星が妙に冴え冴えと見えるなと何気なく思った。
 そこでようやく、月の姿がないことに思い至った。

「今宵は朔だったか」

 向かいで、同じように窓の外を望んでいた曹操が、自分の心中と全く同じことを口にした。

「月の満ち欠けなど、久しく忘れ去っていたな」

 盃を手にしたまま独白めいた呟きを零す主君に、郭嘉は視線を戻した。

「それほどまでに忙殺されていたということでしょう」

 軽く笑いながら小さなともしびの中、頭をつきあわせるようにして卓に広げていた冊書をさらさらと丸める。まだ煮詰め作業は終わっていなかったが、曹操の気が殺がれたのを察した。今宵はもうこの辺りまでだろう。
 代わりに、片づけた卓の上に揚々と酒の入った甕を置く。
 曹操も勝手知ったるままに柄杓からそれぞれの盃へ酒精を注ぎこみ、ぼやいた。

「時が過ぎるのは全く早いものだのう」

 実際、朝廷は日々山積みの案件にてんてこ舞いだ。未処理の山は減るどころか増える一方で、終わりが来る気がしない。問題は次から次へと持ち込まれ、そのほとんどが急務であり、毎日果てしない執務量に中央官吏たちは息をつく間もない。いや、休みなく働いているのは今の官吏であり、これまでの腐敗した者たちは、堕落に耽り、本来やるべきことを何もしてこなかった。彼らが怠っていた分、今の者たちは尻拭いに奔走する羽目になっているのだった。
 その筆頭が、曹操だ。

「殿。大耳殿の処遇については未だ御決心なされませんか」

 不意に郭嘉が話題を振れば、曹操は戻した顔を苦々しく顰めた。

「全く、お前まであやつを殺せと言いだすか」
「前からそれとなく申し上げていたと思いましたが」

 はっきり口にしないまでも、確かに郭嘉は再三それを匂わすような発言をしてはいた。ただ、曹操が気づかぬふりをしていただけだ。

「お前も文若も、仲徳や公達までもが口をそろえて二言目にはそういう」
「我らが異口同句するということは、それこそが最善の選択だという証にはなりませんか?」

 曹操は不服そうだ。盃を一口煽り、

「第一、あの時殺すなと進言したのはお前自身ではないか」
「あの間合いでは得策ではなかったというだけで、全く反対していたわけではありませんよ」

 芳醇な香りと強めの酒精を味わいつつ、やんわりのんべんだらりと否定する。
 実際、誰よりも劉備を排除すべきだと考えているのは自分だと、郭嘉は思う。
 ただ、身を寄せたところですぐさま手にかければ、救いを求めて来た相手を騙し打ちにするのも同然。しかもそれが天子の覚えもめでたい『皇叔』となれば、世間の非難は免れない。特に順風を得ている今の時期に、世間に影響力のある清流派名士らを敵に回すのは得策ではなかった。逆に言えばこれから制覇してゆく土地の人材の心を掌握するには、劉皇叔を保護し手厚く迎え入れたという挙動は良い方に働く。とはいえ劉備が極めて危険な人物であるという認識にはかわりない。だからそのうちに折りをみて、一見それとは分からぬ方法で屠ればよいと、郭嘉はそう進言していた。
 そういった思惑を劉備側に悟られて警戒されてはいけないので、彼らの前ではあえて『主君に甘い家臣』を前面に演じてみせたが、その心は先を見晴かし、考え尽された計算があった。
曹操はますます不満げに渋面になった。

「しかしだなぁ」

 彼がなおも食い下がろうとすると、

「殿。たとえ殿がどれだけ心をおかけになろうと、あの男は到底他人の下に大人しく収まるような人間でありますまい。後々の禍根にこそなれ」

 まるで巫祝の託宣めいた物言いは、郭嘉が誰よりも先を見る明と人を見る目に優れていることの証であり、それは曹操の最もよく知るところである。だから無視できない。

「お前はいつも、儂が分かっていることを知っていてあえて申すよな」

 苦々しい語気に郭嘉はしたり顔で目を細める。

「迷っておられるからです」
「嫌な奴め」

 軽く咎めだてるような半眼をむけられても、郭嘉は飄々としたものだ。曹操が本気で気を害することはないとよく承知の上で、「恐縮です」と肩を竦めておどけてみせる。完敗した曹操の溜息が後に続いた。

「それでも、お前から何者かを殺せという言葉が出るのは珍しい」

 これを受けた方は、きょとんと瞬きをする。

「これでも軍師ですよ。戦場に出ても出ておらずとも、それこそ数え切れぬほどこの口で殺人を進言し、あるいは士兵らに命じてきましたが」
「言い替えや結果論の話をしているのではない。あからさまに特定の個人を殺せと申したことはそれほどなかったはずだ」
「左様でしたかね」

 首を傾げながら、郭嘉は邪気のない口調で相槌を打つ。

「だとすれば、それだけ危険を感じているということです。私は天才ですのね。あいにくと殿の覇道を脅かしうるものをみすみす見逃すほど、愚鈍にはなれません」

 冗談めいたそぶりで軽く頭を振れば、色の薄い前髪が音なく揺れた。 

「何より殿には、私の夢を叶えていただかなくてはなりませんから」

 とにっこり笑えば、思い切り鼻白まれた。

「お前の夢を儂が叶えるのか」
「ええ」

 郭嘉には常に胸に刻む誓いと望みがあった。そのために仕官を決心したのだ。
 その景色は恐らく曹操が目つめているものとは少し違ったものだったろう。郭嘉は自分の思いと目的を現にするためにここまで来て、曹操を主君に選んだ。端的にいえば、手段として利用しようとする心が少なからずあったのである。
 けれど、その夢がいつしか別の形に変わった。
 曹孟徳という人物に触れ、その人となりを間近で見つづけ、近くに侍るうちに、気づけば彼の見る色を思うようになっていた。
 郭嘉の夢。それはすなわち、曹操が見る夢だ。
 彼が目指す道の先を、同じように見つめて、共に駆けて、はじめて他人の見る景色を望んでいる。

「それは、お前の“内なる天”が命じる夢か」

 『天』。それは、彼を突き動かす声であり、人を人たらしめるものだという。
 かつて口にしたそれを覚えていた曹操に、郭嘉は嬉しげに頬を緩める。

「左様にございます」
「なるほど、ならば叶えてやらねば天罰が下るな」

 顎をひとつふたつ扱いて、ニヤリと曹操は口角の片端を上げた。軽く煽って空にした盃に酒精をそそぐ。

「殿は、なにゆえ決起なさろうと思ったのです?」
「唐突だな」
「ふと訊いてみたくなったものでして。そういえばお聞きしたことがなかったな、と」
「ふむ。なにゆえ、か……」

 曹操は軽い沈黙を挟んだ。口を閉じ、何かを思う風に黙々と盃を揺らし続ける。
 ほどなく、唇が解かれた。

「理由など無いな」

 ない、ときょとんとした郭嘉が小さく繰り返した。

「特に考えてみたこともなかった。まあ、強いて言うなら、怒りがあったのかもしれぬ」
「怒り、ですか」
「そうだ。そうよの、例えば―――あれはまだ儂が北部尉の頃だったな。ある日飯屋で昼餉にありついていると、(みせ)先のすぐ脇に乞食がおった。歳の頃は当時の儂とそう変わらんくらいの、骨と皮だけになったそ奴が、儂らの食べているものを、外でじっと見つめておった。何をするわけでもない、ただ見ているだけだ」

 遠くを見つめ、曹操は語った。語りながら、脳裏で回顧する。

 乞食は、曹操たちの食べるものを見ながら、己の碗に入った、食物なのかさえ見分けのつかぬ何かを啜っていた。この光景を目にした瞬間、曹操は無性に腹が立った。何を物欲しげに見ているのかと。不愉快でたまらなかった。自分は旨いものを腹一杯食べ、夜になれば温かな寝床で寝るというのに、同じ時、その乞食は腹を空かせ、およそ食物とも思えぬもので飢えをしのぎ、寒空と固い地の狭間で寝起きするのだ。想像すると、どうにも気に障り、尻の座りの悪い気分になった。あまりに煩わしいものだから、曹操はその男に暮らしを立て直すに充分な金を与えようと思った。ところが、ふと見渡した時だ。そのような者らが道のいたるところで目に入った。一人だけではなかったのだ。当たり前である、世は乱れているのだ。むしろ今までどうして気づかなかったものか、いや、見えていたのに特にそれに違和感を感じなかったのだろう。

「儂はにわかにそ奴らから一挙一動を見られているような気がした。しかしその時の持ち合わせを叩こうとも、全員は何ともできそうにはない。邸に戻ればまだあるが、家中の財をはたいたところで、街中の乞食らを賄いきれるわけではない。これまた憤懣やるかたなくなってな」

 そもそも彼らのような者達の存在を生む国のあり方に、どうしようもなく苛立ちが湧いた。秩序の乱れぶり、朝廷の堕落ぶり、気づけば気づくほど腐敗は目につき、頭から離れず、憤りは巨大に膨らんだ。下からでは限界があるのなら、上から変えるしかない。変えるためには力をつけなければならない。

「あとはひたすら我武者羅にやってきて、そして今ここにおるわけだ。だからきっかけと言えばそういった衝動かもしれぬ。まあ上に登れば登るほど、下にいた時は見えていたものが見え辛くなるものだとも思い知ったが。もっとも、元よりこの腹の虫とて、生憎と義憤などという清廉なものではなく、単に癇に障って我慢ならぬというにすぎぬのだ。儂も相当博打好きだが、我ながらよくもまあこんな大きな賭けに出たものだと今でも呆れるぞ。それでも人生とはそういうものだろう。もちろん後悔などせんし、負けるつもりも毛頭ないがな。―――なんだ奉孝、妙にニヤニヤしおって」

 満面緩んでいる郭嘉を見て、曹操が胡乱気に眉間を皺寄せた。

「いえいえ、やっぱり殿は殿だなぁと」
「何がだ」
「野暮ですねぇ、そんな殿が大好きだって話ですよ」

 曹操は気色悪そうというよりは薄気味悪そうに郭嘉を見やった。果ては「熱でもあるのではないか」と本気で心配してくる。
 もちろん郭嘉は熱などないしいたって、正気である。
 これだから己の仕えるのは曹操でしかありえぬのだと、改めて思っているだけだ。

 人が何かを成そうとするとき、契機や目的はそれぞれある。劉備は表向きは義憤を訴え、漢の復興を志にしているが、その実、彼は頼りない血筋しかない己が身一つで果たしてどこまで上り詰められるのか、試したいというのが真の心だろう。それはこれまで劉備のとった細かな言動や、決起以前の噂から推理できることだったし、何より郭嘉には劉備の口にする善なる発言のすべてが心に響かない。どれも心が伴わず、どこかつくりものめいた響きがした。
 劉備は乱世という、ある種あらゆる人間の垣根が消える中で、大博打を打とうというのだ。そのために周囲を欺くことさえ厭わない。

 同じ「己のため」でも、曹操は今の世に必要な役割を理解して、演じている。そして己の動かす駒に血が通い、心が脈動していることを分かっている。一手動かすことによって得られる生があること、失われる命があることを決して忘れない。
 郭嘉もまた、曹操とは違う思いを胸にここまで来た。漢王室など正直どうなろうと興味はない。ただ乱世などという愚かな人間の茶番劇を終わらせたい。そのために、最も迅速に、確実に終息させうる人物にこそ仕えるべきだと思い定めた。しかしそこに、己の才がどこまで通用するか試したいという気持ちが全くなかったと言えば、嘘になる。そういう意味で、郭嘉は劉備とそう変わらない。だから言ったのである、“同じ”だと。

 しかし今は、純粋に曹操のつくりあげる天下の姿を見たいと、強く思うのだ。そのためにはどれだけでも力を尽くそう。

 だから郭嘉は劉備のような人間を認めない。誠に国を憂い、乱れる世と王室を立て直したいと思うなら、それを成しうるだけの力と才覚のある者の元で一丸となって協調することこそが最短にして遥かに代償の少ない道である。政治手腕や政策発案に関して、劉備と曹操は比べるべくもない。
 いたずらに衝突すれば新たな火種を生む。それは動乱を長引かせることにしかならぬのに、真に国や民のことを憂えた行動といえるのだろうか。たとえば曹操が董卓のごとく暴悪の徒で、欲のために政を弄び世情を悪化させているというなら分かるが、現実には曹操は死にかけていた政治根幹の革新に次々と手をつけて成果を出し、一方で自己の富にも無頓着だった。よく目を凝らせば、手持ちの財がその地位にあるものにしては質素だと分かる。贅沢を厭う彼の執務室にも邸にも、きらきらしい装飾品だとか無駄に高価な調度品などはほとんど見当たらず、必要最低限なものばかりであった。

 もちろん曹操の行ってきたことすべてを手放しで称賛するわけではない。彼は成功と同じだけ失敗も犯してきた。その最たるものが徐州における大虐殺だ。あれはいうなれば、まさしく曹操の“炎”が激しく揺れ動いた瞬間だった。孝行や報復だとかいったもの以前に、己の内の千々に乱れる情動を持て余し、制御できぬまま箍が外れ破壊衝動に走らせてしまった。一応の思惑もあったとしても、あれは手段としては下策といえるだろう。この点ばかりは郭嘉とて擁護することはできない。
 あの一件のおかげで曹操は多くの心証を失った。そして一度失った心証は半永久的に取り戻せず、それだけに執政は困難を極めることになった。
あの時、郭嘉はまだ幕僚にはいなかった。もしその時にいたのなら、必ず止めていただろう。

 それでも、差し引いてもなお、郭嘉は曹操だけが時代に収拾をつけられる傑物と見た。己の人生を賭けるに足る主君はこの人しかいない。だから推挙に応えたのだ。自分がいる限り、曹操に過ちを犯させはしない。時に激しく揺れる“炎”を、荒れ狂う風から遮り、あるいは火の粉が外に及ぶのを防ぐ『蕭牆』にならんと。

 今現在、曹操を声高に非難するのはほぼ他勢力に属する「知識人」らであり、曹操の庇護下にある民草たちはといえば、重圧にあえいでいるわけでも虐げられているわけでもなく、むしろ暮らしぶりは大分安定していた。実際、この短期間にここまで社会機能を回復させるには、皇帝に任せず曹操が強引に政策を進めなければなしえなかった業でもある。それが「皇帝をないがしろにしている」と言われる所以だが。

 確かな結果を出している有能者よりも、皇帝という名だけで無能な者を大事に仰ごうというのだから、なんともおめでたい世の仕組みである。そこに不満を唱えるわけではないが、皇帝の血というのも厄介極まりない。だから劉備のような輩がのさばる隙を与える。

 曹操は劉備の真の思惑に気づいているか否か、いまだ生かしたまま留めおいている。どれほど郭嘉や、あるいは荀彧らが口をそろえて促そうと、躊躇を捨てきれない。常ならば曹操の内面をよく汲みとる郭嘉でさえ、その複雑な思いを完全に理解することは叶わないほどだ。
 あるいは劉備とは、曹操にとってはもう一つの葛藤の形なのかもしれない。癪だが、劉備が言っていたことは、奇しくも郭嘉も感じていたことだ。本来は一生涯下層にあるはずの男が、血筋と人望のみで、天下を目指し、同じ位置にまでのし上がってくる。曹操はそれを評価し、認めているのだ。たとえ世の人々の称賛が、現実に立て直しに奔走する「姦雄」にではなく、理想ばかりで何も成していない「仁徳」の士に集まるとしても。
 一種の共鳴、同調。あるいは同族意識だろうか。

―――重石が必要なのだ」

 ふと曹操がそんなことを言った。

「陰陽の理とはよく言ったものでな、あれは畢竟、均衡と中庸を説いておるのだ。均衡を保つためには真逆の存在がいた方がよい」
「それが殿にとっての大耳殿だと?」
「批判なくば人は初心を忘れ、容易に慢心してしまうものだ。己を忘れぬためには、時に相対する対象が必要なこともある」

 一度言を切って、盃を一口含んだ。重く緩く息を吐く。

「とはいえ、身内で飼い殺しにできるようならばともかく、紛争の種となって悪い方に働くようならば、やはり捨て置くわけにはいかぬのだろうな」

 一人ごちるように嘆息し、最後に郭嘉を見て「のう?」と瞳を細めた。

「御英断にお任せします」

 郭嘉はあえて答えを委ね、静かに瞼を伏せて拱手した。曹操はすべて分かっている。分かっていることを指摘するのは、曹操が迷っている時だけ。それ以外は僭越と心得ている。
 物思いにふけるように再び庭を望み、双眸はここではないどこかを見つめる曹操の横顔に、いつぞや垣間見た闇を見る。あるいは風に頼りなく揺れる灯。

「なあ、奉孝。上に立つ者とは、時になんともやるせないものだな」

 ポツリと零れた泡沫の呟きは、夜の闇深くに虚しく溶けた。



 2012.3.1




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