 曹操は然りとしてこの策をとった。罵倒役を買って出たのは夏侯惇である。果たして程昱の進言どおり、侮辱を浴びせられた関羽は怒り身頭に達し、まんまと城外へおびき出された。そうして城から火煙が出ていることに気付いたときには、策に嵌められたことを知り、歯噛みする思いで敗走するに至った。
 こうして関羽は、義兄の夫人達をまんまと敵方の手中に捕らえられてしまった不甲斐なさを嘆き、かくなる上はこの雪辱と不義不忠の儀は死を以ってあがなわん、と近くの岩陰に潜み、夜が明けてから単騎決死の覚悟で曹軍陣営へ乗り込む決意をしたのであった。




 張遼は、天を仰いでいた首を今度は地へと落とし、長々と溜息を吐いた。
 曹操は関羽を殺さずなんとか投降させようとしているが、義に厚い関羽のことだ、それはかなり難しいだろう。恐らく彼は死を覚悟で明日単騎斬り込んでくる、と確信していた。いくら一騎当千の猛将といえども、20万の軍勢には多勢に無勢である。張遼の気持ちとしては、彼をここで死なせたくはなかった。
 呂布の陣営にいた時分から張遼は関雲長という男を深く尊敬していた。その気持ちがあちらにも通じたのか、以来そこそこ友人としてやってきたつもりだ。呂布が曹操に捕らえられた際も、運命を共にする決意であった張遼を説得し、曹操へ助命を歎願したのは関羽だった。
 朋友として、今こそその借りと恩義に報いなければと思うのだが、とんといい方法が思いつかない。元来、策謀を巡らすことには向いていないのだ。頭は悪くはないとは思うのだが、腕一本でここまでやってきただけに、今更文官の真似事をする気にもなれなかった。生きていく上、そして戦をする上でのある程度の知識があればそれでいいと思っているから、書物なども殆ど読まない。
 一つ漠然としたものはあるのだ。関羽の義の堅さに逆手にとって何とか訴えられないか、というのである。
 しかし結局何も思い浮かばず、かくなる上はと、こういうことに関し頭が切れて唯一相談できそうな者のもとへ向かっているわけである。
 一般兵たちは天幕一纏まりで使うが、諸将の身分ならば一人一幕あてがわれる。そして、ある程度の位の者達の幕舎は、特定の場所に寄せ集まっている。
 張遼は目的の幕舎を捜し当てると、やや忍び足気味に近寄った。隙間から微かに明かりが漏れている。入口の前に立ち、幕の外からそっと小さく声をかける。

「奉孝。起きているか?」

 数拍置いて内側から身じろぐ気配がした。

「どちら様で?」
「俺だ。張遼だ」
「なんだ文遠殿か」

 最初とはころりと転じて砕けた声音に変わる。

「入ってもいいか」

 間をおかず、どうぞ、という返事が返ってきたので、張遼は幕の端に手をかけ中を覗き込んだ。
 幕内にいた郭嘉は昼よりも幾分楽な格好になっていた。といってもここは戦場であるから、いつでもすぐ動けるよう、普段の官服の一番下に着る単袍姿になるのがせいぜいだが。どうやら寝支度をしているところだったらしい。
 こそこそといった調子で入ってきた張遼を振り返り、郭嘉は唇を薄く引き人好きする微笑を浮かべた。

「よう、張将軍。どうしたこんな時間に」
「すまんな。寝るところだったか?」
「いや、つい今戻って来たところさ。丁度よかったな」
「『戻って来た』?」

 そんなに軍議が長引いたのだろうか。ふと見れば確かに郭嘉は生成りの単袍の上に一枚羽織っている。

「出ていたのか?」
「ああ。今宵は星がよく見えるからな。空を観ていた」

 怪訝そうな張遼にこともなげにそう答えると、簡易の牀台に腰掛けた。
 張遼もまた、幕舎の地床に敷かれた莚の上にどっかりと腰を下ろして両足を組んだ。このあたりは気心知れた者同士、特に遠慮もない。

「何か分かったのか?」

 空を観ていたということは、何かしらの天兆でも見出したのだろうか。
 郭嘉は少し逡巡したのち、

「そうだな……ま、近々ちょっとした『嵐』がくるかもな」
「嵐?」
「ああ。それも赤くてとびっきり厄介なやつ」
「赤?」

 よく分からないながらも、張遼は感心したように唸る。自分にはすべて同じにしか見えない文様でも、しかるべき者が見れば情報の宝庫となりえるのだろう。
 それで?と曹軍随一の軍師は改めて地上に座る張遼を見下ろした。

「わざわざこんな夜更けに訪ねてくるってことは、急ぎの話があるんだろう?」
「ああ……実は少々相談したいことがあってな」

 いやに歯切れの悪い張遼の態度に、郭嘉は面白そうに目を細めると、「ははぁ」と口元をにやりと歪めた。

「美髭公のことだな」

 張遼は言葉を出す寸前で詰まった。美髭公とは、関羽の髭があまりにも素晴らしいことから、周りの人々がそれを賞賛してつくった関羽の呼称である。
 何故分かったのだろうと不思議そうに顔を上げると、牀台に座る人物はからかうように言った。

「あんた分かりやすいからな。そのツラ見りゃすぐ分かるよ」
「そんなに顔に出ているのか……」

 思わず顔を抑える。そういえば前にもそんなことを言われた気がする。
 郭嘉は組んだ足の上に頬杖をついたまま、そこはかとなく意気消沈している将軍の頭を眺め、どうでもよさそうに続ける。

「どうせ何とか説き伏せる法でもないか訊きに来たんだろ」
「まさにその通りだ」
「しかし、何でまた俺んとこを選んだんだかね。他にもいるだろう、仲徳殿とかさあ」

 明らかに面倒臭がって他人に押し付けようとしている口ぶりだった。

「お前以外思いつかなかったのだ。その、他の者には話しづらくてな……皆、雲長殿を生かすことに良くは思ってないだろう?」

 まぁなー、と郭嘉は天井を仰ぐ。

「それで、俺に白羽の矢が立ったと」
「そういうことだ。論旨になりそうなものはあるんだが、なかなかそれが説得力のある流れにまとまらなくてな。そこでお前の力を借りたいんだが」
「なるほど。で、文遠殿自身が考えていることは何なんだ」
「これが自分でも漠然としてて、上手く言えんのだ」
「別にめちゃくちゃでいいからとりあえず言ってみろよ。俺は関羽の人となりとかもそこまでよくは知らないから、方法を考えるのはそれからだ」

 郭嘉に言われ、張遼はしどろもどろながらも何とか語る。そして請われるままに、関羽という男のこと、性格なども知っている限り答えた。
 すべて聞き終えたあと、牀上の人はうーんと小さく唸った。張遼は身を乗り出す。

「何かいい案はないだろうか」

 自分としてはなんとか彼を助けたい。もしここで郭嘉に「策はなし」と言われれば、もう望みは絶たれたようなものだった。己一人の弁では、関羽を説き伏せる自信はなかった。
 真摯に言い募る相手をちらりと一瞥してしばらく黙したあと、郭嘉はあっさりと言った。

「別に無くはない」
「ほ、本当か!?」
「ああ」

 確信を込めて頷く。
 張遼の表情がぱあっと明るくなった。

「どうすればいい?」

 勢い込んで尋ねる張遼をひとまず宥め、郭嘉はこう切り出した。

「文遠殿。あんたは関雲長が今何を考えていると推測する?」
「それは恐らく、下邳城を陥落され、あまつさえ劉備殿の夫人までも捕らえられてしまったことを恥じて、かくなる上は死をもって不義に報いようとしているに違いないと思うが……」

 郭嘉は頷く。

「いま関雲長の胸の内にあるのは、義兄であり主君である劉備の信頼に応えられなかったことへの自責と後悔の念。このまま一人落ち延びて生き恥をさらすくらいならば、いっそ一矢報いて討ち死ぬことで詫び、武人としての誇りを貫かんとしている。恐らく奴は夜明けを待って討ち込んでくるつもりだろう。そこでだ……」

 郭嘉の声が低くなる。張遼はジッと耳を傾け、真剣に聞き入った。




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 張遼と関羽の間に元々交友はあったという史実はありませんが、ここでは一応旧知ということにしてあります。戦場でまみえるたびに志が通じ合っていたように思うなんて曖昧な理由で、普通そこまで親身になって互いの命乞いするかなと疑問だったので。それはそれでいいんですが、より説得力を求めるならやはり旧友同士だなと思いそうしました。
 ちなみに、歴史的な記述や解釈はほぼ本に従い(引用し)ました。




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