江に吹くは陸の風-1-




 その男が江東へ遣って来たのは、秋も半ばの頃だった。
 大広間には緊張した空気が漂っていた。立ち並ぶ幕僚の面々の表情は硬い。最奥中央の壇上に座すこの江東の小覇王孫策ですら、その顔に常の剽軽さはなく、いつになく強張っている。
 その様子を目の端に捉えながら、周瑜は心の内で嘆息した。皆、これから訪れてくる者に必要以上に警戒している。恐れているのだ。
 無理もない、と思う。何せ相手はあの―――

「許都より勅使、御到着にございます」

 広間の出入口際に家臣のひとりが小走りに現れ、拱手しつつ言上した。一堂に会する顔が更に引き締まる。そう、訪れたのは“都”の勅使。いや―――実質は、帝を擁して今や名実共に最高権力を握る曹操の使者だ。この東呉にとっては最大の脅威である勢力。それも、今回の使者とは曹操が最も信を置いている随臣。幾日も前からもたらされていた情報に、誰もが固唾を呑んでその訪いを待った。
 案内役の官に伴われて、一人の男が姿を現す。上質の絲で織られたであろう品のよい濃青の衣。派手な錦織や威圧的な刺繍装飾などは一切なく、ただ同系色の透かし紋様が繊細に縫いこまれている。その控え目さが、かえってその人物を涼しげに引き立てていた。

「勅命を奉じ遣わされました、郭嘉、字を奉孝と申します」
「よくぞ参られた。さあ中へ」

 孫策の応えを受け、男は一度室の前で拝礼をしてから広間の中に進み出た。

(随分と若い)

 周瑜は胸中で漏らした。人のことを言えた義理ではないが、しかし曹軍は比較的年嵩の重臣が多いと聞く分、周瑜の目に彼は想像以上に若く映った。確か年齢は己と五つほど違ったはずだが、言われなければ同い年と言っても十分通用するだろう。
 そう思ってから、たった今告げられた名を反芻する。

 郭嘉、字を奉孝。

 荀彧、荀攸、程昱と並び称される曹操の軍師にして懐刀。若いながらに世の道理に明るく、また人を能く読むという。頭の回転の速さ、切れの鋭さは名だたる幕僚の中でも抜きんでている。こと、その先見の明については予言予知の類とさえ評される。まさしく鬼謀神算の士であった。
 この鬼才を、周瑜は曹軍の中でも荀彧と双頭を成す存在と見ていた。いや、どちらかといえば政の才に優れる荀彧より、戦の才だけをとってみればむしろ甥の荀攸と比すべきか。
 その郭嘉が使者として訪れると聞いてから、周瑜はすぐさまこの者の情報をできうる限り詳細に集めさせたが、それらに見るこれまでの郭嘉の発言やその奇策の数々、的確な判断を鑑みれば、この男こそが曹軍の中で最も軍略に長けた者だと言っても過言ではなさそうだった。
 その男は、鮮烈な印象とともに、一陣の風を江東の城に吹き込んだかのようだった。深青の朝服を捌き、立ち並ぶ敵の中を恐れることも臆することもなく颯爽と進む。凛然とした姿には一分の隙も無く、それだけで血気盛んな東呉の官たちを沈黙せしめるのに充分だった。

(自身がどう振る舞うべきかをよく心得ている)

 人間は第一印象が肝だ。格の違いを見せ、対峙する相手の戦意を削ぐ。あるいは逆に、相手を油断を誘うためわざと隙のあるように振る舞うこともある。彼はここでは、敵に侮らせるよりも、どちらが上かをはっきりさせるが利と判断したのだろう。江東人の意気を挫き、交渉を有利に運ぶ空気作りのために。そして実際にそれは効を奏しているといえる。
 彼は広間の中心まで来ると、袖を合わせる立拝を行った。対する孫策は跽坐(ひざだち)から深く身を伏せる拝手稽首の礼をとる。他の家臣もこれに従った。勅使はいわば主上の名代、その言葉は帝の言葉だ。実際の官位を問わず、この場においては最も高位となる。ゆえに先に彼が口を開くのを待つ。

「孫騎都尉におかれましてはご機嫌麗しく。此度は恐れ多くも主上より詔勅を御預かりしておりますれば、謹んで主上の御神慮を奉戴されますよう」

 よく透った、耳に心地よい声音で言い切り、使者は顔を上げた。酷薄な人物像を描いていたが、近くで見れば意外にも人好きする整った顔立ちだった。しかしその中には隙のない双眸が冴え冴えと輝いている。その恐ろしいほど明亮とした光―――事々を見通すかのようなその瞳こそに、周瑜は戦慄を覚えた。

 勅使は孫策が居住まいを正すのを確認してから、

「先頃より孫騎都尉の数々の功を善しとして曹司空が上奏されましたところ、主上は大いにお喜びになり、大変めでたきことと嘉され、今後一層の忠節を尽くされたいとの思召しにございます」

 舌を噛みそうな美麗文句も流水のごとく淀みない。心に余裕がある証だ。
 ところが、いざ肝心の用件に触れるかと思われたところで口上が終わった。予想外のことに微かな戸惑いが広間に満ちる。
 虚を突かれ当惑気味だった孫策も、軽く咳ばらいと共に上体を起こして姿勢を正した。表情は依然硬くしたまま、口を開く。

「勅使殿におかれては、遠路遥々ご苦労であられた。畏れ多くも主上の過分な御嘉賞を賜り、恐悦至極でござる。また主上の元での曹司空殿のご活躍はこの江東にまでも聞き及んでおり、御恩情忝く存ずる」

 緊張のあまり舌を噛まないか心配していたが、事前練習の甲斐あってか問題なく言い終えたことに、幕僚数人がホッと胸をなでおろす。

「して、此度のご用向きはいかなものであろうか」

 わざわざ日頃の働きを褒めにきたわけではあるまい、とこちらから本題を促す。皇帝に対してはともかくとして、曹操に余計なおべっかを使わないあたりがいかにも孫策らしい。さすがに今回の相手が一筋縄ではいかないことを直感で悟ったのか、いつになく言葉に慎重さと警戒が表れていた。
 そのことに気づいているのか否か、許都の使者は軽く目を伏せ、一巻の帛書を差し出す。

「恐れながらそれにはまずこちらを……曹司空より孫騎都尉へ書簡をお預かり申しております」

 妙だ、と周瑜は柳眉を顰めた。勅使は通常皇帝の詔書を携え、かつこの場で自ら広げて読み上げるもの。ところが郭嘉は先程「詔勅」のさわりを諳んじただけで、詔書を持っていないどころか、それを差し置いて「司空」の書状を渡した。前代未聞だ。
 側近の一人がそれを受け取り、孫策へと渡す。ちらりと使者を一瞥しながら、音を立てて帛を開いた。
 分厚く光沢のある白絹に記された文面へ目を落とす。
 静かな緊張が重い沈黙となって圧し掛かる。皆の目がじっと見守るように若き主へと注がれていた。
 だが書面を読み進むうちに、孫策の首がみるみる紅潮していく。帛を持つ手は震え、明らかな憤怒の気配が伝わってくる。
 すべて読み終えたところで、今にも射殺しそうな双眸で使者を睨み据えた。
 使者はそれへ、うっすらと微笑を浮かべて返してみせた。

「此度の御勅旨も、概ねそちらに記されている通りにございますれば」

 言葉なく震えている孫策へ、平然とした言葉が重ねられる。

「こんっ、の……!」

 主の激変に、側で控えていた周瑜はハッとした。

「伯符様」

 カッとなった孫策が側に置いてあった剣を取る前に、周瑜が静かに、しかし強く響く声で先を制した。
 その一声に、怒りで我を失いかけた孫策も己の立場を思い出し、奥歯を噛み締めながら浮かせた腰を元に戻す。全く危ういところであった。周瑜は己のこめかみにじり、と汗が浮かぶのを感じる。
 郭嘉の双眸がそのとき初めて周瑜を見た。スッと眇められた瞳には、しかし敵意は無くむしろ面白がるような光があった。
 周瑜はその光を真っ向からひたと見据え返した。

「勅使殿。曹司空の書状、確かに拝領いたしました。我が君より返函を認め、お渡しいたしますので、今しばらくお待ち下されば。そちらも長旅でお疲れにございましょう。ささやかではございますが、後ほど歓迎(もてなし)の宴を用意してございます。それまで、まずはお部屋にてごゆるりとお過ごしを」

 張昭から打ち合わせと順序が違うと訴える視線を感じたが、あえてそれそ黙殺し、周瑜は使者を促した。

「では、お言葉に甘えて」

 優雅な所作で揖して、案外あっさりと郭嘉は退く。
 それに続くように、周瑜も主へ揖礼して広間を辞した。
 去り際にちらりと見た孫策の表情は怒りのあまり赤みを通り越して真っ青だった。頭の冷めやらぬ様子にその後がやや心配ではあったが、それはあとに残っている者に任せることにする。これが今打てる最善策なのだから仕方がない。これ以上この使者と一緒にしておくと、孫策が何をしでかすか分からなかった。
 こちらへ、と勅使を先導しつつ、周瑜は回廊を通り過ぎ、日頃は軍議にも使われる謁見の間を離れる。
 ある程度距離を取り、広間にいる者たちへも声の届かぬ所へ来てから、周瑜はやや逡巡して後、郭嘉をふり返りあらためて揖礼をした。袍がかすかな衣擦れの音を立たせる。臙脂を重ね深染めした長袍に黒紫の帯を締めた周瑜の出で立ちは、青衣とはまた違う品位を添えていた。

「先程はお見苦しいところをお見せしてしまい申し訳ありません。我が君の不調法、何卒ご寛恕いただければ」

 柔らかな物腰と口調でそつなく礼節を改める。

「ご丁寧にどうも。ところで、そちらは?」

 軽く首を傾けて、郭嘉が訊ねる。

「これは失礼をいたしました。私は孫伯符が家臣の一にて、姓は周、名は瑜、字を公瑾と申す者にございます」

 郭嘉の瞳が興味深げな色に染まる。へえ、と楽しそうに微笑し、周瑜の頭から爪先までを一通り眺める。
 不躾というよりはどこか子供めいた仕草に、またもや年齢を錯覚してしまいそうになる。そんな感覚を頭から追い払いながら、周瑜は告げた。

「この度、我が君より使者殿のお世話を仰せつかっております。ご不便がありましたら何なりとお申しつけ下さい」
「ほう、中護軍殿ともあろう御仁が、御自ら?」

 面白そうに郭嘉が言った。肩書きはまだ名乗っていなかったはずだ。要するに周瑜のことなど先刻承知の上で名を尋ねたのであろう。何しろ周瑜は目立つ。幕僚の中では若く、おまけに美周郎と呼ばれるほどの華やいだ美貌である。たとえ顔を直接知らずとも、噂を聞いていれば、勘のいい者ならすぐに気づくというものだった。
 周瑜は相手に応えるように柔らかく微笑み返した。

「恐れながら、貴殿がただの勅使殿ではないことは承知しております。生半可な者に任せて万一(・・)のことがあってはなりません。ゆえに私が御身をお預かり申し上げるよう、拝命仕った次第です」

 郭嘉はにやりと口角を上げた。「万一」が示唆するものが、当然「粗相」などという可愛いものでないことを分かっていての反応だった。

「なるほど、『預かる』ね……さしずめ捕虜として、か?」

 『世話をする』ではなくあえてその語を選んだ意図を正確に察している。しかし怯む気配はなく、むしろこの状況を楽しんでいる風だ。

「いいえ、客人として」

 咄嗟に周瑜はそう切り返していた。頭の隅で警鐘が鳴っている。油断できぬ―――この男に気を許してはいけない。

「まあいいさ。いずれにせよこの城中ではどちらも同じだ」

 どうぞお好きなように、とおざなりに答え、郭嘉は案内を促す。周瑜が先を行く形で、再びふたりは歩き始めた。
 回廊を誘導しながら、周瑜は背後の男のことを考える。先刻はこれこそが最善と思い退出を強行したが、それは方便で、もしかしたら自分自身がこの男と誰にも邪魔されず一対一で話してみたかったのかもしれない。確かに噂に違わぬ切れ者のようだった。ついでに、あの孫策の怒りを前にしても決して動じる事なく始終涼しい顔をしていた点から、場慣れしておりかなり肝が据わっていると見える。
 その本人といえば物珍し気に建物のあちらこちらを見ながら、何がそんなに面白いのかニコニコしながらついてくる。読めない男だ、と周瑜は心の内で呟いた。

「こちらが使者殿の御室となります。呉城にご逗留の間は、こちらでお過ごし下さい」

 戸を開け、室内へといざなう。賓客用のため調度品もそれなりに気を遣っているから、審美眼の肥えた都人相手でも目汚しにはならないだろう。
 郭嘉は一通り部屋の中を眺めた後、ふーんと鼻を鳴らした。

「室内のものは全てご随意にお使いいただいて結構です。後ほど身の回りのお世話を仕る侍女が参りますゆえ、足りぬものがあれば―――
「堅苦しい敬礼はいいよ。あんたもそのほうがいいだろう、中護軍殿?」

 恭しげな周瑜の言を遮り、郭嘉が砕けた口調で言う。周瑜の瞳が見開かれる。

「……勅使殿が、そう望まれるのであれば」

 しかしあえてそれは追及せず、下腹に息を溜めてそう返す。
 やはり郭嘉は面白そうに目を細めながら、

「ところで湯を借りてもいいかな。旅の疲れと汚れを一度に落とすには沐浴が一番だ」

 何の衒いもなく要求してくる。敵方だと言うのに緊張感の欠片もなく、顔は相変わらず微笑を宿したままだ。いや、案外これが地顔なのかもしれない。玩具を見つけた子供のようにくるくると瞳を踊らせ、周瑜の反応を楽しんでいる。

「え?―――あ、はい。分かりました」

 周瑜は手短に応えた。目の前の男は、想像以上の奇人らしかった。だが不思議と過剰な警戒心も敵対心も沸かない。郭嘉の持つ奔放な雰囲気や、人好きする表情がそうさせるのか。警鐘だけは相変わらずだったが……
 それほど悪い人物でもなさそうだと無意識に思い、そんな己の所感に僅かに戸惑いながら、周瑜は言った。

「沐浴の間は別の殿(でん)になります。後でその案内も侍女に申し付けておきましょう」
「頼むよ」
「あと、この一郭内であれば構いませんが、その外へ出る際には必ず私に声をかけて下さい」
「了解」

 本来ならば周瑜ほどの身分の者がこういった細々な便宜の手配をする必要はない。実際、当初は別に接待担当の者がいた。
 だが、今回ばかりは周瑜は自分の手で全てやりたかった。だからわざわざ元の担当の者と張昭に直に頼み込み、自分の方へと回してもらった。それもひとえに、この一筋縄ではいかない男を、自分の目の届かないところに置いておくのが怖かったからだ。
 そんなことを思い返しながら、何が気に入ったのか室に飾ってある香炉をしげしげと観察する北の軍師の横顔を見つめていると、不意に郭嘉がこちらを向いた。

「まだ他に何か?」
「あ、いえ」

 周瑜は慌てて顔を逸らす。すると、可笑しそうに笑う気配が伝わってきた。

「ならそろそろ休んでもいいかな。勅使という役目はどうにも肩が凝っていけない」
「失礼しました。それでは私はこれで。宴の支度ができましたらまた呼びに参ります」
「どうも。―――あ、そうそう中護軍殿」

 踵を返しかけた周瑜を、今度は郭嘉が呼び止めた。

「何でしょう?」

 いささか警戒しながら振り返って尋ねれば、郭嘉は不敵に笑ってこう言った。

「侍女はかわいい娘にしてくれよな」




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