周瑜が去った後、しばらく牀の上で寝たフリをしていた郭嘉はむくりと上半身を起こした。軽く伸びをし、鼻歌交じりに室内に設えられた卓に向かう。帛と筆を懐から取り出すと、素早く帛の上に文字を滑らせていった。
 孫策をあれだけ憤慨せしめた書簡の内容は、実は郭嘉が曹操に願い出てわざわざ書いてもらったものである。
 そもそも、今度の江東行きに郭嘉が行くことになったのには、ある情報がきっかけだった。




「近頃、江水の東が騒がしいな」
「小覇王ですか」

 酒を呑みながらのいつもの他愛ない談笑の中、ふと主が口に上らせた一言に郭嘉はすかさず返した。

「戦死した破虜将軍の嫡男だそうですね。何でも、まだ若いながらその勢いはまさに破竹の如しとか」

 郭嘉の横で同じように杯を持った荀彧がそれを受けて言う。うむ、と牀台の上に腰掛けた主君曹操が酒を仰ぎ、頷く。

「血気盛んな若造と思って捨て置いていたが、最近の動きはなかなかどうして無視できたものではないな」
「袁術の下から抜けてからですね。所詮あんな小者の下に収まっているような人物ではなかったのでしょうが……父親の代からとはいえ、驚異的な勢いで江東の豪族たちを纏め上げた手腕も気になります。劉備に並んで今後警戒をすべき相手かもしれません」
「それはどうでしょうかね」

 荀彧の言葉を軽く否定したのは郭嘉だった。
 郭嘉は目を伏せて杯を嘗めつつ、

あれ(・・)がそれほど警戒に足るほどのものとは思えませんが。所詮は血気に逸ってるだけの青二才。確かに短期間であれだけバラバラだった江東を平定した力は驚嘆に値しますが、やり方にどうも後先考えずな粗さが目立ちます。というか殺しすぎです」

 殿が危惧されるほどの器ではありませんよ、と淡々と言う。

「随分辛辣だな」

 苦笑して曹操が言うのに、郭嘉はそうですかね、と薄く笑みを浮かべる。

「警戒すべきは猛虎より、手綱を操っている猛獣使いの方でしょう」
「それは孫伯符の右腕だという周公瑾のことか?」

 荀彧の問いにそう、と答える。

「猛虎がただの暴れ虎でなくいられるのは彼の存在が大きい。袁術の許から離脱しえたのも、彼の献策によるものだったと思われます」
「確かにな」

 曹操は眉間に皺寄せて唸る。

「しかしかの二張も仕官の求めに応じたというほどだから、人物としても大したものなのかもしれんぞ」
「あれは半分以上、周公瑾の名声のおかげのような気がいたしますが。尤も、先代からの威光もありますし、人的魅力はそれなりなのかもしれませんね。後は有能な配下に大分助けられているのでしょう」
「近く(かん)を送り込む必要がありそうですな」

 荀彧の言葉に、それなんだが、と曹操は勢いよく身体を乗り出した。どうやら本題はそれらしい。

「近々江東へ人を遣わせようと思うておるのだ。孫策めが何やら良からぬ企てを抱いているらしいとの話を聞いてな、ここらで一つ楔でも打っておこうかと。ついでに、孫策自身のことを含めて江東の兵力やその他の勢力の動きを探りつつ、可能な限り使えそうな者の洗い出しをしておきたい」
「なるほど」
「では、使者の用向きはいかなようにいたしますか」
「『近頃の江東の平定に関しての多大なる功績に褒賞を与える』とでもしておけばよい」
「承りました」

 最早ただの酒席ではなく、軍議の場と化している。荀彧などは杯を置いて、いそいそと筆をとりだして木簡に委細を記録し出した。

「殿、お願いがあるのですが」

 ふと、酒から顔を上げて郭嘉が曹操を呼んだ。

「なんだ?」
「その役、この嘉に命じてはいただけませんでしょうか」

 さすがの曹操も郭嘉のこの言には目を剥き、荀彧ですら驚きのあまり筆を止めて長年の友の顔を見た。

「何を言うかと思えば……お前は司空軍師祭酒だぞ。江東の地へ差遣ともなれば長期の不在は避けられぬ」
「軍師祭酒職はその実、特定の部門を持たぬ独立官。いわば殿のためだけの軍事顧問です。私が決裁しなければ滞るような業務は本来ございません」
「儂が困るではないか」
「江東には私も独自の情報網を持っています。それに孫策と周瑜の器を見定めたいのでしょう? それならば私が一番適任だと思うのですが。殿も私の眼の確かさはご存知のはず。それに私一人が多少抜けた所でどうこうなるような脆さではありますまい。殿の下には補って余りあるほどの優秀な官がおります」
「それはそうだが、しかしだな―――
「殿。相手は僻地といえど、確実に力を伸ばしつつある勢力であり、その影には周瑜という底知れぬ賢才がおります。殿の麾下には優れた人材が数多くおりますが、かの者の口車に乗せられず、体よくあしらわれず、対等に渡りあえる技量を持つ者は限られている。しかし文若殿は尚書令、それこそ許都を長くは離れられませんし、他の者も似たり寄ったりの状況です。東呉が今後我が方の脅威となるか否かを正しく判断するため、そしていずれ戦になった場合の戦略を立てるため、この目で見ておきたいのです」
「だがお前、身体は……江東の水は、慣れぬ者には厳しいと聞く」
「何、ご安心を。そこまで柔にはできておりませぬ」

 郭嘉は不敵に笑ってみせた。
 なんと無茶なことをと荀彧は額を抑えて呆れ返っている。
 曹操はしばらく悩むように唸ったあと、ようやく重々しく頷いた。

「相分かった。お前がそこまで言うなら、江東行きはお前に一任する。そのかわり、少しでも身体に変調をきたすような事があれば、問答無用で連れ帰らせるからな」
「御意」

 にっこりと笑顔をつくり、郭嘉は未だに渋面の曹操へと恭しく拱手した。

「つきましては殿にもうひとつお願いが」
「何だ、まだあるのか。もう何でも申せ」

 どこかやけくそ気味に言う主君へ、では遠慮なくと前置きして郭嘉は話し始めた。

「孫策への書簡、内容はいかにも孫策が怒り狂いそうなものにしてください」
「どういう意味だ」
「奴の君主としての器をまずそこで計ります。現時点ではどう足掻いたところで東呉は兵力面で我らに劣る。主上(たいぎ)もこちらにある。殿の不興を買えば、東呉は不利な事態に置かれる。彼我の立場を鑑みず簡単に挑発に乗り激情に流されるのならば、孫策はただ威勢ばかりの凡夫ということです。逆に殿ほどの器量があれば、己を御してみせるでしょう」
「なるほど。相分かった」

 さり気なく褒められたせいか、曹操は心持ち機嫌よく、得心したとばかりに頷いた。
 そうして、完成した書状の内容は、

 近頃の江東における賊の討伐や乱の平定に関する汝の働きぶりは目覚しいものである。この度その功を称え、主上に上奏し、太守位に相応しき討逆将軍位を授ける運びとなった。謹んでこれを奉戴し、明漢将軍の雑号を改め、これからも朝廷と皇室によく尽くし、一層励むように。
 時に、江東の地からは未だ優れたる人物の評を聞かぬが、汝の下にいる張紘はそこそこの才人と名高く、古今東西の経書典籍に精通していると聞く。恐れ多くも主上におかれてはその諷を御耳に挟まれ、ぜひ直々に経典の教えを乞いたいと仰せである。ついては速やかに張紘を許都へと上向させよ。(わたし)も機会あれば接見し、次第によっては太史令に引き立てよと主上の御言葉である。すなわちこれは聖旨である。もしこれを拒否することあらば、十万の兵を伴い、直接そちらへお迎えに参上いたす。返答や如何。

 といったもの。すなわち裏を返せば、

 今まで太守なのに騎都尉止まりで、雑号同然の仮称明漢将軍でしのいでおりご苦労なことだった。このたび正式に将軍位を授けるゆえ、これでようやく釣り合いが取れよう。
 時に、江東なんぞの片田舎に大した人材などおるまい。有名だといってもたかが知れたものだ。まあ折角だから自分が直々に面接してどの程度のものか見てやるゆえ適当な者を送ってこい。場合によっては取り立ててやらんこともない。もし嫌だというならば、勅命に背いたとみなし、漢王室に逆心有りとして十万の軍勢を率いて江東を攻めにゆくぞ。

 と脅しているわけで、この上から目線の態度と侮辱的な内容は、孫策の腸を煮えくり返らせるには充分な効果を発揮したようだった。皇帝を擁していることを強みにした威脅は、ただでさえ割れがちな曹操の評判を更に傷つけかねず、荀彧などは渋い顔をしたが、当の本人は今更悪名の一つや二つ増えたところで現状は変わるまいと言い、むしろ意気揚々と筆を躍らせていた。
 荀彧の憂慮が分からぬでもなかったが、この一件によって曹操が名声を大きく損なう心配はないだろうという郭嘉の計算もあった。一つには、これまでに曹操が行ってきた行為の方がよほど派手すぎて、良くも悪くもこの程度は霞んでしまうこと。もう一つには、東呉の首脳陣が大事にはしないだろうという公算である。曹操に非難を向けて煽るには、今は時期がまずいと、誰よりも身に沁みているのは彼らだ。
 郭嘉は孫策の反応ぶりと人物鑑定を簡潔に記し、それからもうひとつ加えて書き記した。
 それは孫策の怒りを瞬時に抑えた者のこと。
 誰よりも早く主君の感情の動きを察知し、華北と江東の関係性、立たされている局面を冷静に分析して、主君を制した機転の早さ。本来ならば正式な手順に則って勅使を饗応するところを、すべての段取りを端折って強引に会見を終わらせ、そのことに家臣団の誰一人異議を挟まなかったこと。その他もろもろのことから鑑みるに、周瑜の聡明さと幕内での発言力、影響力、信頼度はかなりのものであると判断できる。
 それらのことを一通り紙へ書き付け、筆を置いて小さく丸め込み、蓋つきの細い竹筒の中へするすると入れ込むと、郭嘉は人の気配がないのを確認してから静かに声を出した。

細尊(さいそん)
「ここに」

 何時の間にいたのか、すっと部屋の天井からひとりの男が音もなく現れ、郭嘉の側に膝をついた。

「これを“駅”まで。宛先は許都の文若殿だ」
「御意」

 信を受け取り、短く答えるだけで、細尊と呼ばれた男はサッとどこかへ消えてしまった。

「さてと。どうするかねぇ……」

 細尊のいなくなったあたりを見ながら、郭嘉は卓に片肘を付き誰へともなくぼやいた。
 脳裏に、出立の直前に会いに来た荀彧の姿を思い返す。その物憂げな表情と、言われた言葉を。
 本当に大丈夫なのか、と問われた。それが体調のことを言っているのではないと、声の響きから分かった。

『どういう意味で?』
『お主の性格的な意味でだ』

 そう告げる荀彧はどこまでも真剣だった。

『お主は、昔からどこか人に思い入れすぎるきらいがある』
『おいおい、仮にも軍師だぞ。立場くらい弁えてる。公私混同はしないさ』
『……』

 郭嘉は可笑そうに軽口交じりで返した。しかしその実、否定も肯定もしていないその返答に、荀彧は気づきながらあえて追及しようとはしなかった。
 ただ憂いを深めて一言、絆されるなよ、と餞別のように付け加えた。




 その頃孫策の部屋で、未だ収まらぬ怒りに歯軋りする主君を横目に、曹操からの書簡を読み終えた周瑜は心の中で長い溜息をついた。

「くそ、曹操の野郎。人をバカにしやがって」
「伯符様」
「なんだよ」

 むっすりと椅子に腰掛け、幼馴染兼片腕を目で見上げれば、周瑜は淡々とした調子で返した。

「なんでこんな安い挑発に乗ってしまうのですか、あなたは」
「なんだと!?」

 ガタッと椅子を蹴って怒鳴る孫策に、周瑜はやれやれといった風に柳眉を寄せる。

「少しは落ち着いて聞いて下さい。こんなあからさまに喧嘩を売る内容を、あの曹操がわざわざ無意味に認めてくるはずがないじゃないですか。こちらを煽ることが目的としか思えません。貴方を試したのですよ」
「何のためにそんなことをする必要があるんだ」
「貴方の器を測るためです。孫伯符がどれほど己の立場に自覚を持って動けるかをね。おかげさまであの勅使殿にはすっぱりさっぱり未熟者の烙印を押されたことでしょう。今頃意気揚々と第一報でも認めていますよ」
「く……」

 周瑜の容赦ない指摘に孫策は返す言葉もない。

「どうやら先方の目的は端から探り入れのようです。そのことを隠す気もない。十万の兵などと力の差を見せびらかして圧力をかけているあたり、多少なりとも我が方を脅威と見做している証でしょう。ここで貴方が器量を見せないと」
「分かってる。もうあんな無様なドジは踏まん」

 孫策は忌々し気に吐き捨てた。周瑜は三度嘆息し、

「どちらにしろ、今回の書簡への返答は是しかないでしょう」
「子綱をあんなところへ渡すのか?」
「曹操が帝を挟んでいる限り、大義はあちらにあります。勅命には逆らえません」

 孫策が下唇を噛む。周瑜は優しく諭すように言った。

「伯符様。子綱殿は決して裏切るような方ではありません。あちらで曹操に質として足止めは喰らうでしょうが、必ず帰ってきます。曹操は才ある者には敵味方なく寛大だと聞きますから、手荒な待遇は受けないでしょう。丁度中原の様子を窺うにも好都合ですし―――ここは互いに腹の探り合いです」
「あの使者が曹操の回し者であるようにか」
「然様です」

 ゆっくりと頷く。
 孫策はそれでもまだ視線を落とし、やりきれない怒りを抑えるように口元を険しくしていた。
 だが、やがてひとつ息を吸うと、

―――わかった」

 周瑜は微笑む。

「しかし、使者殿を長く留めておけばおくほどこちらの情報も漏れてしまいます。こちらとしても準備も要りますし、子綱殿に裁可を伺わねばならぬ案件や引き継ぎもありますが、できるだけ早くお帰りいただくよう全力を尽くすしかありません」
「いけるのか?」
「あまり期待はできませんが……」

 何だかんだ理由をつけて数か月は居座る魂胆だろう。

「私の方で可能な限り対策をとります」

 孫策は以前渋い表情のまま、しかし「任せる」と憮然と呟いた。周瑜に全幅の信頼をおいているからこその一任だ。
 だが周瑜の懸念はそこにはなかった。張紘を許都へ向かわせることに全く何の憂いもないわけではないが―――

(むしろ今はあの使者……)

 あれは“曹操の書簡”などよりもずっと手強い。下手な策は通じない。きっとすべて見透かされてしまうだろう。
 残念ながら孫策ではあの男を相手に上手く立ち回ることはできまい。武力を使う戦は得手でも、こうした知略を巡らす「戦」にはとんと向いていない。孫家の有能な幕臣たちですら怪しい。あれは天才という名を冠すに相応しい者。身の内に“龍”を飼う者だ。
 自分以外に、対等に渡り合える者はいない。さて、どう対するべきか―――周瑜は目を細めた。





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