長閑な昼下がりの廊下をのんびりと漫ろ歩く。四角く切り取られた内庭は丁寧に整えられ、黄色や紫の草花が秋らしい風合いを湛えている。それらを眺めてひとときの憩いに心を楽しませていれば、隣を歩いていた大男が趣深さとは縁の遠い、騒々しくくしゃみをかました。折角の雰囲気も台無しである。尤も、そもそもからして二人とも風流など解する性格でもなかったが。

「ああもう畜生め!」
「三弟……こう、もう少し慎ましやかにはできねえもんかね」

 思わず額を抑えた劉備が苦言を呈せば、「ああ?」と髭面が歪んだ。

「生憎と俺ァ、根っからの不調法者でな! 深窓の女じゃあるまいし、おしとやかなんて柄じゃねえ」

 三弟こと張飛は豪快に唾を飛ばし、鼻を鳴らして一蹴する。
 確かに、精肉か戦場しか知らぬ彼にはどだい無理な注文だった。

「大体、人のこと言えた義理かよ、兄者」

 ギョロリと丸い目が睨みつけてくる。実際睨んでいるわけではなく、彼は元からそういう眼つきなのだ。

「自分だって、んなタマじゃねえくせによ」
「まあな」

 劉備は溜息を一つつき、それ以上は言わなかった。

「しかしよ、兄者。俺たちァ一体いつまでこんな所で油売ってなきゃなんねえんだ」
「油売ってるわけじゃねえさ。要請があればすぐにでも出陣するが、まだその時期ではないだけでだな」
「またんな口実を」

 張飛の髭がぐいっと逆立つ―――ように見えるのは、彼がその大きな口が開き、頬の肉が上がるからである。

「馬鹿な俺だって分かるぜ。曹操の野郎、絶対俺たちに仕事回す気ねぇだろ。何があってもすぐ他の奴らに兵を任せて、俺たちは留守番だあ」
「おいおい、声を抑えてくれよ。第一呼び捨てとは何事だ、曹公とお呼びしろ」

 思わずハラハラと劉備が周囲を気にしつつ手で張飛を制するが、張飛は気にした風もなく、むしろ更に声高く言った。

「曹公だか膀胱だか知ったことか。あんな糞不敬野郎曹操呼ばわりで充分だ」
「今はお前の方がよっぽど不敬だぞ、三弟……」

 再度額を覆う劉備はすっかり困り果てている。万一他人に聞かれては事だというのに。
 と、劉備の懸念をあざ笑うかのように、近くで小さく噴き出す音が上がった。
 思いもよらぬ事態に、二人の肩が飛び上がり、ピタリと動きを止める。
 さっと首を巡らせば、勾覧の下に誰かがいる。いったいいつから潜んでいたのか、どうやら高低差による死角で見えなかったらしい。

「やれやれ、折角隠れていようと思ったのに」

 笑いを含んだ明るい声が吹き込む。
 ゆったりとした動作で階を上ってきたのは痩身を官服に包んだ官吏だった。が、服はだらしなく緩められ、冠も被らず、足取りなどどこか踊るようにふわふわとしている。
 側によるにつれて纏う風から仄かな酒気を嗅ぎ取り、劉備は思わず眉を顰めた。

「天下の司空を捕まえて膀胱とは、いやはや全く、傑作ですな」

 そう言う口調には責め咎める響きはなく、むしろ可笑しくてたまらないという風に笑いを堪えている。
 しかし真っ直ぐに射抜いてくる双眸は、軽んじることを許さぬ強い眼光を宿していた。
 もとから色素が薄いのか、太陽に照らされる髪は時折亜麻色に透けて見える。まだ若い男のその面立ちには、確かな覚えがあった。

「何だてめえ」

 食ってかかろうとした張飛を抑え留める。

「貴公は―――
「劉皇叔殿にその義弟殿におかれましてはご機嫌麗しく」

 恭しく拱手をする動作は流れるようでありながら芝居がかっており、慇懃無礼と紙一重の揶揄が込められていた。
 そういう空気には敏感な張飛が鼻をひくりと動かし、剣呑と皺を寄せる。

「いやはやお恥ずかしいところを見られてしまったな、郭軍師祭酒殿」

 張飛が何か言いだす前に、機先を制して劉備がはにかむように頭を掻く。
 そんな取り繕いも、郭嘉は無言の笑みで流した。

「これはどうにも育ち故か口が悪く……大目に見てやってはくれまいか」
「兄者、ひでえや。第一盗み聞きしたのはそいつの方だろ」

 思わず気色ばんだ張飛に、冷めた言葉が浴びせられる。

「盗み聞きとは人聞きの悪い。そちらが大声で話しながら私のいる所を通っただけでしょう」
「何をう」
「黙っておれ」

 ピシャリと叱責され、張飛は思わず口を噤む。しかし顔つきは不満を露わに、若い策士の顔を依然睨みつけていた。

「弁えを知らぬ田舎者でな。ここは私の顔に免じて一つ」

 郭嘉は醒めた態度から一転、「いえいえ、こちらこそ失礼いたしました」と意味ありげに微笑を浮かべた。今のが単に張飛で遊んでいただけだと知れる。

「こちらとしても気まずいのはお互い様、ここは一つ互いの名誉のため沈黙を守りましょう」

 そう口許に指を当てにやりとする。黙っていてもらいたいのは、あろうことか真昼間から仕事を抜け出し、酒を飲んでいたことであろう。劉備は思わず苦笑した。この歳若い軍師が、頗る切れのいい才覚を持ちながら反面で品行に難があり度々弾劾されていることは、大分前に聞き及んでいた。そこもまた曹操の好む気質なのだろう。

「ここの生活には慣れましたか?」
「うむ。過分なことに曹公はこんな敗将に何くれと良くして下さる故なぁ」

 劉備は顎ひげをしごきながら穏やかに笑い返した。
 彼らが呂布との拠点争いに負け、曹操に助けを求めて身を寄せて来たのは一ヶ月前の話だ。
 「左様ですか」と郭嘉は微笑を湛えたまま捉えどころのない反応をして目を伏せた。

「そうそう、そういえば、私の受け入れに関してとりなしをしてくれたのは何でも貴公であったとか」

 何気ないふりで劉備は水を向ける。その時だけ、僅かに相手の面に波紋が立ったかのようだった。
 呂布に敗れた劉備が曹操を頼り落ちのびて来た時、曹操の幕臣らの中には劉備を危険視し即排除すべきだという論調が立ち込めていた。その筆頭が荀彧である。
 ところが、その中で反対を述べたのが郭嘉だったという。今劉備がこうしてひとまずは五体無事でいられるのは、彼の一声のおかげもあると言ってよい。
 当の本人はといえば「はて」と首を傾げた。とぼけるつもりかなと思っていると、

「どこから仕入れられたのやら。それとも、さすがは大耳殿、その大耳は伊達(かざり)ではないようですと讃えるべきですかな」

 ずけずけとした物言いに傍らの張飛が「何をう」と顔を真っ赤にして痩身に掴みかかろうとした。その手を存外身軽にひらりと躱し、

「おやおや乱暴な。一体誰のおかげで墓石の下に入らずに済んだとお思いで?」
「この減らず口めが」
「こら益徳」

 劉備は怒髪天の義弟を宥めた。一方郭嘉は怖気づくこともなくにやにやと不羈に笑って様子を見ている。
 歯に物を着せぬというよりは、とんでもない毒舌の曲者である。果てしなく慇懃無礼であるはずなのに、不思議なことに彼が口にする時はさほど嫌味を感じなかった。語調に思いのほか棘や敵意がなく、竹を割ったようなからりとした言いぶりのせいかもしれない。ついでに見目に反してかなりの胆の持ち主のようだ。強面でも竦む張飛の憤怒を前に虚勢ではなく平然としている。これは戦場を経験しているというだけのものではないだろう。なるほど、あの曹操がこの若い智嚢をことのほか気に入っている理由が分かるような気がした。

「何はともあれ、お主には感謝せねば」
「勘違いをなさらずに。貴方のためではありません」

 郭嘉は礼をやんわり押し返し、ひょいと肩を竦めた。

「殿のためですよ」
「ほう?」
「あの方は存外さびしがり屋なのでね。私は基本的に殿に甘いのです」

 劉備は曖昧に笑むに留めた。掴みどころのない郭嘉の科白をどう解釈していいか分からなかったからだ。

「つまるところ殿の望むままに申し上げたにすぎない。ゆえに礼には及ばぬということです」

 劉備はやはり苦笑してみせた。そうしていると、どこから見ても、善良で人柄の良さしか感じられない。

「私など取るに足らぬ詰まらぬ人間だ。曹公にそこまで目をかけていただけるほどの器ではない」
「全くですな」

 普通なら否定なり何なりがくるところを、郭嘉はあっさりと肯定して見せた。
 あまりに清々しく忌憚がないものだから、劉備は不快に思うより呆れて絶句した。代わりに隣の張飛が鬼の形相になっている。
 劉備が意図を量ろうとしたところで、郭嘉が庭を望み、前置きもなく唐突に言った。

(やまいぬ)は群れに双頭を許しません」

 突然何の話かと、劉備は怪訝そうに双眸を眇める。

「統率の乱れを厭うためです。だから常に首は一つ、他は強者に従うことを掟とする。野に生きる獣でさえ『和』を知る」

 まるで謡うように嘯き、郭嘉は双眸を劉備たちに戻して意味ありげに細めた。黒瞳に心の底まで射抜き見透かすような怜悧な光が宿っている。
 そこでようやく劉備がその真意を察した。

(挑発が上手い)

 苦々しくも、柔和な笑みを刷いた。双眸は穏やかなのに読めない。

「だが強い者同士が首を争うのも、また獣の性ではないかな」

 そして勝者が頭となり、敗者は死ぬか、去らねばならぬ。なるほど、確かに双頭はありえぬわけだ。
 いささか挑戦的な言葉を、明朗とした語調に誤魔化しながら、劉備は相手の反応を窺っている。

「それもまた条理」

 郭嘉は案外あっさりと認めてみせた。

「だが、無理です」

 しかし即時続いた凛然とした答に、劉備の眉がぴくりと引き攣る。
 貴方には無理です。そう聞えた。

「何故そう思う?」

 郭嘉の笑みが深まる。

「一方は地に転がる玉を知りながら見過ごし、一方はそれを拾った。その時点で違いははっきりしたようなもの。―――たとえるならそういうことです」
「……」
「一匹の獣が群れと群れの間を転々とする間、ある獣は針の蓆に座して崩れかけていた秩序を再びまとめ直した。そこへきて、ただ争いに負け続けるばかりで何も成しておらず、また何かを変え得る力も法も持たぬ強かなだけの爪牙に、一体何どれほどの価値があるのか」

 紡がれる言葉は穏やかながら痛烈な鋭さをもって響き、威圧を孕んだ。単純直情型の張飛でさえ思わず言を封じられるほどに。

「だが、曹公はそんな負け犬にも憐みを向けて下さる」

 劉備は柔和に笑み、不意にそう返した。代わりに、郭嘉の口許から微笑が退く。

「片や確かな血筋でありながら貧しい土豪に育ち、片や富豪ではあるが血統の由緒を持たぬ宦官の孫。全く正反対であり相通ずるところがある。境遇も立場も対極にあって、なお同じものを見ている。通じ、分かり合えるものがあると、そう感じて下さっているのではないかな」

 穏やかに鷹揚と語り聞かせるように、そう告げる。そこに含まれた意味を、この若くも切れ者の軍師ならばよく察せるはずだという確信を込めて。
 数拍ほどの沈黙を挟み、郭嘉は視線を伏せるようにしてふっと口の端を上げた。

「確かに、あの方が親近感のようなものを抱いているのは否定できせんがね」

 言いながら、歩を踏み出す。そのまま止まることなく、二人の脇をすり抜けるかに思われた。
 しかし劉備と擦れ違いざま、彼は肩が触れるぎりぎりの所でぴたりと立ち止まった。
 そして小声で低く囁く。

「曹孟徳とあんたを一緒にするなよ。少なくともあの人は乱世を己の野心を試す遊戯(あそび)などと考えたりはしない」

 劉備は無言だ。困惑を浮かべてさえいる。

「殿はああいうご気性だ。普段は鋭明な方だが、一度気に入った人間には妙なところで甘い」

 ちらりと、目を怒らせ威嚇している張飛を一瞥し、

「だが誰を欺けたとしても、俺は“見て”いるよ。ゆめゆめ胆に銘じておくことだ、『呑天桑(どんてんそう)』殿」

 思わず瞠目した劉備に意味深長に笑みを深め、郭嘉はゆるりとした足取りで脇を通り越す。

「私は貴方と“同じ”ですからね」

 背を向け合ったまま、戻した口調でそう告げた。




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