獣の掟




 建安三年、秋。

 すでに流浪の帝を迎え入れ、許都と名を改めた地は、戦乱に疲弊しきった中原の中にあって活力に溢れている。城内は商いの声に満ち、通りから各方面の門には人の往来が絶えない。城の外には金色の稲穂の海原が広がり、収穫の時期を迎えていた。
 住まう人々は誰しも表情明るく、安堵しきった笑顔を浮かべている。
 豊かに実る作物と彼らの表情を見る限りでは、まるで戦火を知らぬようにさえ思える。しかし実際は、騒乱の中心地であり要害であったこの城もまた、免れることはなく戦に蹂躙された。崩れかけていた地気を、人の手で再び立ち直らせたのだ。
 それを成し遂げた人物は、城街の中心に位置する府城にいる。
 流浪の皇帝を擁護し、今や中原の王とも言うべき権力の頂に立っていた。
 その男の名は、曹操字孟徳。
 先に司空の位に上りつめた男だった。

 中原の気候の変化は急だ。少し前まで茹だるように暑かったかと思えば、今はもう肌寒い。ころころと変わる様はまるで女人の機嫌のようだ、と郭嘉は勾覧に寄りかかりながら取りとめもなく思った。ちなみに、その腰は回廊にではなく庭側の勾覧の礎石の上に落ち着いている。この位置は丁度回廊のどこからも死角となっており、サボリ場としてはうってつけなのである。
 何をするでもなく、のんびり空を見上げる。秋晴れの天は高く、何にも捕らわれることなく流れゆく雲を眺めた。
 曹操の許に仕官してから、三年が経った。僅か三年だが、本当にあっという間だった。
 全く、よくも自分がこのような場所で働く気になったものだと、他人事のように思う。
 少し前までは、あの雲のように、自由気ままだったというのに。
 いや―――そうでもないか。
 結局最初から、郭嘉もまたこの乱世という逃れられぬ柵の中にいたのかもしれない。
 あの雲も、捕らわれることなく見えるだけで、その実自然の流れという縛りの中にあるように。
 推挙の話を受けた時のことをまざまざと思い出す。
 前触れもなくしゃあしゃあと城に現われた郭嘉を前に、荀彧は苦々しい顔をしていたものだ。思い出し、一人含み笑った。
 そう、そういえばあの時、郭嘉は荀彧に言ったのだ。
 本当にいいのか、と。




―――本当にいいのか、文若殿』
『何がだ』
『話しただろう。この身はすでに清流にはなく、濁流に塗れている。万一“つながり”が明らかになれば、曹孟徳の火傷となりえるかもしれない。それでも、俺でいいのか?』
『元より承知の上だ』

 荀彧は手を払い、そう一蹴に伏した。 

『だからこそお主のような人間が必要なのだと言おうか。清濁を知りつくし、表裏に通じる者が。今は乱世なのだよ、奉孝殿。そして私の覚悟も遊びではない。病毒に冒されたこの国を(なお)すためならば何だって用いてみせる。たとえそれが毒であったとしてもな。毒を制するには、むしろ持ってこいだろう』
『毒扱いとはひどいな』

 その言い草に郭嘉は思わず苦笑しておどけた。『まあ言い得てるけど』

『文句を言われる筋合いはないぞ。勝手に消えて心配をさせておいて、一人で抱え込んだ挙句、そんな状態で戻って来たのは一体どこの誰だ』
『だから“今”役に立つんだろう?』

 郭嘉は飄々と笑った。とんちめいた切り返しに荀彧は顰め面でひとしきり悪態づき、それからふと物憂げな―――地顔のそれではなく、心から―――眼差しで年下の朋友を見つめた。

『まこと乱世とは、良くも悪くも、お主のような人間に役立つのかもしれぬな』

 世に役立つのではなく、世が役立つのだと。
 確かに、清流派名士の荀彧はともかく、郭氏とはいっても支流にあたる郭嘉は、平世では才華を遺憾なく発揮できる立場ではなかった。
 こういう時世だからこそ、身分や生い立ち、経歴に関わりなく、純粋実力のみで機運を掴み取ることができる。
 独り言めいた呟きに対し、何とも言えずに、郭嘉はただ曖昧に微笑むだけだった。




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