曹操は長嘆息した。結局いい策は思い浮かばぬまま、とうとう夜明けを迎えてしまった。こうなっては、あとは流れに任すしかないだろう。

「殿」

 再び嘆息を漏らした時、入口から荀彧が入ってきた。
 曹操の様子をひと目見やり、秀麗な眉を顰める。

「まだ悩んでおられるのですか」
「そういうがな文若。関羽の武勇と義の篤さはお前も知っていよう。それを思うとこのまま死なせるには惜しい。実に惜しい。どうにかして我が麾下に欲しいのだが」
「相手にその気がなければ意味はないと思いますが」
「そうなんだよなぁ」

 三度目の溜息をつく。これではまるで恋患いのようだ。
 そんな主君の姿を、これが悩みの種だと言わんばかりに眉間に皺をよせ、荀彧は肩を竦めた。

「才をこよなく愛されるのは殿の美点ですけれどね。―――どうやら殿のその病的なまでの願いが天に届いたようですよ」
「なに、何ぞいい手があるのか?」

 さりげなく酷いことを言われているにもかかわらず、荀彧の一声に曹操は喜色満面でガバッと上体を上げた。

「いい手、といえるのかどうかはさてわかりませんが、関羽の説得役に人がいなければ自分に任せてもらえないか、と名乗り出ている者がおります」
「誰だ?」
「張遼殿です」
「文遠が? あやつは関羽を説き伏せられるほど弁が立つとは思えぬが……」
「私もそう思いましたが、何でも本人が申すところにには、『自分は以前から関羽の義侠ぶりに深く尊敬の念を抱いており、戦場にてまみえる度、互いに志通じるものを感じ取っていたと思う。微かにだが旧好もあったので、自分の言葉ならば関羽も真摯に耳を傾けてくれるのではないか』と。見たところ、張遼殿もあながち全くの無策ではない様子」
「なるほど、何か考えあっての言というわけだな。言われてみれば、呂布を下したときに文遠の命乞いをしたのは関羽であったな。適役かもしれん」

 頷くと曹操は荀彧へ素早く命じた。

「よかろう。直ちに文遠を呼びにやり、説客を命じよ」
「御意」

 荀彧は恭しく袖を合わせた。




 張遼は曹操の命を受けると、速やかに馬を繋いである所へ行った。

 ―――まず乗る馬は駿馬を選べ。

 昨日言われたことに従い、数頭のうちから一番足が丈夫で速そうな馬を選び出して、騎乗した。
 包囲している兵士から関羽が潜んでいるという辺りを教えてもらい、近くまで寄って馬を降りて息を吸う。

「関雲長殿。いずこにおられるか」

 その一声で、返って来る声があった。

「誰かと思えば、張文遠殿ではないか」

 振り返ると、岩陰から関羽が姿を現していた。
 激戦のあとで、鎧甲のあちらこちらには泥がつき、衣も所々破けたままだったが、愛刀を片手に立つ様はまだまだ戦う余力に満ちている。
 こうしてまみえるのは、何年ぶりになろうか。
 関羽の堂々たる佇まいと強烈なまでの光を宿す双眸は、最後に顔を合わせた時と全く変わっていなかった。そのことに懐古の念が浮かび、張遼はふっと笑みを浮かべる。
 馬の手綱を引き、己の顔の前で拳と掌を合わせ拱手した。その際捩るように手の内側をやや相手へ向け、暗器など持たぬことを示す。

「雲長殿、久方ぶりです」
「曹公より降伏を勧めるように託ってきたのだろう。悪いが私は―――
「いえ」

 関羽の警戒した口調を張遼は首を振って制した。

「拙者は降伏を勧めに参ったのではなく、この馬をお届けにあがったまで」
「馬を?」

 左様、と張遼は頷く。

「見て下され。これは我が軍の中で選り抜いた駿馬です。貴公の馬では最早役に耐えられぬでしょうが、これなら千里を駆け抜けることも可能です」
「確かに足の強そうな馬だが……」

 関羽は困惑気味だった。張遼の言動に、その意を量りかねているのだろう。
 その心中を慮り、それはそうだろうと張遼も思う。実際郭嘉から直接聞いた自分ですら、最初は頭を傾げたものだった。
 しかしこれが意外な伏線なのであった。
 張遼は表情を改めると、昨夜郭嘉の言った言葉を反芻する。

 ―――いいか。関羽に会ったら、最初に馬を勧めた後に、こう切り出すんだ。

「雲長殿。及ばずながら私も侠たらんとする者の端くれ。今の貴公の気持ちはよく分かるつもりです。城を奪われ、主君である劉備殿のご信任に応えられなかったばかりでなく、その夫人方まで捕らえられて、このままおめおめと一人落ち延びてゆくことはできますまい。かくなる上は討ち死に覚悟で曹軍に単騎挑み、赤心を貫かんとされている。違いますか?」
「その通りだ。ではお主はそんな私に同情し、この馬を進呈してくれようというのか」
「左様です」
「これはかたじけない。武勇だけの男ではないと見込んでいたが、お主こそ真の侠だ」

 関羽は感じ入ったように頭を下げ、心から謝辞を述べた。
 敵同士と言えども、礼節を重んじ相手の誠意に誠意を以って応える律儀さは相変わらずである。

「礼には及びません。拙者も貴公に命を救われた恩義をお返しせねばと思っていたところです。これで貸し借りはなしになりましょう」

 ところで、と張遼は話題を変えた。ここからが本番である。

「時に、ひとつ気がかりなことがありまして。―――劉備殿のご夫人方がどうなっているか、ご存知ですか」

 その言葉に、関羽の顔色がさっと変わった。

「おお、お二方はどうなっておる? ここからではその様子を窺おうにも窺えず……まさか曹軍にて手荒な扱いや待遇を受けてなどは」

 その剣幕に、張遼は声色を改め、言った。

「雲長殿。拙者は常日頃、貴公の武勇武勲に心酔しておりました。ですからあえて言います。このままもし貴公が曹軍の大軍を前に討ち死にされるなら、一介の武人としての矜持は満ち足りるでしょうが、実際には貴公は三つの大罪を犯すことになります」
「私が?」

 関羽は信じられぬ、と言わんばかりに瞠目し、張遼をまじまじと見た。




『三つの大罪?』
『そうさ』

 郭嘉は不敵に笑った。

『関羽は目前にぶら下がった恥の一文字に頭の血が上り、己の武人としての意地と誇りを貫くことばかりに捉われて、重大なことを忘れているんだ』
『その、重大なこととは?』

 郭嘉は落ちてくる前髪を掻き揚げて、張遼の目の前に人差し指を立てた。

『関羽は劉備、張飛と義兄弟の契りを交している。両者は殿にこっ酷く惨敗したが、未だ死んだという情報もない。悪運の強い劉備のことだ、どうせ今ごろはどこか安全なところに落ち逃れて、密かに再起を図っているだろう。だがここで関羽が死ねば再起の道のりは遠くなり、また生死は共にという義兄弟の誓いにも背くことにもなる。これが第一の罪だ』

 張遼は目を瞬いた。確かにそうだ。言われてみるまで、そんな単純なことにも気付かなかった。
 郭嘉は次に、と続け、二本目の指を立てる。

『関羽らが義兄弟の契りを交して義勇軍として旗上げしたのは、漢王室を復興し、乱れた世に和平をもたらし、天下に義を唱えんがため。だが奴はその大義を忘れ、いたずらに死を急いでいる。これが第二の罪』

 そう言って三本目を立て、

『そして第三に、関羽は今、劉備の二人の妻君の身柄を殿に奪われたまま、手前勝手な誇りのために討ち死にしようとしている。自分の死後に夫人たちがどうなるか、そこまで全く考えが及んでいない。殿は一応今は手厚く保護し、礼を失することのないよう軍中に厳しく命じているが、はっきり言ってそれは関羽を麾下に加えたいからだ。だが関羽がここで死んでしまえば、殿はもう彼女達を保護する必要がなくなる。劉備が夫人らを切り捨てるのは目に見えているから、質としての価値は失われる。それを承知の上で武弁の意地を貫き討ち死のうというのは、ただの匹夫の勇だ』




 張遼は三本立てた手を握りこみ、拳を作ってここぞとばかりに語気を強めた。

「それでも決意が変わらぬのであれば、もう何も言いますまい。この馬を駆り、ご存分に決戦に臨まれよ」

 張遼の並べ立てた三つの主張を前に、関羽は絶句して押し黙った。
 どれもこれも、理に適って筋が通っている。反駁のしようもない論説であった。
 すべてを言い切った張遼もまた口を閉ざして相手の反応を待つ。その実、心の中では冷や汗ものであった。昨晩郭嘉は、あれほどあやふやであった張遼の考えを見事なまでに形にし、更により核心をついて筋道の通ったものを作り上げた。さすがだと聞きながら張遼は舌を巻いたものだ。自分や関羽よりもずっと若いくせに、自分たちよりよほど世の情理を弁え大局を見る目に優れている。こんなにも近くに落ちていた答えを見事探し当てた。
 関羽も、恐らくその胸内では目先のことに捕われすぎていかに自分が盲目になっていたか気付かされたことだろう。
 張遼の知っている関羽は常に冷静で、頭のいい男である。この情理が理解できぬほど愚かではなかった。

「文遠殿」

 ほどなくして関羽は重々しく口を開いた。

「お主の言葉でようやく己の愚を知った。目の覚める思いだ。確かにお主の言うとおり、このまま私が死んでも何にもならぬどころか、更に大きな罪を犯すことになる。それよりもいっそ恥をしのんで降り、兄者のご家族を守ることこそ今の私に課せられた使命であると痛感する」

 それでは、と口を開きかける張遼へ、しかし関羽は毅然として言い放った。

「しかし、このままただ投降することは、三つの罪の上に更に大罪を塗り重ねることになる。そこで、投降するにあたり曹公に三つの条件を提示したい」

 関羽が曹操に対し出してきた条件。
 それは―――

 一つ、恭順は曹操に対して示すのではなく、漢王室に対して示すものだということ。
 二つ、劉備の家族の身の安全を保障し、劉備の左将軍の禄高二千石を与えること。
 三つ、劉備の生存と居場所が分かり次第、その元へ劉備の家族ともども馳せ参じることを許可すること。

 先二つはまあいい。問題は三つ目であった。
 張遼の持ち帰ってきた交渉条件に、幕僚たちは口をそろえて拒否を進言した。敗軍の将が口にするには、あまりに己の都合の良すぎる話である。
 ところが関羽に相当惚れこんでいた曹操は、それらの反対意見を抑えてすべての条件を快諾した。
 こうして一抹の不安と憂慮を残しながらも、希代の名将関羽は曹軍に降ることとなったのである。




「よう」

 戻って来た張遼を待ち伏せしていたかのように、幕舎の前で郭嘉が腕を組み立っていた。口元にはあの独特の人好きする笑みが湛えられている。
 張遼はその姿を認めて、揚々と字を呼ぶ。

「奉孝」
「な、上手くいっただろう」

 楽しそうに言う軍師へ、張遼は畏敬の念もこめて深く拱手した。

「ああ、お前には本当に礼を言う」
「礼は形あるモノで頼むよ」
「……酒か」

 苦笑する張遼へ、「ただ働きはごめんだからな」と郭嘉は欠伸を噛み殺した。結局昨夜はあれで睡眠時間を削られて、二人ともろくに眠っていない。
 伸びをしつつ幕舎に戻ろうとする背中へ、張遼は悪かったなと謝りつつ、それにしてもと続ける。

「正直、お前が本当に協力してくれるとは思わなかった」
「ん?」

 半分眠たそうな眼を、肩越しにこちらへ向けてくる。

「他の者達は、あまりいい顔をしていなかったからな」
「別に、俺も関羽の投降には賛成していなかったぞ」

 感じ入った様子の将軍へ、郭嘉は平然と答えた。

「……へ?」

 思わず素頓狂な声が出る。張遼は目を見開いて郭嘉を凝視した。

「どうせ関羽は絶対殿に帰順することはないし、どんなに殿が厚遇しても劉備の居場所が分かれば絶対うちから出て行く。そういう奴だ。つまり降すだけ労力の無駄なんだよ。皆もそれが分かっているから反対していたんだ」
「では何故……」

 訳がわからず戸惑う。何故関羽の投降に一役買ってくれたのか。
 郭嘉はなんということでもなしに、

「本当ならあんな厄介な生き物は殺せるうちに殺しておいた方が後々楽なんだけどさ、どうせなら殿も一回ビシッとフラれた方が変に後腐れもなくなるだろう? それに敵方だと面倒だが、うちの下にいる間はそれなりに戦力として働いてくれるだろうし、義理堅いから恩を売っておけば後に活きるかもしれないし、まあ利用価値はあるからな」

 飄々と言ってのけるその内容に眩暈を覚えそうになりながら、張遼は心の中で思った。
 軍師という生き物は空恐ろしい。自分も関羽も、実は最初から郭嘉の手の上で踊らされていたのではないかとさえ思う。
 いやまて、郭嘉だけでなく、荀彧や荀攸などもあんな温和で人畜無害そうな笑顔の下に実は恐ろしいことを考えているのかもしれない。そういえば程昱には人肉食の噂もあったような……
 得体の知れない連中の見てはいけない一面を見てしまったようで、張遼はその夜自分がまな板の上に乗せられ包丁を手にした軍師たちに囲まれる悪夢にうなされたのであった。




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