劉備が言葉を口中に食むように振り返った時、朗々と大きな声が響いた。

「奉孝! そんなところにおったか。ん? そこにいるのは玄徳か?」

 角から現われ、上々機嫌に声をかけたのは曹操だ。傍らには関羽もいる。

「殿」
「これは曹操殿」

 郭嘉と劉備はそれぞれに拱手をする。
 「堅苦しいのはよせ」と曹操は磊落に笑いながら二人の腕を勢いよく叩いた。

「しかし、また珍しい組み合わせだな」

 と不思議そうに郭嘉と劉備、ついでに張飛を興味深そうに見比べる。いやはやと口を濁す劉備とは逆に、郭嘉はにこりとして言った。

「たまたまお会いしたのですよ」
「執務室でおらぬと思えば……さてはお前、またサボッておったな」

 しかもほのかに酒臭い、とその衣の側で鼻を動かし、曹操が顰め面をする。

「人聞きの悪い。少しばかり女官と約束があっただけですって」

 ははは、と当の本人は堂々と逢引を理由にする。とんでもない臣である。

「さては瑚容か。お前、儂も目を付けていたというに一人抜け駆けしおって」

 とんでもない主君である。まさしくこの従にしてこの主ありだ。

「そういえば私をお捜しで?」

 指摘を受け、「おお、そうだった」と気を害した風もなく曹操は手を打つ。

「良い玩具が手に入ってな。久々に今宵一晩、美姫を挟んで、どうだ?」

 片目を眇め、いかにも悪だくみとばかりにニヤリと声調を落とす。

「ほほう、良いですねぇ。ではせっかくなので先日口説き落とした深窓の君も呼んで……」

 郭嘉も一つ乗ったとばかりに顔を寄せ、揚々と同調する。

「お主も好き物よのう」
「いやいや巧者の殿には及びませんとも」

 何やら淫靡でいかがわしい会話に、はっはっはと明るく笑い合う。桃園兄弟はそれを声もなくひたすら唖然と見つめていた。彼らにはよもやこの一見品のない会話が、単に今夜二人で行う秘密の軍議を暗喩した言葉遊びだとは思いもよらない。こうして開けっぴろげにしてみせることで、逆に他者の目を欺くのである。ちなみに『良い玩具』とは情報、『美姫』とは曹操秘蔵の酒のことで、『深窓の君』とくれば郭嘉が最近練っている戦略のことだったりする。
 しかし彼らが何より呆気にとられたのは、この主従の馬の合いようだったかもしれない。それまでの怜悧な態度はどこへやら、曹操と呼吸の一致した掛け合いを交す郭嘉は飄々として愉快気だった。

「さて殿。そろそろ戻らねば長文殿にとどまらず令君まで出て来てしまうので私はこれで」

 ひとしきりしてから再び拱手した郭嘉に、曹操もにわかにそわそわし始める。

「む。そうか。うむ」

 目が泳いでいるところを見れば、こちらも荀彧に無断で席を外してきたに違いない。大方、例のごとく関羽の気を引こうと仕事そっちのけで接待してたのだろう。しかしいい加減にせねば、普段は温和な面に角が生え出してくる頃だ。一度怒らせた後の恐ろしさは骨身に沁みている。

「では雲長、またな。玄徳にもすまんが、儂らは戻らねばならぬ」

 咳払いをして劉備らに向き直った曹操へ、劉備が代表して拝礼した。

「いえ、お忙しいのは存じ上げておりますゆえ」
「曹操殿、本日は誠に忝い」

 関羽も劉備の一歩後ろにて武人礼を取り感謝を述べる。曹操は機嫌よく手を振った。

「構わぬ。三人とも、何か足りぬものがあればいつでも遠慮なく申せよ」
「勿体ない」 

 ひとしきり言葉を交し、曹操は踵を返して元来た途を逆に戻って行った。郭嘉は最早劉備らには目線を向けず、軽く目礼して曹操に従った。
 冷たい沈黙が辺りに満ちた。

「チッ、曹操も気に食わねえが、あの若造。訳わかんねえこと好き勝手言いやがって、どっちが無礼千万だ」

 ようやく呪縛から解き放たれたように、張飛が気味悪そうに遠ざかる背に目を眇める。チッと盛大に舌打ちを放った。

「やっぱり曹操の下にゃいけすかねえ野郎が多いぜ。なあ、兄者。―――兄者?」

 何を言っても反応のない劉備を訝り、張飛がその顔を横から覗きこんだ時だった。
 張飛の顔を覆う虎髭がざわりと逆立った。面から血の気が引く。
 横合いから見た劉備は、相変わらず困った風に、しかし鷹揚とした微笑を湛えていた。
 しかし去りゆく背影を見る時、その一瞬だけ、笑みは未だかつて見たこともないほどぞっとする色を宿していた。
 口は笑っているのに、真っ直ぐ正面を見つめる瞳の底は全く笑っていなかった。いっそ強張って張り付いた笑みは冷え切っており、底知れぬ恐ろしさを凝縮させている。その笑顔はすぐさまいつも通りの、温和なものに戻ったが、張飛は己の背筋がひやりと寒くなるのを感じた。今のは何かの見間違いではないか。いや、しかし―――心の中でぶんぶんと首を振った。

(気の所為に違いねえ。たまたまそう見えただけだ)

 力をこめて瞬きを繰り返し、こびりついた疑念を拭い去ろうとするように、横に突っ立っているもう一人の義兄へ話を振った。

「大体、二哥もどこ行ってたんだよ」
「すまない。曹公が珍しい書を貸してくれるというのでな」

 張飛とは違い、劉備の背後に立つ関羽は、先程の劉備の表情を目にしなかったのであろう、いたって平生の態度で己の脇に目を落とす。彼は、武装した巨漢には似合わぬ古ぼけた冊書を二巻抱えていた。曹操が関羽をことさら気に入って、何かにつけて色々と声をかけたりするのは、今に始まったことではなかった。

「兄者?」

 目を上げた関羽が、依然一方を見つめたままの劉備の様子を見てふと眉根を寄せた。その視線を追い、すでに遠く小さくなっている二つの人影を捉えて双眸を細める。

「そういえば、先程のあの男は確か、曹公の謀士の―――

 すぐに名前が出て来ないが、面立ちには記憶がある。関羽は静かに問いかけた。

「彼が何か?」
「いや。少し気に掛かるところがあって、な」

 劉備は小さく吐息で笑った。

「さすが司空殿は面白いものを“飼って”いる。なるほど彼がいま気勢に乗っているわけだよ」

 「はあ……」よく話の見えない関羽は興味なさそうに相槌を打った。「面白くねぇ、あんなクソ野郎」と張飛はぷりぷりとしきりに髭を逆立てていた。
 しかし劉備は一人愉快気に顎を扱いていた。

『呑天桑』

 それは劉備がかつて侠客として遊んでいたころに名乗っていた渾名。侠客は義賊とは限らず、盗賊博徒の行為を働く輩も多くいた。劉備がかつてその一味であったことを知るのは、限られたほんの一部の者だけだ。張飛や関羽さえ、さわり程度しか知らない。
 何故それを一介の文官風情が知っているのか。答えは限られている。

(なるほど、俺と“同じ”か)

 ふ、と劉備は髭の下でにやりと唇を歪める。
 桑の車。それは天子のみ乗ることをが許された車だ。貧しく、頼りない血の誇りのみに縋る生活に嫌気が差していた劉備は、かつて己の家の庭に生えていた桑の木に誓ったのだ。
 ―――下が上を剋す、無法のこの時に生まれた。
 ―――ならば、天を呑む桑になってやろう、と。

『乱世を野心を試す遊戯と―――

 かけられた言葉が鼓膜の奥に繰り返し響く。

(この俺を真っ向から否定し、喧嘩を売ろうというか―――面白いじゃないか)

 この勝負、買ってやろう、と誰へともなく胸中で囁いた。




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